たかちゃんお茶の間シネマトーク

抱腹絶倒もの、大興奮もの、激涙もの、喝采もの・・・そして、完全に目テンなもの、と映画を愛するたかちゃんが鑑賞してきたいろいろシネマをご紹介。かならずしもオススメ作品とはかぎりませんのでご了承くださいませ〜。

10-01-30 「アバター」体験

新年第一回目のスタッフミーディングは、3D「アバター」&お気に入りの焼肉でスタート。

わたしたちで「アバター」を観に行ったらさぞうるさいだろうと思っていたのですが、意外や意外、とっても静かな鑑賞となりました(そもそも、騒いでいる人は一人もいなかった)。ポップコーンさえも忘れてジェームス・キャメロンワールドにずっぽり。

映画のあと焼肉しながら感想を話しあっていたら、「えっ!あれって、そういうことだったの〜?」「あそこがあっちにつながるのね〜!」と気づき満載(ひとりで観たら、いったいどんなストーリーになってたことか・・・)。

それもそのはず、Sちゃんは「視覚タイプ」なので場面の細部まで瞬時にシャッターを切るようにすばやく記憶し、しっかり解析。ストーリー展開をつかんでいるのです。また、Yちゃんの場合は常人を逸した型破りな解釈。たまに、「え?いったいどこ観てたの?」と摩訶不思議な場合もありますが・・・。一方、わたしは「感覚タイプ」なので、観たものを認識し理解し納得するまで、それなりの時間がかかるのです。こんなむちゃくちゃなスピード感、ストーリー解析不能に陥りました。とくに、異星人の顔なんて、みんな同じに見えるし・・・汗。

はじめは違和感のある3D。ある時点から自分が画面の中に入ってしまった感覚です。あのパンドラ星人のように、自分も超人なみの身体能力を持ったように感じるし、あの未体験のスピード感で動体視力が格段によくなりそう。

ホントによくなったか、SちゃんのiPhoneで動体視力のチェックをしてみました。あらら、結果は・・・最悪でした(もともと、動体視力がない・・・)。感覚タイプ人間のわたしは、今だ体験を身体に落とし込むのに時間がかかっているようです。

しかし、あの鼻ペチャでシッポが長〜い動物チックなパンドラ星人ですが、不思議なものでだんだんステキに見えてくるのがコワイ(美の基準なんて、そんなふうにコロリと変わってしまうものです)。しまいには、人間よりもパンドラ星人になりた〜いと思ったもの(笑)。しかし・・パンドラ星では、ゴハンやお茶の時間が登場しなかったので(?? いや、ホントはあるんだろうけど)、やっぱりわたしはスウィーツが楽しめる地球人がイイわ!ということで、わたしは「アバター鑑賞後ウツ」(米国では多いらしい)の心配はなさそうです。

今後は家庭のテレビで3Dが楽しめるようになるというし。だんだん自分がどこの空間、次元にいるのかわからなくなりそうです。が、それもまたいいかもしれません。ホントはとっても自由なのに、この身体にちんまり入ってなくちゃいけないという幻想から抜け出すよいチャンスになるかもしれませんね。

10-03-04 ♥があったかくなる「バレンタインデー」

日本でバレンタインデーというとチョコレート。そして女性から男性への愛の告白というイメージです。欧米では日頃の愛情をさらに表現する特別な一日。男性から奥さんや彼女にプレゼントをしたり、ディナーに連れだしたり、男女で愛情を確かめあうというハートがあたたかくなる一日なのです。

そんな一日のいろいろを描いたのが「バレンタインデー」。超ロマンチックムービーと思いきや・・・ところがどっこいです。まず、バレンタインの朝いちに彼女にプロポースする花屋のアシュトン・カッチャー。彼を中心に、その友人、スタッフ、お客、店を取材するリポーターなど15人の登場人物それぞれの愛の行方を描きます。みんな自分なりに愛する人への気持ちを胸に、この日をワクワクと迎えるのですが・・・。

朝プロポーズした花屋のアシュトンは昼にはあっさり彼女に逃げられ。店では二つのブーケを注文する客によって親友が二股をかけられていることに気づいてし
まい、もちろん親友にあわてて報告。ある人は片思いだったり、ある人は邪魔が入ったり・・・・ステキになるはずの一日はどんどん怪しい様相を呈し、絡まり
まくる人間関係。あら、大変!

「ああ、こんな話、どっかで耳にしたな〜」「こういう人、知ってるよ〜」と自身が目にした耳にしたことがある恋愛話が繰り出されます。

バレンタインの一日が終わる頃には寂しい男と女がため息ついて・・・。思ったようには運ばなかったけれど、でも結局は背伸びしないでいちばん自分らしい結末へと導かれてゆくところに胸をなでおりします(よかった♪)。

監督は、あの「プリティウーマン」のゲイリー・マーシャル。もちろんジュリア・ロバーツも登場。なんと、今回は軍人さん役。彼女が車でロスのロデオドライ
ブを通り過ぎるとき、「昔一回、ここで買い物をしたことがあるわ」とつぶやきます。そう、お金持ちのギアさまに手をひかれてお洋服を買いまくった「プリ
ティウーマン」のジュリア・ロバーツ。有名な一場面でした♪

涙壷度:★☆☆☆☆ (最後の最後、ジュリア・ロバーツが十数時間かけて、たった一晩だけ会いに行った相手に涙がボロリ。そうだったんだ・・・。)

10-04-23 「やさしい嘘と贈り物」

目覚ましで決まった時間に起床、毎朝おなじように身支度して、共同経営しているスーパーへ向かい、仕事をするというよりは同じ場所に坐って絵を描いて一日にをすごす・・・。そんな「かろうじて」生きているような毎日を送るおじいさんのロバート。

そんなロバートに、ひょんなことから彼女ができるのです。名前はメアリー。それはそれは積極的で、出会って二三日で二人の仲は急発展。ヨボヨボだったロバートの顔にみるみる生気が漲りはじめます。

それもそのはず、ロバートの記憶にはないけれど、この突然ふってわいた彼女はもともと彼の妻。おそらく彼はアルツハイマーか認知症かで、過去の記憶をなくしています。記憶をなくしても、やっぱり同じ人に恋をするのでしょうか?

そんな記憶をなくした老いらくの恋は素直で初々しくて、なんとも微笑ましい。そして、一瞬一瞬をいつくしむようにすごしてゆきます。

しかし、記憶のないロバートからすると、メアリーが他の男と話しているのを見て嫉妬にさいなまれたり(他の男は、じつは自分の弟)、メアリーがちょっと出かけているだけでパニックにおちいったり。

このロバート目線で語られる物語、みていて思いあたるフシがあります。まるで、過去(世)の記憶をなくしたわたしたちのよう。自分のかつての夫や妻だった人と、はじめて出会ったように恋をしてみたり(ロバートと同じように、「ずっと昔から知っているようだ」と感想をのべます)、そして完璧に安全な場所に包みこまれているにもかかわらず、全体をみわたすことができないので人生に起る小さなことで常にパニックになったり不安になったり。あはは・・・わたしたちって、みんなある種アルツタイマーであり認知症でこの世に送りこまれているのだな〜と笑ってしまいました。

メアリーがロバートをなだめるように、神様もわたしたちをみて、大丈夫!大丈夫!そんなにあわてたり心配しなくても。すべてはちゃんとうまくいっているから。わたしがちゃんとそばについているから。見守っているから。・・・と言いたくなることでしょう。それでも、わたしたしはあ〜だ!こ〜だ!と常に心配していて、おそろしくゆがんだ目線でものごとをみているのかもしれません。

こんなふうに全体を見渡すことができずに生まれてくるわたしたち。おそらく、こんな感じを楽しみたかったのですね。子供のころ、むずかしいゲームほど楽しかったように、やりがいを求めているのでしょう。

だったら、Take it easy! いっそ、肩の力をぬいて楽しみましょう♪

10-06-18 自分を痛めつける罠「マイ・ブラザー」

アフガニスタンから命からがらの生還をはたす海兵隊のトビー・マグアイア(あのスパイダーマンのこのやつれっぷり!すごい役づくりです)。愛する妻、ナタリー・ポートマンと娘のために守り抜いてきたこの命。なのに、戻った家庭ではまるで別人。心を閉ざし、孤立は深まるばかり。彼は捕虜となった極限状態で生きのびるために部下を撲殺。その抑圧された罪悪感から深い孤独の渕をさまよい続けます。

帰還した兵士のPTSD(心的外傷後ストレス障害)は、ベトナム戦争から注目されるようになりました。今もアフガニスタンの帰還兵が廃人のようになってしまう例も、かなりの数にのぼるとか。

彼が苦しんでいるのは、生きるか死ぬかの状況にさらされたことよりも、同胞を裏切ったこと。誰に責められるよりも、結局、自分が自分を許せずに苦しみ続けるのです。このような稀な状況に限らず、セラピーの場面でも自分を許すことができないケースを多々目にします。それだけ、わたしたちは深い部分で自分の高い自己を記憶しているし、そこを目指しながら生きているのだと感じます。

自分が許せないことによって、自分の首に荒縄を巻きつけ締めあげます。決して幸せをよせつけない。ことごとく失敗する。他人を使って自分を傷つける。事故にあう。病気になる、はては命をおとす・・・など。まわりはとっくに許していても、最後まで自分を許せないのです。しかし、表面意識では自分で苦しみをつくっていることに気づきません。「なぜ、自分はこんなに失敗ばかりするのか?」「なぜ、自分の人生はこんなにも困難が多いのか?」と悩むわけです。

こんなとき、わたしたちの表面の姿がどうあろうと、今の自分に全面的にOKを出してくれる人が一人でもいると、正気を取り戻して前に進む力が与えられます。今がどうあろうと、真の姿を見続けてサポートしてくれる人。わたしたちは苦しいカラを脱ぎ捨てて、ほんとうの自分に立ち返る力をえられるのでしょう。

どんなセラピーの理論や理解でもなく、心の癒しに必要なのは、ただただ無条件に今の自分、過去の自分を全面的に受容してもらえる体験。つまるところは、魂を目覚めさせ軌道を修正してくれる近道は「無条件の理解」と「無条件の愛」なのですね。

問題にはまっている場合に限らず、どんな場面でもこの理解と愛をさし出せることが何にもまさる最大の贈り物だと感じます。
涙壷度:★★☆☆☆

10-07-24 歌も楽しめるベット・ミドラーのおすすめ二本

その昔、知り合いにたのまれて英語の詩を翻訳したことがありました。あまり何も考えずに、たんたんと作業をしたのを覚えています。

その後、「フォーエバー フレンズ」という映画を観ていたとき、ベット・ミドラーが歌うとっても素敵な曲がいっぺんで好きになりました。それは、はじめて耳にした曲。でも、強烈なデジャヴ体験。この歌詞知ってる・・・それも全部・・・なぜ?・・・よくよく考えてみたら、あの詩なのです。歌詞であり曲がついてることも知らずに、たんたんと訳した詩。

それは、「Wind beneath My Wings (私の翼をささえる風)」という曲。もちろん歌詞はとってもいいのですが、ベット・ミドラーの素晴らしい歌唱力で心に残る一曲になっています。

その一節に、
Did you ever know that you're my hero?
You're everything I wish I could be.
I could fly higher than an eagle,
for you are the wind beneath my wings.
Thank you, thank you,
thank God for you, the wind beneath my wings.

「あなたはわたしのヒーローだって知ってた?
あなたは、わたしがなりたいすべて。
わたしがタカより高く飛べるのは、
あなたがわたしの翼をささえる風だから。
ありがとう、ありがとう、
神さま、感謝します。わたしをささえるあなたという風に.。」

わたしは、友人や近しい人に感謝したいとき、この曲を贈ります。と、言ってもYouTubeからですが・・・(^^ゞ。

ベット・ミドラーがこの曲を歌っていた映画「フォーエバー フレンズ」、久しぶりに観てみました。育ちも感性もまったく違う異質な女の子二人の、山あり谷あり野原あり・・・の長い友情を描いた作品。ベット・ミドラーはとびきりの美人とはいえないけれど、とってもチャーミング。映画の中でシンガーを目指す女性も、彼女そのもののようなキャラクターです。

そして、彼女が従軍慰問の歌手として美しい歌声をたくさん披露している「フォー ザ ボーイズ」もおススメの一本です。さすがグラミー賞歌手、聴かせます!戦場を訪れながら歌手としてどんどん成功してゆく一方、夫も最愛の息子も戦争で失い深い心の傷を負う彼女。毒舌コメディとしっとりした演技、どちらも彼女ならではです。しかし、ベット・ミドラーが年をとったシーンでの、ハリウッド年寄りメイクがどれもフランケンシュタイン風なのには興ざめです・・・。ジェームス・カーンのちょい悪オヤジもかわいくっていい味だしています。

どちらも笑って泣いて、そして歌も楽しめる二本です。涙壷度:★★★☆☆

PS いつも、わたしをささえてくれている「風」さんたちに改めて感謝です。
ちなみに、オフィス・るんの「るん」とは「風」のこと。わたしも、みんなをささえる風でいたい!

10-09-03 いちばんのお気に入りは?

先日もブログに書いた「EATALY」で、友人とおそと夜ゴハン。テラスに陣取ったもののまだかなり暑くて「こりゃ失敗?」と思いましたが、だんだんと夜風が心地よくなってきました。

ゴハンしながら、話がふと映画のことになったとき「どの映画がいちばん好き?」と尋ねられました。わたしは一本にしぼれず数ある中から候補をあげたのですが、彼女のいちばんのお気に入りを耳にしてビックリ。

じつは、それがわたしの胸に秘めた(?)いちばんのお気に入りだったから。

でも、尋ねられると「あまり一般受けしないかな〜・・・」と憂慮しつつ、意図的に推薦枠からはずしてしまい、無難なところをおススメしていた自分に気がつきました。

でも、尋ねられると「あまり一般受けしないかな〜・・・」と憂慮しつつ、意図的に推薦枠からはずしてしまい、無難なところをおススメしていた自分に気がつ
きました。

あまり知る人がいない、調べてみたら二十年前の作品。「トーチソング・トリロジー」というゲイが主人公の物語です。アーノルドというとってもオバサンぽいゲイの男性が、幸せを求めつつ紆余曲折・葛藤・前進する姿を描いたもの。でも、このアーノルドがとってもチャーミングで魅力的。観ていて抱きしめたくなるような愛さずにはいられない存在なのです。

彼の恋人役を演じた当時のマシュー・ブロデリックがすごく可愛い!その後(今から数年前に)、「プロデューサーズ」というミュージカル映画に彼が出ているのを発見しましたが、かつての美少年も今やまん丸なおじちゃまになっていました。

ずっと昔からおつきあいのある友人とひょんな共通項を今さらながらに発見した夜でした。(また、DVD借りてきて観てみよう♪)

10-09-15 「小さな村の小さなダンサー」

ジミな中国映画かと期待薄で出かけましたが、とてもよかったです!

これは、リー・ツンシンという中国出身の世界的なバレエダンサーの自著をもとにした実話。彼は中国の貧しい農村の大家族に生まれ、ひょんなことから毛沢東の文化政策で北京の舞踊学校の英才教育へ。またまたひょんなことからアメリカへの研修生に選ばれ、さらにひょんなことから怪我をしたプリンシパルの代役として踊ったドンキホーテが大喝采。数週間のアメリカ滞在は彼の人生を根底からくつがえします。結局、あまりのカリスマ性が災い(?)して祖国を捨てるはめに。

彼は「ひょんなこと」だけで世界的に有名になったわけではありません。もともとはひ弱で泣いてばかりいる落ちこぼれ。アメリカのバレエ団が北京の舞踊学校に視察に来たときも「彼らはアスリートであって、ダンサーではない」と言い切られます。つまりスパルタ教育で技術はあるけれど、バレエ的情緒がない、ということなのです。それでも、彼はぐんぐん変わりはじめます。家族への愛、恩師への愛、恋人への愛、アメリカという新天地への愛、そして自分の可能性への愛によって。

結局、祖国を捨ててしまった彼は家族への切ない想いをこめて舞台に立つようになり、それが彼を単なるアスリートから真のダンサーへと花開かせることになります。

リー・ツンシンを演じられる役者さん選びに難航したそうな。そうですよね。カリスマ的なバレエを踊れなければなりません。それをみごとに演じているのが英国バーミンガム・ロイヤルバレエの現役プリンシパル、ツァオ・チー。彼の踊りはすばらしかったです。身体の軸がしっかりしているのでしょうか?どんな動きをしてもピタっときまる、ぶれない美しいシルエット。バーミンガム・ロイヤルバレエと言えば、デビット・ビントレーという最近日本でも活躍している芸術監督がいるバレエ団。ビントレーの振り付けでツァオ・チーの踊りが観たかったな〜。

バレエを観るときは女性のプリンシパルダンサーしか観てこなかったけれど、ツァオ・チーの踊りをみてすっかり魅せられてしまいました。

リー・ツンシン自身も予期していなかったであろう彼のUps and Downs たっぷりの半生(両親との決別、劇的な出世、大使館との亡命劇、波乱のロマンス)と、さらにバーミンガムバレエ団の美しきプリンシパル、ツァオ・チーのナンバーが堪能できる映画。おススメです。

涙壷度:★★★☆☆ (ハンカチ必携)

10-10-18 シャッターおりまくり・・・けど、よかった(?)二本

人に「この映画、いいよ!」とすすめられても、どうも身体が受けつけない場合があります。

たとえば、アカデミー外国語映画賞をとったアルゼンチンのサスペンス「瞳の奥の秘密」。只今静かな人気でロングラン中。まわりから「おもしろかった」という声を聞いて出かけてきました。

しか〜し・・・最初の10分と最後の15分しか記憶になし・・・(汗)。この手の映画は、そこだけ観ても「なるほど・・・こういうことだったのか」とオチを理解してしまえる省エネ映画(だからといって寝るな!笑)。

なんでそんなことになったのかというと・・・。まず、仕事のあとに行ったので集中力の在庫ギレ・・・。あと、満員のわりには映画館に冷房が入ってなくて空気がどよよ〜ん。暑苦しく意識混濁。あと、決定的な要因としては、早口にまくしたてるスペイン語。そのうえ、暗く、あかぬけない画面。そして、むさくるしめの登場人物。この三拍子がそろうと、頭がフリーズして勝手にシャッターがおりて閉店状態。

そういえば、他にもありました。「オーケストラ」という映画。これも「いい!」と言われて行ったのですが、やはり爆睡。同じパターンで最初と最後だけの鑑賞となりました、そのわりには最後、泣いてたのは誰?!(汗)

これも、超むさくるしいおじちゃんたちが次から次へと登場し、早口のロシア語でひっきりなしにまくしたてる系、でソク頭がフリーズ。深い眠りに・・・。しかし、おもしろいことにロシア語じゃない部分にはピキっと反応し、眠りにおちていながら「む、む・・・今、ドブリーデンって言ったよね?それってチェコ語じゃない?!」てな感じで・・・(チェコに行ったときに、苦労して覚えたの)。こんな検閲かけて何の役にたつのやら。

でも、この映画、最後はかんどーもので、「ああ、よかった〜」と涙(笑)。最後だけで、お腹いっぱい!

二本とも、けっこう評判もよくロングラン作品。でも、ムサおじちゃんとまくしたて系言語にはめっぽう弱く、ソク店じまいして眠りこけるわたしなのでした。しかし、二本ともパーフェクトに鑑賞したかのごとく話しのスジがわかってしまうところがおかしいです。ムサおじちゃんとまくしたて言語が no problem 方にはおすすめしますよ〜。

しかし、「My type でなければ、即、退陣!」という正直すぎる反応に、少々当惑ぎみのワタシがいるのでした。

10-12-04 トム・フォードワールド

「シングルマン」観てきました。

グッチ、サンローランを手がけた世界的デザイナー、トム・フォードの初監督作品。

もともと俳優を目指していた方で、そこにデザイナーとしてに審美眼が加わり、いやぁ、完全にトム・フォードの世界。

まず、画面の色。ウツ状態の主人公にあわせて、最初はとてもおさえた色調。彼はともに暮らしていた恋人の男性を亡くして以来、完璧に心のバランスを失っているのです。まるで、も抜けの殻のような彼。恋人との思い出の中にしか生きられない彼。そんな彼を象徴するように、色みをおさえたトーンが彼の心と直面する現実との距離感をまるで人ごとのように映し出します。

この物語は、彼のある一日を切り取ったもの。一日のなかで、彼の気分のup and down を画面の色調が微妙に映し出します。一日の終わりに向かって、だんだん画面に色みがついて生気がもどってくるのです。彼は自分の人生、今ここに戻ってくるのです。よいことです。ウツで、それも本当はこの日を最後に命を断とうと決めていた彼ですもの。

しかし、しかし、エンディングはひとひねりあり!おお・・・こうきましたか・・・(汗)。

画面の色だけなく、ひとコマひとコマが計算しつくされています。カット、アングル、色調、登場する建物、インテリア、何気ない小物にファッションと・・・・美しいです。しかし、大学教授の主人公にしては、ちょっとスタイリッシュすぎちゃったかも、とも思います。トム・フォードが撮ると、トイレに坐っている姿まで静かできれいな絵になってしまいます。

脚本もともにトム・フォード。セリフは少ないのですが、コリン・ファースが主人公の静かで深いいちずな愛を演じています。

11-01-18 母娘の葛藤 「愛する人」

わたしたちの人生は、幼少の頃の両親との関係を色濃く反映し続けます。とくに、命をはぐくんでくれた母親との関係。セラピーセッションの中でも、母親との問題は定番中の定番。たいてい心や身体の問題の根っこは母との関係に帰着するといってもいいほどです。

この「愛する人」という映画は、そんな母と娘の心の葛藤を通して、人を愛すること、自分を愛すること、そして愛を受け入れること、がテーマになっています。

愛するがゆえに娘をコントロールしようとする母、それに抵抗し怒りから心を閉ざしてゆく娘。これぞ、日々のセッションのおきまりのパターン! また、自分を養子に出した母への恨みから女性全体を嫌悪し、満たされない愛情をどうにかしようと手当たりしだい男性を誘惑しようとする女性(これ、ぜったい満たされません)・・・これもよくあるパターンです。

しかし、人生の途上では、かならず傷をいやすチャンス、助けが用意されていることも事実です。

この物語は三つのストーリーが同時に進行してゆきます。14歳で妊娠し娘を手放した母の苦しみ、母に見捨てられた傷から愛を信じない娘、そして子どもができずに養子をとることに必死なカップル。この三つはおそらくこうつながるだろうと予測していたのですが、以外な展開に・・・。

監督さんは、なんとガルシア・マルケス(ノーベル賞作家)の息子さんロドリゴ・ガルシア。アネット・ベニング演じる罪悪感いっぱいのギスギスとげとげの母親が愛の中で再生してゆく様子が美しいです。この映画を観ることで、「母からの愛」を改めて気づかされたわたしでした(涙)。

涙壷度:★★★☆☆(静かに涙)

11-02-05 北欧の静かな映画 「ヤコブへの手紙」

この映画、日本で撮ったらいったい誰がレイラの役ができるだろう?と考えてしまいました。

フィンランドの片田舎を舞台にしたジミな映画です。登場人物がたったの三人しかいません。主役は恩赦で出所してきたばかりのレイラ。えらくふてぶてしく攻撃的でふてくされた中年女性。太ってむくんだ容姿から、彼女の抑圧した心の痛みがにじみ出ています(スゴイね、この役者さん)。

あとは、レイラが身をよせることになった牧師館の主、盲目の老牧師ヤコブ。そして、この老牧師の生きがいである「身の上相談」の手紙を配達してくる郵便配達人。

レイラは牧師館においてもらえることに感謝するどころか、恩赦を申し出たであろう牧師を恨んでいるのです。もちろん、老牧師の手伝いである手紙の返事の代筆もいやいやながらで、老牧師の邪魔さえします。

郵便配達人もレイラをこわがり、牧師への手紙の配達がぱったりやみはじめ・・・生きるよりどころの手紙が届かぬことで、牧師は急速に憔悴してゆきます。

恩赦なんてくそくらえ!で生きているのが苦痛なレイラと、届かぬ手紙によって自分の存在価値を見失ってゆく老牧師・・・・さて、どうなるこの二人?

交わることのないであろう二人が、最後はおもわぬ形でお互いがお互いへのかけがえのない贈りものとなります・涙。

PS 人を支えてきたと思っていた老牧師が、自分こそが手紙によって癒され生かされ続けてきたと気づくシーン・・・身に覚えがあります。

涙壷:★★☆☆☆(最後にしんみり・・・涙)

11-03-29 カズオ・イシグロの世界 「わたしを離さないで」

日本国民総ストレス障害・・・とさきほどTVのコメンテーターが話していました。ホントです。あの震災の映像を繰り返し見ているだけでも、心にはかなりの負担です。

そして、今のご時勢、おいしいものを食べたり、楽しいことをするのも気がひけてしまうところがあります。住むところがない、ゴハンさえない人がいっぱいいるのに・・・と。

でも、日本国民全体があらゆることを自粛していると、こんどは経済がたちゆかなくなります。だから、今こそどんどん稼いで、どんどん使って、経済を元気にして、そしてじゃんじゃん義援金を送って、復興に手をかすこと。ですよね!

そんなわけで、二週間ぶりに仕事以外のおでかけ。カズオ・イシグロ原作の映画「わたしを離さないで」を観てきました。う・・・ん、ちょっと今のご時勢にはストーリーがヘビーでした。

でもカズオ・イシグロなので、早く観たかったのです。

昔、貴族とそこに仕える執事を描いた「日の名残り」という映画がありました。執事役のアンソニー・ホプキンスが素晴らしくって大好きな映画です(レクター博士とは思えないひかえめな紳士ぶり!)。上映後エンドロールをぼ〜っと観ていたとき、原作者の名前が日本人「カズオ・イシグロ」であることに気がつきました。

びっくりしました。こんなこてこての英国の貴族社会を描いた作家が日本人?!と。そのあと知ったのは、カズオ・イシグロは長崎に生まれて両親とともに英国に移り住んだということ。彼の短編はいくつか読んだことがあるのですが、アメリカ、ハンガリー、日本などさまざまな国を舞台にした独特な感性の作品です。

そしてこの「わたしを離さないで」は彼がかつて受賞した英国のブッカー賞の候補に再び選ばれた話題作。

イギリスの厳格な寄宿学校。ここで暮らしているのは裕福な家庭のこどもたち・・・ではなくて、ある目的のために秘密裏に管理されているこどもたち。かれらは、ある年齢に達したらドナーとなって生を終えることを運命づけられているのです。しかし、ほんとうに愛し合っているものたちにはしばらくの猶予があたえられると・・・。運命を受け入れながら生きるひとりの男の子と、彼に恋するふたりの女の子。

ショッキングな内容ですが、おさえめな映像のトーンがどこか遠いところのことに感じさせることと、この三人の役柄がたんたんと演じられているところがまだ救いでしたよ。

震災のあとでもあります。今のところは、アンソニー・ホプキンスがステキな「日の名残り」のDVDからおすすめというところでしょうか・・・。

11-04-17 ソフィア・コッポラと英国王

「SOMEWHERE」を観てきました。ソフィア・コッポラ(フランシス・コッポラの娘さん)の作品、好き!観たい!と思う監督のひとりです。第一作の「ヴァージン・スーサイズ」からのファン。

好きなものに対して「なんで好きなの?」と聞かれてもとても困る・・・。なぜならヒトとかモノを好きになるって、これっていう一部ではなくって全体のバランス、雰囲気が好きなのですよね。ひとことでいえば、ソフィア・コッポラの作る映画の「空気感」「透明感」が好きなのです。

すべてを言葉でわかりやすく説明するわけではなく、音とか、ロングショットから伝わってくる感情(そう、彼女の映画は「このショット、ちょっと長すぎるんじゃない?」と思うことがあるのです)、それがその場の空気や感情をよく語っているのですよね。

う〜ん、好きなものを語るのがムズカシイ!

そしてもう一本、今年のアカデミー賞受賞作の「英国王のスピーチ」、やっと観てきました。吃音症であるジョージ6世役のコリン・ファースは変幻自在な役者さんですな〜。

スピーチセラピストに「あなたはまだ5歳の少年を生きている!」というようなことを言われるシーンがあるのですが、劣等感を乗りこえて無事にスピーチをやりおおせたジョージ6世は、怯えきって短気な少年から、自分をあるがままに受け入れた大人の背中にしっかりと変わっていましたよ。パチパチ!

仕事柄、このスピーチセラピストのアプローチの仕方にも興味津々でありました。メソッドというよりは、ほんとうにクライアントと同じ目線に立って寄り添う態度、セラピーの基本中の基本なのでありました。

わたしたちは全面的に受けとめてくれる人がいることで強くなれるのですよね!

11-05-09 ドキドキする「太陽がいっぱい」

そういえば・・・若い頃のアラン・ドロンの映画って一本も観たことないな〜。アラン・ドロン世代ではないけれど、友人のなかには大ファンの子もいましたっけ。今さらですが、「いったい何がよかったの?」とばかりに、リバイバル中の「太陽がいっぱい」を観に行ってきました。

大富豪からイタリアで豪遊するドラ息子を連れ戻す、というお役目をおおせつかるトム(アラン・ドロン)。その放蕩息子と行動をともにするうちに、彼と自分とを同一化しはじめます。だんだん、だんだん、富豪っぽい横柄で大胆不敵なキャラを身につけてゆきます(別に大富豪さんがみんな、そのようなキャラではありませぬが・・・)。そうするうちに、ドラ息子を首尾よく片づけ、自分が彼になりかわってしまえばいいじゃないか...と、かなり短絡的なひらめきがやってきます。そして財産だけでなく、彼の恋人までもを自分のものにしようとたくらむわけです。

何年か前に「リプリー」というハリウッド版リメイク作品がありましたっけ。富豪がジュード・ロウ(ちょい気品があり、自信たっぷりで鼻持ちならない感じがはまり役)。そしてお目付け役トムはマット・ディモン。彼の場合は、アラン・ドロンのような獲物をねらうヒョウのギラギラ感はなかったな〜。ノラクラしているうちになりかわったような。でも、観ていてドキドキした(ときめいた!という意味ではなく、スリリングの意味)のは「リプリー」の方。

最後のオチはちょっと違っているような・・・(「リプリー」のオチは忘れた・・・)。いずれにしても、ウソがばれてトムはただのトムに逆戻り。

「リプリー」にしろ「太陽がいっぱい」にしろ、ここまでひやひやの労力払ってちまちま小細工して他人になりかわり・・・いったい楽しいの?と思ってしまうのでした。う〜ん、甲斐性なしには完全にムリ。

涙壷度;ゼロ(泣く場面などありませぬ)

観ていてアラン・ドロンと富豪の息子の区別がつかなくなり(て、ことは同一化には成功しているのでしょうが)・・・アラン・ドロンのオーラはいまいち理解できなかったわたしなのでした。

11-06-05 病んでゆくナタリー「ブラック・スワン」

アスリートの中でもとりわけ肉体に特徴があらわれるのが、バレエのダンサー。

あの天井からピンと吊られたような頭や独特のかたちのふくらはぎ。街中でも、「あ、あのひと、バレエやっているに違いない」と、その姿勢やら独特の足の運びでわかってしまうことがあります。

さて、女優さんがチュチュを着てポーズをとればそれなりに決まるかもしれませんが、プリンシパル役で踊りをみせるとなるとどうなのでしょう?

この「ブラック・スワン」のバレリーナ役、ナタリー・ポートマンを見たとき、わあ、いつもの彼女と違う!バレエやってる女の子のたたずまい、と思いましたよ。ムダな贅肉はかけらもなく、筋肉、それもバレエダンサーの筋肉。

彼女はこの役のために一年前からトレーニングをはじめて、毎日バレエの基礎レッスンと水泳に8時間・・・という肉体改造。このストイックさは、まさに舞台に向かうときのプロダンサー。これだけでも、プロダンサーの気持ちになれそうです。

技術はありながらも母親の過干渉から自信を持つことができないダンサー(ナタリー)が、「白鳥の湖」の主役に抜擢されるのです。が、バレエ一筋で育った彼女に純真な「白鳥」は踊れても、もう一役の妖艶な「黒鳥」が踊れないのです。

初日が迫る激しい稽古の日々に、そんなプレッシャーからどんどん心を病んでゆきます。とりわけ母との関係。その昔、群舞の白鳥しか踊ることができなかった母親からの嫉妬、また役づくりをする中で過保護な母親から離れてゆくことに対する圧力というように、つくられてきた自分から脱しようとする娘とそれに抵抗する母との戦いでもあるのです。

観てるほうもどこまでが彼女の現実で、どこまでが彼女の強迫観念の妄想なのかわからなくなります。手持ちのカメラで撮っているような映像は彼女の目線からものごとを見ているようで、ストレスや緊張、パニック状態が伝わってきます(このあたりになると、ほとんどホラーか?!)。

制作発表のときに監督が「ほとんどナタリーが自分で踊っている」とコメントしましたが、あとで替え玉のダンサーからクレームが出ててしまいましたね。たしかに、舞台初日のクライマックスである黒鳥の踊りは、メイクがばっちりすぎて素顔がわかりません。まあ、このような山場の踊りはやっぱりプロのほうが迫真の演技でしょう。

最後にぎょぎょっ!とするオチもあり・・・。

わたしはあのレベルの肉体改造と、ナタリーが純真なバレエ少女からみるみる病んでゆく様子まで、やっぱりアカデミー賞ものだと感じましたよ。(突然、ウィノナ・ライダーがいて、びっくりしました。)

涙壷度:☆ゼロ(涙なし、唖然とするばかり・・・)

彼女の強迫観念を疑似体験し、ちょっと疲労しました・・・(汗)。

11-06-29 127時間、穴にはまったら?!

誰に誘われても絶対行くものか!と決めていたのに・・・あっけなく初志撤回(泣)。(そもそも、「絶対」なんて言葉を使っていることじたいが、自信のなさの現れであって・・・。ふつ〜に「決めてる」人は、絶対という言葉は絶対(←オイオイ!)使わないものです。)

何のことか・・・、「127時間」というアカデミー賞にもノミネートされていた映画です。

血気盛んで無鉄砲な男性アーロンがいつものように冒険に出るのですが、広大な自然の中で岩の裂け目に落ちて、そのうえ岩壁と落石の間に腕をはさまれてしまうのです。そこはアメリカ。自然といったらそのスケールは壮大。日本の比ではありません。携帯も通じず、人っこひとり現れず、そのうえ奔放な性格ゆえに彼は行き先を誰にも告げていないのでした。うんうん、いるよね〜、こういうスーパーヒーロー気取りのちょっとコワレ気味のオトコノコ。

じつは、これ実話をもとにしています。このシチュエーションを考えてみてください。誰だって最後の結末はおおよそ見当がつきますよね。この実話を知っている友人に確かめてみたら、案の定、思ったとおりの顛末。だったら、そんなの絶対観ないよ〜。わざわざ苦しくって痛い映画なんて。

しかし、しかし、監督があの「スラムドッグ$ミリオネア」のダニー・ボイル。この作品はオスカーを穫りましたが、息もつかせぬテンポの良さと独特の躍動感、そしてコマ割りやカメラのアングルのおもしろさ。その監督が127時間も、たった一人で、それも動けない男をどのように魅せているのか・・・そこに興味をそそられたのですね(ずっと顔だけ撮られたら最悪だけど・・・。したら、ソク寝ます!)。

結論から言うと、おもしろかったです。あっというまの上映時間。穴にはまっていただけなのに、なんなの?この躍動感、このメリハリ。そして、彼は何ものも怖れない性格がゆえに穴にはまり、何ものも怖れない性格がゆえに穴から生還するのです。

穴にはまって人生を回顧しながらその尊さを知る、そんな疑似体験をお求めの方、または主人公とともに人生をリセットしたい方、あるいはダニー・ボイルの映像のおもしろさを堪能したい方、是非見て下さい。

でも、わたしのように苦しいの痛いのイヤな方は、是非そこは音声のみで楽しみ(?)ましょう(結構、叫んで、うめいていますが、動物の鳴き声だと思い軽く聞き流してしまいましょう・汗)。

涙壷度:★☆☆☆☆(やっぱり最後はちょっとホロリ)
ジェームズ・フランコの情けない表情がなんともいえません・・・。

11-08-23 TSUTAYAさん「オススメ良品」から

最近、DVDにしろ劇場ものにしろ、新作に興味をひかれず旧作を観る機会が多いです。

TSUTAYAさんの「オススメ良品」の棚から無作為に選んだ一枚をご紹介。

「おもしろくなかったら返金してくれる」というので、何の情報も先入観もなしでさっそく観てみました。

まず、登場するお金持ちの女性。着ている水着が腰骨の上まで切れ上がった超ハイレグ。今見ると、これってかなりの赤面ものですね。1980年中頃ぐらいに流行ってたかな〜?そして次に、彼女のだんなさんが使っている携帯電話。なんともデカッ!!細長いお弁当箱みたいなものにバンドがついていて、手の平を差し込むようになっています。うんうん・・・これも、90年代よりも前ですよね。そして極めつけは、バックに流れる音楽。ひと頃流行ったAORっぽい響き? (Adult Oriented Rock というらしいジャンル。えっと、シカゴとかクリストファー・クロスとか・・・。完全にトシがばれるね!!汗)これも80年代の特徴的な音楽。

ストーリーは、かなり性悪のセレブの奥方にコキ使われ罵倒されたうえ賃金ももらえなかった大工の男性が、この女性が記憶喪失になったのをいいことに自分の妻だと偽り、ちゃっかり子供の面倒も見させ自分に仕えさせ・・・ま、復讐するわけです。しかしそうするうちに、女性の夫君が妻の所在をつきとめ救出してしまいます。そこでこの女性の記憶もすっかり戻るわけです。大工の男性の企みがバレて大変なことになると思いきや、じつは二人はとっくにラブラブになっていたので、悲しいことに引き裂かれてしまったわけです。極貧の生活から、もといたセレブな生活にもどってしまった愛する女性は自分のことなど忘れてしまったのか?しかし、ここから大工の男性と子供たちの大奪還劇、愛する女性を取り戻しに行くというストーリー。

あとで調べてみたら、これは1987年(おお、やっぱり!)、あのプリティ・ウーマンのゲイリー・マーシャルの初期の作品です。そして、記憶喪失の女性役はなんとケイト・ハドソンのお母さん、ゴールディ・ホーン。とってもキュートでメグ・ライアンを彷彿とさせます(いや、メグ・ライアンが彼女に似てる、が正しい)。大工さん役は、実生活でもパートナーであるカート・ラッセル。「潮風のいたずら」という作品でした〜!!

返金の必要まったくなし!おもしろかったです。ジェニファー・ロペスでリメイクされる(された?)そうですが、こちらはどんな感じなんでしょうね〜?そちらも観てみたいです。

11-08-24 今やストーカー・・・「卒業」

劇場で観た旧作シネマ、それは「卒業」。(六本木ヒルズで朝10:00から、古い名作といわれるものを次々上映しています。)

チャペルから花嫁を略奪するシーンはとても有名。みなさんもどこかで目にしたことがあるかもしれません。

簡単に言うと、セレブなおうちのエリートくんが大学を卒業し、さてこの先どっちを向いて生きるのか・・・敷かれた線路の上を突っ走ってきた彼にはあまり「意志」というものがない様子。そして自信もない。そこで、母親ほどのトシの女性にそそのかされ、なんせやることがないのでそちらに突き進んでしまいます。しかし、その女性の娘に会ってみたら、はじめて「意志」が目覚めちゃった。「このコのほうがいい!結婚したい!」と。突如娘にひるがえったエリートくんを見て、この年上の女性、もちろん黙っちゃいません。プライドがあります。事実を娘にバラし、恋路を邪魔するのです。結果、そのコは他の男性と結婚することになるのですが、彼はあきらめちゃいない。必死で結婚式さなかの教会に乗り込み略奪する・・・というお話し。

この青年役、若かりし日のダスティン・ホフマンが演じているのですが、ほとんど自分のないこ青年役に彼の「超なで肩」な体型がベストマッチ。演技というより、この体型だけでかなり醸し出すものアリ、です。

そして、いやがる彼女を彼女の通う大学にまではりこんでつきまとう始末。これって今でいうと熱愛なんてもんじゃなくって、たんなる激しく変質的なストーカー行為。あの「なで肩」体型にジャンパー姿でピッタリ彼女のあとについて足早につけ回す姿・・・ん?どっかで観たな〜このシーン、あ〜!これすでにレインマンだわ(自閉症役のダスティン・ホフマンが、ジャンパー姿で弟役トム・クルーズのあとにぴったりくっついて、小股にチョコチョコつけ歩くシーン。「卒業」から、すでに「レインマン」だった・・・汗)。

いくら好きだからって、この執拗でストーカー度100% の一方的な恋愛表現、観ててだんだん頭痛がしてきましたよ〜。こんなことされたら、誰だってぜったい引くでしょ〜。これ、1967年の映画。セレブなエリートくんが乗り回す当時はカッコよかったであろう赤いアルファ・ロメオも、いまや遊園地の遊具にしか見えません。モノにしろ、恋愛観にしろ、今と変わっているような変わっていないような微妙な年代なので、逆にギャップを大きく感じるのかもしれません。もっと極端に古いい作品のほうが頭が混乱しないかも。それに、年代的にはまだ共感できない、というのもあります。

なんか妙に疲れたぞ・・・・。ハッピーエンドなのに、なんかだかな〜・・・という感じです。職業上、彼のあの性格、もうちょっと自分と向き合ったほうがいいんじゃない?などと、将来を案じてしまいましたよ。

しかし、ダスティン・ホフマン、「ひどいなで肩」をのぞけば、昔はとっても美形だったのね。オトコのオバサンのイメージしかなかったから見直しました。・・・(「トッツィー」です)。

11-09-03 期待しなければ味わい深い「ツリー オブ ライフ」

ブラピの主演にもかかわらず、まったく食指の動かなかった「ツリー オブ ライフ」。だってウェブのレビューを見ても平気で星が一つか二つだし、なおかつ途中退場者もいるという作品。

そういうのに限って、「127時間」じゃありませんが誘われちゃう。いったん拒否したものの、「娯楽作品だと思って観なければ、あんがい深いかも」「仕事に役立つかもよ」とそそのかされ(?)行っちゃいました。

仕事のあとだなんて、あまりに形勢不利。すでに眠いし。そのうえお腹いっぱいサンドイッチも食べたし、デザートまでいただいちゃった。あとは寝るっきゃないね・・・という状況です。それにしても、ブラピ主演でこの観客の少なさ。年配の方がチラホラ、あとはお一人の方です。

はじまってしばらくすると、お隣の誰かさんは貧乏ゆすり・・・あらら、誘ったわりには飽きてる?その後は眠りに落ちていたみたいです。おもしろくないと即シャッターが降りちゃうこのわたしが最後までぜんぜん眠らずに観終わったってことは、つまらなくはなかったらしいです。少々哲学的な作品で、父がブラピ、息子がショーン・ペンという設定を押さえておけば、どこに話しが飛んでもついてゆくことができました。

ハイ、たしかに場面はくるくる時空を飛び回ります。あるときは火山の映像、そして宇宙、大自然、恐竜までも・・・これはサイエンスものかと思ってしまいましたよ。それにセリフはほとんどなく、問いかけのような静かな語り、そしてたまにあるセリフはつぶやきのよう。

旧約聖書のヨブ記(信仰の篤いヨブでさえ、神からの恩寵を受けるどころか次々と人生の困難にみまわれる)を、息子の一人を失ってしまうブラピ家族の感じる理不尽さに重ねあわせています。テーマについての感想は長くなるのでさておいて・・・。

このブラピ演じる1950年代のアメリカのお父さん、おそろしく厳格で支配的。いっけん幸せに見える家族の心をむしばんでゆきます。

セラピーをしていると、このタイプの父親、多いですね。自然に囲まれた美しいお家、何不自由ない暮らし、家族揃っての食事、寝る前にする父親へのキス・・・見たところ何の不自由もない幸せに満ちた家族に見えますが、すべては形だけ。この父親の自己満足。フタをあければすでに家族の心はボロボロで、父を殺したいほどの嫌悪感が渦巻いています。しかし、すべてに形がととのっていれば幸せに違いない、と父親はあくまでも形(成功すること)を整えることに執着し続けます。

この「成功がすべてである」という父親の無意識には、どれだけの自分に対する無価値感が充ち満ちていたことか。その抑圧し隠し続けて形だけの成功を求めようとした父の無価値感は、息子によってしっかりと表現されているのです。だから、その父から見たらなんともふがいなく見える息子たちに我慢がならず、ついついつらくあたってしまうのでした。

セラピーの中でも、自分でもてあましている自分への不満をこどもに向けかえて、こどもを過剰にコントロールすることによりバランスを失わせてしまう例はあとをたちませんよね。

ヨブ記をベースにしたテーマにもいろいろな感想を抱きましたが、この超支配的なお父さんのメンタリティーと傷ついた息子(特に長男)のトラウマを分析していてもいろいろと気づきがある映画でした。

決してつまらない映画ではありません。でも娯楽作品でもありません。いかにもカンヌのパルムドールな作品です。じっくりと味わいたいときにはよいかもしれないな〜と思いましたよ。

しかし・・・この子役たちのセリフのない演技、すごいでした。

12-01-12 年末年始の3本

ゲイリー・マーシャルのラブロマンス「ニューイヤーズ・イブ」が、タイトルのごとく年末の一本。

前作の「バレンタインデー
同様、さまざまな人たちの大晦日の様子が描かれています。今にも死にそうな高齢の男性、BFと年越しの Kiss をしたいティーンエイジャー、どうしても娘と過ごしたい心配性の母親、気まずく別れたのに突然再会してしまった男女、大晦日に仕事を辞めてしまったまるでイケてない中年の女性などなど8組のニューイヤーズ・イブ。

結局すべてのストーリーに共通するのは、わだかまりを手放して許すこと。そうだね〜。知らないうちにわたしたちはいろいろなこだわりやわだかまりを握りしめていて、じつはそれが原因でにっちもさっちも行かなくなっていたりします。

観終わって、えっ?あの死にそうな老人がロバート・デニーロ?あのイケてないオバさんがミッシェル・ファイファー?といろいろびっくりします。

そして、新年の一本めは「リアル・スティール」。ロボット VS ロボットの格闘技。現代版「鉄人28号」と正太郎少年という感じです。

人と人の格闘技は痛そうで見ていられませんが、ロボットなら話しは別(と、いってもけっこう痛そうだ・・・)。この超高性能ロボットの戦いは迫力です。大きな鉄の塊がぶつかり合う音だけでも、けっこうストレス解消になっちゃいます。おもしろかったです。予想外に結構泣かされました。

そして、あともう一本は「サラの鍵」。

去年公開された「黄色い星の子供たち」同様、1942年にパリで行われた「ユダヤ人一斉検挙」にまつわるストーリー。

その朝、ユダヤ人の小さなサラは幼い弟を水や食べ物と一緒にクロゼットの中に隠し鍵をかけるのです。そして両親とともに検挙され、収容所に送られるサラ。しかし、いつまでたってもクロゼットの中の弟が気にかかり、ついには鍵をにぎりしめて収容所から脱走・・・・。さて、このこの家族で生き残ったのはいったい誰なのでしょうか?

そして時代は今。一人のジャーナリストの女性がこの過去の一斉検挙について取材するうちにある事実をつきとめます。自分の住もうとしているアパートはサラが弟を隠したクロゼットのあるアパート。そこから彼女の人生は今までとは違った方向へと動きはじめます。彼女はアパートを返すべくサラを探し出そうとします ・・・ 。

たとえ見知らぬもの同士であっても、わたしたちは互いに大きな影響を受けあって人生を歩んでいるのですよね。時として、家族や近しい人よりも見ず知らずの人からの影響が人生を決定的に方向づけてしまったりします。

ホロコーストに関しては、ほんとうにたくさんの胸が痛くなるような愛の物語があります。そしてこんな劇的な時代が祖父母や父母の時代という手の届くところに存在していることに今さらながらショックを受けてしまうのでした。

12-02-03 そこまでやっちゃう?エル・ブリ

先日、「エル・ブリの秘密」という映画を観ました。

エル・ブリとは、世界でいちばん予約がとれないといわれた伝説のレストラン(残念ながらすでに閉店しています)。45席しかないにもかかわらず、年間200万件もの予約が殺到したとか。わあ〜、宝くじ並の難関。そのお店のかつての姿のドキュメンタリーです。

エル・ブリは一年の半分ほどしか営業しません。あとの半分は、その年のメニューを創作するための時間なのです。

それだけ時間があればのんびりやっているのかと思いきや、50名近い厨房スタッフが毎日コマネズミのごとくくるくると走り回り、常に緊迫した空気が漂います。まったく新しいものを創り出すって、それだけの真剣勝負なのですね。

そして厨房は研究室さながら。お料理を生み出しているというより、化学実験の様相。いかに使用している食材をくらますか、びっくりする形状、食感を生み出すか・・・。おいしさというよりは、驚きを追求しているようです。だから凍らせたり、すりつぶしたり、ジュレにしたり・・・食材は原型をとどめません。

日本の食材もけっこう使われていて、マツタケ、ユズ、ミカンなどはそのまま日本語でした。お料理も懐石にならってか、ほんの一口。ふだんナイフとフォークを使いなれた人たちが指でつまんで食べられるのです。また、レストランのお庭には熊手で砂紋を描いたり、かなり日本を意識している感じです。しかし、お料理は液体窒素で固めたり、オブラートでくるんだり・・・かなり不思議ちゃんな世界。

この映画を観たらさぞおいしいものが食べたくなるかと思いきや、ぜんぜんでした。なんせ観ていて想像できないのです、お味が。すご〜くアートしているけれど、そこまでやっちゃっておいしのか?

昨日、ちょうどNHKの番組で「食と化学の融合」をとりあげた番組をやっていました。いまや世界的においしさというものを科学的に解明して、新しい調理法を生み出そうというもの。また、化学技術を食に導入することも進んでいます。

この食材は何度で調理するといちばんおいしく感じるかなどを科学的に解析して、それをふまえて料理人が調理するというように、京都では研究室とお料理屋さんがコラボして「おいしさ」を追求しつつ和食文化を広めようとしています。

今のこどもたちはファストフードやコンビニ弁当でとりあえずお腹を満たして塾や習い事に通うような忙しい日常。でも、ていねいに作られたものを五感をふるに使って味わいながらいただくという体験は、食べたものがしっかりと全部栄養になってくれそうな感じで大切ですよね。

こんな映画や番組にふれると「へえ〜、料理人って思ったよりもクリエイティブでおもしそう!かっこいい!」と、料理人志望の若人が増えるかもしれませんね〜。

しかし、エル・ブリのあの不思議なお料理の数々、いったいどんなお味がしたんだろ〜?

12-07-12 もし、悪魔のような息子をもったら?

セラピーのお題目でもよく耳にするのが、「我が子は小さいときから、自分にまったくなつかなかった」「相性が悪い」というお母さまからの相談。

「そりゃ、育て方が悪くってなつかないのでは?」と思われがちですが、それ以前の何かだったりします。

なぜなら、心理学者のワトソンは「自分に1ダースのこどもを与えてくれれば、同じように育ててみせる」と言いましたが、はたしてそうはいきませんでした。環境を同じにしても決して同じ人間にはならない(兄弟がよい例ですよね)・・・ということは、自分がおかれた環境じたいを解釈するモノサシをすでに持っているということです。それに、まったく同じ体験をしても「やったぜ!」とポジティブに思える子もいれば、「最悪・・・」と落ち込む子もいるように、体験に対する反応は千差万別。生まれたばかりの赤ちゃんを見ていても、まっさらな人格でないことは明らかです。

この「少年は残酷な弓を射る」という映画も、「母になつかない息子」という問題を扱ったストーリーかと思っていました。

たしかになついてはいないのですが、どちらかというとこれは精神的に問題があるような。

のちに殺人事件にまで発展するのですが、米国では学内で銃乱射事件のようなことが起きていますが、このストーリーにおいては彼の得意な弓が凶器となります。

いったん事件が起きると、もっと早い段階でこどもの異常性に気がつかなかったのか、という声もあがるでしょうが、実際のところ、正常と異常の線引きってすごくあいまいです。白から、ほんのりとグレーに色づき、やがて完全に黒になったときにはすでに遅し。それに、すべてのことは、ポジティブにもネガティブにもどちらにも解釈できる二面性があります。この息子の家庭を見ても、父親はえらく鈍感だし、母親は息子がどうのという以前にとても神経過敏。こうなると、なかなか正しい対処ができないのかもしれません。

息子役の俳優さんがあまりにも美形なので、悪魔的な残酷さが際立っています。母役は「ナルニア国物語」で魔女を演じていた美しい女優さん、ティルダ・スウィントン。日本の女優さんがこの手の役をすると、まだどこかに美しさを残していたりしますが、ティルダの場合はやつれてノーメーク、まさに極限のボロボロ状態です。

ストーリーも事件当日から事件後、あるいは息子が生まれる前まで、と時間軸があちこちにとびまわり、観ていて精神的に居心地が悪くなり不安感をかきたてる構成。そのうえBGMが妙に明るい。映像とのミスマッチ。これも心理的におちつかない感じにさせられるのかもしれません。

しかし、もしこんな悪魔的な息子を持ったら、いったいどうしたらよいのか・・・?たとえ、自分になついていたとしても判断がむずかしい問題です。

12-07-16 “もしも・・・” がテーマの二本

ラブストーリーがぴったりなアン・ハサウェイ主演の一本、「ワン・デイ  23年のラブストーリー」。

とっても可愛い女優さんですが、垢抜けない女の子をやらせたらけっこうハマり役。いる!いる!こういう子、という感じ。

出会って最初にデートをした日、お互いとっても惹かれたのに、素直なひとことが言えなかったために23年間つかず離れずの微妙な関係。ほんとうは、恋人よりも夫婦よりも、お互いのことを理解しているはずなのに・・・。

そんな23年の月日を出会いの日である7月15日だけに焦点をあてて綴ってゆきます。

誰にでも「あのとき、あのひとことを発していたら・・・」「もう少し素直になっていたら・・・」「もっと勇気があったら・・・」違う人生だったかもしれない、ということがきっとあるはず。

そうしたら、今とはまったく違う人生を生きていたかもしれません。

そう、「選択」こそがまさに人生ともいえます。

では、選択肢のあらゆる可能性が存在しているとしたら?・・・・そんなパラレルワールドを描いたのが、「ミスター・ノーバディ」。

両親の離婚、はたしてどちらについて行くのか?出会った三人の女の子、はたしてどの子と結婚するのか?あるいは、セリフの中にもありますが、「あらゆる選択肢を残しておくために、どれも選ばない」としたら・・・。そんな人生のあらゆる選択の結果が主人公ニモの頭に去来します。

もしかすると、すべては自分が観てる映画のようなものかもしれません。

セラピーとはまさに、この「選択」を意識的にしなおすことによって、ストーリーそのもの、あるいは結末までもを変更させることでもあるのです。この現実が好きでなかったら、他の現実を選びなおす。つまり観ている映画が気に入らないなら、フィルムをとりかえる。あるいは、映画のストーリーじたいを書き換える。

近未来的な話に聞こえますが、わたしたちのココロはとってもフレキシブル、なんでもアリなのです。だから、カコを書き換え、未来をのぞき、はたまたパラレルワールドへ侵入し、そちらを選ぶ。う〜ん・・・セラピーって、とっても SF的な世界だったのですね。

12-08-12 あなたはクモ派?それともコウモリ派?

バットマンの新作「ダークナイト ライジング」は結構デキがよい!という評判で、それを観るために見逃した前二作をせっせとお勉強中です。

バットマンといえば小さい頃うちにマンガがあって、あのかわいげのないバタくさい絵柄やら、絵に描きこまれた横文字の擬音(ドカンが bang だったり)がけっこう新鮮でした。

コミックでもそうだけど、映画でもホントに男の子のハートをくすぐる設定が目白押し。めちゃくちゃ強いヒーロはもちろんハンサム。そのうえ億万長者で何でもアリときているし。彼を惜しみなくサポートする執事や献身的な部下がいて、彼らはおそろしく有能。アジトはかっこよく地底の底。車もバイクも型破りで、お道具の数々にいたっては必ずや男の子がわくわくするシロモノぞろい。

ホント迫力があっておもしろいけれど、女性にとってはどうなんでしょうね?ちょっと残酷だったり、痛々しく目を覆う場面も多々出現。それにスパイダーマンと違ってバットマンって超人に進化してない生身の人間なのですよね。だからしょっちゅう生傷が絶えず、よく生きてるな〜。

とはいいつつも、映画もここまできたか・・・という特撮に度肝を抜かれます。

3Dのスパイダーマンも四方八方にスイングしてハラハラドキドキ楽しかったけど、クリスチャン・ベール扮するかなり大人な雰囲気のバットマンもカッコいいです。三作目は是非、劇場でやっているうちに観たいものです♪

PS わたしもマイケル・ケインのような執事がいたらいいな〜♥

12-09-26 トムのむちむちロッカー

季節の変わりめ、まるで“秋眠、暁を覚えず”です。

で、映画館でぐっすり寝てきました。(~.~)

トム・クルーズがカリスマ・ロッカーを演じているロックミュージカル「ロック・オブ・エイジズ」。ライブ会場さながらの臨場感の中、音の洪水に浸りつつスヤスヤとお休み。適度な(いえ、適度じゃない)騒音が心地よく、よく眠れましたよ。

ときおりフト目覚めて、「わっ!トム・クルーズのロッカー、むちむちだわ!」なんてぎょっとしながら、またすぐに眠りにおちる始末。

じつは友人のお誘いで出かけたのですが、あまりに朝から眠すぎて参加を断念しようと思ったほど。「寝てていいから」と了解済みで素直に寝てました(笑)。

昔、トム・クルーズは妖しい教祖役(「マグノリア」で)もやっていたので、こういう役はお得意でしょうか?今回のロッカーは、トムだと思うとすごくおかし
い。完全にいっちゃってる感じです。それに、トムのおトシにしてはすごいパワー。ただ、この時代('80代)のカリスマ・ロッカーだったら、まだコワレ方
が少々足りないような。なんせ、ギターとか燃やしていましたものね。

話しの内容からして、決してトムが主演ではないのですが、完全に映画を食っちゃってます。

80年代のノリノリの音楽、キュートなファッション、そして元気な感じも楽しかった。(・・・って、観てないんじゃ??)

「ヘアスプレー」の監督の作品。こちらもカラフルで楽しいミュージカルです。

12-11-17 フロイト vs ユング

デヴィッド・クローネンバーグ監督の作品って、ラード使いまくりのお料理みたいでずっしり胃にもたれそうなイメージ(それこそが“鬼才”のゆえんなのでしょうが・・・)。ずっと観るのを躊躇しておりました。

しかし、ついに胃を決して、いえ、意を決して、鑑賞してまいりました。

タイトルは「危険なメソッド」。実はこれ、心理学者のフロイトとユング、そしてクライエントの女性をめぐる実話をもとにした作品。

フロイトとユングといえば、現代心理学の礎を築き上げた巨匠のお二人。その生き様がどのようであったかは、仕事柄ひじょうに気になります。

フロイトは、よく映画に登場する「長椅子にクライエントが寝そべって、思いつくことを話し続ける」というあのメソッド(精神分析)の創始者。ユングはいっときフロイトに傾倒して親しくしていたものの、自分の体験やら夢を通して集合意識とか共時性とか独自の考えを発展させることになり、やがてフロイトとは疎遠になります。ちょうどその別離の直前の二人の様子を描いたもので、とても興味深く観ることができました。

さて、その映画館、お客さんは結構入っているものの、案の定、途中あちこちからあくびが聞こえてきましたよ。そうですよね〜、フロイトとユングの精神分析のメソッドの違い、いっときの濃密な関係、その後たもとを分つ経緯などを知らないと、ちょっと小難しすぎる映画かもしれません。

フロイトはもともと「心」を科学しようとした人。ユングはフロイトを父のように慕いながらも、個人の心の枠を超えたすべてとつながる集合意識を主張して超心理学的な見地を持つようになってゆきます。(ようやく心のしくみが解明されはじめた当時にしたら、「自分の心とまわりの出来事がつながっている」というユングの理論は、相当オカルトチックに響いたことでしょう。)

それにしても、フロイト理論の中にある逆転移(セラピスとがクライエントに個人的な感情を投影してしまうこと)やセラピーの基本である多重関係の禁止(クライエントとセラピー以外の関係を持たない)というセラピスとが絶対やってはいけないことをばりばりに破っているユングさん。セラピーにおけるタブーは、こんなご本人のイタイ体験を通して培われたのでしょうか(巨匠も失敗から学んでいるのでした)。

「心」という目に見えないものを扱うセラピーはいつだって「危険なメソッド」になりかねないのですよね。わたしは「精神分析」は使わないものの、心してお仕事させていただきます。m(__)m

PS 今回のクローネンバーグは、以外なあっさり味でした。それにしても、美しさが売りの女優さん、キーラ・ナイトレイが、かなりアブナイ患者役。演技派まっしぐらですね。

13-02-23 やっと観ました!「レ・ミゼラブル」

みなさま、とっくにご覧になっている方も多いと思います。

映画好きのわたしにしては珍しく、かなり久方ぶりの映画鑑賞です。

こどもの頃、部屋に並んでいた「少年少女世界文学全集」の中で、ある時期、「ああ無情(レ・ミゼラブル)」ばかり好んで読んでいたことがありましたっけ。

ジャン=バルジャンという刑務所から出所してきた男に一夜の宿を提供する神父。しかし、まんまと大切な銀器をジャン=バルジャンに盗まれ、でも神父は「それは彼にあげたものだ。そして、ここに彼が忘れて行ったものがある」とさらに銀の燭台までもをさし出す、というくだりは覚えていました。というか、それが物語のほとんどのような気がしていましたが。

とんでもない(こどもバージョンではいろいろはしょってた?)、じつはこの先にいろいろドラマがあったのですね。

例のくだりは映画がはじまってものの数分であっというまに終了。そこからが長い。でもさすがミュージカル。とてもテンポがよく仕上がっていて、まったく長さを感じさせませんでした。(ミュージカルを好まれない方には、ちょっとはしょりすぎに感じるかもしれませんが。)

今までのミュージカル映画って、どこか歌声がちんまりしていて、場面の臨場感とのギャップがぬぐえなかったのですが、ついに演じながら歌う、本来のミュージカルな映画の登場となりましたね。音程なんてへっちゃら!そのときの感情でおしきっている感じです。

ヒュー・ジャックマンがこんなに歌えたとは。それにマッチョのイメージがありましたが、ソフトな役柄もマッチしていました。ヘレナ・ボナム=カーターはティム・バートン監督と結婚してから特殊メイクの常連となり、ついにはこの映画にまで・・・(汗)。

ただ、ヴィクトル・ユーゴーにお願いしたいのは、シャベール警部をあそこで死なせず、「許し」のポジティブな連鎖を続けてほしかったな〜。

長い映画でしたが「やっぱりミュージカルは好き♪」と思える映画でした。

さて、テディベア好きとしてはちょっと気になった「Ted」(うちのクマたちもこんなになったらどうしよう・・・)。こちらはそのうちDVDで・・・。

 

13-06-23 なりきんレオ様

「華麗なるギャツビー」を観てきました。

映画も楽しみましたが、そのあとのゴハンを食べながらの大ツッコミ大会ももうひとつのお楽しみ。

ブラピでもなく、ジョニデプでもない・・・今やあぶらののりきったレオ様にしかできない美しい成金に、Sちゃん、「別にファンではない」といいつつもけっこう目が♡になっておりました。

わたしも観ていて、うわっっ、こんな迫りかた、レオ様しかできないでしょ!(汗)・・・とその存在感というか、迫力とうか、ゴリおし感に圧倒されましたもの。

このレオさま扮するギャツビーは、かなりアブナイです。ナイーブで内に秘めた想いが強いぶん思いこみが激しく、妄想癖があり、そのうえ隠しもった強いコンプレックスを刺激されようものなら逆上気味・・・。

そうです、大富豪でなかったら、あれだけカッコよくなかったら...おそらく箸にも棒にもかからない、思いこみ激しいただのストーカーおじさん・・・汗。(お金と美貌はすべてを救う・・・?)

「華麗なるギャツビー」というと、わたしはロバート・レッドフォード版をビデオで観たことがあります。かなり昔で詳細はすっかり忘れましたが、とにかくギャツビーが ♡ステキ♡ だったことだけは印象に残っているのです。ぎらぎらレオ様バージョンはあれとはまったく別ものに感じてしまいます。

ゴハンを食べながらのツッコミどころは、「デイジーはダンナとレオ様を目のまえにして、あそこまでの二股修羅場劇を繰り広げておきながら、なんであんなに涼しい顔で元サヤになれるのか!?(怒)」というところ。

まあ、NYにつぎつぎとビルが立ち並び黄金時代といわれたバブリーな時代で、それでもまだ女性は解放されていなかったからこそ、こんな恋愛観が成り立つのでしょうね〜。

すべてがレオ様のお金と美貌というマジックに包まれて、なにやらハチャメチャな話しも美しく感じてしまったりして・・・汗。そんなThe great Gatsbyなのでありました。

当時のアールデコの雰囲気や、全面的に宝飾品に協力しているティファニーの時代もののジュエリーを見るのも楽しいですよ。

PS1 3Dだと思って買ったチケット、お隣の劇場のふつうバージョンでした。・・・いつまでたっても、レオ様、とびださず・・・(失態)。
PS2 個人的にはレオ様よりはジュード・ロウが好みですが、彼ではこんなギラキラ・あまあま感は出せないけど、もっとアブナイひとにはなっていたかも。

13-08-27 アンジー VS W・ライダーの精神病棟

久々のDVD、「17歳のカルテ」を観ました。

これは、私生活でも入院歴のあるウィノナ・ライダーが精神病棟で暮らす女の子たちを描いた実話をプロディースし、自らパーソナリティ障害の役を演じています。

病棟のボス的な患者を演じるアンジェリーナ・ジョリーも、自身が10代はウツを発症し、リストカットや自殺の常習者だったとか。なので、実際に心の闇の苦しさや恐ろしさを知る二人の共演とあって、演技といい、ストーリーといい、溢れ出してくるリアルさがあります。

こどもの頃の痛みが激しいスザンナ(ウィノナ・ライダー)は、日常のちょっとしたことがきっかけですぐに過去のフラッシュバックが起こり、その当時の自分に戻ってしまうのです。今という時間の感覚がなくなり、すっぽりとつらかった過去の中にとりこまれてしまうことの繰り返し。

彼女は「今、ここ」という現実に住んでいるのではなく、まさに心の中の住人。思うような愛情を得られなかった過去の自分に戻って、激しい痛みを感じながらも、まだその愛情をさがし求めているのです。しかし、いくら過去の痛みに戻っても、欲しいものが得られるはずもなく、彼女の心はそこに縛りつけられたまま。得られなかったものを悲しみ続けています。

心が過去をさまよっていると、まるで「もぬけのカラ」が生きているように見えます。

しかし、この心が過去をさまよってしまったり、「もぬけのカラ」になってしまうのは、精神障害を患っているからというわけではありません。

実際、「精神障害」を患っているか、「正常」かの見分けも難しいもの。このスザンナの場合も、睡眠薬の多量摂取を心配した両親によって病棟に送り込まれたのでした。ここからが異常という線引きはとても難しく、また人間の精神状態は1日のうちでも大きな波があることがあります。

ほんとうのところ、わたしたちもスザンナのような生き方を、無意識的にしているときがあります。それは、いつも過去のストーリーにとらわれていて、身体はここにあるけれど、心はいつも過去の出来事を反芻しているのです。リアルな現実を生きるよりも、いつも過去を思い出してはそこにとどまって、ひたりきってしまうという・・・心が過去にお出かけしてしまっている人。

わたしたちは注意していないと、じつはやすやすと「今、ここ」にいなくなっているのです。そして、「今、ここ」にいないときには、いつだってとっても不安で、苦しくて、悲しいのです。

いくら過去を訪れて、反芻して、そこをさまよっても、何も変わらないし、何も得られないのです。

何か変化を起こせるとしたら・・・それは「今、ここ」でしかないし、リアルに愛情を感じられるのも「今、ここ」以外にありません。

ウィノナ・ライダーはほんとうに繊細で透明感のある演技。それに対してアンジェリーナ・ジョリーはすごい存在感。ウィノナ・ライダーの静かな世界と、アンジーの大迫力が対照的です。

アンジーは、完全に主役を食っちゃってます(彼女はこれでアカデミー賞とってるのですよね)。そして、23歳にして迫力のぽってりくちびる。このくちびる、やっぱりホンモノだった!?

13-09-11 それでも赤いマントは手放せない、進化したスーパーマン

その昔、「Super」という単語は、ホントに Super で「ありえなくスゴイ」ことを表わしていたのでしょうね。しかし、このご時勢、 「Wow, super!」って言ったら、「ちょっとイイネ!」ぐらいになってしまいました。

なので、「スーパーマン」のありがたみ(?)、ガタ落ち・・・。

「なんで今、スーパーマンなの?」という気持ちはいなめません。それに、あのコバルトブルーのタイツに赤パンに赤マントって、お子ちゃまのヒーローだったら許せるけど、今やとても強そうには見えません。そんな姿で敵の前に立ったら、笑いとばされそうな・・・(汗)。

なるほど〜、だからタイトルは「スーパーマン」じゃなくって、「マン・オブ・スティール」なのね。

冒頭は、「ん?これってスーパーマン?スターウォーズの間違いじゃ?」と思うほどSF満載。

ここまで進化した話なのに、なお、青タイツ?胸には「S」マーク?・・・といぶかっていたら、青タイツの素材は綿ジャージではなく(以前、本当に綿ジャージだったかは不明・・・)、スパイダーマンと同じようなタイトでダークなメッシュのスーツにバージョンアップ。そして、ちょっと滑稽にもなりかねない「S」マークは、決して「Super」の「S」ではなく、スーパーマンの故郷、クリプトン星で「希望」を表わすマークになっておりましたよ。(でも、いくら進化してもマントの着用は必須なのか??)

それにしても、アバターやスパイダーマンから3Dはどんどん進化して、音といい、スピードといい、とてつもないことになっています。バトルシーンなんて、投げ飛ばしたらビルの5~6個は平気で破壊されているし。そんな超人的な戦いをしててまったくの不死身なのに、最後はなぜ首を閉められただけであっけなく死んじゃう、という不思議・・・。(あ、スーパーマンじゃなくって、悪役がね!)

というわけで、一緒に観たSちゃんと、またまたゴハンを食べながら、ゲラゲラと大つっこみ大会は尽きません。かなり、つっこみがいがありました。

なので、あまりストーリーはこだわらず、進化した特撮を楽しむエンターテイメントと思えば、かなりスッキリ感が味わえるかもしれません。

13-09-27 そして “ようやく” 父になる

息子の取り違えが発覚。その子は六歳・・・。まだ、六歳・・・、もう、六歳・・・だから、よかったのか、悪かったのか・・・。

先日、カンヌで受賞した「そして父になる」を観てきました。本編上映前にカンヌでの是枝監督と福山さんたちの様子が流されて、このスタンディングオベーションをみているだけでうるうるきちゃいました。

ベビーブームに多発し、世の中を騒がせた赤ちゃん取り違え事件。そんなこともあってか、わたしの母はわたしが小さい頃「取り違えてないから大丈夫よ!」と言ったことがありました。(それ以前に、わたしは父似なので疑惑の余地なしです・笑)

しかしこの事件、「前例では100%、交換の選択肢を選ぶ」・・・って本当でしょうか?赤ちゃんならまだしも・・・・、六歳のこどもにしてみたら、親とは自分の全宇宙、神様のような存在。そして自分が育った環境、習慣、考え方こそ、自分のアイデンティティを支えるすべてです。それを大人の都合で、突然何もかも変えられたら・・・。

このストーリーの中では、親の気持ちだけで、こどもに対して説明するどころか、気持ちを聞くことすらしていないのです。まだ六歳だから・・・?六歳のこどもだって、ちゃんと自分の気持ちがあるし、理解だってできるはず。(こんなふうに、“まだこどもだから”という意識こそが、こどもの心を傷つける最大のポイントだと感じます。)

十月十日、自分の一部としてお腹の中でこどもをはぐくみ、苦しい思いをして出産し、四六時中ミルクをあげ面倒をみるという、こどもとまさに一心同体の時期を長くすごくてきた女性はそのプロセスを通して自然と「母」の実感を身体全体で感じるのだろうけれど、男性、とくにこの福山さん演じる仕事一途のエリートサラリーマンはこどもが生まれたからといっても、まるで手のかかるペットかなにかが増えただけで、まだまだ自分中心で父親にはなりきれていないのだと感じます。

このゴタゴタがあって、こどもと真剣に向き合わざるをえなくなってはじめて、この福山さん演じる男性は“ようやく、やっと父になる”のでした。

劇中に流れていたブルグミュラーのなつかしい音色。そうそう、六歳ぐらいで弾いていたピアノ練習曲です。この音色とともに自分も六歳のこどもの心になって、画面を見つめていたのでした。

ハンカチ必携。涙壷度:★★☆☆☆(じわじわ、はらはら、静かな涙でした)

14-01-23 ゼロ・グラビティ 〜 ホンロウされる私たち

宇宙空間でホンロウされている・・・宇宙船でパニックになっている・・・91分間、そんなサンドラ・ブロックだけを見ることになります。たま〜に、ちょっとだけノーテンキなジョージ・クルーニー登場。

これは宇宙空間に投げ出された宇宙飛行士の女性(S・ブロック)が、たった一人で生還を試みる物語。

無重力に翻弄される姿こそ、この現実にホンロウされてコントロールしようともがく私たちの姿そのものである、と監督。なるほど・・・。

印象的だった場面は、宇宙船の中でたったひとり恐怖にうちひしがれているサンドラに、ジョージ・クルーニーの幻想が現れて言葉をかけるところ。

そのセリフじたいは忘れてしまいましたが、伝えていたのはこんなことでした。「きみはいつも過去の罪悪感や怖れにとどまって、心を閉ざしている。今にいないんだ。もっとリラックスして、心を開いて、ここにいるんだ。今できることをするんだ」というようなこと。そう、彼女は幼い娘を失った悲しみと罪悪感の中にいつもとどまっていたのです。

ここでがっつり、彼女のなかの「生きるモード」のギアが入ります。心が開くとそこに叡智がやってくるわけです。

私たちも「怖れ」にとりつかれると、その怖さのあまり心を閉ざしてしまいます。すると、その怖れがどんどん大きくなって、まるで漆黒の無限の闇、宇宙空間のなかに投げ出されたような孤独や無力さ、見捨てられたような気持ちになってしまう。でも、「怖れ」の幻想のなかではなく、心を開いて意識を「今、ここ」におくことによって、ちゃんと助けがやってきているのに気づきます。「大丈夫な自分」といつもしっかりとつながっていること、愛にささえられていることを感じはじめて、さしのべられている助けの手をしっかりとつかめるようになるのです・・・そんなメッセージを感じました。

PS てっきり、無重力空間をつくって撮影したのかと思ったら、なんと人をワイヤでつり下げてカメラを回しながら撮ったとか。完璧に無重力、宇宙空間に見えます。・・・まるで、私たちの意識が創りだした人間ワールドのセットのようにパーフェクト、まさにホンモノに見えました。

14-04-30 ♪ Let it go~ ♪ 観てきました

ディズニー映画「アナと雪の女王」、すごく盛り上がっていますね。わたしもようやく観ました〜!

もはやアニメともいえない超リアルな映像、プラス 3D ときています。(そうですよね〜、途方もない時間とお金が注がれているそうな・・・。)3D の出はじめは「飛び出し度」が不自然で気分の悪い人続出だったとか。今は 3D であるのも忘れそうです。

こんな美しいディズニーものを見て育つ今のお子ちゃまがうらやましい!想像力、バクハツですよね。

ところで、雪の女王ことエルサは魔法が使えるのですが、その魔法の威力ゆえに心を閉ざしてしまいます。

じつは、わたしたちもこのエルサと同じぐらいの魔法使い。何もない空間から、すさまじい「心のパワー」を使って、日々経験を創りだしています。(ホントは何もない空間ではなく・・・すべてが存在している空間を自分のパワーで圧縮しているといっていいでしょうね。)

「心のパワー」で日々、あれこれ創造しているわけですが、自分が創りだすものとの間にタイムラグがあるので、まさか自分が全部創りだしているとは夢にも思っていません。(でも、つぶさに調べたら「あっら〜、私のパワーって・・・恐れ入りました!」と感じるはず。)

エルサは心が傷ついて自己否定をしてしまってから、そのパワーはネガティブな現れ方しかしなくなってしまいます。「悲しみ」や「怖れ」の表現でしかなくなったのです。これはわたしたちも同じで、いつも未来への心配にとりつかれているので、結局「心配ごと」ばかりばんばん創りだし続けて止まりません。まさか自分が全部創りだしているとさえ気づかず・・・。せっかくのクリエイションパワーの魔法は、すっかり自分の足をすくうものとなってしまっています。

でも、「ありのままの自分が悪いんじゃない」、ただ「パワーの方向性が問題なんだ」「怖れにパワーを使わせるのか、愛や喜びにパワーを使わせるのか」。エルサもそれに気づいたときに解放されます。

「何かが間違っている」と思ったとたんにどんどんネガティブな循環にはまってしまうけれど、この映画のキーワードでもある「ありのまま」の自分でいることに誇りを持つことができると、自分をそして自分のパワーを解放することになります。ハッピーなクリエイションへと「心のパワー」を使うことができます。

このストーリーは、わたしたちが無意識に使っている自分の心のパワーというものに改めに気づかせてくれるものでした。

PS ディズニー映画に出てくる男の子って、毎回なんか同じに見えちゃう。心は優しいんだけど、どっかあか抜けない(?)感じ。「こういう子、いるいる!」と共感をよぶのでしょうか?

14-08-03 魂のうた声 “「ザ・テノール 」

艶やかで、ふくよかで、聴いているだけでこちらの心がどこまでも広がっていくような歌声・・・アジア史上最高のテノールといわれたオペラ歌手、ベー・チェチョルさん。

この映画は、天才とうたわれキャリアを着実に築きつつあったチェチョルさんが、甲状腺ガンで声を失い、絶望のどん底から奇跡的に復活をとげる実話をもとにした物語、試写会で拝見してきました。

まず冒頭で流れる彼の歌声がほんとうに素晴らしい!

でも今回、彼の魂は天性の歌声や磨き上げた技術にあきたらず、もっとたかみを目指すチャレンジを心に決めてきたのです。それは、あらゆる感情・・・挫折、絶望、どん底の苦しみ、怒り、自暴自棄、悲しみ・・・希望、愛、感謝、信頼、喜び・・・を自分の魂に刻み深く込み、そこから溢れ出てくるすべてを歌として表現すること。

そして彼の魂が決めた今回の人生の筋書きは、すべての感情を一気に深く経験するために、まさに自分の「宝」である天性の声を一度失うということだったのです。

でもそれだけのチャレンジを決めてきてくるとき、ちゃんとそれを越えられるだけの応援団も用意してきているのです。

彼の場合は、どこまでも再起を信じてやまず、背中を押し続けてくれる音楽プロデューサーの存在であり、また再起不能といわれた彼の声帯を調整することができる技術をもったお医者さんの存在。(お二人とも、試写の会場にいらしていました。)

わたしたちの人生には、ときとしてとても越えられないように思える壁がたちはだかります。それは外からやってきたように見えたとしても、じつは自分の魂がたかみを目指して設定してきたハードル。そして、もちろんそれを越えるための手段もちゃんと用意してきているのです。その助けは自分の中にある・・・というよりも、たいてい外からてやってくる、そんな自分の守護天使さんたちを自分のまわりに用意しているのです。でもそれに気づくには、自分がちゃんと心を開いて、周りからの助けを受け入れる必要があります。

復帰したチョチェルさんの声は以前とはもちろん同じではないと思うのですが、きっと聴く人の魂の奥深くにしみこんで、彼がこの困難きわまる道のりで手にしてきた彼の魂の光をぞんぶんに伝えてくれるのだと思います。

試写はオペラを歌う友人とご一緒しました。プロの歌い手さんにはかなり辛口の彼女ですが、その歌声にとっても感動していました。10月に行われる東京での演奏会に行ってみるそうです。

テノールの響きも堪能できますが、映画として画面も美しいです(チェチョルさん役の俳優さん、ユ・ジテさんがとってもステキです)。また、このストーリーを見ることで、きっと自分自身の天使さんたちの存在にも気づくことができるようになるかもしれません。

「ザ・テノール 真実の物語」予告はこちら

14-09-21 やっと観られたチョコレートドーナツ

ヒプノセラピスト、古川貴子のブログ

この夏、観のがしてしまった映画「チョコレートドーナツ」。そろそろDVDで並ぶ頃かな?と思っていたら、まだ銀座でやっていました!ラッキー♪

麻薬中毒の母親に見捨られたダウン症の男の子を、隣の部屋に住んでいたゲイのショーダンサー、ルディがパートナーとともに育てはじめます。

その男の子は二人の溢れるほどのの愛情を受けて、めきめき変わっていくのですが・・・。

まだゲイという存在に対しておそろしく偏見のあった '79当時のこと。母親が服役している障害のあるこどもをひきとって、まるで我が子のように育てるという、ふつうだったら賞賛される行為が、ふたりが「ゲイカップル」であったがために、彼らの日常に好奇の目が注がれ、男の子をとりあげるばかりか、彼らの愛情や厚意はずたずたにふみにじられていくのです。

このルディ役の俳優さん、アラン・カミングがなんともいえずいいです。きれいにお化粧してドレスを着ているわけではなく、ふだんはボサボサ頭に無精髭、それにヨレヨレのタンクトップにお身体もちょっとたぷたぷ気味。なのに、とっても魅力的。彼はなんという眼ざしで愛するものを見つめるのでしょう。

わたしたちの眼ざしには、無意識ながらもいろいろな不純物がまじりがち。相手に対する価値判断や値踏みのような・・・。でもこのルディ(アラン)の眼ざしは、そんなジャッジするところがなくって、愛情というよりも慈愛にあふれているのです。

このルディ役からあふれでる尋常ではない愛情のオーラは、きっとアランさんの持ちまえのものなのでしょうね。哀しみやら痛みやら・・・彼がのりこえてきたであろういろいろな感情が愛に変わっているような・・・。彼のあたたかなキャラクラーなしでは、この映画はここまで深くならなかっただろうな〜。

ところで、わたしのいちばんお気に入りの映画は、じつはみんなゲイの男の人の人生を描いたもの。「トーチソング・トリロジー」や「トランスアメリカ」、「苺とチョコレート」そして、この「チョコレートドーナツ」もお気に入りの一本にくわわりました。

涙壷度:★★★★☆ (ルディがかわいすぎる♡ 泣かされます・・・)

PS, チョコレートドーナツ、むしょうに食べたい・・・。

 

 

14-10-29 寒くなると観たくなる「ラブ・アクチュアリー」

ヒプノセラピスト、古川貴子のブログ

もう10年ぐらい前に試写で観た作品で、ときどきDVDが観たくなります。

11月のロンドン、クリスマスにむかって9つのさまざまな愛の物語が展開します。

小学生の片思いにはじまり、親友の新妻への秘めた想いやら、上司と秘書、そしてその妻との三角関係、ずっとお互いの気持ちに気づきつつもすれ違いの二人、 などなど。

クリスマスは、家族や恋人、愛する人たちと過ごす特別な日。西洋の人たちにとっては、バレンタインよりももっと愛を表現する日として意味があるのだと思います。

その日に向かって、それぞれが自分の気持ちに正直であろうと勇気をふるいたたせて行動を起こします。そしてその様子のはしばしに、かつての自分が感じたことがある、ためらいや不器用さ、じれったさ、切なさや悲しさ、そして舞いあがるほどの嬉しさなど、もう忘れてしまっていた感情を重ねあわせることができるのです。「あ〜、わかるな〜、その気持ち」って。

LOVE ACTUALLY is all around ......実際、世界は愛でいっぱい、そしてまさに愛で動いている、と実感できる作品です。

観ていて、イギリス訛りの英語は、こんな思いまどう心にぴったりだな〜と思ったりしました。これがアメリカ英語(or アメリカ人)だったら、もっとあっけらかんとしそうな・・・イギリスが舞台だからこそ、より説得力があるストーリーかもしれません。

監督リチャード・カーティスさんは、あの「ノッティングヒルの恋人」や「ブリジット・ジョーンズの日記」などを手がけていて、ラブストーリーの名手ですね。この作品の中にローワン・アトキンソンが出てくるので「 ?  」と思ったら、なんとMR. ビーンもこの監督さんだったのですね!

涙壷度:★★☆☆☆(いろんなところで泣かされましたが、どの関係のどんな場面で涙したくなるのか ・・・きっとそれぞれが違うのだろうと思います。)

 

14-12-30 今年最後の一本 「アバウト・タイム』

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人はいいけど、イマイチさえない男の子のティムくんが主人公。ある日、父親から過去限定のタイムトラベルの方法を教わります。

そしてついにやってきたはじめての恋愛のチャンス。「これはあかん!」と思ったらすぐに過去にさかのぼってやりなおし、まさにトライ アンド エラーの連続でなんとか恋を実らせます。でも、安易に過去を変えてしまう習慣から、現在に戻ってみると自分の愛娘がいきなり男の子になっているなんていう仰天ハプニングも・・・。

当初のダメ男くん満載の雰囲気から、タイムトラベルとともに成長を続け、自信をつけ ・・・ついにはタイムトラベルの回数もへり、自分の手のなかにある時間の大切さ、愛おしさに気づいていきます。

見ていてとっても心があったかくなる一本。これはわたしの大好きな「ラブ・アクチュアリー」の監督、リチャード・カーティス氏の引退作です。

氏の作品はどれも人気があるのですが、やはりよい作品は膨大な時間と労力があってこそ。まさにこの映画に描かれている「なにげない日常を愛おしむ」思いこそ、この監督が人生の中でいちばん大切にしたいと感じたものだったようです。そのかけがえのない愛おしい時間のために引退されるとか。

スペシャルなことが起らなくっても愛するひとたちと過ごす人生のひとこまの大切さ、愛おしさを思い出させてくれる映画です ♡♡

この映画を観て、ずいぶん前の映画「バタフライ・エフェクト」を思い出しました。

これもやっぱりタイムトラベルできちゃう男の子の話で、古い日記を読み返しているとその場面に戻ってしまうのです。で、あちこちの場面を書き換えていくうちに、ものすごく成功してるけど鼻持ちならない男性になってる人生や、あるいは最低最悪で刑務所にまで入っちゃう人生などなど。まさに、あちらを立てればこちらが立たずのいろんなバージョンの人生を体験するのです。

この映画を観ると、「やっぱり今の人生こそ、自分にとって身の丈ちょうどいい人生、ベストなんだな〜」とあらためて感るのでした。

 

15-02-05 こころ暖まるおばあちゃんムービー

ヒプノセラピスト、古川貴子のブログ

寒いとお出かけするより、おうちでDVD が多くなります。

立て続けに観た三本は、はからずもお年寄りもの、おばあちゃん大活躍ムービーでした。

あなたを抱きしめる日まで
これは10代で未婚の母となり、不本意に息子を手放した女性(ジュディ・デンチ)が老年になって、ひと目息子に会いたいと海外まで息子を探す旅にでる・・・という実話をもとにした話。息子ははたして幸せな人生を送っているのか、自分のことをどう聞かされているのか・・・。50年間の空白を埋めようと、さまざまな思いにゆれながら旅を続けるのですが、息子は・・・。

マリーゴールド・ホテルで会いましょう
こちらは、それぞれ訳ありのご老人たち(ジュディ・デンチ、マギー・スミス)が新しい人生を求めて、全財産をはたいてインドにある高級老人ホーム、マリーゴールドホテルをめざす話。安泰な老後を夢見たはずが・・・じつは、そのホテルは限りなくボロだった・・・いまや財産もなく、埃まみれのインドの喧噪の中でご老人たち、さあどう生きる?!

カルテット!人生のオペラハウス
引退した音楽家たちが暮らす老人ホーム。そこへやってくるかつてのプリマドンナ(マギー・スミス)。しかし気まずくなって別れたかつての夫も、そこの住人。ホーム存続をかけたチャリティコンサートで、カルテットとしてともに舞台に立たねばならない二人なのですが・・・。(素晴らしい音楽もたっぷりと楽しめます。)

どうやらわたしは、イギリスの女優さん、それもご年配が好きみたい。

三本ともシュディ・デンチとマギー・スミスです。お二人とももうかなりお年ですが、なんてチャーミングなのでしょう。凛とした強さのなかにも、もろさや悲しさを秘めていて、また少女のような可愛らしさや純粋さも感じられます。二人ともかわい〜♡と見とれました(おばあちゃんフェチ)。

お二人ともイギリスの女優さんですが、すごいのは眉毛の一ミリぐらいの動きですべての感情を語ってしまうようなところ。そして、ただ黙って立っているだけでもさまざまな感情があふれています。さすがアカデミー賞女優さん!

わたしはテレビのドラマはほとんど観ないのですが、ひとつだけ例外があって、それは今 NHK で放送されている「ダウントン・アビー」。

イギリスの貴族の館で繰り広げられるドラマ。貴族の一家、執事、従者、メイド、後継者・・・この館にかかわる人だけで、人生のありとあらゆる人間模様、ありったけの心理状態が描きだされていて、「毎週、まあよくもこれだけ次から次へと・・・」と関心してしまいます。

このドラマにも、この館のおばあちゃん役バイオレットとしてマギー・スミスが出ています。当時のドレスがなんともよく似合っていて、立ち居ふるまいも気品があって貴族そのもの。見とれてしまいます。

おばあちゃんウォッチングだけでなく、この貴族の館の三姉妹がまとっているドレスが毎回なんとも素晴らしい。ロセッティやミレイの絵画にでてくる女性、そのもの。お屋敷の調度もビクトリア調の雰囲気が楽しめて、もっか楽しみなドラマです♪

 

15-03-03 めずらしく邦画、「桐島、部活やめるってよ」

ヒプノセラピスト、古川貴子のブログ

めったに観ない邦画です。

タイトルの不思議さから選んじゃったDVD、「桐島、部活やめるってよ」。

バレー部のエースであり、成績優秀、学校いちのスター、桐島くんが部活をやめるらしいって・・・そこからストーリーが始まります。

なんの予備知識もなく観たのですが ・・・ふつうに学園ものだと思って観るとモヤモヤします(笑)。なぜなら、最後の最後まで、「桐島、部活やめるってよ」のままだから。(なに言っているかわかりませんね。笑)

消化不良感がのこる人はたぶん、最後まで「桐島くん」にふりまわされる人。「おい!桐島、どうしたって?!」って。

わたしの場合はそっちよりも・・・「高校生って、こんなに面倒だったかな〜? 」っていうこと。

「今どきの」高校生独特のむずかしさなのか、それとも「共学特有」のめんどくささなのか? ・・・ 高校時代がウン十年前で、さらにオヤジ女子の温床、女子校育ちのわたしにはわかりかねますわ。

そういえば、最近、15~16才のクライエントさんが目白おし状態。(ふだんは、30代から50代前半がいちばん多いのですが。)

この「桐島・・・」は高校生の日常の会話のやりとりがセリフというよりもリアルさ、今どき感があるのですが、もし日々こんなやりとりしてるんだったら、さぞ疲れるだろうな〜と感じましたよ。(こりゃ、セラピー必要になるわ。)

ちょっとモヤモヤ感の残る一作でしたが、いにしえとなった高校時代の日々を理解するうえではよかったかも。お仕事には大いに役立ちました。

次はなんかスッキリ完結するものが観た〜い!

15-08-15 ピクサーさん、エライね! インサイド・ヘッド

ヒプノセラピスト、古川貴子のブログ

いや〜、ピクサーさんはエライです。

こんなセラピスト好みのようなトピックを、堂々とこども向けアニメにしちゃってるんですから。それもけっこう、手加減なしです。

人の頭の中、感情がどうなっているか? なんて、そんな哲学的なテーマ、休日のとっておきの一本としてあまり見たいとは思いませんよね。でも、アニメにしちゃったからこそ、そしてピクサーならではのカラフルさとオチャメさがあるからこそ、立派なエンターテイメントになっているのだと思います。

潜在意識やら、抽象と具象、1次元、2次元、3次元・・・こんな言葉をならべられても、こどもはさっぱり・・・? でしょうに。もし日本でこの映画を作っていたら、きっとモロにおこちゃま向けになっていたかもしれません。こどもが見て、こどもがちゃんと理解できるようにって、やさし〜く、わかりやす〜く、そしてつまらな〜く、なっちゃっていたかも。

この「インサイド・ヘッド」は手加減なし、むしろ大人が、それも心理を扱うものが「そうそう、そうなのよ〜」と共感できるのですが、でもこのキュートなキャラクターやらめちゃくちゃカラフルな色やら設定のおもしろさから、言葉ではなく感覚から入っていけるので、こんなテーマであっても、こどもにもおとなにもウケるのかもしれません。

劇場はこども1、おとな2ぐらいの割合でした。

頭のなかでは、まさにここに登場するキャラクターたち、Joy(喜び)、Sadness(悲しみ)、Anger(怒り)、Disgust(ムカつき)、Fear(ビビリ)がせめぎあっているわけです。

セラピストのお仕事としては、このキャラクターたちがそれぞれ自分流のやり方で、その人を守ったり幸せにしようとすることで生みだされる混乱や葛藤を整理整頓していきます。それぞれのキャラクターには悪気はなく、ただご本人を幸せにしたいだけなのですよね。

たとえば、Angerは攻撃によって守ろうとするかもしれないし、Fearは引きこもりこそ最善策と考えるかもしれません。指揮官がいなくって、それぞれが勝手な幸せへの道へと驀進し、とりとめがなくなっているのを、セラピーではとりまとめてひとつの方向性を見つけていくわけです。

それにしてもこの映画、意外にも泣けるのです!(涙壷度・・・★★★☆☆)

誰もが感じたこども時代のこころの揺れを再体験できちゃう。

この主人公のライリーが成長していく日々は、観る人それぞれにあてはまり、「そうそうあのときAngerが出てきて、わたしのなかの大切な家族の思い出の島が崩壊したときがあったな〜」とか、「わたしもあの出来事でFearのいいなりになって、自分のなかの信頼の島を無くしたな〜」なんて、自分のことを顧みる機会になったりします。

これを観たこどもは、自分がいろいろな感情を感じる場面にであったときに、きっと以前よりも冷静になれるのではないかと思うのです。

最近見たDVDに「6才のボクが、大人になるまで。」という映画がありました。

6才の男の子が18才になるまでの、こころの成長と家族との葛藤を描いた作品。なんと同じ男の子が6才から18才までを演じているので、とってもリアル。(両親、おばあちゃん、兄弟たちもみんな12年間、同じ人です。)

「インサイド・ヘッド」でもライリーという女の子がいろいろなことを体験しながら、様々な感情に直面してく様子を描いているけれど、こちらもそれに通じるものがあります。

人生って平坦にうまくいくことが成功だと考えられがちですが、こうやって長い目でみると、ひとつひとつの体験がその人の色を染めあげていくのがよくわかります。

自分をもっと理解したい方、そしてこどもの成長が気がかりなお父さん、お母さんにもオススメの二本です。

 

15-08-25 わたしに会うまでの1600キロ

ヒプノセラピスト、古川貴子のブログ

試写会に行ってきました〜♪

歩く歩く・・・女の子がたったひとりで、1600キロの道のりを三ヶ月も。砂漠をつっきり、雪をかきわけ、森にわけいり・・・ カリフォルニアからオレゴンのはずれまで。山歩きの経験すらないのに。

これはベストセラーになったノンフィクションの映画化。

この彼女は、いったいどうしたというのしょう?

日々の生活で直面するさまざまな悲しみや痛み、不条理を、なんとか飲みこむようにやりすごし ・・・けれど「わたしのすべて」であった最愛の母の死にいたって、ついに制御不能に。こみあげてくる悲しみや孤独感をを麻薬やゆきづりの関係でうめようとするものの、お腹のこどもの父親すらわからない状態までに・・・。

そんな自分をどうにかするには、こんなみそぎしかない・・・それは過酷なコース、1600キロを歩きづつけること。

たった一人でもくもくと歩く日々。抑圧してきたいろいろな場面が走馬灯のようによみがえり、その痛みをひとつひとつ手のひらにのせるようにこころのなかで追体験していきます。まさに浄化、癒しのプロセスそのもの。

わたしたちはだれもがさまざまな悲しみ、痛み、折りあいのつかない気持ちをどこかに抱えつつも、それに気づいてしまったら大変! とばかりに、知らないフリを決めこみます。「そんなツライことはなかったのだ!」「わたしは大丈夫!」と。でも、平気なんかじゃないのです。・・・で、あるとき、もうどうにもそのすべてを押さえきれなくなってしまう日がやってきます。

見たくないものばかり放りこんできた押し入れがパンパンになって、ふすまがついには吹っ飛び、今まで見ないフリをしていた醜いものたちがせきを切ったように部屋全体にぶちまけられるような。そしてそれを目の当たりにして、アゼンとする自分。

そんなとき、セラピーに行く人もいれば、また再びおなじ押し入れに詰めこもうとする人もいます。

彼女はまるで「行」をおこなうように歩いたのです。

この映画を見ながら、スクリーンのなかの過酷な道を彼女と一緒に歩くことで、少しは自分のこころのみそぎになるかもしれません。

主演のリース・ウィザースプーンって、キュートでオシャレなイメージの役が多かったけど(シャネルスーツにチワワをつれたバーバードビジネススクール生なんていうのもありましたっけ)、今回はノーメークで過酷な自然をサバイバルします。

邦画の女優さんたちはこんなシチュエーションであろうとも、ご自分の美しさのほうを優先されてばっちりと美しく画面におさまっていたりします。リアル感よりも、女優さんとしての見た目のほうが大切? その点、ハリウッドの女優さんはけっこう容赦なくボロボロです。

そのむかし、シャーリーズ・セロンの「モンスター」という映画があったけど、すごい役作りでした。あの美しい方がデブデブぶよぶよ、おそろしく人相が悪い。こんなになって大丈夫なの?というぐらい迫力ありましたっけ。スゴイね。

PS 「わたしに会うまでの1600キロ」は、8/28から公開されるようです。

 

15-09-27 これはホラーか?!ジュラシック・ワールド

ヒプノセラピスト、古川貴子のブログ

もう20年以上前になるのですね。あの「ジュラシック・パーク」が公開されてから。

「観に行こう!」と誘われたとき、えらく抵抗しました。・・・だって、恐竜なんて映画で観てもおもしろくなさそうだったから。ゴジラのほうがよっぽどスター性がありそうな。

ところがどっこい!(笑)

予想外にコワかった! すごくコワかった! ドキドキしっぱなしだった〜。 恐竜ごときがあんなに俊敏で(高速!)、あんなに獰猛で、あんなに残酷だなんて・・・ショックを受けましたよ。エイリアン級じゃありませんか?!

あれからずいぶん経ちましたが、さて「ジュラシック・ワールド」とはどのように進化したのでしょうか?

観て思ったのは ・・・これ、ホラー?!

どこから、いつ、どんなふうに、獰猛で容赦のない恐竜が飛びだしてくるのか、いつ食われちゃうのか ・・・なんだか筋書きもへったくれもありません。とにかく、逃げる、逃げる、サバイバル オンリー。さもなければ捕食される。

恐竜は巨大化してて、ハイブリッドで知的、さらに残酷に進化しておりましたよ(汗)。

3D なので椅子は動かないはずなのですが、なぜかグラっとくる。まるで4D ばりではありませんか。なぜか? ・・・それは椅子が横並びなので、みんながいっせいにのけぞると椅子がいっきに傾くせい。(六本木ヒルズさん、しっかりしてくださ〜い!けど、4D 終わってしまって残念だったのでよかった? )

あまりにもつぎつぎ捕食場面(もちろん人間がエサ)を見すぎたせいで、映画のあとのお夕食は肉料理でなくてよかったわ〜、ホッ!(しかし、パスタに入っていたチキンのピースがどうも気になって、いまひとつパスタはすすまず・・・。)

そして、ゴハンを食べながら大ツッコミ大会。

おもしろいもので、映画のなかで違和感を感じていた場面がほぼ一致。

たとえば、命からがらに恐竜からのがれて、まだ完全に逃げきっていないのに、なぜあそこであんなに陽気に笑いあえるのか? そんな場合じゃないでしょ? さっさと逃げようよ! とか。ほとんど捕食されそうなギリギリで逃げているのに、ハイヒールであのアスリートなみのみごとな走りはどうしたことか? 恐竜がそこに迫っていたら、もっとボロボロの腰砕けになるでしょうに・・・。

だって、これですよ、これ! →

こんな形相の巨大な恐竜が背後まで猛スピードで迫っているのですよ〜!(汗)ただごとではありません。

というように、恐竜のCGに力をいれすぎた(?)ために、人の感情表現やら反応はちょっとアレレという感じでリアルさに欠けていたようなところも。

そしてエンディングで、ジュラシックワールドにはまだ大ものの恐竜が元気に生き残っているのですよね。ということは、次回はN.Y. にでも上陸しちゃってくれるのでしょうか??  どんなにパワーアップするのだろうと次回作を楽しみにしています。

 

15-12-02 いまやシニア!デ・ニーロさん

ヒプノセラピスト古川貴子のブログ

この時期、美しい紅葉やクリスマスの華やかさに彩られた N.Y. を舞台に胸がキュンとなるラブロマンスが定番のはずでしたが、最近はめっきりお目にかかれなくなりました。

今どきの若者は、賢くも恋愛の不毛なカラクリに気づいてしまい(笑)、「自分のこころの穴は自分で埋めよ!」と完全なる自給自足で満足をえることを悟ってしまったのでしょうか?・・・ あるいは、たんなるものぐさ?? (^。^;

さて、そんなわけで、この季節にアン・ハサウェイというラブロマンスにぴったりのヒロインを迎えながらも、これは(「マイ・インターン」)、まったくラブストーリーではありません。(いえ、ある意味じゃ、普遍的な愛、友情のお話しですが。)

N.Y.のアパレル会社の若き創業者であるアンが、70歳のロバート・デ・ニーロを高齢者雇用のインターンとして受け入れます。1秒たりともムダにしないような猛烈CEOのアンは、ロバートのペースにイラつきっぱなし。追い出そうとさえするのですが ・・・。

デ・ニーロもついにおじいちゃん役です。そういえば、あのギア様でさえも、新作の「マリーゴールド・ホテル」にデビューしていますね。(「マリーゴールド・ホテル
とは、わけありシニアたちが終の住処をもとめて移住したインドのホテルなのですが、どうにもならないほどオンボロだったのです。 ・・・どうやら、そこにギア様までもが移住、参戦?!来年春に公開されます。あの「プリティ・ウーマン」で、まさに白馬の王子様を演じたギア様もそんなおトシかと思うと感慨深いものがあります。)

この「マイ・インターン」では、結局はデ・ニーロさんが発する独特の雰囲気が癒しにつながっていき、アンが大切なものを失いそうだったところで救われるのですが・・・。

まさに、一億総活躍社会は世界的な動きです。たしかにシニアは、現役バリバリな頃と同じ働きができないのはいうまでもありません。でも、そんなことはまったく大切なすべてではないということ。その存在のなかにある歴史や経験、智恵は、お勉強して身につくものではありません。

ときどき思います。政治家の半分を小中高生というティーンと現役をとっくに退いているおじいちゃん、おあばあちゃんたちにしてみたらどう?って。ぜんぜん違う発想や方向性が生まれそうです。さまざまな物語のなかでも、大切なカギを握るのはいつも純粋なこどもと賢者としての老人なのですよね。(一作目の「ベスト・キッド」は老人とこどものコンビですね。)

「マイ・インターン」にしろ「マリーゴールド・ホテル」にしろ、歳をかさねてゆくことでえられる「解放感」がうれしく感じられます。

 

16-01-08 ハッピーエンドの選び方

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ハッピーエンドの選び方」・・・なんていうタイトルを聞くと、おしゃれな街でくりひろげられるラブコメディかと思っちゃいますが、N.Y. もでてこなければ、恋人たちも見あたりません。でてくるのは、おじいちゃん、おばあちゃんのみ。それもかなり高齢の。

舞台は老人ホームで、そこで描かれるのは、なんと安楽死。つまり、自分の人生の最後をどう選ぶのか・・・というお話なのです。

発明好きのおじいちゃん、ヨヘスケルは神様からかかってくる電話機とか、薬の飲み忘れ防止マシンなど、ホームのみんなのためにいろんな器具を手作りしているのですが、末期の病と延命治療に苦しむ友人からのたっての願いで安楽死マシンを作りあげるのです。それはみんなにお別れをしてから、自分でボタンを押して旅立っていくというもの。

罪悪感にさいなまれながらも、友人とその家族のために安楽死マシンを秘密裏に使用するのですが・・・どこからかそのウワサを漏れ聞いたお年寄りから、使用の依頼が次々と。なんと、ついには最愛の妻までもが使いたいと言いだし・・・。

苦しむものを逝かせるのか、それとも自分の安らぎのために引きとめるのか・・・そんな選択を迫られます。

ベビーなテーマのはずですが、どこかユーモラスで思いやりと愛がにじみ出ています。認知症が進行しはじめて服を着るのを忘れてダイニングにやってきてしまったのを痛く恥いるヨヘスケルの奥さんのために、友人たちみんなが全裸で彼女を迎える・・・なんていう笑っちゃう場面も。ホームの風紀を乱すなと怒られるのですが、そんなことよりもおじいちゃん、おばあちゃんにとっては、傷ついた心の癒しのほうが最優先なのです。

医療が発達すればするほど、ほんとうだったらとっくに生きていないような場面でも生き続けられる時代。もちろん家族は「生きていてさえくれれば」という思いもあるけれど、本人にしてみたら迷惑きわまりなくて「自然に安らかに旅立たせてくれ」が本音かもしれません。

世界的に高齢化社会になってきているせいか、以前にくらべてお年寄りの生き方やら、旅立つまでの選択やら、そんなテーマが恋愛ものよりもずっと多くなってきているように感じられるこのごろ。自分の将来とかさねあわせながら、いろいろと考えさせられることも多いのです。

こちらはイスラエルの映画で、ヴェネチア国際映画祭でも受賞してる作品です。

 

16-02-18 爆発寸前、クーパー家の晩餐会

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昔ながらの X'mas カードや絵本のひとこまのような、うっとりするようなイヴの風景・・・。窓から見える静かな雪景色や、暖かな部屋にきらめく大きなツリーとたくさんのプレゼント。跳ねまわる犬やはしゃぐ子ども。おいしそうなご馳走がところせましと並べられたテーブル。プレゼントを抱えて集まってくる幸せそうな人たち。

これだけ見ていても、本場のクリスマスの美しい雰囲気にひたれます。

ここクーパー夫妻のもとに、父や母、妹、息子や娘、孫たち、そしてその恋人が集おうとしているのですが・・・とびっきり楽しい一夜かというと、それはあくまでおもてむき。

じつは、ひとりひとりが抜きさしならぬ問題を抱えていて、それで頭がいっぱい、爆発寸前。ホステスのシャーロットは密かに離婚を決意しているので、なんとしてもこのラストクリスマスディナーを完璧にしたいという思いでいっぱいなのですが。他の家族も同様で、“みんなの前でうまくいっている顔をするのも”“希望にみちた様子で来年の豊富を語るのも”ほとほとうんざりしているのです。

それぞれがギりギリの一日をなんとかやりすごして、クリスマスの晩餐が始まります。笑顔をつくりながらも、どこかピリピリ。口をひらいたら一気にすべての毒をぶちまけてしまいそうな、一触即発状態。

そこにある出来事が起きて、一気にデトックスがはじまります・・・。クリスマスだったからこそ、この浄化ともいえます。なんたって、とびきり美しく愛にみちた一夜ですから。やっぱり、問題解決は「つながること」+「愛」ですね。

たしかに、アメリカ人にとってクリスマスってとっても大切な日で、こんなふうに家族で集まることがない人がこの時期、ウツになる、というような話も耳にします。ひとりで過ごしたくはないけれど・・・でも、家族にあれこれ聞かれるのも、笑顔をふりまくのも苦痛なわけです(クーパー一家の場合はとくに・・・)。

わたしの好きな映画「ラブ・アクチュアリー」もクリスマスの日の人間模様だったけれど、この作品も似たようなテイストが感じられます。少しほろ苦くって、でもどこかコミカルで、愛があるお話なのでした。こころがほんわりします。クリスマスの時期に観たかったな〜。

「クーパー家の晩餐会」 涙壷度・・・★★☆☆☆(ホロっときました)

PS. シャーロット役のダイアン・キートン。歳をかさねても、変わらずステキです! 最近観た「ニューヨーク 眺めのいい部屋売ります」でも、M・フリーマンと仲の良い夫婦を演じていました。この映画もよかったのですが ・・・ 神経症かと思うほどまくしたてるような英語のセリフが弾丸のごとく続き・・・ (M・フリーマンも「少し黙らせろ」と申しておりましたよ)。なぜそこまで強迫的にしゃべりまくるのか?!  N.Y. らしさなのかもしれませんが、これを聞いていると頭が完全にフリーズします。その昔、こんな英語にさらされていた日々があり、防衛本能からかおもわず条件反射的にシャッターがおりてしまうクセが(自動的にスイッチがきれる) ・・・。おかげで爆睡でしたわ(笑)。

 

 

16-02-22 たくましい、火星ひとりぼっち

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「オデッセイ」観てきました。

「命を落とすのと火星にひとりぼっちと、どっちがいいですか?」 と選択を迫られたら、どっちを選びますか?

すんでのところで命拾いをしたがために、まんまと火星に置きざり、ひとりぼっちになっちゃった男性。助けにくるアテもなく、片道一年以上もかかるところにひとりぽっちだなんて・・・。地つづきだったら、まだ希望はありますが。

ところがこの男性、メンタルめちゃくちゃ強いです。背水の陣でやけくそになったのか、それともNASAの訓練のたまものか、ぜんぜんへこたれていません。お芋畑まで作っちゃったりして、自給自足態勢。いつ助けがくるともわからないのに生きのびるのに前向きです。

それにくらべて、ふだんセラピーをしていると「孤独感」とか「見捨てられ感」がテーマになったりしますが、クライエントさんが感じている深い孤独、見捨てられ感は、火星と地球の距離よりもさらにずっと遠いと感じます。誰もやってこられない宇宙のハズレに、誰にも知られることもなく置き去りにされているような恐怖と悲しみです。

きっと助けがやってくる、そしてみんなが自分を見守り応援してくれているとわかっているからこそ、この火星ひとりぼっち男性は生きのびられるのですよね。でも、地球にいたとしても、自分がそこにはまりこんでいることを誰もわかってくれないし、愛をもって見守ってくれる人がいないのがいちばんつらくって、孤独で、苦しいのかもしれません。

そう考えると、セラピストとしてのわたしは、クライエントさんのレスキューのために確実に飛んでいく宇宙船でなくちゃいけないし、無事な生還を信じて心待ちにする一人でいなくてはいけないのだ、と改めて感じましたよ。

とろこで、あんな赤土だらけの火星に移住計画があるなんて・・・まったくワクワクしません。いくら宇宙をながめ渡しても、地球のようにきらきらと輝く宝石のような美しさをもった星、玉手箱のような多様性のある星は見当たりませんものね。火星云々を目指すよりも、その莫大な予算を空と海と空気をきれいにすることにあてて、さらに地球に磨きをかけてくれたらいいのにね〜。(ほっとくと、そのうち火星みたいになっちゃうぞ!)

 

 

16-03-26 リリーのすべて

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世の中の重要な変化って、じつはここ百年ぐらいで急速にもたらされているように感じます。

たとえば、心の病気の治療。フロイトが現れるまでは心の病は悪魔払いの分野だったし、まっとうな人権や男女平等だって真剣に問われるようになったのは、つい最近のこと。パソコンや IT の技術革新も、三十年まえには今のような普及は思いもよらなかったし。

トランスジェンダーの問題も、医学的な性別と本人の自覚が違うことを、本人や周囲が受けとめる風潮ができたのも昨今ですよね。

この「リリーのすべて」は、1930年代にはじめて性別適合手術を受けた男性のお話です。

デンマーク人の画家のカップル。ある日、モデルが来なかったことで、妻が夫にモデルになるように頼みます。「足だけデッサンさせて」と。そこで彼ははじめて絹の靴下をまとい、膝に美しいドレスを抱えてじっとしているうちに ・・・ 彼のなかの別な誰か、「リリー」がむくむくと目を覚ましてしまったのです。

突如そうなったわけではなく、彼は幼少の頃に自分のなかの女性に気がついていたものの、大人にとがめられたために隠し続けてきたのでした。でも抑圧が強かったぶん、一回目覚めてしまったその欲求はもう後戻りができません・・・。こっそりとドレスをまといお化粧をするように。その体験に彼は恍惚感をおぼえるのです

妻にとっては無二の親友リリーが姿をあらわし、もちろんそのリリーを心から愛しているのですが、リリーを見るたびに夫が永遠に消滅してしまったという事実をつきつけられるようで、葛藤を経験します。今までどおりに愛したい・・・けれど彼女を見ていると悲しすぎる。

一方リリーもどんどん女性化して美しく着飾るようになるのですが、自分の身体という現実を見てしまうとそれを殺してしまいたい衝動にもかられ、でもそうすればリリーも死んでしまう・・・と苦しみます。

夫婦でなんとかしようと次から次へとドクターを訪ねるのですが、診断は「狂人」「精神分裂」「脳の病気」・・・はては精神病院に監禁されそうになるし。

たったひとりのドクターだけが、リリーのことを「頭のおかしい人」ではなく「Miss」と呼んで、ほんとうに彼の心のなかで起きていることを理解してくれたのです。それが、世界ではじめての性転換手術を行ったドクターでした。

エディ・レッドメイン演じるリリーが、とってもチャーミングで抱きしめたくなります。エディは決してオネエではないので、繊細な表現力です。レオ様の鬼気迫る演技におされて、残念ながらオスカーは逃しましたが・・・。

苦悩するリリーを、自分も苦しみながらも必死で支えようとする奥さんの姿も美しいです。愛する人は変わらずにそこにいるのに、でも今までどおりには愛せないなんて・・・切ないですね。 (;_;)

さてさてみなさまは、愛するひとがある日突然、性別が転換してしまったらどうしますか?  え?! いっそ、夫がおネエ化してくれたほうがわかりあえるに違いないって? (^。^;

 

16-05-19 泥まみれのレオさま-レヴェナント

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自分じゃ観に行かないです。泥まみれっぽい映画は。(たとえば、「パイレーツ オブ カリビアン」もその部類。笑)

この「レヴェナント - 蘇りし者」はレオさま悲願のオスカー受賞作でもあり、レオさま好きのSちゃんと一緒に鑑賞しました。

前回Sちゃんと観たレオさまは、「華麗なるギャッツビー」でしたっけ。レオさま、超お金もちの色男でした。ところが今回は、最初から最後まで、ボロボロ、ドロドロ、ズタズタ。美しいシーンやロマンチックな場面は皆無です。

でもすごいなと思ったのは、そんな姿になりつつもレオさまは他のズタボロなおじさんたちにくらべて、どこか品があるのです。おもいっきり汚くって、悲惨になっても。

予告にあるようにグリズリーに襲われて、瀕死のまま生き埋めにされて ・・・ そこからの「蘇りし者」かと思ったら、完全に甘いでした・・・。2時間半、しじゅう「蘇りし者」です。詳細は書きませんが、ずっとです。(それにしても、グリズリーに馬のりになられて、顔のうえにヨダレをたらされたくはありません・・・汗。)

私は観ていてレオさまと一体化していたので、凍てつく荒野でサバイバルしながら、寒い、痛い、つらい  ・・・ああ、あったかいお風呂に入りたい、お布団で眠りたい ・・・とずっとそんな気持ちでしたが、一方せっちゃんはものの一時間程度で、あまりのことに笑いがこみあげてきていたとか。さすがハリウッド、悲惨さのなかにもしっかりと笑いをとっています。

なので、観終わったあとに重くなったり、考えさせられたり ・・・ という感じはまったくなく、誰かとしゃべりたくなります。私たちもエンドロールが終わって劇場が明るくなっても、しばしおしゃべりしていました。案の定、Sちゃん、お化粧室で知らないおばさまにおもいっきり感想をシェアされておりました。

こんなレオさまもめったに観られません。是非、ズタボロレオさま、ご賞味ください。

それにこのような究極なサバイバル体験もなかなかできません。レオさまと一緒だったらコワくない?! 劇場で擬似体験してみては?! かなりバラエティーに富んだサバイバルができますよ〜。 (ꐦ ´͈ ᗨ `͈ )

涙壷度:☆☆☆☆☆(ゼロ)けれど、2時間半、退屈しません!

16-06-07 人生の“選択”についての物語

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マリーゴールド ホテル -幸せへの第二章-」「グランドフィナーレ」「君がくれたグッドライフ」「或る終焉」・・・最近、なんとなくチョイスした映画には共通項が。

はからずも、人生のエンディング、そしてその選択についてのストーリー。

たとえば、「君がくれたグッドライフ」。

これは、気ごころ知れた仲間たちが毎年恒例で出かける自転車旅行のお話。

その年、旅の計画を担当したのはハンネス。彼が選んだ行き先はベルギー。「なんだ、チョコレート以外はなにもないじゃないか!」とブーイングをうけながらも、目的地を目指すハンネスと仲間たち。

じつは、ハンネスにとってベルギーとは重要な意味のある場所であり、決して変更することができない目的地だったのです。

そこは「死の権利」のある国、つまり合法的に尊厳死がゆるされる国だったから。不治の病を隠しもつ彼にとって、このベルギーへの道のりは最期の旅であり、決して戻る道などない永遠への旅立ちだったのです。

旅の途中でその事実を告げられた5人の仲間は激しく動揺し、葛藤のなかに投げこまれます。一日、一日と目的地に近づきながら、あふれ出す様々な思いにそれぞれが直面することになります。 ・・・


そしてもう一本、「或る終焉」。こちらも人生の最期についてのお話し。

在宅のターミナルケアを職業とする看護士の男性、デヴィッド(ティム・ロス)。その介護の熱心さ、親身さは、まるで彼にプライベートな生活などないほどなのです。

それは看護士という職業をこえる献身の度合いで、患者にとっては痛みや苦しみを含めすべてをゆだねる、家族よりも近い大切な存在となっていたのです。

そんな親密さから、家族の勘違いをさそい、セクハラで訴えられることも。

彼のそこまでの献身にはじつは理由があって、彼の心はぬぐいきれない罪悪感を抱えていたのです。

そんなある日、面倒をみている一人の患者から「あること」を懇願されます。いったんは拒んだものの、患者と一心同体そのものの彼は、その患者の絶望感も苦しみもじつはわかりすぎるぐらいにわかっているのです。

さて、彼はどうするのか?・・・

最近、ラブストーリーものがめっきり減って、こんなテーマを扱う作品がぐっとふえてきたのを感じます。実際、それが今、起きていることなのだからでしょう。

私にはこの次元から早々に旅立っていってしまった親しい友人たちがいます。でも、私の心には悲しみや喪失感というものがありません。

感じているとすれば、それはちょっとご無沙汰な懐かしい感じ、愛しい感じ。なぜなら、どちみち、またすぐに会うからね。あっちで。十年、二十年、三十年はあっというまなのです。友人との再会だって、「あら、気がついたら、二十年もご無沙汰だったわ!」ということが多々あります。

だから送るときには、「よい旅になりますように。向こうでも楽しんでね。たまには、便りをちょうだいね〜。そっちの住み心地を教えてね」そんな気持ちになります。

今までタブーであったり、あまり語りたくなかったり・・・という部分にだんだん光があてられるようになって、怖れのない違った目線から見られるようになるのだと思います。

そして、今までは人生でいちばん悲しいこと、避けたいことであったことも、どこから光をあてるのかによって、違う意味があらわれたり、贈りものとしてさえ感じられるようになるのかもしれません。 ・・・ そうしたら、最期についても、ずいぶん意識が変わってくるのでしょうね。

 

 

16-06-28 神様はそうとう偏屈だった! 〜神様メール〜

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世界を創造した「神様パパ」は、頑固! 偏屈! 短気!イジワル! そのうえむさ苦しくって、さえないおやっつぁんです。

部屋に閉じこもってはパソコンで世界を操作し、気晴らしをする毎日。さまざまな事故や天災をこしらえては、意地悪な笑みを浮かべて満足し、またいろいろな法則もあみだしています。

たとえば、「トーストはジャムをぬった面から床に落ちる」法則。(あるある!笑)「湯船につかったとたんに電話が鳴る」法則とか、「お皿は洗ったあとに割れる」法則 ・・・ などなど。

神様パパには二人のこどもがいて、長男は超有名人。いまや、チェストのうえのおきもの状態。(イエス・キリストです!)そして娘のエマは、反抗期の真っ最中。

エマは神様パパと大ゲンカをして、神様パパのパソコンから全世界の人に一斉メールを送ってしまいます。それは、それぞれの余命を通知するメール。

メールを受けとった人たちは、突然の余命宣告にビックリするとともに、どんどん減っていく残り時間にガクゼンとします。そして、突如本当に生きることに目覚めてしまいます。

ここまで書くとコミカルな映画だとわかりますが、最初は映像はさえないし、神様パパはむさ苦しくって意地悪だし、キリスト教で育ったわたしとしては「こんな神様像、笑えないんですけど〜(汗)」と若干嫌悪感。

でも、画面は暗いくせにやたらポップなので、かえってユーモアのセンスが光ります。

娘のエマは、自宅の洗濯機を化繊洗いにすると人間界に行かれることを知って、余命メールにてんやわんやになっている人たちをサポートしに、妙ちくりんな奇跡をおこしに地上に向かうのです。

自分に正直な生き方をしはじめちゃった人は ・・・ たとえば、余命がまだたっぷりあると知ったとたんに飛行機からダイブしちゃったり・・・ でもちゃんと生きてるし(笑)。ブルジョワのマダム(カトリーヌ・ドヌーブ)は夫に愛想をつかして、ゴリラを恋人に選んじゃったり。

ハリウッドの笑いとはまったく違う笑いですが、可笑しいです。そして、最後にはいつのまにかホロリとさせられてしまうし ・・・。イジワルな神様のわりには、ほんわかした気持ちで観終えました♪

ハデさはありませんが、笑える楽しい一本です。(「神様メール」

PS  じつはわたしたちって「神様は気まぐれで、サディスティックで、わたしたちは操り人形のようにホンロウされている可哀想な被害者にすぎない」って心のどこかで恨みを抱いているのです。だってみんな、「わたしのこの人生の災難は何なんですか!」「この世の中で起きている天災を神様どうにかしてください!」って懇願しなかった人はいません。だからこそ、ホントのことを見ちゃったようなこのストーリーって、「そう思ってたよ〜。やっぱりそうか・・・ 」とヘンに納得のいく笑いになってしまうのです(汗)。

涙壷度:★☆☆☆☆(ちょいホロリ)

 

 

16-07-30 日本人でもどこか懐かしい「ブルックリン」

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きっちりかっちりカールをほどこした髪型(イメージとしてはサザエさん)、くっきり描かれた赤い唇、真っ白なブラウスにはギャザースカートをあわせて、肩にはカーディガン・・・。

1950年代の N.Y. を舞台に、アイルランドの田舎から移民してきた女の子、エイリシュの成長を描いた「ブルックリン」。

新しい地で砂をかむような思いをしながらも、愛する人に出会い、どんどんニューヨーカーとして変化していくエイリシュ。でも、母の死を機に、故郷と新しい地とで引きさかれそうになります。暗くて行きどまりのように感じていたアイルランドでの生活は、ブルックリンで成長した彼女にとってはまったく新しいチャンスをたくさん見せてくれるのです。はたしてエイリシュは、ブルックリンで待つ恋人のもとに再びもどれるのか・・・?

この時代のファッションは、なんてカラフルでエレガントなんでしょ! 古いどころかとってもオシャレに見えます。ストーリーのなかでエイリシュがブルックリンで自信をつけて洗練されていく様子が、ファッションの色合いで表現されています。(どんどんポップなファッションになっていきます!)

N.Y. 生まれの友人は、この映画には郷愁を感じると言っていました。おじいちゃん、おばあちゃんがこんなふうに様々な思いを胸に海を渡ってやってきたこと、また自分にとっても生まれ育ったなつかしい時代を思い出すのでしょう。

それを聞いて「なるほど〜。アメリカ版 “ALWAYS 三丁目の夕日”か〜」と思って観てみたけれど、日本人のわたしにとっては、この主人公が新しい環境のなかでひとつひとつの出会いによってみるみる変わっていく姿が、まさに20代の頃の自分と重ねあわせて共感できた気がします。

このエイリシュを演じたシアーシャ・ローナンは、ちょっとふっくらとしていて、往年の女優さんのようなエレガントで美しい雰囲気があるのです。彼女自身、じつはアイルランドにルーツを持つという N.Y. 育ちで、まさにご両親がこの映画と同じストーリーを生きているそう。

あとで調べたら、キーラ・ナイトレイの「つぐない」で妹役を演じていたあの女の子なのですね! 細かいことはあまり覚えていないけれど、悲しくって残酷なストーリー展開と、若干13歳ぐらいだった妹役(シアーシャ・ローナンだったの!)のたたづまいがひどく印象的だったのでした。

「ブルックリン」はアカデミー賞にノミネートされたけれど、日本ではそんなに大々的に興行していないようなので、うっかり見過ごすところでした。最近観た映画のなかでは、とっても好きな一本となりました。

涙壷度:★★☆☆☆(やっぱりラストに泣かされました!)

 

 

16-08-11 音楽あり、冒険あり、「シング・ストリート」

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友人に誘われて予備知識ゼロでお出かけした映画。それが、朝いちにもかかわらずメチャ混み。なんと満席ですと(かなり早く行ったのに・・・)。無事、次の回で観ました。

観たのは「シング・ストリート 未来へのうた」。'80年代のダブリン、コナー少年の人生は早々と崩壊しはじめていた。両親の失業、離婚話、転校、いじめ・・・。

そんな心痛の日々に、街角でひとめぼれした女の子。自分にはとうてい不釣りあいな大人びてミステリアスなその子に、「ぼくのバンドのPVに出てくれ」とウソぶいてしまったコナーくん。それもすべて、連絡先をゲットするための口実。

さあ、そこからが大変! バンド結成に走りまわります。集まった面子はまったくパっとしないオタク集団。 ・・・ ところがオタクゆえにすごかった! ひきこもりで鍛えた音楽の知識、楽器の演奏。

憧れの女の子を迎えてPVを撮るためだったら、がんばる!がんばる! あっというまにオリジナル曲を作って、その女の子にも気に入ってもらえて、無事街角でのPV撮影にこぎつく。

このバンドの成長を通して、超ダサダサだったコナーくんやメンバーたちがだんだんロッカーらしく垢ぬけてくるとともに、イジメにも負けない自信をつけて輝きはじめる・・・。

これはジョン・カーニー監督がこんな青春時代をやりたかった! という妄想&願望実現ストーリーだそうな。

コナーくんたちがギターをつまびきハミングしながら、どんどん紡いくオリジナル曲が、'80年代のUKロックの匂いがぷんぷんしていて、とってもリアリティがあります。「あれ?こんなのむかし流行っていたんじゃない?」というような耳なじみのいい曲。

バンドに人気がでるかどうかって、たんにカッコいいだけじゃダメだし、ただ歌がうまいだけでもダメ。バンドは、ボーカルの声の質に魅力があることがすごく大事だと思うのです。このコナー少年はとってもステキな声をしています(彼はじつはソプラノのソリストだそうな)。ビジュアルも適度にキュートでスター性があるので、もし '80年代にバンドとしてデビューしていたらけっこうな人気者になっていたかもしれません。それぐらい、この「シング・ストリート」バンドは完成度が高いのです。そのどんどん垢ぬけていく様が楽しい♪ ワクワクします♪

満席のお客さんたちは、10代からシニアまで年齢層が広いのが特徴。'80年代の青春をなつかしむ方々から、音楽あり、ロマンスあり、冒険ありのストーリーに目をきらきらさせる若人まで。

ストーリーにおりこまれたデュラン・デュランやAhaの楽曲も楽しめるけど、このバンドの完成度の高いオリジナル曲がイイです。'80年っぽいPVの出来も楽しいです。

DVDが出たら、また観たいな〜♪

涙壷度:★☆☆☆☆(ちょいホロリ・・・)

 

 

16-09-10 誰でもちゃんと出会える! 「君の名は。」

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自分の年齢が気になり、結婚相手さがしにすっかり気をとられるあまり、日常をリラックスして楽しめない・・・ というクライエントのA子さんとお話ししていたときのこと。

「大丈夫! 出会うべき人や、起こるべきことを、うっかり逃してしまうことも、ふいにしてしまうこともありえないから。結局は、起こることしか起こらないし、出会う人にしか出会わないから。だから、リラックスして、やってくるものを受けいれて楽しんでいましょうよ」とわたし。

すると、「貴子先生、最近アニメ映画を観てきたのですが、それがまさにそんな話しだったんです! そのアニメでは、会ったことがないふたりなのに、すれ違うときにお互いがちゃんとわかるんです。わたしにも自然にわかるときがあるんですね?!」と嬉しそうなA子さん。

アニメのごとくドラマチックといかなくても、わたしたちはふだん人と出会うとき、すでにピキッときているからこそ「また、会いたい」「もっと知りたい」と思うのですものね。そして、そんなときには、相手もなにかを感じてる ・・・。

ものごととの出会いも同じです。無意識に選んでいるようでも、ちゃんとピキッときて、だからこそ選びとってる。

その直感の嗅覚の鋭さには、いつもびっくりさせられます。相手のことはなにひとつ知らなかったにもかかわらず、あとから冷静に調べてみると、価値観やら、好きな時間のすごし方とか、食べ物の嗜好やら、すべてがほどよくマッチしていて、「よくぞなにも知らずにちゃんと出会うな〜」といつも感心してしまうのです。

ようは、アタマは使わず、すべてを知っている高い自己(ハイヤーセルフ)とつながっている直感にまかせておいたら、自動操縦のようにうまくいくのです。アタマにしゃしゃり出させないことです。

A子さんが教えてくださった映画は、最近大ヒットしている「君の名は。」という新海誠監督のアニメでした。

さっそくリサーチしてきました。(‥ºั⌔ºั‥ )

わあ! めちゃくちゃ混んでる! 人気なんですね〜。

新海監督の作品は、本当に画面がきれいで、思わず引きこまれます。東京と飛騨の山奥を舞台にしているのですが、夏の光に都会も田舎もきらきらと輝いて、それだけでもこころ奪われる作品なのです。

会ったことのない男の子と女の子という二人の高校生のあいだで繰り広げられる物語。都会と田舎という距離、そして時間軸が交錯して、二人は顔をあわせることがないのですが、それでもときを経て、都会の喧噪のなかでふとすれ違ったとき、二人ともふりむかずにはいられないのです。なんだかわからないけれど・・・。

そう、出会う人にしか、出会わない ・・・。そして、出会ったら、そのときはぜったい間違わない ・・・。

観ていて高校生だった頃の夏休みを思い出したし、画面からあふれてくる田舎の夏草の匂いや風の心地よさが、自然のなかで過ごした頃のわくわく感を感じさせてくれました

アニメもいいですね♪ ストレートに楽しめました。

 

 

16-11-04 「 ブリジット・ジョーンズの日記 」 みたび!

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もう、あれから15年?! 3作目です。(シリーズ 1作目が2001年。)

なつかしいな〜。で、思わず観てしまいました!(笑)

今回のサブタイトルは、「ダメな私の最後のモテ期」

ハリウッドの女優さんて、ふつうに女の子役をやってもキラキラ感が隠しきれず、それがステキではあるけどリアルさに欠け、距離感がぬぐえなかったりします。けれど、レニー・ゼルウィガーのブリジットの場合は、かなり等身大。ぽってり気味の体型で、どこか垢抜けず、けっこうドジで、でも上昇志向が強くて、めげずに頑張る ・・・そう、「いる!いる!」こういうひと、「ある!ある!」こんなこと、とみんなが親近感をもてちゃうキャラこそがブリジット・ジョーンズ人気の秘密。

そして、あの時代もまさにストーリーそのものの頑張ってる時代だったし・・・。

でもそれからリーマンショックもあり、いろいろな荒波にさらされて、ひとびとの価値観もかわり、2016年をむかえている私たち・・・。

32歳だったブリジットはいまや43歳になり、独身のキャリアウーマン。そして、まさかの妊娠!! ところが、父親候補が二人いて、最後の最後まで混迷をきわめます。これは昔のラブコメ感まんさいでしょ〜!

観ていてこのノリ、ちょっと違和感を感じてしまいましたよ〜。2016年っぽくないな〜。前作の時代のまま?

11年前の2作目が公開された時代だったら、「ブリジット43歳の姿」として「そうだよね〜。ブリジットらしいよね〜」とありだけど・・・。今、このストーリーってどうなの?! って感じてしまいました。じゃっかん昔風女子像(ああ、でもだからこそ、ブリジット・ジョーンズなのかもね)。

まわりも、そして自分も含めて、女性の30代から40代への11年間って、もっと複雑で、もっと堅実に成長しているよね・・・と感じるのは私だけ?(ブリジットは30代と同じレベルのノリではありませんか!?(笑) でも、そこがブリジットか?)

最近の映画事情では、この手のラブコメはほどんどお目にかからなくなったので、ラブコメのお決まりっぽくつくられているところが、かなりなつかしくもあり、安心感もあり、おもしろおかしいのだと思います。

PS イケメンでモテモテのチャラオ上司だったヒュー・グラントが、ナントのっけから事故死させられているのはどういうことでしょう?!(なにも殺さなくたって・笑。ヒュー・グラント好きなのに!)以前のようにコリン・ファースとブリジットとの三つどもえになってないところがちょっと残念。しかし・・・これには最後にオチがつき・・・ってことは、もう一作できそうですよ〜。

 

16-12-06 ニコラスさんとユダヤ人の子どもたちの再会のお話

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以前、テレビで観たことがありました。ニコラス・ウィントンさんの話。

第二次大戦直前、ユダヤ人の子どもたちを救うべく特別な列車を計画したイギリス人男性。もう一人のシンドラーとうたわれています。

しかしウィントンさんの偉業は戦後50年、奥さんはおろか誰も知らなかったそうな。奥さんが自宅の屋根裏から当時の古びた資料を発見するまでは。

彼は、ホロコーストでユダヤ人が命をおとしていくなか、せめて子どもたちをなんとか救出したいと思い、列車でイギリスの里親へと子どもたちを送り出す「キンダートランスポート」計画を行ったのです。救われた子どもの数は、じつに669人。(イギリスに無事到着したこどもたちは、トランクを持った小さくけなげな姿がパディントン ベアのモデルになったそうです。)

その子どもたちはのちに世界中へと飛び立ち、化学者や教育者、学者などのさまざまな職業につきます。そして、そのうちの一人であるカナダ人ジャーナリストが、このドキュメンタリー映画「ニコラス・ウィントンと669人の子どもたち」を作成しました。救われた子どもが作った、まさにその当時を語るフィルムです。

50年以上たって、消息が確認された子どもたち(すでにおじいちゃん、おばあちゃんたち)は再び集まり、当時を再現するチェコからイギリスへの列車の旅に出ます。

それぞれが驚くほど鮮明に、半世紀以上前となった両親との別れの様子や、国境を越えるまでの恐怖、列車のなかの様子、里親に迎えられた安堵感などを覚えていて、詳しく語っています。とくに両親との別れを回想するシーンは、まるで昨日のことのようにありありと語られていて胸がいたみます。

BBC放送はニコラスさんを招いて、当時のフィルムを見ながら彼の偉業をふりかえる番組を作成します。救われた子どもの一人一人の顔がスクリーンに映し出され・・・なんとそのうちの一人は番組でニコラスさんのとなりに坐っている女性でした。命の恩人に出会ったその女性はニコラスさんの手をとり、ほんとうに嬉しそう。ハグをしたりキスをしたりと、感動的な再会シーンが映し出されます。

さらに司会者が、「この他にもニコラスさんに救われた人はお立ち願えますか?」とスタジオの観覧者に声をかけると ・・・ざざっ・・ と音がしたかと思うと、なんとそこにいた全員が立ちあがったのです。ニコラスさんを囲んで坐っていた人たちは、じつはみんな当時の子どもたちだったのです。涙、涙の再会シーンでした。

そしてこのストーリーはニコラスさんとその子どもたちだけのものではなく、孫の代までいろいろな活動として今も広がっている様子をうつしだします。ニコラスさんの影響は戦後70年の今も、さまざまな活動としてその心がうけつがれているのです。

ニコラスさんは当時、「するべきことをしている」という感覚だったようですが、50年以上たって生きのびた子どもたちに再会することで、あらためて自分がなしとげたことの大きさに気づかれているようでした。

以前わたしは、東洋のシンドラーといわれる杉原千畝さんのリトアニアにある領事館兼お家を見にいったことがありました。

千畝さんが何千人ものユダヤ人のビザを発行したデスクに坐ってみたとき、「どんな気持ちで行っていたのだろう?」と思いを馳せたことがありましたっけ。ニコラスさんにしろ、千畝さんにしろ、自分の身に危険が及ぶことだって十分考えられたはずなのに、なんという決断、勇気。

ホロコーストの悲しみのなかできらめく命のストーリー。きっと名前は知られることはなくても、尊い命に貢献した人たちはもっとたくさんいたのでしょうね。

ニコラスさんのドキュメンタリー、ご覧になるかたはハンカチ必携です!

 

17-01-28 沈黙 〜サイレンス〜

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学生のとき、この小説を読んでショックでした。ずっとこころに残っていました。

キリシタン弾圧下の長崎で、困難な宣教を続けるポルトガル人の宣教師たち。拷問を受けながら、かれらの命の叫びは ・・・ 「神さま、なぜあなたはこたえてくれないのですか?」

キリストの教えをかけて宣教師もキリシタンも次々に命を落としていくという、せっぱつまった状況のさなかで発せられる問いですが、私たちも生きていくなかで「神さま、なぜこたえてくれないのですか?」という問いは誰もが一度は発したことがあるのではないかと思います。

「なぜ、神はわたしにこんな試練を与えるのだろう?」「なぜ、こんな苦しみに満ちた世界を創ったのだろう」「なぜ? なぜ?」 わたしは見捨てられているのか?・・・ 私たちは、どこか理不尽だと思いながらも、それでも必死にこたえをみつけようとしてきたのだと思います。

セラピーをしていくなかでも、それぞれの無意識のこころのなかにとても根深い「見捨てられ感」があるのがわかります。

「どうせ、助けてもらえない」「わたしは見むきもされない」・・・まさに、おおもと(神さま)から私は見捨てられていて、助けなんてこないし、だから自力で必死に生き延びなければならない、苦しい ・・・ この無意識下にある絶望感が、私たちが感じるえたいの知れない恐怖心の原因です。そしてその怖れから逃れるために、自分をさまざまなものへと駆り立てます。

それはお金であったり、お酒、ギャンブル、買い物、恋愛、過食、ワーカホリック・・・ かたちは違ってもすべて怖れをうめるためのてだてとなると信じているものです。でも、それらでは決して満たされることはありません。ほんとうに求めるものでしか、その隙間はうめられないからです。

この怖れは、「見ているものは、自分のこころのなかが原因である」ということがわかるまで決して解決されることはありません。

私たちは「自分の信じているものしか見ることができない」から、自分のなかに深く隠しもっている闇、見捨てられているような空虚感を正直に認めることからはじめなければなりません。信じていることが変われば、おのずと見えるものも違ってくるのです。

本当に見捨てられているのか、自分の思い違いではないのか ・・・。怖れるあまり握りしめているものをいったん手放して、こころを落ちつけて、真実を知ろうとしないかぎり、本当のことは見えてこないのかもしれません。

ところで、この物語のなかでは踏み絵を躊躇する村人たちが次々と命をおとすはめになるのですが、キチジローというキリシタンは三回も踏み絵に遭遇しながらも、そのたびにまんまと生きのびてゆきます。

なぜなら、そのたびごとにバシバシ踏んだから。それでも、彼はさいごまでキリシタンのこころは決してすてていないのです。

人々がキリシタンになったのは、安らぎや幸せを求めてそうなったはずなのに、私たちはしばしば自分の考えの正しさを優先するあまり、本当に求めていたはずのものをみすみすドブにすててしまったりします。

彼はまさに、「正しさよりも、生きのびること(幸せ)」を優先したわけです。

私もキリスト教の環境で育っていますが、もし私がこの時代の長崎に生まれていたら、きっとキチジロー同様、バシバシ踏んでるかもしれませんね〜(汗)。

この作品はーティン・スコセッシ監督のハリウッド映画です。

ハリウッドの日本を舞台にした作品って、これどこの国? というぐらいヘンテコリンなことになっている場合があるのですが、これは時代考証を日本人が担当しているそうなので違和感はありません。

でもちょっとヘビーで、午前中に観たら午後までへたってしまいました・・・。

 

17-03-05 たかが世界の終わり

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「えっ?! 終わった?」という、ひさびさに不完全燃焼型、尻切れトンボ的エンディング。

カンヌのパルムドールをとってるぐらいだから、なんかもっとあるはずでしょ?・・・ ってことは、途中まんまと寝落ちした??

い〜え、そんなことはありません。つまり全編、とりとめのない家族の会話、あるいは感情的な言い争いだけ ・・・ それ以外とくにストーリー展開はありません。

35歳のルイは成功している劇作家。12年ぶりに家族のもとへ帰りします。それはなぜか? 自分の余命がいくばくもないことを知ったから・・・。

家族に再会し、食事のデザートのときにそれを切りだそうとしていたのですが ・・・ あら ・・・デザートまえに終わった ・・・?

登場人物は ・・・ 久々に息子と会うために着飾って、直前まで大騒ぎでマニュキアすることに忙しい母親。それから妹が一人いて、幼い頃から会っていないのでルイのことなど覚えていません。そしてナイーブな兄は、ひょっこりあらわれたルイに対して怒りをぶつけまくります。 ・・・ そして、あくまでも自分の都合でやってきたルイ。

映画が終わってあっけにとられたけど、そっか ・・・ これがタイトルの「たかが世界の終わり」なのだわ。

ルイの「世界の終わり」の話しはまだきりだされていないけど、母親は久しぶりに会う息子のまえでキレイでいることで頭がいっぱいだし、気にかけているのはお料理のでき ・・・ 。

母親だけでなく、みんなそれぞれ自分のことに手いっぱい。とても誰かの世界の終わりの話しを聴く耳などもっていないのです。ルイもルイで疎遠にしていたにもかかわらず、自分の重大問題を投げこみにやってきたわけだし。

みんな、誰かの世界の終わりどころじゃない。そんなことより、それぞれ決定的に足りないと感じているものがある。それを満たしたくって必死な感じ。それは、「愛」。

この作品、カメラワークが独特です。マニュキアの指先やら、お料理のボールのなか、汗ばんだ首筋 ・・・ というように画面がピンポイントなのです。

まるで、縮こまった心がみつめている視線の先のよう。とても狭くなっているそれぞれの心の状態をよくあらわしています。

そして、突然ポッポと飛出してくる鳩どけいとか、部屋に飛び込んできた鳥が壁にボコボコあたる様子とか、それぞれの抑圧したやりきれない気持ちも音となっています。

ストーリー展開があっていいはず、という考えがなければおもしろい視点の作品かもしれません。さすがフランス映画!



あら、予告のほうがずっとドラマチックで、なにか起こっていそうに見えるではありませんか!?(笑)

最初からそういう作品だと知っていたら、もっとおもしろかったかもしれません。

 

 

17-03-10 La La Land

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公開を楽しみにしていた一本。

あの「なんちゃってオスカー」に輝いた「La La Land」を観てきました。(オスカー受賞したはずがミスだったという・・・汗)。

あの超ガッカリな場面で、主演のエマ・ストーンは笑顔で「受賞したのがムーンライトで嬉しい!」と言えちゃうところがすごいです。

冒頭のシーンから、もうパワー全開!

予告でもおなじみの、あのハイウェイでのミュージカルシーンです。

ピアノの弾けるようなメロディーにのせて、これってエンディングでしょ!? っていうぐらいの盛りあがりで一気にひきこまれます。

セリフ全部がメロディーになっているようなミュージカルは、ちょっと疲れてしまうのですが、これはミュージカルであることを忘れてしまうようなほどよい感じ。お馴染みとなる旋律が何度もくり返さるシンプルさもいいな。

売れないピアニストと女優を目指すウェイトレス。二人の出会いは決してロマンティックとはいえず、お互い「タイプじゃない」と憎まれ口をききあうところから始まります。でもそんな口をきけるからこそ、親密になる度合いも深く早いのかもしれません。

恋する気持ちをパワーにかえて、二人手に手をとってそれぞれの夢に邁進します。でも、夢を叶える途上で起こるさまざまなことが、ふたりの関係にも暗い影をおとはじめ・・・。

最後は ・・・ ああ、よかったね!と思いつつも、ほろ苦い。なんかちょっとひっかかる感じのエンディング。だからこそ惹かれるのかもしれません。

赤や黄、青というヴィヴィッドなドレスの色、星空などを使ったファンタジックな場面、ジャズピアノの印象的な旋律、ロスの暮れなずむ空の色 ・・・ とても色が美しくって、こころにしみこむようです。

楽しかった♪ 好きなタイプのミュージカルです。もういちど観たいな〜。

 

 

17-04-27 実写版、おとぎの世界「美女と野獣」

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映画を観に行ったとき、「地震?!」と思うような揺れをたびたび感じたことがあったのです。どうやらそれは、隣にある別の劇場の MX4D の震動だったようなのですが。

なので、楽しみにしてた実写版「美女と野獣」を MX4D で観てみることにしました♪

予告編でカークラッシュばりばりの映像があって、椅子がぐわんぐわん、どしんどしん、突風がびゅ〜。「え〜!これじゃ、2時間もちこたえられないわ」と不安になりました。

MX4Dは、震動や突き上げなどの椅子の動きに加えて、匂い、風、水しぶき、ストロボ・・・など 4D の刺激がもりだくさん。一緒に行った友人は MX4D はおろか、3D でも観たことがないそうで、隣から叫び声やら笑い声が ・・・(笑)。私も予告での激しい動きで、叫びまくっていましたよ。

ところで、匂いってなんだろ?「チャーリーとチョコレード工場」だったら、もれなくチョコの香りだろうけど・・・。

本編がはじまって、画面の真んなかに一輪のバラが映しだされたとき、きました、きました! バラの香り♡

「美女と野獣」は、アニメより格段にパワーアップしておりました。

ポット婦人もチップちゃんも、あの燭台と置き時計のコンビもそのまんまだけれど、実写になってさらに美しいです。幻想的です。キラキラなおとぎ話の世界にひたれます。そして、まったく手抜きなしなので、大人が満足できる仕上がり。男性が観てもじゅうぶん楽しめることでしょう。

でも、MX4D のミストやストロボが激しくて、椅子の震動もおおざっぱで画面とズレがあったりするので、「臨場感が増す」というよりは、MX4Dが作動するたびにかえって画面から引きはなされて、椅子に坐っている現実に連れ戻されてしまうようでした(汗)

ところで、実写にすると野獣ってどんなよ? って思っていたのですが、ホント、アニメどおりです。メーキャップで仕上げているせいか、ちゃんと目に表情があって、それによってより感情が伝わってきます。

野獣役は、あのドラマシリーズ「ダウントン・アビー」のマシューさんじゃありませんか!

婚約者のメアリーとお互いに好意をよせながら、ふたりとも意地っ張りでなかなかくっつかず、ようやく結婚した!と思ったら、マシューはあっというまに悲惨な事故死・・・。なんとか戦争も生きのびてきたという矢先に、かなり理不尽な急展開で不自然さを感じていたのですが、そうか〜・・・ マシューさんハリウッドを目指していたのですね。天国経由であっというまにハリウッドに行ってしまったというわけです。・・・そのわりには、ほとんどがむさい野獣姿で、せっかくの丹精なるお姿を見ることができません。

その美しいお姿が見られるのは、ラストのほんのちょっとだけ。上品な英国貴族がはまり役だったので、王子さま役はぴったりです。

しかし・・・ベルはあの野獣とのあいだにこそ愛を育んだのであって、いきなりの美しい王子の容姿に「あら、タイプじゃなかったわ・・・」ってなことにならなかったのでしょうか(笑)。

MX4D のあれこれの仕組みにすっかり気をとられてしまったので、もう一回落ち着いて、ファンタジーの世界に酔いしれたいものです。

涙壷度 ・・・★★☆☆☆(しっかり泣かされます!)

 

 

17-05-25 歳後でさかさまに・・・メッセージ

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アカデミー賞で話題になっていた「メッセージ」を観てきました。

今までの、よくある「未知との遭遇」ものとは違います。宇宙船はきらきらぴかぴかハイテクじゃないし、宇宙人もあのアーモンド型の目をしたロズウェルくんタイプじゃないのです。

何でできているのかわからない黒っぽいサナギのような巨大物体がタテに浮いていて、世界中に12本。

18時間おきに112分だけ、その底の部分が開くのです。だからといって、なかに入ってみる ・・・?!(汗)絶対イヤだわ!

コミュニケーションをするというミッションを担った言語学者のルイーズたちがなかに入ってみると ・・・ いました! 透明な壁のむこうにエイリアンの影。ぜんぜんインテリジェンスを感じさせない原始的な風袋です。そうですよね〜。宇宙人はみんな二足歩行だと信じているほうこそ、イマジネーション不足です。

たしかに 、宇宙の果てからやってきたのであれば、同類と感じるものよりも意表をついててほしいですもの。そういう意味では正しいのかも・・・。

ルイーズは、ことばを話せないこどもとコミュニケーションをするように丁寧に相手との意思疎通をはかろうとする一方、軍は業を煮やしていまにも攻撃の態勢です。

未知の生命体が示す文字には過去や未来の時間がないことがわかり、つまり「時間が存在せず、すべてが同時にある」とう概念がルイーズのなかにも芽生えてきます。(詳細はネタバレになるのでふせておきますが・・・)

新しい概念を理解するには、ルイーズのように勇敢でオープンマインドで、わかりたいという情熱が必要です。怖れていて攻撃的である心には、決してそれは理解することができないのです。あ〜これは、わたしたちが本当の「自分」に目覚めていく過程とまったく同じです。ある意味では、自分を捨てる、つまり死を覚悟しているような勇気が必要なのです。

そして、ルイーズは覚醒(?)していきます。

過去と未来が交錯するストーリーにアタマがウニのようになりそうでしたが、終わってから「あ、そういうことだったの」と。あの「シックスセンス」のように、最後に「そうきますか・・・」というちょっとしたドンデンがえしがあり。

それがわかるとちょっと感慨深いし、いろいろと見逃していた伏線もあったように感じます(もう一度みなくちゃ?!)。

おおごとが起きているはずなのに色彩をおさえた画面からはシンと静まりかえった雰囲気が伝わります。そこに未知の物体と生命体が発する不気味な音とルイーズの息づかいが重なり・・・ルイーズの目線になって、今までにないエイリアン体験ができます。

しかし ・・・ 時間を超越するような悟った知的生命体であるなら、なぜこんなにまどろっこしいコミュニケーションの仕方になっちゃったんでしょ?もっとダイレクトな方法があったのでは? という素朴な疑問もありますが・・・(笑)。

こちらには「wired」という原作があり、エンディングが違うそうなので、そちらももうひとつ楽しめそうです。

 

17-08-28 裏切らないアニメ、フェリシーちゃん

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このところ、観たはずの映画は「記憶にございません」状態です・・・(汗)。

寝てた? ・・・ はい、たしかに。

静かめのドキュメンタリーものは爆睡必至(この季節の映画館ほど、熟睡できるところはありません!)。他は ・・・ ヘビーすぎちゃって感想もなし・・・(メディアの評判がよかった「マンチェスター バイ ザ シー」は・・・心が動くというよりは、重すぎて動きもせず。どっと疲れたわ・・・ 汗)。

唯一、楽し〜く鑑賞できたのがアニメ♪ そう、お疲れのときにはアニメ最高♪ 癒されます!「フェリシーと夢のトウシューズ」というバレエもので、原題は「Ballerina」といいます。

ストーリーは、ダンサーを夢みて孤児院から脱走してきた女の子がオペラ座の舞台をめざすというお話。バレエのバの字も知らないずぶシロウトで、おきまりの予想外な師匠があらわれ、ドロくさい特訓が繰り広げられるという、バレエ版ベストキッド?! (しかし ・・・ フェリシーちゃんのこのノリ、どう見てもフランス人よりもアメリカ人なんですけど・・・)

ストーリーは定番だけど、アニメのクオリティがけっこう高いので美しいです(字幕版は大人ばかりで、男性もけっこういらっしゃいました)。


エッフェル塔建設中のパリの景色がとっても綺麗。人物の描写も実写ではむずかしいアングルからとらえられていて、また感情表現も豊か。そして「君の名は。」以降は、どの作品も光が強調されているように感じます。

バレエのシーンは、パリオペラ座の芸術監督が振り付けしているそうで本格的です。吹き替え版では、熊川さんが世界的に有名なバレエ教師の声を担当されています。

近頃の予告編はとてもうまく編集されすぎていることがあって、本編でガッカリしちゃうこともあるのです。予告のほうが、アカデミー賞ものだったりするのですもの。そんなこんなで、ここのところ何本も失敗しました。そのはてのアニメ。ああ、アニメはいつも裏切りません。すっかりアニメ好き♪ 魔女のメアリちゃんも見にいこうかな〜。

PS 少しまえだけれど、「この世界の片隅に」というのん(能年玲奈)さんがヒロインをしていたアニメを観ました。第二次世界大戦中、広島に嫁いだ女の子が、おヨメさんとして戦争を生きぬく様子に涙.涙です。

たくさん泣かされたけれど、「火垂るの墓」のような心がえぐられるような涙とは違う涙です。あたたかさがあるのです。のんさんのほのぼのと優しい声に救われるのだと思います。

 

17-09-06 優雅な野獣 ポルーニン

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バレエダンサーのしなやかな跳躍。

とくに、男性ダンサーのジャンプのダイナミックさといったら! 空宙でも軸がぶれることなく型がぴたっときまっていて、まるでスローモーションのように見えるときもあります。そして、ふわりと着地。笑顔。

今、公演チケット詐欺ですっかり話題になっているダンサー、ポルーニン。彼のドキュメンタリーフィルム「ダンサー、セルゲイ・ポルーニン 世界一優雅な野獣」、とってもよかったです。

ほんとに、彼のジャンプは優雅です。まるで重力とは別の世界にいるように見えるけれど ・・・内情といえば、超過酷。ほんとはボロボロなのですね。

「舞台は戦いだ」「情熱がなくなったら踊れない」とポルーニン。開演のベルがなるやサプリとスタミナドリンクを流しこみ、「これで痛みを忘れるし、だんだんハイになる」と ・・・ (いったい、なに飲んでるのだ?!)。

彼の踊りは、鬼気迫るものを感じます。

でも、一幕が終わった楽屋では、衣装の着替えすらままならないほど、体をなげだす疲れきった姿があります。


セルゲイ・ポルーニンは、ウクライナのバレエ学校にいるときから、すでに突出していて、最年少の19歳で英国ロイヤル・バレエに入団、あっというまにプリンシパル(・・・ その後、22歳であっさり退団)。

それは、人の何倍も練習する影の努力があってこそ。自分の学費を稼ぐために出稼ぎでバラバラになってしまった家族を、成功することで救いたい、もう一度ひとつにしたいという気持ちがあったから。でも、「情熱がなくなったら踊れない」という彼は、両親の離婚で踊るための決定的なモチベーションを失います。そこから、どんどんコワレていくのです。

体じゅう数十カ所の入れ墨、ドラッグ、すっぽかし、奇行 ・・・ それでも、踊り続けないと、すぐに踊れなくなるというジレンマ。牢獄にとじこめられたようで、「才能豊かな問題児」は葛藤します。

「もう自由になりたい!引退する!」 と、最後のフィルムを自分らしい作品にしようと情熱を傾けます。感情をぶつけるように床をころがりまわり、宙を舞う、コンテンポラリーなダンス。

そして、そのフィルムを撮り終わったら ・・・ 引退 ・・・ のはずが、ナント、ふっきれた! また「踊りたい」と。

天才と言われるような一流ダンサーの舞台裏、ほんとうに過酷ですね。

そして、磨き抜かれた筋肉そのものであるしなやかな肉体美、それを維持するためのたゆまぬ努力。 ・・・ 引退する日までそれをストイックに守りぬくのだな〜(ため息)。

バレエを観ていると、華やかなエトワールにばかり目がいってしまうけれど、男性プリンシパルの優雅でダイナミックな踊りにもご注目あれ。その演技に息をのみます。

↑ このみごとなジャンプ! ミロノフ先生みたい〜♡(これがわかった方は、かなりふるい!笑)
きれいな「上」の字、これはもじもじくんにスカウトされるかも。全身タイツでも似合うだろうから(笑)、問題なしですね!

 

 

17-10-07 ドリーム

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

アメリカが有人飛行計画で、ソ連に遅れをとるまいとしのぎを削っていた '60年のはじめ。それはまだ人の手にその膨大な計算をたよっていた時代。

そんな状況下、NASAでアポロ計画へと続く有人飛行計画をささえた影なる優秀な人物、三人の黒人女性の存在があったのです。

人種差別というハンディを背負いながらも日々奮闘する彼女たちの姿を描いた、実話をもとにしたストーリーです(原作「Hidden figures」)。

黒人社会で天才とうたわれた彼女たち。しかし、ところ変われば天国と地獄! ただでさえ、女性が男性と対等に働くことがまだまだ難しかった時代に、黒人という大きなハンディキャップは、当然輝けるはずの場をことごとくを奪ってゆくのです。

白人男性ばかりがぎっしり詰まった職場に配属された日、部屋に足を踏み入れるなり、あの異様なものを見るような冷たい目線といったら。そのうえ、お掃除のオバサンとしか見られずゴミをおしつけられ・・・。

また、「彼女は毎日40分も席にいないが何をしているんだ?」と上司がいぶかる事態が発生。 ・・・ じつは、雨の日も風の日も、「非白人女性」用トイレを求めて800m先のビルまでハイヒールで全力疾走する毎日。差別はこれだけにとどまりません。

こんなツライ状況に、ついにキレて感情を爆発させてしまうシーンでは、彼女と一緒に涙せずにはいられませんでした。

差別を解消するには「能力があっても何も変わらない。闘うしかないんだ」という見方もあるなか、彼女たちはひたすら正直に向き合うことと、そして女性ならではの柔軟さで、ついには信頼を勝ち取り、そのポジションをゆるぎないものにしてゆきます。

でも、彼女たちはただただ仕事に打ち込みすべてを犠牲にしてしまうようなキャリア志向の女性ではなく、シングルマザーで子育てをしていたり、恋愛中だったり ・・・ キャリアというものが生活のなかで切り離されているのではなく、とても自然に自分の生きる道をひとつになっている感じがします。

ちょっと仕事で行き詰まっている方、前向きなパワーを感じたい方、オススメです!

涙壷度:★★☆☆☆(いつだって、魂の叫びには心が動かされます)

それにしても、'60年代のアメリカでさえ、まだこんな状況だったのだな〜 ・・・ 世の中というのはなかなか変わらないようでありながらも、50年余でもどんどん意識が変化しているのを感じます。

ここからまた50年たったら ・・・ 2017年って、あんなヘンなことしてたのね〜、あんなおかしな考えしてたのね、あんなに不自由だったのね、ということになるのでしょうね(残念ながら、見られそうにありません・・・汗)。

 

 

17-10-10 永い言い訳

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長い ・・・ じゃなくって、永い ・・・ 言い訳って? と、DVD屋さんで気になり手にとった一本。

「永い」理由って? ・・・ 言い訳を言いたい人が、今ではとどかぬほど遠くにいってしまったら、永くなる? あるいは、永〜く永遠に言い訳しつづけなければならないほど、うしろめたい?

言い訳をしたいときは、いつだってうしろろめたいとき。うしろめたさが強ければ強いほど、言い訳は長くなり。けれど、本当に言い訳を言いたい相手、受け入れてほしい相手とは、じつは自分自身なのですよね。

作家である主人公の幸夫(本木雅弘)は、浮気をしているまっただ中に奥さんを事故でなくします。どうにもならない後ろめたさを背負いこみ、なおかつ本来の癒されていない自己の複雑さもあり、まったく自分と折りあいがついていません。だから泣けません・・・。



そんなふうに自分を自分で認めていないせいで、まわりの人にあたりまくるし。そのうちなりゆきで、事故で亡くなった奥さんの友人のこどもたちの世話をすることになり ・・・。

いくつかシーンで印象に残ったのは、ドアがバタン!と閉まる音。

これはまさに、その人物が「もう、ムリ!それ以上近づかないで」と言っているような、自分から相手を切り離す音。登場人物がいっぱいいっぱいになると、バタン!と自分のこころのなかに逃げこむ音がするのです。

そして、たどたどしくって、どこかなつかしいピアノの背景音。

登場人物の不器用さ、一生懸命さとかさなって、愛おしさを感じる旋律です。

こんなピアノの背景音は、是枝監督の「そして父になる」と重なります。観ているうちに、いつのまにか是枝さんの作品かと思ってしまいました(モっくんが福山さんに見えてくるし・・・汗)。あとで知ったのですが、この原作・脚本・監督をつとめられている西川美和さんは是枝監督のもとにいらした方だったのですね。どうりで、是枝監督臭(笑)がぷんぷんします。

幸夫がこどもに話しかけるシーンがあります。これは彼が自分に言い聞かせているセリフです。

「愛してくれるものを、ないがしろにしたり、みくびってはいけない。離れるときは一瞬だ」と。

ホント、愛って慢性的になってしまうと、透明になってしまって、そのありがたさも、貴さも、大きさもわからなくなり、感謝するどころか、そのやさしさに甘えて自分の痛みをおもいっきりぶつけてしまうことがあります。相手が傷ついていることを知ることもできず。 ・・・ こころに残るひとことでした。

涙壷度:★★★☆☆(こういう話しにこどもを持ち出したら泣けること必至じゃないですかっ!反則ですぞ)

PS こどもとともに覚醒してゆく幸夫くんの姿がカワイイ♡

 

 

17-11-25 D・ホフマン、老紳士の恋のゆくえ

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「リチャード・カーティス脚本」にひかれて見た一本、「素敵なウソの恋まじまい」。

リチャード・カーティスさんは、わたしの好きな作品のひとつである「ラブ アクチュアリー」の監督さん。最近、「アバウト・タイム 〜愛おしい時間について~ 」を最後に監督業を引退されたのです。彼の作品は、ユーモアがあって、どこか哀しくもあり、人生への愛が伝わってくるような何度も観たくなる作品。今回はシナリオだけですが、でもしっかりカーティスさん色でこころが温まります。

バルコニーをお花でいっぱいにしているその老紳士、ホッピーさん(ダスティン・ホフマン)はこころ優しい、けどちょっとばかり不器用。彼が恋したのは、アパートの階下に住む未亡人の老婦人、シルバーさん(ジュディ・デンチ)。

ホッピーさんは奥手すぎて、恋のチャンスがやってきてもぜんぜんものにできないのです(それがまた、なんともカワイイのですが)。そして、愛するシルバーさんがカメを溺愛しているのを見て、カメになりたいとさえ思います。

ある日、シルバーさんはカメのアルフィーがなかなか大きくならないことを不憫に思っていると、ホッピーさんに打ち明けます。ホッピーさんは彼女を喜ばせれば好きになってくれるかも!という魂胆で、カメが大きくなる呪文を伝授するのです。もちろん、そんな呪文では大きくならないので、すでに次なる作戦をねっていました。それは、2日に一度、シルバーさんのベランダにいるカメを少しづつ大きいサイズのカメにすりかえてゆくということ。彼女の喜ぶ顔を見て、さらに愛情もゲットしおう考えたわけです。

その作戦のため、彼は少しづつ大きさの違うカメを100匹手に入れて、共同生活をはじめるのです。そのホッピーさんとカメたちの様子が、ひとつの重大ミッションを目指すチームのようでおかしいのです(と、いってもホッピーさんが一方的にカメたちに話しかけているだけですが)。しかし、そのうち、強力な恋のライバルが出現し・・・、作戦も難航しはじめ・・・。

でも彼のひとこと「愛されなくったって、愛する気持ちはとめられない・・・」。

いくつになろうとも、いったん恋をしたら有頂天になったり落ち込んだり、一生懸命。ほっこりしたいときにオススメの一本です♡ キュートなふたりの様子は、まるで5才の男の子と女の子のようです


ダスティン・ホフマンもすっかり、老紳士がお似合いのおとしとなったのですね。

でも、ショーン・コネリーだって、リチャード・ギアだって、ロバート・デ・ニーロだって、みんなシニアになってからのほうがずっとずっとよい感じでした。余計ないろいろ(・・・ってなんだ?)がすっかりおちて、そのままでいいおダシが出ている・・・ そんな感じ。このジュディ・デンチも、花柄のサンドレスが似合うとってもとってもキュートなおばあちゃんです♡

 

 

18-01-14 ダンシング・べートーヴェン

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モーリス・ベジャールの「ボレロ」は、ドラマチックな振り付けで有名です。

その大成功した「ボレロ」の次なる傑作が、べートーヴェンの「第九交響曲」。しかし、1978年にベジャールによって上演が封印され、ベジャール亡きあと「第九」の再演は不可能といわれてきたそうです。

その「第九」が、東京バレエ団の創立50周年記念としてモーリス・ベジャールバレエ団と共同制作されることになり、その上演までの9ヶ月間を記録したドキュメンタリー作品です。

生涯にわたってひとつの作品を手直ししつづける振付家もいるそうだけれど、ベジャールは次々と新しいものを生み出すタイプ。そしてその姿勢は彼の生みだすダンスにもあらわれていて、まるでフロアに足がつくまえに次のステップをふんでいくような独特の振り付けです。

「第九」を作曲した頃のベートーヴェンはほとんど聴覚を失っていたそうなので、もしべートーヴェンがベジャールの「第九」を見たら、音のひとつひとつを「目にする」ことができただろうに、とコメントされていました。それだけひとつひとつの音を大切にして振り付けされているので、ダンサーはとても繊細な表現を要求されます。

ローザンヌと東京でのダンサーたちの稽古風景、そのあいだに起こったアクシデント、演出家やダンサーのインタビュー、オーケストラや合唱団の練習風景がおりこまれ ・・・ 出来上がった舞台では、350人ものアーティストたちがごく自然に踊り、演奏し、歌っているけれど、そこまでの全力で創りあげてゆく道のりをつぶさに見ることができます。



そして、出来上がった「第九」は今まで自分が知っていた「第九」とは思えないものに。あらためてベジャールのダンスにこころが揺さぶられ、引きこまれるのを感じました。

ああ、またこの作品が上演されることがあったら、最初から終わりまでの流れを感じながら、まるまるすべてを楽しみたいものです。

 

 

18-03-01 爆音&ショーマン

最近観た二本。まず一本目は・・・

スクリーンのまえには大きなスピーカーがゴロゴロ。コンサートが始まるような風景ですが・・・。

これは「爆音映画祭」の爆音上映会で、いくつかフィーチャーされた作品が爆音で上映されます。

爆音といってもただ音がガンガン大きいということではなく、普通の上映では拾われていないようなさまざまな音、むしろ意図的にカットされているような自然音などもその場面によって音が大きくされているのです。

でも、それによってかえって、登場人物の心理状態をあらわにしていたり、その場面がとてもリアルな感覚で伝わってきたりします。

私が観たのはジョン・カーニー監督の「はじまりのうた」。

キーラ・ナイトレイ扮するグレタがシンガーソングライターなので、彼女の歌声とさらに恋人役のアダム・レヴィーン(彼は何度もグラミー賞をとっています)の歌をたっぷり聴くことができます。

そして、これは以前に観ている作品なので、オリジナルとの違いがわかりやすいのです。



例えば、浮気をされて傷心のグレタが友人のライブハウスの片隅でボーっと飲んでいるのですが、突然ステージで彼女の歌を披露する機会を与えられるシーン。

バーカウンターの向こうのグラスや氷をあつかう音とか、ホールの人のさざめきが本来の作品よりも強調されていて、そのために彼女のこころの孤独感とか疎外感がよりひしひしと伝わってくるのです。

アダム・レヴィーンのライブのシーンなどは、まるでなまライブ会場にきているような臨場感。

どの場面もまったく不自然ではなく、むしろ街の喧噪やら、場面々々の自然な音をしっかりととらえているので、よりストーリーは現実味をましていたように感じたのでした。

これはお気に入りだったので、音を楽しみながら再び観られて楽しかった!

さて、もう一本は「グレイテスト・ショーマン」。

こちらも音楽が楽しめるミュージカル作品です。去年の今頃ヒットしていたオシャレなミュージカル「ラ ラ ランド」のスタッフが手がけたといいますが、こちらはだんとつゴージャスでパワフル!

テレビのトレイラーでもおなじみの「This is ME !」の歌声は圧巻です。この季節、新しい環境で新しいチャレンジをはじめるたくさんの人たちの背中をおしてくれるナンバーですよね。

テンポのいい展開とパワフルな歌声とダンス、そしてどの場面もきらきらゴージャスで、あっというまの2時間余でした。



私たちはみんな、自分には足りていないと思っているものをつけ足すことに忙しくって、それこそが幸せへの道のりであり、人生だと思ってしまっているけれど・・・それが粉々にくだけ散って、「そこには何も手にするものはなかったのだ」と悟るまでは、なかなかほんとうに大切なものに気づくことができません。

苦しい思いをしながら長い長い旅をして、結局はもといたところに舞い戻ってきて ... けれども、その旅の果てにこそ、「ようやくすべてはOKだった」ということを知ることができるのですよね。

ヒュー・ジャックマンのショーマン、はまり役でした。

 

 

18-03-21 シェイプ オブ ウオーター

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

今年のオスカーは、「シェイプ オブ ウオーター」でしたね。

このギレルモ・デル・トロ監督のラブストーリーが受賞したときいて、「え?! ウソでしょ」ってびっくりしました。それもかなりの純愛ものらしいし・・・。

以前、この監督の「パンズ・ラビリンス」というファンタジーを観たとこがあるのですが・・・。

それは、ひとりの少女がツライ現実から逃避して、迷宮でさまざまな架空の生きものに出くわすファンタジー ・・・なのですが、

それがまた、このうえなくダークで血みどろ、グロキモさがハンパなくって、まさにB級ホラーな作品だったのです。

何人かのお客さんは途中で席を立った人もいましたが、私は結末見たさに胸のムカムカを我慢して最後まで頑張りましたっけ。それほどドロドロ・・・。こどもが観たらトラウマ必至ものです。(でも、グロキモさに気をとられなければ、よくできた作品だと思います。)

そんな監督なので、純愛ものってどうよ? と疑惑の思いをだきつつ「シェイプ オブ ウオーター」を鑑賞いたしました。



ファンタジーのようでありながら、サスペンスのようでもあり、どこかB級ホラーのグロキモさも残しながら、ちょっと乙女チックに、美女と野獣をうわまわる純愛っぷり。

画面全体がずっと水の底のような静かな色合いで、まるで口をきくことができないヒロイン イライザのこころの静けさからながめているようです。でも、彼女が恋をするやいなや画面に鮮やかな赤があらわれます。彼女の一途な情熱をあらわす色。

彼女が恋するミステリアスなフィッシュマンは、アカデミー賞でメーキャップ賞をとった辻一弘さんが瞳の制作をてがけているそうな。グロテスクな風貌につぶらな瞳のミスマッチで、恋に恋する女の子をあっというまにとりこにしてしまったのでした。

純愛映画といいつつも、さすがギレルモ・デル・トロ監督、彼なりのホラーなエッセンスもちりばめられていてドキドキします。

そしてエンディングでは、私なりの続編まで頭に浮かんじゃいました。

水の底に招かれたような不思議な120分間。けっこう好きです、色合いも音楽も。そしてフィッシュマンも、嫌いじゃないな〜(笑)。

 

 

18-05-06 ポリーナ、私を踊る

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フランスの人気バレエ漫画「ポリーナ」(日本でも出版されているそうな)の実写版シネマ「ポリーナ、私を踊る」。

誰もが経験する「自分らしく生きる」という人生の葛藤を描くとともに、ふんだんにもりこまれているコンテンポラリーダンスがとても美しいです。

ジュリエット・ビノシュが振付家として登場し彼女のダンスも披露していますが、まるでほんものダンサーの迫力。また、かつてオペラ座のエトワールだったジェレミー・ベランガールのコンテンポラリーダンスもすばらしいです。

貧しいポリーナの両親は、娘をプリマ バレリーナにすることが夢。

借金とりに悩まされながらポリーナを厳しいバレエ学校に通わせつづけるのですが、まったく目をかけてもらえない日々。そんな屈辱にたえながらたゆまぬ努力をつづけ、成長したポリーナはついにボリショイバレエ団のオーディションに受かることができたのです。さあ!これから、というそのとき ・・・ ポリーナは古典バレエではなく、コンテンポラリーダンスに突如目覚めてしまうのです。「もう他人の振り付けをマネるのはいや!」と、そこから彼女の踊りと自分さがしの葛藤の日々がはじまります。

ロシアから南フランス、そしてアントワープへ。深夜のバーで働き、両親とも疎遠になり、完全に身をもちくずしたように見えるポリーナは ・・・。



本人がどう葛藤しようとも、自分のなかにある自分という種は、いつかは発芽してその姿をあらわさずにはいられないのです。本人がどうであろうとも。

一見どんなに違う方向に進んでしまったように見えたとしても、じつはそのひとつひとつの体験が発芽する力をたくわえるエネルギーに変わり、じっとその日を待っています。

ポリーナにとって、褒められることもなくこきおろされつづけた幼い日のバレエのレッスンも、チャンスがめぐっても主役を掴みきれなかったことも、恋人と破綻したことも、住むところすらなくなってしまったことも、すべて挫折というラベルをはることもできるけれど、じつはそのすべてがほんとうの自分が待っている梯子を登りつめるための大切なステップ。どれひとつがぬけ落ちても、上に進むことができないのです。

ポリーナ本人以上に彼女の「人生」のほうが、よっぽど彼女にとって何が真実であるのかを知りつくしていたのようです。

そして、私たちも同じ。

アタマでああだこうだいろいろと考えるけれど、考えたとしても結局は思うようにはまらず、エネルギーばかりを消耗してしまいます。なぜなら、本当は自分は何もできないから。知っていると思っているけれど、ほんとうは何もわからないから。

けれど、勝手に展開してゆくように見える人生こそがすべてを知っていて、それこそが真実そのもの。勝手にさせておくことこそが、いちばんの贈り物となるのです。なぜなら、それは間違いようがないからです。わたしたちは間違うけれど、人生という真実は間違いません。

つまり、自分こそが「やっている!」というおごりがあるときのほうが、こんがらがってしまうようです。あまりにも自分がチャチャをいれすぎてうるさくすると、「ちょっと静かにしていてくださいね」と愛の一撃をくらって静かにせざるをえなくなります。なぜなら、展開することこそが真実だから。ただリラックスして、人生に勝手に生きてもらいましょう。

必ず、自分が思っているよりも気にいる結末になるに違いありません!

その昔、モスクワの劇場でボイショイバレエを観たとき、舞台の真横にある桟敷席だったのです。

白鳥の湖の王子がソロで跳躍するたびに、その着地の音というか響きのすごさにびっくりしましたっけ。羽のように優雅に見えているのに、近くで観ているとすごい重力が伝わってきます。

上から観ていると舞台に死角ができて、そこに王子が踊りながら消え去ったときにドスン!という地響きがすると、王子が転んだのでは!とひやひやしたものでした(そんなわけない! 苦笑)。

肉体の酷使だけでなく、さらに芸術性の追求も加わって、ほんとうにダンサーさんたちはすごいな〜と感心しましたっけ。

 

 

18-06-16 ナミヤ雑貨店の奇蹟

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かつて、地元のひとたちの質問やお悩み相談を請けおっていた町の小さな雑貨店。

たわいもない小学生の質問には、お店の外の掲示板に答えが貼りだされます。もっと深刻な人生相談になると、翌朝お店の脇にある牛乳箱のなかに回答がひっそりとさしこまれているのです。(劇中の若者も知らなかった「牛乳箱」。今じゃほとんどお目にかかれませんが、牛乳が毎朝配達されていた昭和の時代にはこの箱がどこのお家にもあったのですよね〜。)

悩み相談をしていた店主もいつしか年老いて ・・・ その店が閉じられてしまってから久しいある晩のこと。すでに廃屋のようになったナミヤ雑貨店に悪ガキたちがしのびこみ ・・・ その一夜に彼らが経験する不思議にも優しい雑貨店の奇蹟。

それは時間をこえて、過去や未来、そして人と人が繋がりあうえにしの物語。

この「ナミヤ雑貨店の奇蹟」が映画館にかかっていたときには、さほど興味がなかったのでした。新人俳優さんや、アイドルさんたちのプロモ的な作品かな〜 ・・・ ぐらいに思っていたから。

でも、東野圭吾原作と知って、それも「東野作品のなかで、最も泣ける話」とあり、ガゼン観てみたくなりました。

東野圭吾さんの作品はずいぶん映画化されていますよね。全部観ているわけではないのですが、私のお好みはちょっと摩訶不思議で、切なくって、でも暖かみがある作品。

いちばん最初に観た東野作品は、まださほどメジャーになっていなかった玉木宏さんが主演していた「変身」。もう十数年まえで物語の詳細は忘れましたが、切ないストーリーがずっとこころに残っていました。その後、東野圭吾さんもどんどん有名になっていかれた気がします。



テレビなどで見る「ナミヤ雑貨店」の予告では、山下達郎さんの歌声が記憶に残っていますが、劇中では門脇麦さん演じるシンガーが歌っています。

完全に達郎節の作品だと思っていたけれど、歌う方が変わるとこうも違うものかとびっくり。まるで別モノです。門脇麦さんの憂いあふれる澄んだ歌声がこころにしみわたります。



時空をこえて届くお悩み相談への回答によって、踏みはずしかけていた人生にしっかりととどまり、力づよく人生を切りひらいてゆく女性がいます。

こんなふうにずっとずっと先の未来まで見越したうえで与えられる、ぜったいに間違いのない導きがあったらいいよね〜・・・ と不覚にもうらやましく思っちゃいましたが ・・・

そうでした、あるのでした! ちゃんと私たちひとりひとりにも同様の助けが。 ひとりひとりのずっとずっと先まで見越しながら、完璧に間違えない答えを、いつなんなんどきでも手にする方法が!

この女性のように、自分の迷いに対して完全に正直になって(ナミヤ雑貨店に相談される方は、みんな自分の弱さに正直になって相談しています)、自分で勝手に回答を決めつけるのではなく、手紙のやりとりをするなかで目覚めてゆきます。

私たちも、自分の弱さに対して隠すことなく正直になって、そして尋ねることが必要なのだな〜と感じます。道に迷っていることを自ら認めて、その問いを委ねることが大切なのだな〜と感じます。

でも、私たちにはナミヤ雑貨店のポストはないので、自分のハイヤーセルフに対してこころのなかで手紙を書きます。そして、牛乳箱がないならば、そのお答えはきっとハートなかに静かにおかれることでしょう。

この女性が導かれるように人生を切り開いて、ついには自分がいるべきところにちゃんといる ・・・ というように。

涙活したいときにはオススメの一本です!
涙壷度: ★★★☆☆

東野圭吾さんの作品、いろいろと観てみたくなりました♪

 

18-06-22 あん

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観終わったあと、近くの桜並木に行って、しばらくベンチに坐っていたくなった作品です。

先日、C子ちゃんに会ったとき、「たかちゃん、樹木希林のあんをこねてる映画観た?」って。

C子ちゃんは飛行機のなかで観て、おもわず大泣きとなり、帰りの飛行機でまた観て泣いたそうな。

はいはい、観てはいないけれど、いっぱい賞をとってる河瀬直美さんの作品で気になっていたのです。予告のなかの、あんをこねる希林おばあちゃんの姿が印象的でした。

さっそく、TSUTAYAさんに行ってみると「あん」はあったものの。ナント棚にある7枚全部が貸し出されているではありませんかっ! 他のメジャーな作品をみても、全部出払っているなんてことはないのに。あら〜・・・ 「あん」ブームなの?

再度訪れて、やっと一枚見つけました。

小さなどら焼き屋さんの求人広告を見てやってきたのは、76歳のおばあちゃん。

「どら焼き屋といっても、ちから仕事だから」と断られるものの、おばあちゃんはあきらめないのです。時給300円、いえ、200円でもいい!と。

おばあちゃんには、どうしても働きたい理由があったのです。

そこから、どら焼き屋の店長とおばあちゃんと、そしてお店にやってくる中学生の女の子もまじえてストーリーが展開してゆきます。

このおばあちゃん、あずきを煮ながらじっと顔をおなべの近くによせているのです。店長が不思議に思ってたずねると、「あずきが見てきた雨の日や晴れの日や、そういう旅のはなしを聞いているのよ」と。

おばあちゃんにとって、ゆっくりと丁寧にあずきを煮てあげることは、あずきへのおもてなしなのです。

そんなおばあちゃんを見ながら、まわりの人々にも変化が起きはじめます。が・・・。

おばあちゃん役の樹木希林さんのひとことひとことが、心にしみいってくるようです。また、中学生役の女の子も希林さんのおまごちゃんの伽羅ちゃんで、子役養成所の役者さんでないところがかえって力みがなくってよい雰囲気です。

観終わって、木の下で深呼吸すると ・・・ ああ、風ってこんなに甘い匂いがしていたんだ〜とか、葉っぱが風にそよぐ音とか、夕暮れまえの空の色とか ・・・ 幼い頃にはちゃんと気づいていたはずのことに今さらながら気づかされたのでした。

そして、どら焼きを頬ばりたくなりました。あずきがつぶれていないおいしい粒あんの♡

涙壷度:★★☆☆☆(心にじんわりしみいります・・・)
C子ちゃん、すてきな映画を教えてくれてありがとう。

 

18-08-18 奇跡の絆

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浮気の罪滅ぼしとして、奥さんであるデビーがボランティアをしているホームレスの支援施設で手伝いを始めるロン。

神経質なロンにとって、その環境は菌にあふれている不浄な場所で、こまごま手伝いをするより必要なお金を寄付することですまそうとするのです。一方、デビーは、何の偏見もなく真の思いやりと奉仕の気持ちで、そこにやってくる一人一人と平等に友人になろうと務めます。

そのホームレスのなかには、「自殺者」と名のる暴力的で破壊的で見るからに凶暴な黒人男性もいて、デビーの優しいひとことにいちいちくってかかってくる始末。しかし、デビーは彼がどのように振る舞おうとも変わりなく気にかけることをやめません。

そんなデビーの無防備であるがままを受けとめる姿勢に、すこしづつ心を開きはじめる「自殺者」ことデンバー。それとともに明らかになる、人種差別による過酷すぎる彼の過去。

「ムーンライト」という貧しい黒人青年の成長を描いたアカデミー賞作品を観たばかりだったので、この黒人男性デンバーの過去とも相まって、つい最近まであたりまえのように行われていた人種差別にこころが痛みました。

デビー・ロン夫妻とその黒人ホームレス デンバーとのかかわりあいにおいて、一見、裕福なデビーとロンが与えて貧しいデンバーが与えられるという図式なのですが、結果としては両者が同じように受け取り、癒され、解放されてゆきます。そして、それが当事者にとどまらず、もっともっと多くの人に広がってゆくことに・・・。

つながりあったときに起こるさまざまな愛の奇跡。

まったく偏見をもたず、過去ではなくたった今のあるがままをみようとするなかで、癒しというものは自然に起こってくるし、人は自分の真の姿をあらわさずにはいられないのだと感じます。

これはNYタイムズのベストセラーとなったノンフィクションをもとにしたストーリーなのですが、最後のエンドロールに黒人ホームレスのデンバーの実写と肉声があり、そこでこんな言葉が語られています。

「誰もがみんながホームレスであり、家に帰るために闘っている。その途上で、怒りと不安で不合理なことをしてしまうんだ」
「与えたものだけが、永遠にあなたの手にのこるものだ」

まったく無学なデンバーにとって、これはまさにハートで体験したことなのでしょう。



邦題は「奇跡の絆」といいますが、もとのタイトルは「Same Kind of Different as Me」、私とちがう同じ種類のひと。

違いに注目すれば、いつまでたっても違いしか見えないけれど ・・・ その違いという見かけを越えて、同じであるところを見ようとすることから癒しが可能となります。

癒しと日々向きあうものとして、多くの気づきをもらうことができる作品でした。

涙壷度・・・★★☆☆☆(実話はやっぱりこころを揺さぶるものがあります)

PS 無条件の愛にあふれた女性デビー。ずっと、この声、この話し方、知っているな〜と感じていたのですが ・・・ 観終わってしばらくして気づきました。レニー・セルヴィガーさん。あのオフィスの机に大きな板チョコをたたきつけてかちわっていたブリジット・ジョーンズも、しっとりと大人の女性になったのですね!(笑)

 

 

18-08-31 マンマ・ミーア!2

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「マンマ・ミーア!」は ABBA の軽快な楽曲があふれる楽しいミュージカル映画で大好きでした。あれから早10年 ・・・ 続編「マンマ・ミーア! Here We Go Again!」登場です!

ギリシャの美しい島で小さなホテルを営む母娘 ドナとソフィ(メリル・ストリープ、アマンダ・セイフライド)。

娘のソフィが結婚をひかえて、どうしてもヴァージンロードをお父さんと歩きたい!と密かにお父さん探しを始めたら ・・・ ナントお父さん候補が三人も。その三人をこっそり結婚式に呼んでしまう ・・・ というドタバタ ロマンティックコメディでした。

今回の続編は、のっけからお母さんのドナが亡くなっていて、まだみんながその悲しみから抜けだせずにいる状態。そして、ソフィの結婚生活ももはや雲行きがあやしく・・・ 。

あの触れあうすべての人をインスパイアしちゃう太陽のように明るいドナ(メリル・ストリープ)がいなくなっちゃって、この続編ほんとうに大丈夫なの? と思ったけれど、1作目につづきこちらもとっても楽しくって心があたたまるミュージカルに仕上がっています。

亡き母ドナの若かりし頃のストーリー(ソフィの三人のお父さん候補とのいきさつ)と、現在のソフィが重ねあわさって、おもわずホロリとします。



ロマンス、友情、親子愛、夫婦愛、隣人愛 ・・・ 、そこにギリシャの美しい景色(ロケはクロアチアだとか)と ABBA のなじみのあるハッピーなメロディーと、はっちゃけダンスと。

一作目をご覧になっていない方は、ちょっとだけストーリーを予習しておけば楽しめるはず。

前作も、もういちど観てみたくなりました♡

涙壷度:★★★☆☆ (メリル・ストリープ登場でいっきに泣けました・・・)

 

 

18-09-29 ギフテッド

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天才数学者が志なかばで突然この世を去り ・・・ あとに残された幼い娘のメアリーもまた、たぐいまれなる数学の才能に恵まれているこどもだったのです。

その子を託されたのは天才数学者の弟、つまりおじさんにあたる存在のフランク。彼はメアリーをなんら特別扱いすることなく、ふつうの学校に通わせます。が、なんせアタマがよすぎるせいで、さまざまな問題が勃発・・・。

一年生の算数なんてちゃんちゃらおかしくってやってられない ・・・ となると、まわりに対するメアリーの態度もだんだん横柄になり・・・。先生すらこの子にたいして、まるで腫れものにさわるような態度。

さて、この子はいったいどう育てたらいいのでしょうか?

そこにあらわれたのが、おばあちゃん。亡くなった娘がなしえなかった夢をかなえるべく、メアリーの養育権を主張しはじめます。

しかし、そのおばあちゃんは娘を天才数学者へと育てあげはしたものの、結局は自殺においこんでしまった人物。けれど、当の本人はなぜ娘がこの世を去ったのか、なぜ孫娘が弟(息子)の手に託されたのか、その理由が自分にあろうとは自覚していないのです。

こどもにとって、何がいちばんいいのか・・・、幸せなのか・・・。

それはときとして、親が自分の物差しで自分に足りていなかったと感じていることや、自分が夢みていたこと、挫折してしまったことなどに、「こどものための愛」というラベルをはって達成させようとしてしまいがちです。

こどもはこどもで、それが自分が欲しいものとは一致しないため、押しつけられていると感じて怒りを覚えます。

ほんとうのところは、それがどんな表現になっていても「自分が思っているいちばんいいものをあげたい」という愛以外のなにものでもないのですが。相手のニーズを考えていないというところが問題なのです。

ただ愛の思いだったものが、親の不足感やら、怖れやら、羨望やら、欲望やら、さまざまな癒されていない過去の思いとごちゃまぜにされてさし出されると、与えてもらった人にとっては愛を感じるというよりは、攻撃されていると感じてしまうのです。

親「ホラ、あなたのことを思って、いちばんいいものを与えているのだから、なぜ喜んで受けとれないの?」 子「いえ、そんなものはいりません(望んだこともないし〜)」  親「せっかく、あなたの幸せを思ってそうしているんだから ・・・ 素直に従ってちょうだい」 子「怒・・・(それって私のじゃなくって、自分の幸せなんじゃない?)」・・・ ってなことに。

フランクのちょっとワイルドでぶきっちょな、真っ正面から向き合う子育ては、あたまでっかちになりそうだったメアリーを感性豊かな、楽しむことをしっている子どもに育ててゆきます。

メアリーが、「私なんていなくてもよかったんだ!」と落ちこんだとき、フランクがメアリーをあるところにつれて行く場面があります。これは涙腺崩壊。きっと観ているひとそれぞれが、自分のことに想いをはせて重ねあわせることと思います。「そうか、私もこんなふうに喜ばれて生まれてきたんだ」って。

子役の女の子がほんとにキュートで観てて癒されます。おじさん役のクリス・エヴァンスもワイルドでかっこよく、思った以上に泣ける映画でした。「(500)日のサマー」の監督さんです(「(500)日のサマー」も好きです♡)。

「ギフテッド」涙壷度:★★★★☆

 

 

18-10-05 スリー・ビルボード

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路肩に立てられた三つの広告看板から巻き起こされるドラマ。

ことのはじまりは・・・ 娘を殺害された母親が、その事件にまつわる自らの罪悪感をもてあまし、それをいまだ事件を解決できない警察に対する怒りにかえて、路肩に三枚の広告看板を立てたこと。

その罪悪感と怒りと悲しみによって立てられた真っ赤な三枚の広告看板は、それを目にする人たちのこころをザワつかせ、そこから引き起こされる出来事の数々・・・。

ひとりの怒りがほかの怒りをよびさまし、エラく破壊的な状況へとつながってゆきます。

殺人・暴力・自殺・襲撃 ・・・ しかし、観ていてあまり暗い気分にならないのはなぜでしょうか? メリメリはまりこむことなく、どこかドラマの外側からふかんして観ている感じがあります。

おそらくそれは、音楽のせいもあるかも?

はじまりのBGMなど、やたらのどかで平和です。その後も、楽しげな音楽が奏でられます。(私たちも日常で、メイメリとドラマにハマりこみそうになっているときには、突拍子もなくのどかの音楽をかけてみるといいかもしれませんね。シリアスになれません。笑)

また、いろんなところで小さく裏切られるストーリー展開 ・・・。

「きっと、こうに違いないよね」「こうなるよね!」というところで、「え? そうくるの? 」という驚きがいくつかあり、そのミスマッチな流れのせいで緊張感がうすらぐのかもしれません。

凶暴でとても笑えないはずの場面で、思わず苦笑しちゃったりします。

重苦しくならざるをえないストーリーのはずが、どこかに和やかででやさしい空気が流れているのを感じられて、観終わったあとも不思議な感覚の作品でした。

ほんとうにハリウッドの女優さんのリアリティはすごいな〜と感じます。

日本の女優さんだと、すさんだ様をメイクで作ろうとするけれど、この女優さん(フランシス・マクドーマンド)、マジな感覚があふれていて迫力があります。

だから、リアリティが圧倒的に違うのです(さすが、演劇の三冠王!)。凶暴性もハンパなくって笑えてしまうのですが、その反面、ピュアなところが愛しくうつります。

予想していた内容とは違っていた! という意味で、おもしろかったです。

 

18-10-14 IT “それ”が見えたら、終わり

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“それ” は、どこにでもあらわれる
“それ”は、どんな姿にも形を変える
“それ”が見えたら、終わり

ホラーはあまり観ないけれど、このキャッチにひかれました。これって、こころが感じる怖れの定義と同じじゃない?って。

いったんこころに「怖れ」をもったなら、その怖れの対象は容赦なくどこにでもあらわれるし、その「怖れ」をもっている人がもっともコワイと感じる形で目のまえにあらわれるし ・・・。けれども、外側にある怖れの対象にむかっていた注意の方向を逆にして、自分のこころに向きなおり、「怖れの正体を見てみよう!」とこころのなかをのぞくと、なぜかそれは消えてしまうのです。

これもそういうことかしら? こどものときは何でもコワく見えたし、キョーフがキョーフを呼ぶのです。

はて? これはホラーなの?? なぜか笑っちゃうぐらいコワくありませんでした。

ホラー映画歴代首位なんていううたい文句に、期待がふくらみすぎちゃったかしら?

こどもにとっては壁のシミがお化けに見えたり、風のうなる音が叫び声に聞こえたり、妄想がふくらめばふくらむほど知覚が狂っていくものなのですよね。

なぜなら、私たちの知覚は自分のこころが感じたいと思うものしか感じさせてくれないので、怖さを握りしめているだけでどんどんホラーな世界にはまりこむことができるのです。

まさに知覚のワナで、それは堂々巡りです。自分でやっていることがわかるまで抜け出せません。

こどもたちにとって恐怖の対象がピエロとして現れるのですが、冒頭の男の子が行方不明になるシーンなど、水がじゃぶじゃぶあふれる側溝のなかから顔をのぞかせる殺人ピエロを見たとき、コワいというよりは「あんさん、そこでなにしてはる?」と思わず笑っちゃうしまつ(なんかすごくギャグっぽく見えた・・・汗)。

なんでしょね? コワさが足りない・・・。トシのせい??

で・・・ たんだん観ているうちに疲れてきて(けっこう長いんです、これ) ・・・ 三分の二ぐらのところまできたら、なぜだか画像がいきなりぐちゃぐちゃになってしまいあえなく観るのを断念しました(観なくていいってこと?)。どちらかといえば、こっちの出来事のほうがよっぽどホラーです(笑)。

最後になにか衝撃的なオチでもあったのでしょうか? ちょっと気になりますが。

ホラー度を期待しすぎなければ、こどもたちが恐怖と闘いながらひと夏をすごす「スタンド・バイ・ミー」ホラー版のような成長物語として楽しめます。幼少の頃の自分と重ねあわせて、共感できることもあるかもしれません。

「サイコ」とか「キャリー」とか「オーメン」とか・・・むかしのホラーはめっちゃコワかったです(汗)。「エクソシスト」なんて、女の子の首が一回転するだけなのに、なぜあんなに盛りあがったのか??(笑)。むかしのホラー、いえ恐怖映画は、あまり直接的ではない、何が起こっているのかわからない不気味さにこそぞわぞわさせられたのだと思います。

 

18-11-15 ボヘミアン・ラプソディ

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公開を楽しみにしていたクイーンのボーカル、フレディ・マーキュリーの伝記的な映画「ボヘミアン・ラプソディ」を観てきました。

正直、ちょっと心配だったのです。ドキュメンタリーフィルムならまだしも、あの異色のエンターティナー、フレディのカリスマ性を演じきれる俳優さんなどいるのかしら ・・・と。たんなるモノマネっぽくなっていたらゲンメツだな〜と。

あの希有な個性こそがフレディーだから・・・。

それが ・・・ すごくフレディでしたっ!

実物のフレディ以上にフレディの内面を感じさせる俳優さんで、ステージのマイクパフォーマンスやあの独特の身のこなしも、立ち姿もフレディそのもの。そして、ステージ上では見せることのない彼の内面の繊細さや葛藤も表現されていて、ひとりの若者としてのフレディを描きだしています。

ラストの10万人規模のライブエイドの場面は圧巻で、まさにライブ会場に足を運んでフレディの歌声を聴いているよう。(ご覧になるときには、ぜひスクリーンが大きくて音響のよい映画館でどうぞ! 私は I MAX シアター で観たのですが、音の臨場感がすごかったです。)

中学生の頃、私の親しい友人たちは熱狂的なクイーンのファンだったので、新しいレコードが出るたびに貸してくれたし、来日公演の様子もいろいろと聞かされてきました。でも、彼女たちはフレディではなく、ロジャーとブライアンのファンでしたっけ。(フレディは、なんかハードル高い感じ! 笑 )

徐々に過激になってゆくフレディのステージ衣装、ぴたぴたのタイツ姿にきゃ〜きゃ〜騒いでいたものです・・・ (まあ、女子校はそんなことでしか盛りあがるネタがありません・汗)。

そんなこんなで、とっても懐かし楽曲の数々・・・。それらが、「ああ、こんなふうにして作られていたのか〜」と今になって知ることができました。

あらためて、フレディというボーカルの凄さを実感しました! つややかで魅力的な声質は、いちど耳にすると忘れられない歌声です。またロックでありながら、ゴスペルのようでもあり、クラッシックの雰囲気もあり、でもノリがいい・・・クイーンのサウンドの独特さをあらためて楽しむことができました。

ああ、もういちど観たい♪

涙壷度:★★☆☆☆(ラストのライブ場面、感動でした!)

 

 

18-12-02 ルイの9番目の人生

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

予告を観たときから気になっていた作品です。ベストセラー小説の映画化だそうです。

ルイ少年はたった9歳にして、息もたえだえの崖っぷち人生。

なぜなら、毎年一回、災難に遭遇して命を落としそうになるから。

刃物が自分に向かってくるという彼の誕生にはじまって(彼は帝王切開だったのです)、ベビーベッドに寝ている自分めがけてシャンデリアが落下し全身骨折、ようやくハイハイできるようになればコンセントで感電死寸前、はたまた食中毒やら・・・・ついには、崖から落下して昏睡状態に陥ってしまいます。

9歳にして、あまりにも数奇な人生 ・・・ いったい彼はどうしたのでしょうか? 何が起こっているのでしょうか?

みなさまは、何を想像されたでしょうか? わたしも、あらすじを耳にしたときに3つ、4つ推理をいたしました ・・・。

観ていて、これはサスペンスなのか、はたまたミステリー? ファンタジーのようでもあり、ちょっとオカルトチック・・・。観ながら、推理や妄想がふくらみます。

結末は ・・・ 観てのお楽しみ♪ (ちなみに、私の推理はことごとくハズレました・・・汗)

ここに登場する精神科医もドクターも、ちょっとフシギちゃん(苦笑・映画に登場する心理職の人っていつもあやしすぎる・・・)。

いちおう心理職には、クライエントと向きあうときの職業倫理(ルール)があるのですが、映画に登場するセラピストやカウンセラー、精神科医って、そんなの知ったこっちゃない!という感じですね(だからこそオモシロイ?!)。

涙壷度:☆☆☆☆☆(ゼロ・・・お涙ものではありません)

 

19-01-21 アリー スター誕生

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何度もリメイクされている作品です。

小さなバーで歌う女性シンガーがスターに見いだされ、スターダムを駆けあがるというお話。

古いバージョンの邦題は「スタア誕生」。スターではなく、スタアというところに時代を感じますね〜。

当時は今よりもスターという言葉に重みがあって、スターになれることは希有なことで、そうとうドラマチックなことだったのかもしれません。

私はバーブラ・ストライザンド版を、DVDで観たことがありました。「スター誕生」というタイトルのインパクトにひかれたのですが、ストーリーはあまり記憶に残っていませんでした。

なので、今回のガガさまの「アリー スター誕生」は新たな気持ちで観ることができました。

今のように「ボヘミアン ラプソディ」旋風が大々的に吹きあれていなければ、きっともっと注目されていた作品に違いありません。

だって、ガガさまがシロウトの女の子という設定であろうとも本気モードで歌うのですもの。

名もないゲイバーで歌うシンガーが、ガガさまのあの迫力、あのオーラ全開で歌っちゃうわけで、それだけでじゅうぶんに「この子はスターだっ!」という「スター誕生」感があふれだしちゃうでしょ?という感じです。

「ボヘミアン ラプソディ」のライブエイドの場面もそうでしたが、この作品でもアリーがバックステージから客席へと出てゆくシーンがとても臨場感があります。

ステージの袖でただわくわく様子をながめていた女の子が、いきなり名前をよばれてライトがあふれるステージへとひっぱりだされ、おずおずとステージのマイクのまえ歩みより、まぶしいライトのなかたくさんの観客をまえにおっかなびっくり歌いはじめる ・・・ という。

おそらく今までは、その様子を客席からながめているというカットが多かったけれど、これはあくまでもアリーの目線で、たくさんの観客のまえにはじめて進みでる動揺やら緊張感、怖さがじかに伝わってきます。

ガガさまの迫力ある歌声だけでもじゅうぶん伝わるものがありますが、さらにガガさま自身がスターへの階段を上がっていくときに感じたであろう思いが、このアリーをさらにリアルにしているのだと思います。

ガガさまというと、もともとどのようなお顔なのかがわからないほどに曲ごとにお顔のデコレイションがガラリと変わるので、この映画を観ていて「あら〜、ガガさまってこういうお顔だったね!」と、ほぼオリジナルのお顔をはじめて見られたように感じました(笑)。

さて、オスカーはいかに?!☆☆

 

 

19-03-14 運び屋

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クリント・イーストウッド、ひさびさの監督・主演作です。

家族から完全に浮いている孤独な老人 ・・・ という設定は、前作の「グラン・トリノ」と同様。

仕事に没頭することこそが男の人生・・・ と信じてつき進んできたら、気がついたときには大切なすべてを失っていた ・・・ という。

その孤独な老人が家族とのあいだに横たわるミゾを埋めることができるように感じたのが、お金。孫娘の学費を払ったり、パーティを開いたり、家を買い戻したり・・・。

ひょんなことから手をそめたコカインの運び屋はそんな財源としてはうってつけであるとともに、彼にとってはけっこう簡単な役回りだったのです。となれば、この仕事は今までの間違いを修復するための最後の手段なのです。

運び屋としてえんえんと運転するハイウェイも、鼻歌なんか歌って気楽です。ドライブスルーに入ってスナックは買うは、道すがらパンクの車も助けるは・・・ 運び屋としての緊張感はゼロ。密売組織にしたら、そんな危険な行為はもってのほかです。

麻薬密売のチンピラに「おまえ、ふざけるな!ぶっ殺すぞ!」と言われようとも、よわい九十を数える彼は「殺せ!」とひとこと。まったく脅しがつうじません。朝鮮戦争の退役軍人である彼は、そんな若造よりもずっと度胸も智恵もあるのです。

これほどの高齢であることがまんまとカモフラージュとなり、運び屋としてのファースト ランはなんなく成功。目を丸くするほどの破格の報酬を受けとった彼は、人生を立て直すべくお金を使いまくります。 ・・・ となれば、二回めも。

しだいに運ぶ量も、ケタはずれとなり・・・。しかし、捜査の手がおよばないわけもなく・・・。

この作品は、超高齢、九十歳の運び屋おじいちゃんの実話をモチーフにしているそうです。

♪ 時間はお金じゃ買えない♪ という歌詞が最後に流れてきます。

この高齢でありながらどこか無垢な少年のようなおじいちゃんの佇まいに、クリント・イーストウッドが重なり(彼も今年九十歳ですね)、「ああ、次の監督・主演作がまた観られたらいいな〜」とちょっと切なくなりました。


彼の出演作、監督作はいろいろありますね。私は「ミリオンダラー・ベイビー」「クラン・トリノ」がお気に入りです。

 

 

19-04-24 君の名前で僕を呼んで

北イタリアの美しい田舎町。避暑にやってきたひとつの家族。仲むつまじい夫と妻、そして二人の愛情を一身に受けて成長する息子のエリオット。

夏のあいだ、その別荘に集うさまざまな人たち、親戚やら夫妻の友人、息子の女友達、邸で働く人々 ・・・ そして、その夏そこへ迎えいれられた大学院生の青年 オリヴァー。

十七歳のエリオットは、聡明でものおじしないオリヴァーをはじめは鼻もちならない自信家として嫌厭するのですが・・・ ともに時間をすごすうちにどんどんこころを奪われてゆく自分に気がつきます。

隠したいのに、隠せないほとばしる気持ち ・・・。ゆれ動くこころ・・・。おしよせるさまざまな感情・・・。

画面にさまざまな音があふれています。

ときにはセリフさえもかき消してしまいそうなバイクや自転車の車輪の音、鳥たちのさえずり、木々や風のざわめき、水のしたたる音、古い邸のきしむ音、グラスやお皿のぶつかりあう音、人々のざわめきや笑い声、ピアノの音色、虫の声、夜のしじま ・・・ まるでそこに自分がいるような生き生きとした感覚があります。

そして、このさまざまな音のなかで、かえって際立つ静寂。エリオットのこころの動きがありありと伝わってきます。

ここに登場するお父さんとお母さんがすごくいいのです。

大切な愛を見失ってしまったと感じている息子に、「お互いを見出せて、幸せだったじゃないか。私がついているよ」とお父さん。

「人は早く立ち直ろうとこころを削り、それによって新たな相手に与えるものも失われてしまう」(なんという言葉!)。だから、「痛みを葬りさるな。そして、感じた喜びも大切にしなさい」と。

誰もが感じたことがある、人を好きになってしまったときのはじける喜びやこころの痛み。透明があって、みずみずしさにあふれる美しい一本でした。

 

 

19-06-02 彼の見つめる先に

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高校生のレオは、生まれたときから目が見えない。

幼なじみのジョヴァンナや、心配性だけど優しい両親、すべてを受けいれてくれるおばあちゃんに囲まれて、なんの不自由もなく穏やかな日々をすごしている。

いつもレオに寄りそっているジョヴァンナは、盲導犬とからかわれようが、あうんの呼吸でサポートしてくれる相棒であり、親友であり、彼女のような、何でも話せる信頼のおける存在。

そんなある日、転校生のガブリエルがやってくる。

男の子といえば、レオにとってはからかいにやってくるうっとうしい存在だったけれど、ガブリエルはレオをはじめて対等に扱ってくれる男友だちになる。

しばらくは三人で過ごしていたものの、ガブリエルはレオを自転車に乗せたり、映画に連れ出したり、ダンスを教えたり ・・・ ふつうの男の子らしい時間をともにする。レオにとっては、すべてがはじめてのわくわく体験。

すると、ともに過ごしていたジョヴァンナとの関係が変わりはじめる。ジョヴァンナはおきざりにされたように感じて、ガブリエルと過ごすことも・・・。

お互いに正直になりたいのに、遠のくばかり。

あるパーティの夜、ファーストキッスに憧れるレオに、ゲームでチャンスが巡ってくる。けれども ・・・ あ"〜 レオ!それは女の子じゃない、犬よ〜、犬!(レオ、あやうし☆)

はたしてレオのファーストキッスの行方は??

なにがほんとうかわからないまま、自分がでっちあげた考えのなかに自分を閉ざしてしまうとき、私たちはどんどん孤独にみじめになってゆきます。

いつだって、自分の気持ちに正直でいられるときは、自分もまわりもともに自由になれる。

こころを開いてつながれば、いつでも癒しがもたらされるのです♡

 

 

19-06-12 町田くんの世界

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町田くんは高校生。

勉強もスポーツもぱっとしないジミな男の子だけど、なぜかみんな町田くんを知っている。

「町田くん?劇的にイイ人!」「キリストみたいな人」と。なぜなら、町田くんは人が大好きだから。困っている人がいたら、何をおいても助けずにはいられないのです。

家では、妊婦のお母さんと四人の兄弟のためにゴハンを作り、学校でも通学路でも助けが必要な人を見つけようものなら手をかしに飛んでゆきます。

突如、町田くんに助けられてた人は、「なぜ?」と困惑します。すると、「大切な人だから」と町田くん。町田くんにとっては、みんな平等に大切な人なのです。

このセリフにみんな目を丸くして、ノックアウトされてしまいます。そして、思うのです。「町田くんは、いったいどんな世界を見ているのだろう?」と。

町田くんはあくまでも自然体でいるのだけれど、触れ合った人たちは変わらずにいられないのです。とくに、同級生の女の子たちは・・・。

そんな町田くんに悩みが生まれます。「好きって何だろう?」 ・・・。「みんなが大切な人」である町田くんには、「好き」がわからない。

無条件の愛の人、町田くんの起こす奇跡とは・・・。

監督さんは、石井裕也さん。原作は別マの連載だったそうな。

町田くんと相手役の女の子は、まっさらな新人さん。だからこそ、町田くんの無垢な感じが際立ちます。

同級生に前田敦子さん、高畑充希さん、岩田剛典さん。お母さんは松嶋菜々子さん。その他、佐藤浩市さんなど、実力派の役者さんがまわりを固めています。


投げやりな同級生に対して、「自分の気持ちを聴いていないと、人の気持ちはわからない」と町田くん。

ほんと、そうですね。自分のこころのなかの傷みを感じて助けを求めている部分があることに気づいていてこそ、他の人もまったく同じように傷ついて助けを求めていることに気づいて、手をさしのべることができるようになるものです。

今まで感じたことがない気持ちに目覚めてゆく前田くんが、このあとどのようになってゆくのか興味があります。きっと変わらないね!

涙壷度:★★★☆☆(愛は胸をキュンキュンさせてくれます♡)

 

 

19-06-23 ぼくの名前はズッキーニ

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ぼくの名前はズッキーニ。ママがそう呼んでいたから。

ママはお酒ばかり飲んでいてぼくには興味がなかったから、ぼくはいつもひとりで凧あげをしたり、ママのビールの空き缶で遊んでいたんだ。

パパ? パパは雌鳥とどこかに行ってしまったよ。

ある日、ぼくはママを殺してしまった(はずみで亡くなった)。そして、誰にも愛されないこどもたちばかりが暮らす場所にやってきた。

ひとこまひとこま、粘土のお人形を少しづつ動かしながら撮影されたストップモーションのアニメです。手作りならではの素朴さ、あたたかさが伝わってきます。

それになんといっても、セットや小物のすべてがとても可愛らしくて、画面のすみずみまで見てしまいます。

一方、こどもたちはかなり病んでいるルックス。

けれども、それがかえって感情をありありと伝えてくれます。ただ目線と瞬き、口の動きだけなのに、こども以上にこどもらしさが伝わってくる不思議。

ここにいるこどもたちの両親は、育児放棄、薬物中毒、情緒不安定、男女のゴタゴタなどの問題を抱えていたため、こどもたちは愛される資格がないと感じています。そんな両親でも、こどもたちは愛しているのです。

あたたかな先生や見守ってくれる大人たちのもとで、ケンカをしながらも助けあうことを学び、少しづつこころをひらき、ひとつの新たな家族として再生してゆきます。

60分ほどの作品ですが、ずっ〜と見続けていたくなります。 そして、ほっこりとあたたかな気持ちになれます♡

涙壷度:★☆☆☆☆(こどもたちのけなげさに涙が出ます。幸せになってね♡)

ストップモーションのメイキング映像 ☆ メイキング1メイキング2メイキング3メイキング4
声は実際に演技しながら録音しています。人形へのだわり、その動かし方など、すべてが気の遠くなるような作業ですが、そんな細部への思い入れがリアリティをうみ出しているのでしょうね。

 

19-07-10 G i r l / ガール

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スラリと手足の長いララは15歳。バレリーナを目指して日々レッスンにうちこんでいる。

父親もそんなララに理解をしめし、そのために家族で引っ越しもし、職もかえた。

念願だった名門のバレエスクールに受けいれられたものの、ララのこころは晴ればれしない。

なぜなら、彼女は男の子だから。

トランスジェンダーのララは、一生懸命努力するものの「踊りが、まるで棒っきれ」と評され、また毎日身につけるレオタード姿もララにとってはつらい現実に直面せずにはいられない。

クラスメートからのいやがらせ、恋愛への憧れ、身体の変化 ・・・ 温かい家族や親戚に見守られながらも、ララのこころは理想の自分を目指すことをやめられず、現在の自分を耐えがたく感じてゆきます ・・・。

この作品でアカデミー賞 外国語映画賞を受賞したルーカス・ドン監督は、27歳。

十代のころに読んだトランスジェンダーのバレリーナについての記事にこころを動かされ、いつか映画にしてみたいと胸に温めていたそうです。

ララ役は、アントワープ ロイヤル バレエスクールのトップダンサーさん。もちろん男の子です。

さすが、ダンスはとても美しいです(トウシューズでの踊りは大変だったことでしょう)。

彼自身はトランスジェンダーではありませんが、ことば少ないララの繊細さ、芯の強さ、そして思春期の女の子らしさをとても自然に表現しています。

涙壷度:★★☆☆☆(自分に正直に生きたい! それは誰にとってもこころからの叫びです)

 

19-08-17 アイ・フィール・プリティ!人生最高のハプニング

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私たちの目にする世界には、もともとなにも意味がついていません。出来事にも、自分にも、なんのレッテルもついていないのです。

そこへ、自分が信じたとおりの意味をどしどしくっつけて、自分で自分を不自由にしてゆきます。それが自分の知覚する世界です。

日々、私たちはこのような自分の「知覚」のなかで生きているのです。

この映画「I feel pretty」は、決して「I'm pretty!」ではないのです。

私が私を pretty だと感じたからこそ、私は pretty なのです。それが自分の真実。

ぽっちゃり型のレネーは、綺麗になりたい願望はあるものの、いまひとつ自分を肯定的に受けとめることができず、「負け犬」というレッテルをはり自己嫌悪に陥っています。それが周りの人々の自分への見方にも影響を与え、ますます悪循環にはまりこむことに。

そんなある日、レネーは頭を強打したのです。そうしたら ・・・ あら不思議、私って美女?! すべてがOKに「感じられる」というオメデタイ状態に。

なにひとつ現状は変わっていないのに、ただ、ただ feeling pretty になっちゃったわけです。

自分が feeling pretty だったら、誰がなにを言おうが、どうであろうが、ただただ自分はサイコウなのです! そして、恐れを知らぬ超絶ポジティブさから、さらなる変化を巻き起こしてゆきます。

こころの底から信じる者は救われる!(笑) ・・・・ というわけで、冴えない女子からとびっきりのイイ女への変身ぶり(ファションのみならず、発する言葉から、ひとつひとつの身のこなしまで)にかなり笑えます(シンプルに信じるだけで、ここまで変われる?!)。

その一方で、完全に信じられなくなったときは地獄ですが・・・(汗)。

状況うんぬんよりも、結局は自分が「なにを信じているのか」ということが自分の体験にとってはとても重要だということがよ〜〜〜くわかります。

私たちは、ぜんぜんOK なはずなのに、自分で自分に不自由な魔法をかけて自分をドン底につき落としてしまうところがあるので、レネーのようにムダな魔法がとけたらよいのにね〜!

こころで信じることさえ変われば、ただそれだけでヨイのですよね。

笑えて、ちょっとホロリとして、元気をもらえる一本です♪

PS レネー役は女優さんではなく、コメディエンヌさん。日本でいったら、きっと渡辺直美さんのような感じなのでしょうか?? そのままでとってもキュートです♡

 

19-08-25 マダムのおかしな晩餐会

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パリに住むアメリカ人のお金持ち夫婦。

ある日、マダムはセレブな友人を集めて晩餐会を催すことに。しかし ・・・ 直前になって、参加者が 13人であることに気づきます。

不吉な数字を嫌ったマダムは、あわててメイドの一人をゲストに仕立てあげることに。スペイン人メイドのマリアなら、自分のドレスがなんとか着られそうだったから(パツパツだけど・汗)。

抵抗するマリアに、「スペイン国王の遠い親戚にするから、くれぐれも笑いすぎない、食べすぎない、喋りすぎないこと! ミステリアスなレディーを演じるように」と指示します。

ところが・・・ 晩餐会がはじまると、彼女は飲みすぎ、下ネタ炸裂・・・ 焦ったマダムは、「笑わせることと、笑われることは違うのよ! もう部屋へ下がりなさい」とコトを丸くおさめたつもりが、ときすでに遅し(汗) ・・・ 画商の英国紳士がすっかりマリアの虜に。

なにしろ、堅苦しくって、誰もが仮面をつけて欺きあうような食事の席で、マリアは水がこぼれれば紳士のスーツをすぐに拭いてあげ、ナイフが使えないこどものところにとんで行っては面倒をみたり ・・・ つまり、彼女がいつもしていることをしてしまっただけなのですが、自然体で、明るく気どらず、チャーミングな彼女に、英国紳士はあっというまに夢中に。

そして、この恋は猛スピードで展開してゆきます。

しかし、近ごろだんなさんに大切にされていないと感じているマダムにしてみたら、なんの努力もせずいとも簡単に上流階級の男性のこころを奪ってしまったマリアが許せないし、そもそも住む世界が違うでしょ! と厳しくたしなめます。

さっそく英国紳士にすべてをバラしたいところだけれど、ビジネスが絡んでいて、嘘つきと思われたくもない・・・。

一方マリアは、一身に愛を受けとめながら、どんどん自信をつけて綺麗になってゆきます。そして、マダムの言葉に対しても、「人は平等で、私はマダムと同じだけの愛される価値があるのです」とまったく譲らないのです。

さてさて、この恋のゆくえは・・・。

お話もコミカルでおかしいのですが、晩餐会を準備する様子も、テーブルウエアがとっても素敵で、お料理も一流のフレンチのようにゴージャス。ハイセンスなセレブのおうちをのぞき見している楽しさがあります。

そして、メイドのマリアのことをマダムは「醜い」と評していますが、Vouge のモデルのようなマダムの物さしにかければそう見えるのかもしれませんが、マリアはとってもチャーミングに見えるし、あたたかくて、ほんとうに可愛らしい女性です。「人の価値は平等」とこころから思っているので、マダムよりもずっとまっとうな自信を抱いているのです。

女性が美しいと思う女性と、男性が惹かれる女性というのは、決定的に違うのですよね〜。だから、なにが美しのかなんて、ホントわかりません♪

どうか愛らしいマリアにシンデレラの幸せが訪れますように ・・・♡

 

 

19-09-14 パーフェクト ワールド

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クリント・イーストウッドの監督作品はどれも大好き♡

どのストーリーも、性別、年齢、境遇をこえて登場人物のこころの動きや葛藤に引きこまれてしまいます。

けれど、好きといいつつまだ観ていない作品もいくつかあって、そのひとつがこの「パーフェクト ワールド」。

殺人犯であるブッチ(ケビン・コスナー)が、刑務所からみごとに脱獄し、逃走途中で小さな男の子を人質にとり、またも殺人を重ねながら、追っ手をかわし逃走をつづけるというお話。それを追う警察署長が監督でもあるクリント・イーストウッドで、この署長はかつてブッチにかかわった人物なのです。

ドキドキするような映画はいろいろ観てきたけれど、劇場鑑賞ではないのをいいことに「ああ〜〜!やめて〜〜〜!(汗)」と何度か叫んでしまったし、見ていられずに目をおおった場面も。

ブッチはどこか脱獄囚のイメージとは違って、人間味のある優しさがあって、常識ももちあわせているし、また頭の回転も早いのです。その一方で、ある状況におかれると即座にこころは怒りに支配されてしまい、容赦のない残酷さが顔をのぞかせるのです。

その怒りのポイントにふれなければ、彼はそのもちまえの人柄からよい人生を送れたはずなのに。

彼がキレるポイントは彼の生い立ちに関わることで、こころの癒されていない傷がうずくような場面では怒りからの行動がおさえられず凶暴になります。それも、自分のこころの痛みを必死に隠すための凶暴さなのですが。

ブッチと人質となった八歳の男の子はともに、父親の愛に飢えていて、同じような思いをかかえて少年時代を過ごしているために、ふたりがは時間をともに過ごすうちに親子のような、また相棒とも呼べるような絆が芽生えはじめます。

脱獄囚と連れまわされている人質であるはずなのに、この二人の様子を見ていると、誰も傷つけることなく安全に生きのびてほしいと願わずにいられません(だから、ハラハラする〜〜〜!汗)。

このふたりがともに過ごすことができるなら、ブッチはこの少年の面倒を見ながら自分のなかの傷を負ったこどもを癒すことができるだろうし、少年はふれたことのない父性をブッチから受けとって自信をつけ解放されることでしょう・・・。

この作品は1994年に公開されていますが、その当時に観るよりも、トシを重ねた今観るからこそ、さまざまな思いを感じとることができるのかもしれません。

涙壷度:★★★☆☆(もれなく泣けます! ケビン・コスナーのこんな悪役もいいわ〜♡)

 

19-09-23 家へ帰ろう

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ブエノスアイレスに暮らす仕立て屋のアブラハムは88歳。

老人ホームに入れられる前日、こどもたちや孫が集まってくれたものの、彼の気難しさは相変わらず。

彼らをさっさと帰してしまったと思ったら、アブラハムはその日のうちに家出をくわだてたのです。じつは、最後に仕立てたスーツをどうしても渡さなければならない相手がいて、向かった先はナント、ヨーロッパ大陸、ポーランド。

高齢で身体はなまりのように重く、そのうえ足も悪い彼にとって、遠距離の一人旅は困難をきわめます。

なんせ突如思いたった旅なので、まずはブエノスアイレスからマドリッドへ飛んで、そこからパリへ行き、ドイツ乗り換えの鉄道でワルシャワへ ・・・。

けれども、彼はドイツという言葉も口にしたくなければ、ドイツなどに足もつけたくなく、ドイツ語も耳にしたくない。彼はホロコーストを体験したユダヤ人だったのです。

そのうえ、旅の途中で全財産を盗まれるしまつ。

じつは、彼の偏屈さ、気難しさは、彼のこころの癒しても癒しきれない悲しみにも関係している様子。

旅の途中でさまざまなことにみまわれるものの、ゆきずりに見えた人々が彼の天使に姿を変えてゆきます。そして、ひとつひとつが癒しへと導かれてゆくのです。

アブラハムが命を落としそうになったときに出会った看護士の女性が、「神はすべての人を守ってくださる。すべて神のご意志だから」という言葉をかけ、彼は意を決して自分の怖れに立ち向かいます。(もう! アブラハムったらご高齢のわりには、つぎからつぎへと魅力的な女性に助けられちゃって。「俺も、今だってすてたもんじゃないだろ!」って、思ってたでしょ?!笑)

看護士の女性の言葉を証明するように、この旅はアブラハムの人生の最終章において神さまからの愛が輝きだします。

もう涙だらだら・・・。アブラハムとともに癒されました♡♡
涙壷度:★★★★☆(人と人のこころがつながったときに奇跡が生まれます。)

 

 

19-09-29 メアリーの総て

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メアリーってだあれ・・・ て?

メアリーは、誰もが知るあの「フランケンシュタイン」の作者です。17歳のころに物語を書きはじめ、わずか18際で世に送り出しました。

私たちがフランケンシュタインに惹かれてしまうのは、それがホラーや怪奇ものとは一線を画するから。なんぜ、フランケンシュタインは哀しいのです・・・(泣)。

理想の人間を求めてつぎはぎだらけで作り出されるのですが、できあがったのは醜いモンスター。作者から愛されるどころか、忌み嫌われ、見捨てられ、孤独と絶望のなかで生きることになります。

この見捨てられや孤独・・・ は誰のこころの奥にも潜む思いであり、この怪物の悲しみは読むものに「人ごとではない」感覚を与えるのです。(え〜〜ん! 作ったんだから、愛してくれ〜〜〜!!)

メアリーの父は作家でもあり、本屋を営んでいます。メアリーも作家志望で、こっそりと怪奇小説を読みあさる日々。

そんなメアリーに父親は、「人まねではなく、自分の声を探せ」と厳しくたしなめていました。

メアリーが16歳の頃、父のもとに学びにやってきた美貌の詩人シェリーとまたたくまに恋に落ち、妻子があることを知りながら駆け落ち。ここから、彼女の苦難が始まります。

お酒にも女性にもお金にもだらしないシェリーの放蕩で家も財産も失い、夜逃げの道中では生まれたばかりの赤ん坊まで命を落とすことに。

失意のまま身をよせたのが、詩人のバイロンの館。雨つづきの日々、退屈したバイロンがメアリーや滞在者に提案したあそびが、「ひとりづつ、怪奇物語を作って披露する」ことだったのです。

精神的にも肉体的にもギリギリの日々をすごしたすえに、バイロンというちょっといっちゃってる人物の登場で、メアリーはついに自分のこころの声にふれ、語るべき物語があふれだします。

まさに、シェリーとともにした二年のあいだの痛みこそが、メアリーのこころの叫びを外に押しだしたのです。

その物語の怪物は、自分を生みだした作者に嫌われるわけですが、それはまさに自分の出生によって命を落とした母に対するメアリー自身の罪悪感を重ねあわせているようです。

また、死んだ者を蘇らせたいという願望も、亡き母と娘へのこころの叫びだったのかもしれません。

これはわずか200年まえのことですが、まだロウソクで本を読んでいる時代です。そして、女性が本を書くということすら、正々堂々と認められる時代ではなかったのです。

「フランケンシュタイン」は、初版こそ作者の名前がないのですが、その後は堂々とメアリー・シェリー著と記されたようです。

メアリー役のエル・ファニングはちょうどメアリーと同じ年代でしょうか? 知的な美しさで、当時のドレス姿も似合っています。

映像も雰囲気があって、まるでヴィクトリア朝の絵画をおもわせます。

バイロンの館にハインリヒ・フュースリーの「悪夢」がかけられています。

メアリーはこの絵画にも影響されるのですが、フュースリーがメアリーのお母さんの恋人だったというのも、なおさら彼女にこの絵を印象づけたのかもしれません。

私もその昔、この絵をはじめて観たときに惹きつけられました。フロイトもこの絵を好きだったそうな。人のこころの奥深くにあるシャドウを刺激するような絵です。(たしか「ゴシック」という映画でも、この絵が題材にされてましたっけ。)

映画のなかで語られている「フランケンシュタイン」の文章がとても表現力豊かで美しかったので、是非、メアリーの文章を読んでみたくなりました。

 

19-10-31 ファースト・マン

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アポロ11号の月面着陸といえば・・・ 世界中で5億人もの人たちが固唾を飲んで見守った一大イベント。

着陸成功という場面だけにスポットライトをあてれば華やかな偉業ですが、そこに至るまでのプロセスというものがあります。

ライト兄弟がたった37mの有人動力飛行に成功したのが、その60余年まえのこと。あっというまに空を突き抜け、地球を横目に、月に降り立つ、というスゴ技を誰が想像できたことでしょう? NASAはだ捕した宇宙人から、なにか秘密を聞きだしたのでしょうか?(笑)

この「ファースト・マン」は、アポロ11号の船長 ニール・アームストロングがプロジェクトに志願して、ミッションを遂行するまでの苦難の数年間を描いたもの。

半世紀まえといえば、まだコンピューターも今ほど計算能力もキャパも速さもない時代。不測の事態が起これば、カリカリと必死に手で計算するしまつ。すてべが未知で手探りで命がけです。

そして、想定されるありとあらゆることに対する過酷な訓練(これは見ているだけで具合が悪くなりそう・・・汗)。訓練飛行やテストのたびに、仲間が命をおとしてゆく日々・・・。

プロジェクトに携わるニールのみならず、家族も混乱状態。「彼と結婚したとき、こんな生活など想像していなかった・・・」と奥さんのジャネット。

着用するだけで息苦しい宇宙服を身につけて、人がようやく納まる小さなコックピットに押しこまれ、まるで囚われたように外からガシャンとロックされ(これだけでも誰もがパニック発作を起こしそうです)、やがておそろしい爆音と震動とともに未知なる暗闇へと投げ出されてゆきます(およそ人間が体験する行為ではありませぬ!汗)。

映し出されるのは、ヘルメットのなかのニールの目の表情とコックピットの小さな窓にうつる空と宇宙、そしてヘルメットの中の呼吸の音、ロケットエンジンの轟音やら振動音 ・・・ 是非、ニールとともに宇宙飛行士になっちゃってください。

アポロ11号が無事に帰還し、世界中がわくなか、ニールとジャネットの再会は ・・・ 「おめでとう!」でもなければ、「やったね!」でもないのでした。

また違った目線で、この月面着陸という大イベントを感じることができる作品です。

PS ロケットが大気圏に突入して、まるで爆発しそうな火の玉のようになって疾走し、ようやく静けさに達する様子って ・・・

私たちがエゴという制限を越えて、真の自分を目指すときに体験することとよく似ています。エゴが武装するためにかき集めたあれこれが焼き尽くされるような激しさ(ほんとうは握りしめているから激しく感じるのでしょうけれど・・・)、それはまさに大気圏突入状態。

自分だと信じていたものから自由になろうとするときに感じる怖れも、アポロの大気圏突入のようにただ正面から突き進むことで、そこを尽きぬけ、静寂に達することができるのでしょうね。

 

19-11-08 羊と鋼の森

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豊かな森と山に囲まれて育った少年は、ひとつの出会いによって心をうばわれ、羊と鋼という森に迷いこんでゆきます。そこは、こころをとりこにする場所でありながらも思いのほか深い森で、何度も自分を見失いそうになるのです。

これは、ある高校の男子学生が学校にやってきたピアノの調律師との出会いをとおして、空虚だった日々に光を見出してゆくお話。

彼はその調律師のピアノの音に、森の木々の光景、ゆれる音、わきたつ匂いを感じたのです。そして、ピアノ調律師という未知の世界に足をふみいれる決意をします。それは88もの鍵盤のうしろに広がる、フェルトに包まれたハンマーと鋼で作られたピアノ線という森に向きあう日々。

どのような音がよい音なのか、正解の音なのか、向きあえば向きあうほどわからなくなります。

彼の憧れの調律師は、自分がいつもこころに抱いている原民喜という詩人のことばを彼に伝えます。

「明るく静かに澄んで懐しい文体、
少しは甘えてゐるやうでありながら、きびしく深いものを湛へてゐる文体、
夢のやうに美しいが現実のやうにたしかな文体……私はこんな文体に憧れてゐる。
だが結局、文体はそれをつくりだす心の反映でしかないのだらう。」

自分に才能があったなら ・・・、自分に奇跡の指と耳があったなら・・・
そう悩む彼に、先輩は「才能とはそういうものじゃない。それは、ものすごく好きだという気持ち、あきらめない執念なんだ」と。

ある日、彼の実家のおばあちゃんが亡くなったとき、彼はずっと自分のことを信じていてくれた人がいたことをはじめて知ります。「あの子は、森で迷ってもきっと大丈夫! ・・・ いつも戻って来るから」とおばあちゃんはいつも言っていたと。

ピアノの音ひとつひとつがこんなに深くて美しかったのだ、ということにあらためて気づかせてくれた美しい作品でした。

誰もが人生のなかで感じる、自信のなさ、これでよかったのかという不安、自問自答 ・・・ そんな気持ちをやさしく励ましてくれるようでもありました。

涙壷度: ★★★★☆
(掃除ができないから調律をキャンセルしてしまうお客さんがいて ・・・ ピアノがある場所は、ある意味その人にとっての聖域でもあるのだなあと感じます。そして、そこはたった一人で、いろいろな思いをかかえながら音を紡ぐ場所です。ピアノと向かいあう、さまざまなドラマに涙しました。)

私もこどもの頃は毎日、ピアノと向き合う日々でした。なので、うちにも定期的に調律師さんが来ていたのですが、

植木屋さんとか左官屋さんがくると、母はおやつに日本茶と大福などをお出ししていたのですが、ピアノの調律師さんのときにかぎっては、なぜかココア☆ それも、インスタントのココアではなく、ちゃんと煮て作るココア(インスタントがなかったので!)。

調律師さんの不思議なお仕事を、遠まきに(こころはかぶりつきで)じっと眺めているのが好きでした。その光景には必ずココアが浮かんできます(ああ、ココアが飲みたい!笑)。

 

 

20-04-30 素晴らしき哉、人生!

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

古い映画にこころ惹かれます。これは1946年の作品。アメリカではクリスマスシーズンに放送される定番だそうな。

お家のなかも屋外も全部セットだとわかるほど手づくり感が満載で、どこかディズニーランドのようですが、それがメルヘンチックな雰囲気を醸し出しています。

決して豊かな時代ではないにもかかわらず、人々はそれぞれおしゃれをして、お家のなかをきれいに飾り、ささやかながら日々の暮らしを楽しんでいる様子。この時代の女性は、ばっちりメークにかっちりカールで、おうちでもパールのネックレスにレースのワンピース?!女子力、ハンバないです!

世界中を旅して、貿易の仕事につくことに憧れるジョージ青年。彼は父親の会社を継ぎ、狭いオフィスのなかで一生を終えることを拒否します。

しかし、父は急逝し、どうにもならない現状がつねに彼の夢のまえに立ちはだかります。仕方なく、弟が継ぐことができるまで会社をひきうけることに。

あれやこれやが次々と起こるうちにすっかり夢はついえて、それでもジョージはその現実のなかでつねに思いやりをもって決断し行動してゆくのですが・・・ついになにもかもが行き詰まり、意欲を失うときがやってきます。

夢破れたジョージは、「生まれてこなければよかった」と自分の命を断とうとします。すると、待ってました!とばかりに、嘆きを耳にした守護天使のクラランスが突然ジョージのまえに現れ、ジョージを「彼が生まれていない世界」、つまり彼が存在していないパラレルワールドに連れてゆきます(この時代にしては、なかなか斬新なストーリー運び!)

彼の顔見知りの人たちが、変わりなく暮らしているように見えますが・・・なにかがおかしい。彼らはジョージなんていう人物はまったく知らないのです。さらに、彼らはジョージが知っているような彼らでさえなかったのです。

つまり、ジョージが知っているみんなの人生が、彼がいないことでまったく違うものになっていたのでした。ジョージはそれを見て、ショックをうけます。

そしてクラランスは言います。「ひとりの命は大勢に影響し、その人間が欠けると世界は一変するのだ」と。

そうと知った彼は・・・。

たしかに〜。

私の人生で、もし○ちゃん、△さん、□くん etc・・・がいなかったら、決して今の私じゃありえない!と断言できます。

ふだんはそれほど意識していなくとも、どれほどお互いがお互いに影響を及ぼしあって生きていることか。どれほど、そのひとりひとりによって助けられ、励まされて、支えられ、導かれて、愛をうけとり、喜びをわかちあっていることか。

そしてそこで受けとったものがまた、バタフライエフェクトのように全体へと広がってゆくのです。

ジョージがガクゼンとしたように、私も「もし○ちゃんがいなかったら」「△さんに出会わなかったら」・・・と、しばし彼らのいないパラレルワールドに想いをはせてしまいました。

コロナ自粛で隔離されているように感じている今、不思議とふだんよりも「つながり」「きずな」「安心感」を感じます。それは、まさに私に与えられているひとりひとりからの支えや愛情という贈りもののお陰なのだな〜とあらためて感謝しました。

まわりにいてくれるひとりひとりが、ガーディアンエンジェルなのだな〜と感じます。(彼らに、背中に翼がプリントされてるTシャツでもプレゼントしなくちゃね!)

涙壷度:★★☆☆☆(ほっこり、じんわり、そして涙)

PS 1940年代の暮らし、ファッション、そして恋愛の仕方も楽しめます♪

 

 

20-05-02 オズの魔法使い

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

こどもの頃、「オズの魔法使い」が気にいって、青いワンピースのドロシーと頭の尖ったブリキのロボット、かかし、ライオンを絵に描いて、下敷きにはさんでいましたっけ。

桃太郎がイヌやキジをお伴に従えて目指したのは鬼が島でしたが、ドロシーはちょっとファンタジックな仲間とともに願いが叶う魔法の国に向かったのでした。

ひさ〜しぶりに観ました。やっぱり楽しかった♪

冒頭に「こどもごころを失っていない大人とこども達に、この映画を捧げます」と。

大丈夫〜!こどもごころ、息絶えそうになりながらなんとか健在のようでした(笑)。

むかしは、魔法の国を目指すドロシーご一行さまのお話ぐらいにしかとらえてなかったのですが、今観てみると、深いです。原作者の方はわかっていたのですね! 私たちみんながおかしてしまう間違いを!

願いを叶えてくれる魔法の国や魔法使いのオズなんていなくって ・・・ただ必要なことはどこにも探しに出かけないこと。そして、すでに「ある」ものを本気で求めること。じつは、何ひとつ欠けていないから。

誰かによってどこかで何かを与えてもらうために忙しく探しに出る旅は、失望につながります。ただ自分へと戻ってくることこそが必要だったのです。戻ってきて、その足りない「夢」から目覚めること。

こどもの頃はただファンタジーとして親しんでいたけれど、じつはとても大切なことを教えてくれているのでした。

1939年の制作だそうですが、このカラフルさにびっくりします。当時のこどもたちは、今、私たちがディズニーやピクサーの映画にわくわくしているように、目を輝かせて観ていたのでしょうね。

魔法の国の様子が、むかしの遊園地の広場のようでなんか懐かしいです。ブリキのロボットもかかしもライオンも可愛らしくて、また絵に描きたくなりました。

ドロシーが「おうちほどいい場所はない♪」と歌うのは、自粛生活を送っている私たちをドロシーが励ましてくれているようでした♡

 

 

20-05-06 言の葉 と 打ち上げ花火

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「言の葉の庭」は新海誠監督の2013年の作品です。雨ふりの朝は午前中だけ学校をさぼる、と決めている15歳の男の子。靴職人になりたい彼は、庭園の東屋で靴のデザインを考えているのです。

「天気の子」以前に、新海監督はすでに雨をモチーフにした作品を作られていたのですね。実際の雨よりもずっと、雨ふりの様子がリアルでみずみずしくうつります。

降りそそぐあま粒や雨音、雨に映える庭園の緑、濡れた道路できらめく街のネオン・・・ 15歳の男の子の目にうつる都会の雨は透明感にあふれています。

そんな彼が雨の東屋で出会うようになるひとりの女性。仕事のいでたちにもかかわらず、ビールを片手にどこかうつろな様子。

最初はいぶかっていたもののいつしか少しづつ言葉をかわすようになり ・・・ やがて自然にひかれあいます。そして、彼はそれが誰であるかを知ることになります・・・。

私たちの発する言葉というものはいくら正直に語ったつもりでいても、無意識のうちに自分自身が傷つかないように本当の気持ちがラッピングされていたりします。自分を守りたい気持ちは、その言葉を聞いた相手をおしのけてしまうことにも・・・。

それでも、やがては自分の本音の気持ちに気づけるときがくるのでしょう ・・・ このふたりはどうしたかな〜と思いをはせます。

お友だちに「言の葉」を観たことを話したら、「私は、打ち上げ花火 を観ました!」と。「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」、こちらもアニメ。岩井俊二さんの原作です。

ちょうど岩井俊二監督の映画を探していたので、グッドタイミング!さっそく観てみました。

私たちが誰もが考える、「もしも・・・、あのとき・・・(してたら、しなかったら)」という別の選択肢。

そんな選択肢をめぐって、主人公の男の子がまるでパラレルワールドをはしごしてゆくようです。

こちらの作品も、ガラス玉のきらめきや夏の光あふれる風景、夜空をいろどる花火の色彩が、16歳の男の子と女の子のゆれる気持ちとともに美しく描かれています。

ラストは「シェイプ オブ ウォーター」のように、想像がふくらみました。

お友だちも「言の葉の庭」をすぐに観たそうで、お互いの映画の印象をシェアするのもおもしろかったです。

お互いの仕事の目線が作品をみるときにもやっぱり生きていて、「へ〜、気持ちと音楽のシンクロまで気づかなかったな〜」とか、いろいろ楽しい発見がありました。

 

 

 

20-05-21 イエスマン "イエス"は人生のパスワード

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人生の偉大なマスターたちは、「あなたの人生にイエスと言いなさい」「人生を受けいれることこそが、幸せへのカギである」と教えています。

アウシュビッツから生還したヴィクトール・フランクル氏も、極限の体験にさらされた過去をふりかえりながらも「それでも人生にイエスと言う」というタイトルの著書を書かれました。

たしかに、一日の自分のこころの動きを調べてみると、あからさまな拒否の態度を示すこともあれば、微妙な抵抗の感情であったり、あるいはもっとかすかな「ざわっ」という嫌悪感だったり・・・。これらはどれも「ノー!」という拒否のあらわれであり、それらを自分からバッサリと切り捨てたいという気持ちそのものです。

じゃあ、全面的にイエスと言ったらどうなるのか・・・

以前のブログで、「チャンス」という映画のなかに登場する庭師について書きましたが、彼はまさしく生まれながらに抵抗をまったく知らないイエスの人物として描かれています。人生が提供してくるすべてを、あるがままに受けいれて生きているのです。

また、「イエスマン」に登場するカールも、「チャンス」と同様に人生にイエスと言いつづける人物ですが、彼は生まれながらのイエスマンではありませんでした。

じつは、真逆だったのです。カールは、人生が提供してくるものをことごとく却下、拒絶するタイプでした。まるで自分にバリアーをはりめぐらせて、何も近づいてくるな! 危険だ! と言っているようです。自分を防衛し、つながりというものを極度に怖れるあまり、なにからなにまで「ノー!」だったのです。

そんな彼が、ある日夢を見ます。それは自分が孤独死する夢。ショックを受けたカールは、友人がすすめてくれたセミナーを思い出し、こっそりと足を運ぶことに。

それが「イエス!」というセミナーで、なんにでも「イエスと答えるイエスマンになる」セミナーだったのです。

セミナーのカリスマが言うには、「イエスこそ幸せの第一歩。人生にイエスを招きいれなさい。イエスと言えば、何でも可能になる。ノーは、死んだも同然だ!」と。

カールはガツンと頭を殴られたように感じて、そこからイエスマンの道まっしぐらとなります。さて・・・彼の人生はどうなったのでしょうか??(→予告を見る)

たしかに、「否定」というものは拒絶であり、すでにそこにある「あるがまま」という完全な贈りものを却下することになってしまいます。その結果、人生の流れを自らせき止めてしまいます。

リラックスして「イエス!」と言うことは、受け入れること、贈りものを受けとるために手を差しだすことなのですね。

PS カール役のジム・キャリーのみごとな顔芸が、地獄から天国までのギャップをみごとに表現しています。かなり笑えます。

 

 

20-05-30 ラブリー・ボーン

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「こちらの世界」と「あちらの世界」のお話です。

愛情いっぱいの両親に見守られながら育ったスージーは14歳。ひそかに想いをよせる男の子から誘われて、嬉しさで胸がいっぱいです。

しかしその帰り道、スージーは卑劣な男の手にかかり殺されてしまいます。

両親は突如消えてしまった娘について手がかりがつかめず、深い悲しみに沈みます。やがて、こころのバランスを崩してゆきます。

一方、突然殺されてしまったスージーは状況を受けとめられず、こころは必死で家へと向かいます。しかし、スージーの目にする世界は彼女の怯えたこころを映しだすばかりで、もうもとの世界に自分はいないのだと気づきはじめます・・・。(→予告を見る)

両親もスージーも被害者なのですが、悲しみのなかで憎しみをつのらせるうちに、いつしか最も嫌悪する加害者と同じようになってゆきます。「あいつをたたき殺したい!」と。まるでゾンビに襲われて、自分もゾンビ化してゆくようです。

怒りに燃えた父親が最悪の行動に出そうになったとき、あちら側にいるスージーの必死の想いが彼を救います。

私たちは「すべては完璧でこれがベスト」という言葉は知ってはいても、実際起こったものごとを見るとベストだとは思えないという体験しますが、この場面を観て「ああ、愛に守られて最悪の事態は避けられたからこそ、この出来事でよいのだ」と納得することができました。

結局、残された家族もスージーも、過去から解き放たれなければ一歩もまえに進むことなどできず、ずっと同じ場所で同じ想いを反芻することになってしまいます。

でも、いのちは時空をこえて決して消えることがなく、「愛」はこの世とあの世の隔たりを越えて癒しをもたらします。

ちょっと不思議なファンタジーでもあり、またサスペンスのようにドッキドキです。

光にあふれるあちらの世界を描きだしているのは、「ロード オブ ザ リング」の監督さん。

スージーを演じているのは、アカデミー賞ノミネート作「レディ・バード」のヒロイン、シアーシャー=ローナンだったのですね。あまりにキャラクターや体型が違っていて、観終わるまで気づきませんでした。スージーは可憐ですが、「レディ・バード」の彼女はたくましいです。

スージーのおばあちゃん役にはスーザン・サランドン。お年を重ねても存在感に変わりはありません。エッジのきいたおばあちゃん役は、まえだけを向いてみんなをグイグイ引っぱってゆきます。

たとえ向こうに行ってしまったとしても、それは終わりではなく、ただストーリーや登場人物、背景が変わるだけで、いのちやつながり、愛は決して途絶えることなどないのですね。

想いは、どこにいようとも、どんな瞬間にもつながっていてコミュニケーションしている、と強く感じる作品でした。

 

 

 

20-06-05 ぼくを探しに

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両親を失ってから伯母姉妹のもとで育てられたポールは、話すことができません。そして、笑うことも。

毎日、シューケットを食べつつピアノを弾いては、公園に行ってサンドイッチをかじります。その姿は、まるでもぬけの殻。

伯母姉妹の望みは彼を一流のピアニストにすること。かなりの腕前をもつポールですが、なにかが欠けているようでコンクールは落選つづき。

あることがきっかけとなり、ポールは階下に住むマダム・プルーストの部屋へこっそりと通うようになります。

その目的は、ハーブティー。

マダム・プルーストのハーブティーは、ポールを過去へと、懐かしいママの記憶へと呼び戻す力をもっていたのです。

彼はまずいお茶を無理矢理マドレーヌで流しこみ、ママとの失われた時を求めて旅をはじめます・・・。(→予告を見る)

マダム・プルーストって ・・・ 私の同業者??

マダム・プルーストいわく、「記憶は、魚と同じ」だと。こころを池にたとえて、こんなふうに表現しています。

「池(こころ)の表面には、なにもないように見える。でも、釣り人が魚(記憶)の好きそうなものを投げこむと、釣れるのだ」と。(たしかに、たしかに〜!こころの表面はシ〜〜〜ンとしていても、こころの底では記憶という魚がうじゃうじゃ動きまわっているのですよね〜。そして、悪さをします。)

彼女は「ハーブティーを使ってトランスに導き、音楽というエサで記憶という魚を釣りあげ、過去への癒しをもたらす」という、いわばヒプノセラピスト(?)だったのです。(お〜☆わたしも是非来週からこのセラピースタイルに変更いたしましょう!まずいハーブティーとマドレーヌを用意しなくちゃね!笑)

赤や緑をきかせたヴィヴィッドな映像は、どこかアメリのよう!と思っていたら、同じプロデューサーさんでした。

凝ったお部屋のインテリアや壁紙、小物や不思議なオブジェなど、観ていて楽しいです。登場人物も個性的!

予備知識がなにもなかったので、「いったいこれはどうなる・・・?!」と引きこまれました。

こういう先行き不明な映画、わくわくします。そして、エンディングも好き。また観たくなります♡ (ポールは、笑顔になれたかな〜〜?)

PS. ちなみに、ポールとそのお父さんは同じ役者さん。まったく対極のふたりをみごとに演じています。
そして・・・私たちは自分がしっかりと愛されていたことに、まだ気づききれていないのかもしれません。

 

 

 

20-06-18 ベロニカとの記憶

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老年のトニーはひとり暮らし。

離婚した妻や娘とは良好な関係を保ってはいるものの、実際、人に対してあまり興味はなくこころを開かない。

ある日、トニーは弁護士からの手紙を受けとる。それは、学生時代の親友エイドリアンの日記が遺言によって自分に託されている、という内容だった。

しかし、エイドリアンは学生時代に自殺しており、その遺言の主はエイドリアン本人ではなく学生時代の恋人の母親だった。

なぜ今頃、旧友の日記が自分に遺されたのか? なぜ元恋人の母親からなのか? 疑問を抱きながらもその日記を請求すると、遺言執行人である元恋人のベロニカは「もう日記は焼いてしまった」と。

この出来事を機にトニーの記憶の扉が開き、学生時代のさまざまな場面がフラッシュバックのように甦る。

またベロニカとも40年ぶりに再会することとなり、忘れさっていたこころのうずきを感じはじめる。

なにも語ろうとしないベロニカとの間で、トニーの記憶はゆらぎはじめる・・・。(→予告を見る)

嬉しかったり、傷ついたり、恥ずかしかったり・・・私たちのこころのなかにある様々な記憶。

そもそも記憶は私たちのこころによって取捨選択されうるし、また記憶のモトになっている自分自身の認知じたいが「ほんとうのことを見ることができない」ということに私たちは気づきません。

私たちが見ている世界は、まるでカギ穴から覗いているような限られた一部であって、それはあるがままの事実とは違うのです。

さらに、私たちにはあらかじめ自分で目にしたいと思っているストーリーがあり(たいていは被害者のストーリー)、そこにあわせて起こっていることをあてはめて自分なりの物語を紡いでゆきます。

つまり、あるがままではなく、起こっている一部をつなぎ合わせて、組み立てて、自分好みのストーリーにして納得しているのです。でもそれは、自分が「傷ついた」というストーリーであることが多いのです。

このお話のなかのトニーも、自分が思い出した過去の記憶というものが、この「日記」の出来事から揺らぎはじめます。

自分がねつ造した「カギ穴」から見たストーリーではなく、ドアを開け放ち全体を知りはじめたとき、そこにはまったく違うものが見えはじめるのです。

トニーがそのことに気づきはじめたとき、彼はなんと自分が自分を被害者にしていたことか、そのために心をとざしてそこにある愛も拒否していたことに気づきはじめます。

神さまのような目線ですべての出来事の全体を、そのうわべだけでなく内容もながめ渡すことができたとしたら、ほんとうは傷ついたり、被害者になったりすることはできないのかもしれません。

そして、自分のこころの癒しを求めるとき、こころで全体で見ようとする気持ちが欠かせないのだと感じます。

PS 再会したトニーのまえで、なにも語ろうとしない元恋人のベロニカ。シャーロット・ランプリングの存在感だけですべてを語っている感じがします。

 

 

 

20-07-18 ラスト クリスマス

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時間があいて何をしようかな〜? というときはいつも、私の高い自己であるハイヤーセルフにおうかがいをたてます。

お散歩でもしてくれば? というときもあれば、お昼寝や、読書、お友だちとのおしゃべりをオススメされるときもあります。

このときは、シアタータイムのご提案。では、なにを観ましょうか?

これもまた決めてもらいます。そうすれば映画を楽しむとともに、そのときに必要なメッセージやインスピレーションの贈りものも受けとることができます。

今回は「ラスト クリスマス」ですって? ・・・ 今どき、まさかのクリスマス映画?! といぶかりつつも素直に観てみることに・・・。

クリスマスソングの定番、ワムの「ラスト クリスマス」をモチーフにした作品です。

ロンドンのクリスマスショップで働くケイトという、ちょっと自己破壊的な生き方をしている女の子と、ミステリアスな雰囲気をもつトムという青年の出会い。

自分の欲望のはけ口としてしか相手を求めないケイトにとってトムはぜんぜんタイプではなかったのですが、非日常的で不思議な包容力のあるトムに惹かれはじめます。ところが、トムにはケイトお得意の恋愛テクは一切通用せず。神出鬼没でどこかつかみどころがない存在なのです。

近づけそうで近づけない・・・いったい彼はなにもの?!

私も自分なりに推測したけれど、ちょっと意外な過去が明らかになります。

ワムの「ラスト クリスマス」は軽快なメロディで楽しげなクリスマスソングに聞こえますが、歌詞を聞くとちょっと悲しいのです。

Last Christmas I gave you my heart
But very next day you gave it away....

それが答えでした。

ラスト30分ぐらいはけっこう泣けます。(→予告を見る)

私たちはこころを開いて人に自分をさしだすことで、自分自身を発見し、人も発見します。ケイトが勇気をもって自分を開きはじめることで、まわりも巻き込んで変化が広がってゆく様子が印象的です。

ほんとうの自分を求めて自分と闘っているケイトにトムがささやくいくつかの言葉がこころに残っています。
「普通なんてない。 普通っていう言葉がひとを傷つけている」
「なぜ何かになりたがる? 特別ってことが過大評価されている」

普通にも、特別にもなる必要がない。自分らしささえも探す必要はない・・・と。

観終わったあとにお友だちにシェアをしたら、何かを感じとったお友だちもすぐにこの作品を時差鑑賞して、まるでともに映画館に出かけたように感想を語りあうことができました。

さすがハイヤーセルフのオススメだけあって、お友だちにも大切なメッセージがある作品だったようです(なによりも、ケイト役が大好きな女優さんだったそうな)。

むかし、クリスマスの時期にロンドンを訪れたことがあり懐かしくなりました。

この作品のなかではクリスマスイルミネーションは濡れた道路に映しだされて二倍にきらきらしているのですが、そう、ロンドンはいつも小雨でしたっけ。

こんな時期のクリスマス気分もよいものです。 Merry Christmas ☆

涙壷度:★★★☆☆

PS 全編、ジョージ・マイケルの歌ですが、パブにジョージ・マイケルのそっくりさん風がさりげなく登場してました。

 

 

20-07-28 幸福なラザロ

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とあるイタリアの小さな村でのこと。

その村はひどく貧しい。人々は公爵夫人の小作人で、働けど働けど農作物のすべてを搾取されてしまう。でも、人々は他の世界を知らないがゆえに、必死で働きつづける。

その村でいちばんの働きものはラザロという青年。彼は不平や不満、文句を知らず、せっせと働く。なぜなら、彼のこころはまったく判断をしないから、あるがままのなかで平和に暮らしている。

そんなある日、公爵夫人の息子が起こした偽装誘拐事件によって、村の人々は小作人制度がすでに廃止されている事実を知らされる。そして、人々はそこから解放されることになるのだが・・・ラザロの姿はどこにもない。(→予告を見る)

ラザロは新約聖書のなかに登場するイエスのお友だちの名前です。亡くなって数日後、イエスはラザロのお墓を訪れて「ラザロ、出てきなさい」と声をかけると、ラザロはお墓から出てくる・・・つまりイエスによって蘇った人物で、のちに聖人に列せられています。

この作品のなかのラザロ青年はまさに純粋無垢な存在なのですが、彼のあまりにまっすぐな瞳に衝撃を受けます。

この俳優さんは役者さんではないそうで、素人の高校生さんたちのなかからスカウトされたそうな。まるで裁くことを知らず、なにが起ころうとも平和のなかに生きているラザロのイメージにぴったりの青年でした。

ストーリーの結末はいろいろな解釈ができるので、観た人なりに感じることもさまざまだと思います。

ここでは私の感想はふせておきますが(ああ・・・言いたいっ!)、ただ「罪なきこころにはなんでもありなのだわ!」と深く感じいりました。

この作品はカンヌで脚本賞を受賞しているのですが、このアリーチェ・ロルバケルという監督さんは以前にもカンヌでグランプリを受賞されていて、そのときの作品が「夏をゆく人々」。

あら、「夏をゆく人々」は以前から私の「観たいものリスト」にすでに入っていた作品です。さっそくこちらも観てみたくなりました。

涙壷度:★★☆☆☆(じわっと涙が誘われました)

ストーリー自体も興味をひくのですが、この青年の存在があったからこそ、彼のまなざしあってこそ、さらに引きこまれます。

そしてなによりも、こころが澄みきっていることこそがいちばんの幸福なのだわ、と感じたのでした♡

PS お友だちが、BGMは大好きなイタリアの作曲家ベッリーニのオペラアリア「清らかな女神」だと教えてくださいました。「ラザロくんの目がダビデ像のお目めにそっくり」というコメントも、まさに!  彼の目は、世界を反射せずに澄んでいるのです。

 

 

 

20-09-14 ムッソリーニとお茶を

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予備知識なく、行きあたりばったりに観たのですが、

ジュディ・デンチやら、マギー・スミス、シェールという、私の好きな女優さんたちの宝庫で、ちょっぴりコメディタッチなこころが優しくなるいい作品でした。

舞台は、花の都 フィレンツェ、今よりもずっと、街じゅうに芸術があふれ、それを楽しむ人たちが集っている時代です。

そこに暮らすイギリス上流階級のおばあちゃまがたと孤独な少年との絆に涙がうるうるします。やがて、イタリアとイギリスとのあいだに戦争がはじまり、おばあちゃまがたの身に危険がせまります・・・

あとで調べてみたら、監督さんは誰もが観たことのある「ロミオとジュリエット(オリビアさんバージョン)」、「ブラザー・サン シスター・ムーン」、「エンドレス ラブ」、「チャンプ」、「トラヴィアータ」などの名作を世に送り出したフランコ・ゼフィレッリ。

じつはこれは彼の自伝的な物語で、さまざまな彼の作品のバックグラウンドとなった生い立ちを知ることができます。

街じたいが美術館といわれるフィレンツェの美しさにいだかれながら、毎日お茶や芸術をたしなむちょっと辛辣でおちゃめな英国のおばあちゃまがたの愛に包まれ、ゼフィレッリ監督の感性は豊かに育まれていったのでしょう。

母を亡くし、父に育児放棄された少年ルカ(監督自身です)。彼がフィレンツェで暮らす英国上流マダムたちによるあたたかな庇護のもと、大人になってゆく様子が描かれています。

この英国のマダムたちは、ムッソリーニ政権が樹立されるや、イタリアにおいては敵性外国人とみなされ勾留されてしまいます。しかし、優雅に暮らす権利を奪われつつも、英国上流マダムとしてのプライドは決して手放すことはないのです。

勾留先でのこと。夜になって見張りのイタリア人が点呼にやってくると、下着姿だったマダムたちは「きゃあ!」といっせいに叫び声をあげます。彼らの態度を無礼だと感じたマダムは、「ちゃんとノックして カム イン と言われたら入りなさい! 」とか、「下がるときには、グッナイ レディース と挨拶しなさい!」と教育までしちゃうのです(完全に召使い扱い)。彼らがマダムにちゃんと従っているのに笑ってしまいました。おばあちゃま、強し!

そんな不自由な状況におかれつつも、フィレンツェを愛し、優雅なティータイムやおしゃれをあきらめず、どんな状況下でも英国マダムのプライドを失うことなく、力強く、ときには向こうみずで、なんともチャーミングなおばあちゃまがたなのでした。

それぞれが寛容な気持ちと思いやりをもって、つながりあい、助け合い、どんな境遇でも冷静に、悲観的にならず、みんなで乗り切ってゆく様子は、まさに女性ならではだな〜と感じます。柔軟さや楽しんじゃう様子がとてもステキでした♡

こころがあたたかくなり、じんわり涙のでる作品でした。
(→予告を見る)

 

 

 

20-09-24 ハロルドとモード

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

「歳を重ねたら、これをやりたいと思っていたの!」と黒柳徹子さん。それは、今演じていらっしゃる「ハロルドとモード」という舞台のお話。

「ハロルドとモード」?? あ〜、むかし、この映画を観たのを思い出しました。

裕福な家庭で何の不自由もなく育ったハロルドは19歳。かなりの無気力青年です。

唯一情熱を傾けられるのは、自身の自殺劇。自分の自殺を演じることについては、あの手この手が尽きません。母親が連れてくるお見合い相手のまえでもそれは繰りかえされ・・・。

そんなハロルドが出会ったのが79歳のモードという女性。世間から見たら、「変わりもの」のレッテルを貼られそうなキテレツおばあちゃんなのですが、二人はあっというまに意気投合します。

どんな常識も通用しないモードの生き方に触れて、ハロルドのこころが解放されはじめます。

そして、ハロルドはついに思うのです。「モードを愛してる! 自分が結婚したいのはこの女性だ!」と・・・。(→予告を見る)

今回この映画を見直してみたのは、この二人はいったいどうなったんだっけ? という疑問から。

なるほどね〜・・・。何にもとらわれることがないモードならではです。

観ながら、「もし、私だったらどんな結末にしたかしらん?」とパラレルワールド的な別のエンディングをイメージしてみました。あれもありだよね!これもありだよね! と、楽しい妄想がふくらみました。

はじめは「老女」感バリバリのモードなのですが、ハロルドがこころを打ち明けたあたりから、「あらっっ!!モードったら、すんごく女子だわ! かわいいっ!」とびっくり。

ほっぺはピンクで、お肌はつやつや、表情もどこか初々しく、ハロルドを見つめる瞳も輝いているのです。そして、棒っきれのように頼りなげだったハロルドも、どこか紳士的な雰囲気に!

この映画は1971年の作品なので、今だったらそこまでビックリしない話であっても、その頃はもっと抵抗感があったのかもしれません。

でも、「世の考え」を抜きにすれば、人と人の出会いなんて、いちいち年齢なんて気にしていないように思います。まわりに言われてはじめて、「私っておかしい?」と自分を疑ったり、あるいは先に「歳が違うから」と自分からブレーキをふんでこころを閉ざしてしまうのかもしれません。

人との出会いは、こころとこころの出会いですものね。こころである自分のまわりに余計な信念や考え、ルールがくっついていなければ、誰とでも純粋に出会えて、大切にしあえるのだと感じます。

そんなモード、黒柳さんにぴったりの役ですね〜。

 

 

 

20-10-23 バレエボーイス

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まだあどけない面影が残る三人の男の子たち。

14歳というと、まだ青年でもなく、少年でもない、そんな年齢。

サナギが変貌をするように、日々、体格も、顔つきも、声色も、語る言葉も、物腰も大人びてゆくのが見てとれます(自分もこの年齢、こんなだったのでしょうか?)。

そんな実在する三人の男の子の日常を4年間にわたって追いつづけたドキュメンタリー作品なのですが、彼らはちょっとばかりふつうの男の子とは違うのです。彼らは、バレエボーイズ。

バレエを習う女の子は多いなか、男子は希有な存在。彼らは、オスロのバレエスクールで、日々ダンサーを夢見て練習にうちこむそんなバレエ男子なのです。

勉強も忙しさをますなか、バレエの練習もかなりキツく早朝から夜遅くまでつづき、友人と遊ぶヒマもないクタクタな毎日。そのうえ、先生に進路についてのプレッシャーをかけられ ・・・。

このまま自分を信じていいのか? この道をつっぱしっていいのか? プロへの道は拓けるのか? はたして才能はあるのか? ほんとうに努力は実るのか? ・・・ 希望と不安が交錯します。

でも、踊ることは大好きで、踊っていると気持ちがいい、自由を感じる、と。

とにかく、三人の男の子たちがかわいらしいです。

まだ中学生なのでどこか恥じらいながらも神妙な顔つきで、女の子の腰に手をそえて回転をサポートをします。「女の子と踊れるのは楽しいけど、舞台で失敗したらずっと恨まれる・・・」と苦笑。

コンクールやバレエスクールの進学において、三人は険しい道を支えあう仲間ならではの強固な絆が感じられます(ホントに仲良し♪)。きみたちがいるからこそできるんだ! という感じです。

いちばん練習熱心なルーカスは、バレエは夢、踊っていると最高に楽しい!と。コンクールで大失敗してしまったシーヴェルトは、それでも名の知れたダンサーになりたいと。スポーツ万能のトルゲールは、本気で望みさえすれば何にでもなれる・・・と。

4年に渡る撮影でみんなどんどん背が高くなり、ついには180センチ越え。女の子を軽々リフトする青年に成長します。

迷いや葛藤のなかにあっても、喜びや希望に輝く彼らの表情は、ホンモノだからこそとても美しいのです。

それから?それから?・・・と、彼らの成長を身内のように見守っているうちに ・・・ え?ここで終わり?! うっそ〜〜〜!(汗)

もっと観ていたかったのに〜〜♡ 

おもわず、その後を検索しちゃいましたよ。すると、「バレエボーイスその後」なるサイトが存在(笑・みんな気になっていたのね!)。

彼らのその後の道のりに、「うんうん・・・そっかそっか〜♡」と親戚のオバサンのように微笑んでしまいました(笑)。

彼らの情熱と無垢なまなざし、それを静かに見守るご両親の愛情や不安、かけがえのない仲間との友情や別れ ・・・一緒になって、がんばれよ〜〜!とエールを送ってしまう作品でした☆

涙壷度:★☆☆☆☆(旅立ちの場面はホロリときました)
(→予告を見る

 

 

 

20-11-14 ラブ・アクチュアリー

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以前にもブログで紹介したお気に入り作品、リチャード・カーティス監督の「ラブ・アクチュアリー」。この季節になると観たくなります。

なぜなら、これはクリスマスの5週間まえからクリスマスイヴへとつづく物語なのです。

登場人物は次から次へと19人ほど出てくるのですが、コリン・ファースやら、エマ・トンプソン、ヒュー・グラント、リーアム・ニーソン、ローワン・アトキンソンなどイギリスの名優さんたちがぞろぞろ。そして、登場人物全員が主役なのです。

だから、はじめて観ると話があっちに飛びこっちに飛びとっちらかっているように感じるかもしれませんが、クリスマスイヴに向かってそれぞれがクライマックスを迎えます。

「世の中に嫌気がさしたら、ヒースロー空港の到着ゲートへ。ここでは、love is everywhere ・・・ 見回してみると実際のところ、この世には愛がみちあふれている」。 ”Love actually" is all around からとった「ラブ・アクチュアリー」なのです。

父と子、夫と妻、上司と部下、スターとマネージャー、首相とスタッフ、同僚同士、恋人、友人、クラスメート ・・・さまざまな愛の人間模様。

しかし、だれもがはずかしがりやで、ぶきっちょで、勇気をだして頑張ってみるもののすれちがい、それでも再び素直に一歩ふみだしてみる ・・・ そうすればどうであれきっと自分は幸せを感じられる。

そんなそれぞれの場面をなつかしいポップスがつなぎます。(→予告を見る)

映画のよいところは、自分の無意識のなかにうもれている気づくことのなかった感情に気づいて、癒してもらえること。主人公それぞれの姿に「わかる、わかる」と共感しつつ涙しながら、ともにまえに進んでいるのに気づくかもしれません。

寒さがましてくるこの季節、こころが温かくなりクリスマス気分も味わえる、オススメの一本です。

涙壷度:★★☆☆☆(観るたびに、より泣けるようになりました)

PS *ヒュー・グラントのこういう役、大好き。のりのりダンスが可愛いです♡
じつは、この作品には、「ラブ・アクチュアリー2」というチャリティ目的で制作された短編テレビドラマがあり、14年後のみんなの姿が描かれています。そのなかでも、ヒュー・グラントはダンスを疲労しているのですが、あらら階段から落下?!

*この監督さんの「アバウト タイム」もオススメです。

 

 

20-12-18 モノクロ クリスマス映画

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クリスマスの時期になると観たくなる古い映画のひとつが、「クリスマス・キャロル」。

DVDで観ていた頃は、このシーズンはいつも出はらっていて観られませんでした。

ディケンズ原作の「クリスマス・キャロル」は何度もリメイクされているクリスマスの定番ですが、今回は1938年(ふるっっ!!)のモノクロ版。

手作り感と素朴さにあふれていて、温かみがあってヨイですよ〜。

こどもたちはみんな素直でいい子、そしてパパは一家の大黒柱として尊敬されていて大人気、ママはみんなを包みこむ愛情と優しさにあふれていて・・・そんな幸せな家族の原型を目にすることができます。

主人公は、グリンチという超ひねくれもので嫌われもののおじいさん。彼の身に起こるクリスマスの奇跡を描いています。

クリスマスイヴの晩、三人の精霊がグリンチのもとに現れて、彼の過去、現在、未来に連れてゆきます。

いくらひねくれものであっても、こどものときはやっぱり傷つきやすく愛らしい少年だったグリンチ。そんな自分を眺めながら目をうるませます。

さらに、彼の現在も客観的に見てみることに。すると、彼の気難しさのせいでどれほどの人が悲しくつらい思いをしているのかに改めて気づき、はじめてこころに痛みを感じます。(渦中にいると自分のことしかわからなくっても、ちょっと距離をとり外から眺めてみると冷静になれるものです。)

さらに未来の自分も見せられたとき・・・グリンチはそこに横たわる自分におもわず目をそむけます。

そして、寂しい結末を招いた今までの自分を悔いはじめるのです。

ストーリーはとってもシンプルですが、クリスマスの温かな雰囲気にあふれていて、あたりまえだけど忘れがちな人に対する思いやりやつながりを大切にするこころを思い出させてくれます。

クリスマスにオススメの古い映画もう一本は、「三十四丁目の奇跡」。

こちらは1948年版のモノクロです。

デパート主催のパレードでサンタ役に雇われていた老人が、「自分はサンタクロースだ!」と主張しつづけているうちに、やっかいな問題に巻きこまれ、ついには精神病院にまで送られ審議にかけられてしまうというお話。

こどもたちには絶大な人気を博すこのサンタ老人、彼はいったいアタマがおかしいのか? あるいは、ほんとにサンタなのか?

そして、このゴタゴタはどうなる?(・・・ ああ、やっぱりリアル サンタか?!)

このおじいさんのサンタっぷりにほっこりします。

また、その当時の人々や街の様子も見ていて楽しいです。男性も女性も、髪型がかっちりしていて、今どきこんな髪型をしている人がいたら古いマネキン人形かと思ってしまうかもしれません。(あ、「マネキン人形」という言葉でさえ死語の世界?!笑)

二本とも、昔ながらのクリスマスのわくわくを感じさせてくれる映画で、「そうだよね、こどものときはクリスマスってこんなふうにワクワク待ちどおしかったよね!」って思い出します。

私も、こどものときのクリスマスをふと思い出しました。いくつまでだったか、サンタは毎年来てくれていましたっけ。

あるクリスマスの夜、寝たフリをしてサンタを待ちかまえていたら、案の定サンタはやってきて枕元にプレゼントを置いて去って行きました! それをいいことに、寒い真夜中にガバっと飛び起きて、兄まで起こして一緒にそのオモチャで遊びはじめちゃったのです。そうしたら、仰天したサンタがあわててもどって来たのを思い出しました(笑)。

プレゼント、待ちきれなかったのですね~。

今年も・・・昨日、予期せずにサンタさんからの玉手箱が届きました。きゃ〜、嬉しい♪ いくつになってもわくわくします。ありがとうございます♡

こんなコロナ禍だけど、今年はちゃんとクリスマスケーキを買ってクリスマス気分を味わおうっと! みなさまも楽しいクリスマスを☆

 

 

21-01-13 ストーリー・オブ・マイライフ

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私の好きな俳優さん、シアーシャ・ローナンとティモシー・シャラメが出演しているこの作品。「若草物語」の最新リメイク版です。

私の世代は「赤毛のアン」シリーズの方が人気があったので、「若草物語」は一度しか読んだことがなく初めてのような新鮮さで楽しめました。

19世紀の終わりごろのウィスコンシン州。黒人解放にかかわる牧師である父親が長く留守をしている一家は、母と四人姉妹だけ。

作家志望である次女ジョーの目をとおして紡がれる、女ばかりの家族の貧しくともなんとも賑やかな日常。

まだまだ性差別が強く、女性が生きづらかったアメリカ社会で、大人になるまえの娘であり姉妹である少女時代を惜しむように姉妹と母、そしてお隣の老人やイケメンくんとの出来事がイキイキと綴られてゆきます。(→予告を見る)

ある日、ジョーの態度に腹をたてた四女のエイミーが、ジョーが完全にうちのめされるようなことをしでかしてしまうのです。

そのときのエイミーのセリフが、「ジョーを傷つけるためにはこれをするしかなかった」と。

ひゃ〜〜!「がっつりと傷つける意図があってやった」と言ってしまうところに口があんぐり。友だち関係だったら、一生修復はむずかしいでしょうに。

うちのめされたジョーは悲しみと怒りがおさまらず、エイミーと目もあわせずさけていたのです。けれども、さすがに姉妹。ついには赦して受けいれます。そして、なにごともなかったようにいたわりあう関係に。

なぜならジョーにとっては、憎むことよりも姉妹としての「つながり」の方がずっとずっと大切だったから。ジョーにとって、家族全員にとって、この絆こそが生きるちからだったのです。

この時代のファッションも可愛いらしいです。

腰までとどくふわふわのロングヘア。ボリュームのあるギャザーのロングスカートに編みあげブーツ。たっぷりしたブラウスにざっくりと編んだ大きめのカーデガン。エディ バウアーやむかしのローラ アシュレイのイメージです。

家族を助けるためにジョーがロングヘアをお金にかえてしまうシーンがあります。

自分の意志で髪を売った気丈なジョーでさえ、夜中にひとり「私の髪が〜・・・」と大泣きしていました。それに気づいて抱きしめるエイミー。

ロングヘアはまさに女性としてのシンボルのようなものだったようです。

自立心が旺盛で、夢をあきらめない勇気があり、自分の道をつきすすむジョーであっても、いちばん愛しているのは家族であり、家族があってこそそんなジョーでいられたようです。

「ブルックリン」や「レディーバード」の頃よりも少しほっそりとしたシアーシャ・ローナンが、そんなジョーのイメージにぴったりでした。

映画のなかでは、現在のストーリーが過去の出来事とのあいだを行ったりきたりするので、ちょっと混乱しそうになりますが、あたたかな四姉妹に励まされる作品です。

PS *ティモシー・シャラメは、美しさに磨きがかかっておりました♡
四姉妹のお隣さんである青年を演じているのですが、こんな姉妹たちがお隣に住んでいたらそわそわして当然。彼もじっと椅子に坐ってお勉強などしていられない様子でした(笑)。

*ピアノが得意な三女のベスが演奏する場面があります。流れるような美しいメロディーはベートーヴェンの「悲愴」の第二楽章とシューマンの「こどもの情景」から「見知らぬ国」。

どちらも、ステイホーム中に私が弾いていた曲なので嬉しくなりました。

「見知らぬ国」は、「ソフィの選択」のなかでもネイサンが異国からやってきた恋人ソフィのために弾いておりましたっけ。ピアノのまえに坐るソフィの後ろに腰掛けて弾くシーンはとってもロマンチックで、この美しい旋律にぴったりでした。

 

 

 

21-02-05 麗しのサブリナ

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まさにチャーミングの権化、オードリー・ヘプバーンの作品です。

「ローマの休日」がイチオシですが、こちらのサブリナの可愛さもピカイチ♡ コートをさらりと脱ぎすてると、フェミニンなワンピースかと思いきや、タイトなトップスとパンツといういでたちにハッとします。

この丈の短いパンツはサブリナパンツと呼ばれ、いまだに人気です。

お金持ちの御曹司ディヴィッドに恋をしているサブリナは、このお金持ちのおうちの運転手の娘。

「いくら憧れても、月には手がとどかんのだ!」と父親にさとされるのですが、サブリナはそんな身分違いなどものともせず、「月が手をさしのべるのよ!」とキッパリ。あきらめる様子などありません。

その言葉のとおり、二年間パリで過ごしたサブリナは、まるでファッション誌から抜け出たようなシックなレディーとなって帰国! (いったいパリでなにがどうなったの? そここそ私は知りたいっっ!笑)

ここから一気に形勢逆転です。ディヴィッドだけでなく、独身をつらぬいてきたおにいちゃんのライナスもサブリナのとりこに。

まるで少女漫画のような展開で「これって、どうなの??」というつっこみどころ満載ですが、コメディなのでよしとしましょう!

しかし、この配役、ナゾです!? サブリナは22歳の設定で、サブリナが惹かれてゆく御曹司のおにいちゃん役のボギーは、実際に亡くなる二年前で56歳ぐらいなのです。(この時代も歳の差カップル存在?!)

ヘプバーンの内側から輝くような美しさは、もう絶滅種レベルですね。もう、こんなオーラを放つ女優さんは見なくなりました。

ファションもまったく古くささを感じません。

このドレス、スカートのセンターが短めになっていて足首からパンプスまでが見えるようになっています。

よく見るとタイトなワンピースにふんわりと大きな布をまとってロングドレスのように見せているのですよね。チョーカーなどもなしで、美しい首筋のラインが強調されています。

余計な色がないモノクロなので、なおさら清楚な雰囲気がきわだっています。

このドレスはどんな色なのだろう?と想像しながら観るのも楽しいでした♪

PS 大富豪のライナスはオフィスに最先端の機器を備えています。
ボイスレコーダーとか、リコモン自動ドアとか ・・・1954年当時には、かなり画期的だったかもしれません。
さらに、割れないガラス、強化プラスチックの上に紳士のみなさまがこぞって乗っては飛びはねて喜んでいる図がおかしかったです。割れないことが珍しかった時代なのですね。

 

 

21-03-29 僕のワンダフル・ライフ

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ベイリーという一匹の犬目線で語られる、ラッセ・ハルストレム監督の作品。

イーサン少年に愛されたベイリーは、イーサンが青年になり、おじさんになり、やがて老いて亡くなるまで、大型犬になったり、小型犬になったり、健気に何度も生まれかわってきます。さらに、イーサンが亡くなったあとも・・・。

続編の「僕のワンダフル・ジャーニー」を含めると、通算六回も! まさ間髪入れずに、じゃんじゃんという感じで転生してくるのです。

なぜなら、彼には大切な目的があるから。

見ていて、これは犬ごとではなく人の物語のように感じました。

自分がすべきことをちゃんと成しとけるまで、まるでバネで引き戻されるように、あっというまに戻ってきちゃう。

ベイリーのエライところは、何度生まれかわろうとも自分の目的にまったくブレがないところ。

ちゃんと覚えていて、嗅覚を武器にわき目もふらずにそこに突き進みます。(私たち人間ときたら 、あっちにふらふら、こっちにふらふら・・・汗)。

しかし、いくらベイリーが目的に忠実であっても、なんせ犬なので言葉が使えません。お目あての相手を見つけても、「ホラ!あのときのボクだよ!覚えてるだろっっ!?」て伝えられないのがたまにきず。

一方、言葉が使える私たちは、自分の不正直な言葉に自分で自分が騙されるしまつ。目的にも一貫性がなく、ちょっとばかり見た目がいいものにはすぐに飛びつき ・・・ そのため、何度やってきても成果があがらずじまいです(汗)。

やるべきことを覚えていても話せないのと、何も覚えていないけれど自由に話せるのと・・・どっちがいいのやら?!(苦笑)

犬はあらゆる情報を鼻でキャッチします。嗅覚をたよりに未来を予測し、素早く行動しているのです。(嗅覚は人間の10万倍ですと?!)。

「まずいことが起こりそう」とか「ハッピーなことが進行している」とか、人の感情も「甘い匂い」とか「いやな匂い」とか鼻で嗅ぎわけて、コトが起こるまえにすばやく危険を回避するのです。嗅覚はまさに、犬のインスピレーションともいえます。

この嗅ぎわける素早さとそれを完全に信頼するこころ、見習わなくちゃね。私たちには鼻ではなくこころで感じる直感があるにもかかわらず、自分のこころでさえも信頼しきれていませんもの。

ベイリーが何度も何度も生まれかわってくる目的はただひとつ。たとえ違う自分になったとしてもしっかりこころに刻まれていて、その目的のためなら野をこえ、山をこえ、街をかけぬけ、目的に向かって一直線。

この使命に捧げられたまったくブレないまっすぐなこころに大いに学ばされます。

愛犬家さんにはたまらないお話ですが、そうでなくても大切なことをたくさん思い出させてもらえる作品です。

(予告を見る→「僕のワンダフル・ライフ」「僕のワンダフル・ジャーニー」

PS ラッセ・ホルストレム監督作品のオススメは、「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」。こちらは犬になりたい少年のお話。あと、「ギルバート‥グレイプ」「サイダー・ハウスルール」も好きです。

他に、こちらも楽しめます。

*「ショコラ」めずらしくジョニー・デップが厚塗りなしでイケメンを演じています。もれなくチョコが食べたくなる作品。
*「マダム マロリーと魔法のスパイス」星つきフランス料理店の真向かいに開店した移民が営むインド料理店。このはりあい方がおかしい。これインドの映画だっけ?と思ってしまうようなノリのよさと色彩にあふれた楽しい作品です。

 

 

 

21-04-23 グレムリン

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ひさしぶりに「グレムリン」観ました〜♪

愛らしい声で歌うふわっふわのギズモしか印象にのこっていなかったのですが ・・・ 観てみたらそのグロさにびっくり仰天☆ これってホラーではありませんかっ?!

とくにギズモをもらってきたおうちのお母さんときたら!

家のなかで得体のしれないグロテスクなものが孵化しはじめたら、誰もが一目散に逃げそうなものですが・・・ このうちママはちがうのです(汗)。

「私のうちにそのようなものは許さない!」とばかりに、キッチングッズを駆使してつぎつぎグレムリンを殺ってしまうママの鬼気迫る様子には、目をおおうものがあります。

一匹をグラインダーですりつぶしたかと思えば、もう一匹を電子レンジにとじこめ爆発させ、さらに他のを肉切り包丁でまっぷたつ ・・・(ひゃ〜〜、もうやめて!汗)。

グレムリンよりも、このお母さんのほうがよっぽどコワいよ〜〜〜(汗)。

もちろんグレムリンも、そうとうグログロですが。でも、懐かしさをかんじるグログロさ。

この時代の気持ち悪さって、「エイリアン」とか「ザ・フライ」にも見られるように、グロテスクなサナギのようなものがカサカサカリカリ音をたてて、スモークとともにネバネバと糸をひくわけのわからないものが生まれてくる ・・・ というパターン。

今はどうなのでしょう? もっと心理的、生理的なイヤさかげんに変わっているのかもしれません。

あんなに可愛いギズモちゃんから分裂して生まれてくる超凶暴で残酷で強欲なグレムリン。

これって私たちのなかに存在する二つの自己のようです(グレムリンは欲望にかられて闘争にあけくれるエゴの自分、ギズモは安らいで幸せでいるほんとうの自己)。

エゴエゴグレムリンは、エザをあげることでいったん欲望に火がついてしまったら大変なことになります。利己的で凶暴で、智恵は欲望を満たすためのキケンな凶器となり・・・。

どんどん増殖してゆくさまは、まさにエゴが欲望とともに大きくんなってゆく様子と同じです。

ほんとうの自分を失わないためにも、過度な欲望(夜中のエサ)にはご用心!

グレムリンは光にだけはどうすることもできないのですが、それはエゴが光(真理)にさらされるとひとたまりもなく消え去ってしまうよう。

グレムリンを自分のなかのエゴの象徴として見ていると、その凶暴さに笑ってしまいます。

「バックトウザフューチャー」やら、「インディジョーンズ」「フラッシュダンス」など、この時代のハリウッド作品って、今の作品にないようなワクワク感がありました(シンプルでわかりやすい?)。

「グレムリン」もとっても懐かしいでした(→予告を見る)(→かわいらしいギズモちゃんはこちら!)。

 

 

21-05-02 パーソナル・ソング

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最近は、YouTube でひと昔まえの音源を気軽に検索して楽しめるようになりました。

お友だちと学生の頃に聴いていた曲をメールで送りあっては、「あ〜、これ懐かしいね〜!これ聴いていた頃、お互いこんなだったよね〜♪」なんて、ふだんは思い出すこともない話がつぎつぎに語られたりして。まるで当時に戻ったような気分になります。

昔お気に入りだった曲を耳にすると、そのときどんな状況で聴いていたのかとか、どんな生活をしていたのかとか、どんな気持ちだったのか、はたまたどんな服を着てどんな香りが好きだったのかまで、その当時をありありと思い出すことができます。

音楽が呼び水となって、こころの底にうもれていた記憶の箱のフタが開くよう・・・。

昨日観た作品「パーソナル・ソング(ALIVE INSIDE)」は、そんな昔の記憶をよびもどす力のある音楽を認知症の改善に役立てている方たちのドキュメンタリーです。

ホームで暮らす認知症が進行したお年寄りの方々は、家族や介護の方が話しかけてもほぼ無反応で感情を失ったように見えます。

瞳はうつろで、存在自体がすでに抜けがらのよう。ただ最低限のことに反応するだけです。

ところが! ・・・そのご老人たちに、それぞれが好きだった思いいれのある音楽をアイポッドで聴かせてみると、

あらあら、不思議!

ダラ〜ンとしていた操り人形に魂がふきこまれたよう!

瞳がパッと明るくなり、まるでいっきに電源スイッチが入りなおしたように生命がみなぎるのがよくわかります。

ずっと無反応だったある人は、ヘッドホンを耳にするやいなや目を大きく見開いて、過去の思い出話しをほとばしり出るがごとく語りはじめ、それがもう止まらないのです。まるで自分が誰であるのか思い出したかのよう。

ある人は、力なく歩行器にもたれかかっていたのに、音楽を耳にするやいなや顔は輝き、歩行器そっちのけで楽しそうにダンスのステップを踏みはじめます。

うつむいたきりだった人も、高らかな美声で歌いはじめたり、「(アイポッドに)何曲はいるの?2000曲いれて!」とすっかり前向き!

もぬけのからだったような方々がいきいきと生命と感情を取り戻し、まさに覚醒してしまうのです。

脳内で音楽を司る部分は、認知症になっても破壊されにくいそうです。

記憶の衰えや日常にうまく対応できないだけで認知症というレッテルを貼られ、あっというまにさまざまな薬を与えられ、刺激の少ない単調なホームのなかでただ起きて、食べて、寝るということをくりかえしているうちに、正常だった部分もどんどん失われてゆくようです。

認知症をはじめとして、身体や精神の不具合についての対処は、たんに表面にあらわれている結果(症状)に対して投薬するだけの治療だったりするので、目に見えないところにある原因の改善とはほど遠いようです。

でも、この音楽療法は、結果に対処することによって忘れさられてしまっていた原因の部分(こころ)を活性化することに役立っているようです。

たった一回でも、その方が好きだった音楽を聴くことで、まるで置き去りにされてホコリをかぶっていたロボットが急に電源につながれて息をふきかえすがごとく、まさにシャキーーーンという音がきこえてきそう。

その劇的な様子は、忘れさられて眠ってしまっていたこころが、あざやかに復活をとげるようで、それぞれのご老人から溢れ出す喜びの様子を目にして涙が出てしまいました。

やはり、どのような身体や精神の不具合でも、こころを置き去りにして治療も回復もないことがよくわかります。大切なのは、あたたかな愛の思い以外にはないようです。

そのためには、こころをもっとストレッチしてあげることが大切なのですね。
→予告を観る

 

 

 

21-07-15 蜜蜂と遠雷

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Mちゃんとおうち鑑賞会。ふたりともすでに観ている「蜜蜂と遠雷」ふたたびです。

Mちゃんは原作も完読ずみ。そうなのです。これは、直木賞と本屋大賞をとった小説が原作。国際ピアノコンクールを舞台に、一流を目指す若き四人の天才ピアニストをめぐるお話です。

なので、全編音であふれています。それぞれが競う即興演奏もあり・・・ 原作はいったい、どのようにそれぞれの個性あふれる演奏を文字としてあらわしていることか。また、その文字からのイメージをこわすことなく実写として演奏するというのは、そうとう大変な作業だったことと思います。

それぞれのキャストは、「よくぞ!」というぐらいはまっています。また、画面全体の色調も透明感があって美しい。なによりも、お話の舞台が演奏家生命をかけたコンクールということで、それぞれの内面の緊迫感や葛藤、孤独観がひしひしとつたわってきます。。

Mちゃんは演奏家さんとして海外のコンクールにも出場していたそうなので、舞台の袖で出を待つシーンなどはドキドキが戻ってきてしまったそうな。

こどもの頃に天才少女として注目をあびながらも、母の死をのりこえられず姿を消していた亜夜。まったく無名ながらも今は亡き巨匠のお墨つきをもつ、天真爛漫で型破りな演奏をする少年、塵。年齢的に最後のチャンスとして挑む、悩める社会人ピアニスト明石。音楽を信じ、自分を信じ、未来を信じる優勝候補のマサル。

迷い悩みながらもそれぞれがピアノを愛し、全力で向きあい ・・・ でも、それだけでは生き残れず、先にも進めないこの世界。立ちはだかるコンクールという壁は、ピアノへの愛をも打ちくだくように見えます。

この数日間、四人は自分と闘いながらも、互いを意識し、その存在によって光を見いだしてゆきます。

この僅差の闘い、誰が制するのでしょうか? そしてそれぞれのピアノへの思いはどうなるのか? 結末は知っているものの、二時間ドキドキ☆(→予告を見る)

観賞後の私たちのおしゃべり♪

楽器店に勤める社会人ピアニスト役の松坂桃李くん。銀ぶちメガネにシャツとカーディガンというゆるい姿がめちゃくちゃふつうっぽいね〜。じわっと感情がこみあげてくるシーンもとても自然で、素なのやら、演技なのやら??

クロークに坐っているだけの片桐ハイリさん。まるでサブリミナルのように一瞬はめこまれる映像なのに、インパクトつよすぎ!

出場者を一人ひとりステージに送りだすマネージャー役の平田満さんも、じいやのような静かな包容力がにじみ出ていて、セリフはほぼないのですが存在観があってイイ感じ。

コンチェルトの指揮者役の鹿賀丈史さん。めっちゃイヤ〜な感じを出してくれてありがとう(笑)。

もう失敗が許されない亜夜のコンチェルト演奏シーン。黒のスパンコールのドレスから亜夜の決意が滲みでています。ボブがゆれる松岡茉優さんのヘアスタイルも、迫力と緊迫感がびりびり伝わってきます。

影武者として演奏しているホンモノピアニストさんたちのテクニック、あっぱれだわ〜。

ひとりごとのように思わず感想をつぶやいても、鑑賞会は応えがかえってくるのが楽しいです(笑)。

 

 

 

21-09-09 ファンタスティック・プラネット

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この真っ赤な瞳のインパクトにつられて、ストーリーの概略を読んでみると ・・・

「目だけが赤い巨大なドラーク族が支配している惑星では、人間は虫けら同然に扱われていた・・・」ですと?!

たいていの映画では、人間ありきで人間が主役ですが、そうではないのですね。

私たちが虫けら?!・・・ さきほどまで部屋に出没した小蜘蛛を追い回していた私はさっそく観る気まんまんに。

で ・・・ 蜘蛛さんの気持ちはよ〜くわったしだいです(汗)。別に悪さをしようとしたわけではなく、ただそこに棲息していただけなのにね・・・(ストーリーのなかで、人間も静かに生活してているだけなのにムゲに踏みつぶされています)。

母親が殺されてしまった人間の赤ちゃんをドラーク族の女の子がペットとして飼い始めるというお話です。

その男児はすくすく大きくなり、女の子が部屋にいないときに学習機材を使ってドラーク族と同じように智恵をつけてゆくのです。そして、ついには女の子のもとを脱走し・・・(さあ、どこへ行ったのでしょう?!)。

これを見ても、野生の犬や猫がなかなか人間にこころを開かないのは当然だよね、と感じます。とにかく、なにをされることやらコワイのです。

これは1973年の作品ですが、シュールな画面と斬新な発想にびっくりさせられます。まったく固定観念にとらわれていないのです。

このドラーク族の日常の過ごし方や、食事の仕方。そこに棲息する植物や動物の度肝をぬく形態。ドラーク族の使う道具も、びっくりです(人間につける首輪にはリールはなく、リモコン操作なのですよね。また、3Dプリンタのようなものも使っています)。

いちいち唸りました。(→予告をみる

フランスとチェコの合作とありましたが、う〜ん、納得。チェコの作品って、ときにびっくりするようなオドロオドロしさがあったりします。

●この赤い目と「虫けら同然の人間」というのは、私たちのこころにはちょっとばかりキャッチーでしょうか?

お友だちに「こんなの観たよ〜!」とご紹介したら、あっというまにご覧になり感想と情報をシェアしてくださいました。

「気持ち悪い生物はナウシカっぽいと思ったら、実際、ナウシカに影響を与えた作品だそうです」と。さらに、「コロナウィルスからみた人間って、こんな感じ?!」と。ほんとですね〜。

ところで、このストーリーで「猿の惑星」を思い出したのですが、

子どものときにテレビでチラリと観たのですが、それでもけっこうインパクト大でした。

とくに、一作目のエンディング。「え〜〜〜!!こうなる??」と、うすら寒く感じたものです(そもそも、猿の惑星にたどり着いた宇宙飛行士たちは二千年も旅をしている、という設定がスゴイ・苦笑。地球に生還できたとしても、ピラミッドが高層ビル群になっていますものね・・・汗)。

「猿の惑星」(これは1968年なんですね)、もう一度観たくなりました。

PS 「ファンタスティック・プラネット」の本編は、フランス語、英語ではこちらで閲覧できます。(→こちら

 

 

 

21-10-06 広がる 「猿の惑星」 の輪

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しばらく「猿の惑星」にはまっておりました。

「ファンタスティック・プラネット」を観て「猿の惑星」を思い出したのですが・・・そういえば、テレビで断片的に観たきりでちゃんと観たことはなかったな〜、と鑑賞をはじめたら・・・ これがけっこうやめられない。

なんと、1968年の1作目から1973年まで、たてつづけに全5作も作成されているのですね〜!

そして、おもしろい現象が!

私が「今、”猿の惑星” にはまっているの〜」と話すと、みんな「懐かしいな〜!また観たくなっちゃったよ」とそれぞれ鑑賞がはじまって、みんな5作目までノンストップのご様子(私も!)。

とくに殿方はみんなかなりの思い入れがあるご様子で、「あれは名作だよ!」と口ぐちに大絶賛。

そして日々、送信されてくるメールといえば、「ジーラがどうした、コーネリアスがどうの」という「猿惑」の話題でもりあがっておりました(笑)。

コロナ禍でひろがる「猿惑」の輪(和)♪

作中にジーラという女性博士が出てくるのですが(モチロン猿です!)、みなさま「ジーラが○○先生に激似でさぁ」と、なぜかみんな異口同音に「先生」に似ていたとおっしゃるのでした。 決して、○○ちゃんや○○くんではないのですよね(笑)。またコーネリアス似の話は聞かず、なぜかジーラばかりでした・・・(なぜ??)

たしかにジーラは、街角に歩いていらしても違和感ないです(笑)。

これは宇宙探索の話というよりは、タイムトリップの話です。1968年にしては画期的。

そして、毎回、エンディングにびっくりさせられます。えっっ!!このシチュエイションって、続編ぜったいムリでしょ!っていう終わり方で。(ふつうは、誰かメインとなる人物がいて、その人を中心に話しが展開しますが、これはそうはいきません。)

私は、3作目ぐらいまでが好きかな〜。それ以降は、登場する人物、いえ、猿物の人間性、もとい猿性がいまいち描ききれていないので、あまりこころをつかまれる感じがなかったのが残念。

新しい「猿の惑星」も最近作られていたようですが、なぜか魅力を感じず。ストーリーよりも、凝ったSFXがメインという感じで。

この1968年からのシリーズは、猿メイクがシンプルでありながらも、とても表情が豊かなのが印象的です。

画面も素朴で、あまり作りこみすぎていない手作りっぽいところがかえってヨイのです。3作目ぐらいまでは、ストーリー展開も意表をついています。

「猿の惑星」、あなどるなかれ!でした。まだご覧になったことがない方は是非どうぞ。

観ていて、今の私たちが森や山からエサを求めてやってくる動物たちにしていること、そして環境、地球全体に対して無頓着であることを野蛮な動物として、猿にビシバシ指摘されておりますよ。あ〜・・・耳がイタ・・・。

 

 

21-10-18 レイニーデイ・イン・ニューヨーク

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

ウッディ・アレンのもと、ティモシー・シャラメ、セレーナ・ゴメス、エル・ファニングなど今をときめく売れっこさんたちがズラリと顔を連ねる作品です。

ギャッツビー(T.シャラメ)とアシュレー(E.ファニング)は、ラブラブな大学生カップル。アシュレーの課題でNYの大物映画監督にインタユビューすることになり、二人は週末NYでデートすることに。それも、かなりオシャレでゼイタクなお泊まりデート。

ところが、どんなに盛り上がっているふたりであっても、アクシデントはおこりうる。ともすれば、とりかえしのつかないことに・・・(汗)。

ニューヨーカーのギャッツビーはアリゾナ生まれの彼女にNYをくまなく堪能してもらべく、ギャンブルで稼いだあぶく銭をつぎこんで学生にはにつかわしくない一流ホテルをリザーブし、ランチも名店で手配、さらに美術館を巡り、あれをしてこれをしてとてんこもりのデートプランに余念がない。

一方、アシュレーは憧れの映画監督からおバカな女の子と思われたら大変!と、インタビューのことでアタマがいっぱい。

二人ともNYの週末に舞いあがっているけれど、すでにここでそれぞれが描くワクワクは大きくズレまくっているのです。彼女と過ごす贅沢な週末か、雲のうえだと思っていた監督と直接対話できるまたとなく希有でエキサイティングなNYか。

アシュレーが一時間余りインタビューしたら、あとはふたりっきりで豪華なNYを満喫するはずが・・・。

なぜか一時間後にも二時間後も、ふたりは落ちあうこともできず。降りだした雨のなか、はては連絡すらとることもままならず、時はすぎてゆきます。

アシュレーは悩める監督にこころを開かれ、インタビューだけじゃ終わらない。さらに脚本家夫婦のトラブルにまきこまれ、有名ムービースターに出くわしたかと思えばくどかれるしまつ。もうアタマがクラクラ・・・。

ギャッツビーといえいば、たまたま出くわた旧友から映画のエキストラを頼まれ、そこから過去の扉がどんどん開きはじめ・・・。

ふたり仲むつまじくすごすはずが、じつはNYには刺激がいっぱい!・・・。いったいこの二人はどうなるの?? (→予告をみる

ウッディ・アレンらしいオシャレなNY & ラブラブな(はずだった)ふたりのハラハラ ラブストーリー。

PS それにしても、ティモシー・シャラメ、彫刻のように美しいお顔ですね〜☆ こんど、「チャーリーとチョコレート工場」のウォンカさんの若かりし頃を演じるのですよね。ウォンカさんがなぜあんなにエキセントリックになってしまったのか、ナゾがとけるのでしょうか?!

 

 

 

21-10-25 エセルとアーネスト

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おおらかな性格のアーネストは牛乳配達。しっかりもののエセルはメイドさん。

ふたりは出会い、恋をして結婚し、ウィンブルドンの小さなおうちで暮らしはじめます。

ささやかな日常をすごすなか、息子のレイモンドが生まれ、戦争という荒波にもみくちゃにされつつもそれを乗りこえ ・・・ やがて老いを迎える日々の暮らしを描いた物語。(→予告をみる

手書きの絵本のようなタッチの画面から、あたたかさがあふれてきます。

ふたりの生活はいつも互いを思いやり、質素であってもこころ豊かです。

一軒家の広いベッドルームに大喜びするものの、最初はカーテンを買うお金もなくシーツを張りめぐらしたり。猫の額のような小さなお庭に椅子を並べて、お茶を楽しんだり。

ときの流れのなかで、少しづつ生活も上向きになってゆきます。

イギリスの小さなお家で営まれるどこにでもある日常。平凡だけれど、誰もがこころを重ねられる日常の風景のように感じます。

観おわったとき、やさしい気持ちに満たさるとともに、切なさと寂しさも残ります。あの有名な絵本「スノーマン」を読みおわったときのような気持ち。

「スノーマン」は、少年と彼が作った雪だるまのお話。彼らは夜どおし、ふたりでワクワクするような体験をするのですが、夜があけて少年がベッドからでてみると、日の光のなかにスノーマンの姿はないのです。

じつは、このエセルとアーネストのお話は、「スノーマン」の作者であるレイモンド・ブリッグズのご両親のお話なのです。

冒頭でレイモンドさん本人が、スノーマンのマグでミルクティーをいれている姿が映しだされます。

イギリスではミルクティーを飲むとき、冷たい牛乳を使い、紅茶よりも牛乳を先に注ぐといいます。

レイモンドさんが紅茶を入れている様子はまさにそうでした。けっこうドドっと牛乳を注いでいます。

でも、イギリスの硬いお水で紅茶をいれると、アバウトにいれてもおいしい気がします。

「スノーマン」、また読みたくなりました。ミルクティーを飲みながら♡

 

 

 

21-11-11 血のお茶と紅い鎖

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キモかわはお好き?

いえ、これはキモかわをとおりこしてグロかわです☆

不思議な世界観に目が釘づけで、最後までガン見してしまいました。

お人形を少しづつ動かしながら撮影するストップモーションの作品で、ナント製作年月は13年だそうです(汗)。

あやとりやお裁縫のシーンがあるのですが、細かい指の動きが描写されていて、それだけでもどれだけ時間がかかったことでしょう?

あやとりは、私たちがしていたあやとりとまったく同じでビックリ☆(万国共通なの?!)あなたも、小動物さんたちのあやとりに ↓ 加われますよ〜!

小動物に白ネズミ、カメにカエルに麦畑にお月さま・・・ まるで手作りの人形劇のような可愛らしい雰囲気なのですが、随所にグログロ要素が散りばめられています。

カラスのような小動物が、貴族である白ネズミから女の子の人形の作成を依頼されるところからはじまります。

小動物はせっせと制作にはげむのですが、出来上がったあかつきには白ネズミに渡したくなくなってしまったのです。たとえいくらお金をつまれても。

そこで白ネズミは夜中にやってきて、その人形を盗み去ります。それに気づいた小動物は、まるで愛する人をさらわれたかのように悲しみ、人形を取り戻すべく白ネズミの住む館へと旅立ちます・・・そこで起こるあれやこれやの物語。(→予告を見る

私が鑑賞した翌日にお友だちも観たので、おもわず二人で一時間も語りあってしまいました。(ハイ、語りあいたくなります!)

これはまったくセリブがないので、ちょっとはずれた笛の音や、自然の水音、布や食器の物音、動物の鳴き声のみ。

ことばがないぶん、ダイレクトに感覚が刺激されるよね〜と話していました。

まるで、幼い頃のコワい空想や夢のつづきのようで、無意識に抑圧されている感情をユサユサされるようです。

シュバンクマイエルやクエイ兄弟ほどのいっちゃってる感はありませんが、摩訶不思議なグログロワールドに遊びたいときには是非どうぞ〜☆

 

 

 

22-02-15 泣きたい私は猫を被る

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このところ、お友だちオススメ作品の鑑賞にいそしんでいます。

アニメだったり、韓流ドラマだったり・・・ いつもの自分とはチョイスの視点がちがい、どれも新鮮でわくわくどきどきな作品ばかり。

そのなかからの一本。

ひょんなことからネコになるすべを覚えてしまった女の子。

ネコに姿をかえて向かう先は、大好きな男の子の家。

学校でその男の子と面とむかうと、ついつい言葉ばかりが先走り、自分らしくない自分を演じることに ・・・ そして、相手も自分も傷つけてしまうのです。

ネコはよけいなことは口にせず(できず)、ただ静かによりそうのみ。彼もふいに姿をあらわすそんなネコを特別に可愛がっているのです。

言葉って、気持ちを伝達するためにあるはずなのに、はたしてどこまでちゃんと本当の気持ちを伝えられていることか? ・・・

もしかすると、ほんとうの自分がこころもとなくて、そんな自分を防御せずにはいられずことばを使ってしまっているのかもしれません。

便宜上必要なことと、ほんとうの本心のみを口にすると決めたとしたら、きっと言葉はもっともっと少なくなるだろうし、ことばがないからこそスッとつながりあってしまう体験ができるのかもしれません。

このネコちゃん、なんとも可愛いらしいこと♡ 真っ白でふわふわで、すいこまれそうな碧眼です。

そして舞台になっている街の風景も、どこか懐かしくって癒されます♡ (→予告をみる

PS これを観たあと、ネコちゃんが街をウロウロしているとつい気になってしまいます。

あっちでお腹出して寝転んでいるネコの正体は、じつは人間のオジサン? とか、あのシュッとした黒ネコはイケメン男子の仮の姿?!とか(笑)自分も知らないうちにネコになっていりして・・・存在しているだけでOKな体験ができる?!

 

 

 

22-04-17 ペイ・フォワード

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ラジオのパーソナリティーさんが話題にしていたこの作品。封切りになってすぐに観た記憶があるので、もう二十年以上まえになります。

あの「シックスセンス」の愛らしい少年が出ていたことと、エンディングの出来事しか覚えておらず・・・あらためてもう一度観なおしてみることに。

中学一年の社会科の授業。

「自分のまわりの世界がガッカリ感でいっぱいなら ・・・ きみたちがクルリと変えてしまえ!」先生が出した課題が、「世界を変える方法を考え、それを実行してみる」ということ。

中学一年生らしい提案がつづくなか、トレバー少年のアイデアはちょっと変わったものでした。

それは、Pay It Forward。「人から受けたよい行いを別の三人に渡そう!」ということ。

よい行いをしてくれた相手に返すのでもなく、自分のところで止めてしまうのでもなく、別の三人に本人ができないことをしてあげることでつないでいく、というのです。

そうすることで、よい行いが閉鎖的にそこで止まってしまうのを防ぎ、一人から三人へ、さらに九人へとどんどん広がってゆくことになるのです。(→予告をみる

彼は自分の提案をもちろん自分で生きようとするのです ・・・ が、自分が期待するような筋書きとはならず意気消沈してしまいます。

でも、傷が癒えるときには膿みを出すことが必要なように、じつはよい行いの刺激をうけて癒しの膿みが出ているだけだったりするのですが、表面しか見ないことで気づくことができなかったりします。

実際、真の変化は表面ではなく、こころのなかで起きているのです。

彼がそれを生きようとするだけで、すでにまわりも変わらずにはいられない ・・・ 一人一人の存在とはそんな影響を与えるものですよね。

以前観たときには、エンディングに気をとられて全体を把握していませんでしたが、今回観てみて、トレバー少年のお母さんや先生の変化など、まったく違った感想をもちました。

観る時期によって、作品はまったく違ったものを見せてくれるものですね。

PS トレバー少年役のハーレイ・オスメントくんのちょっぴり「ハ」の字になった眉毛、なんとも愛らしいです♡

 

 

 

22-05-13 フルメタルジャケット

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いつか観ようと思ってず〜っとお蔵いりしていたスタンリー・キューブリック監督の作品です。兵士に志願した青年たちとベトナム戦争を描いています。

ロシアのウクライナ侵攻のニュースが連日たえまなく報じられるなか、観るなら今だわ・・・と、ようやく鑑賞にいたりました。

ごくふつ〜の若者が髪をそり落とし、訓練服に袖を通し、海兵隊のキャンプに入ったとたん、まるで人間以下の扱いを受けながら過酷に訓練されてゆきます。

それは、彼らを強靭な殺戮兵器に仕たてあげるために地獄に突き落としているようにも見えます。

ぽっちゃりおっとりのレナードくんはまったく訓練についていけず、教官からはつらくあたられ、訓練生からも集団イジメにあい、ついにぽっちゃりおっとりくんは変貌をとげます。彼は第一号の殺戮兵器になってしまったのです。それも、完全にターゲットを誤った。

やがて訓練生たちは前線であるベトナムに送りこまれます。

そこではじめて目にする親しい仲間たちの凄惨な死。また、自分自身にも現実としてふりかかる死の恐怖。

たとえ相手をしとめられたとしても、ひとりの人間としてその相手の目のなかをのぞきこんだときに自分の罪悪感にふるえることになります。(→予告をみる

軍隊のもろもろのセリフがスーパーお下品ですが、そこのところはなんとかスルーいたしましょう (^^;;

このような戦いが今だにつづいているなんて・・・こどもたちに「イジメはぜったいだめです。ちゃんと話しあいましょう!」なんて、どの口が言えるのでしょうか?

また、ニュースで「女性やこども、民間人が犠牲になりました」と報道していますが、兵士だったら何人死んでしまおうが問題ないように聞こえてしまいます。

武器も化学兵器はダメ、クラスター爆弾はダメとか ・・・ でも爆弾は爆弾、兵器は兵器で、結局は人をあやめる目的しかないのにそんな区別をしてどういう意味があるのか?!

結局は、ひとりひとりのこころのなかから「闘い」の思いをなくしてゆくことしかないのでしょう。

 

 

 

22-07-06 世界で一番美しい少年

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「ベニスに死す」のビョルン・アンドレセンをはじめて見たとき、「わあ!ベルバラのオスカルに似ているわ♡」と思いました。

とくに、軍服風のコスチュームに身をつつみスッと視線を送る表情など、「ベルバラ実写版は彼で決まり!」と思ったものです。

・・・が、じつは逆でした。オスカルこそビョルン・アンドレセンがモデルだったのですね!

「ミッドサマー」のトレイラーで彼の姿を数十年ぶりに目にして(そう、あの少年の姿以来50年ぶりですと!)、予想外の仙人チックな風貌にびっくり。

この仙人さんの役柄は、まるであの最高峰の美少年といういまわしい(?)過去を一撃で破壊してしまうような役柄でした(ああ、ビックリ☆視聴にはくれぐれもご注意を!)。

「世界で一番美しい少年」というこの作品は、当時の彼のオーディション映像からはじまって(いきなり服を脱げと指示され、とまどう姿が痛々しいです)、彼の生い立ち、そして現在の生活や心境を撮影したビョルン・アンドレセンのドキュメンタリーです。(→予告を見る

世界中で「彫刻のような少年」を探し求めていたヴィスコンティに見出され、「世界で一番美しい」と彼に認められた少年はさぞ幸せな人生を歩んできたのか・・・と思いきや、15歳にして大人の社会のあれこれに翻弄されたあげzくに、鬱やアルコール依存に悩まされてきた日々でした。

「ベニスに死す」撮影当時は、まだ初々しい風貌の15才。翌年のカンヌ映画祭で世界にお披露目されたときにはすでに「彼は完璧だったが、今はふけてしまった」というヴィスコンティの衝撃おはらい箱発言。(ヴィスコンティ、なにをのたまう?!汗)

撮影中はヴィスコンティに守られていたものの、その後は美しいがゆえに同性愛者のマスコットにされ、そこから救い出し守ってくれる家族もいずに苦労も多かったようです。

現在、仙人のような風貌で(といっても、十分にダンディですが)、かなり不器用に暮らす様子が写し出されています。

彼がプールで泳ぐ姿は手足がまるで棒っきれのように頼りなげで、あの浜辺のタジオ少年よりももっと幼く感じてしまいました。

彼の目を見ていると、白髪のはずなのにあのときの少年の顔にしか見えなくなってしまいました。

年のはなれた恋人が何から何まで面倒をみる様子が、お母さんと小さな男の子のようでした。

PS ビョルン・アンドレセンが日本をふたたび訪れる場面。
満開の八重桜をバックに写っているのですが、すぐご近所の目黒川の風景でした。なんか嬉しいわ♪

 

 

22-07-27 Coda あいのうた

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今年度のオスカーを獲得した作品です。劇場で観た友人からも「よかった!」と聞いていました。

観はじめてみると、すごいデジャヴ感・・・。つぎつぎ何か起こるかわかっちゃう。私って、サイキック?!

いえいえ! あとでわかりましたが、これは以前に観たフランス映画の「エール!」という作品のリメイクでした。

コーダとは、耳が聞こえない親をもつこどものこと。主人公のルビーは、家族のなかで自分以外の両親と兄は耳が聞こえません。

漁業を営む一家にとって、家族が社会につながり機能してゆくためにルビーはこどもの頃から彼らの耳であり言葉となってきたのです。

そんなルビーが高校生になったとき、気になる男の子が合唱部に入部したのにつられてルビーも合唱をはじめます。

声を発しない家族で育ったルビーにとって、人まえで歌うことはプレッシャーだったのですが、彼女の才能はすぐに発掘されてしまいました!

でも、ルビーの家族はルビーのことを「いてくれて当然」と思っているので、歌のレッスンという単独行動は認められないのです。それになんといっても、ルビーの歌の才能を知るよしもありません。

先生のなかば強引な個人レッスンと家族とのあいだで、ルビーはホンロウされ悩みます。

開きはじめる未来への夢の扉と、家族という重し・・・。自分の夢を追いかけることは家族を裏切ることになるのでしょうか・・・? (→予告をみる

ルビーが憧れる同級生は、「シング・ストリート」の美少年コナーくんじゃありませんかっ!

すっかり青年になってる〜! でも、白桃のような色白ほっぺは変わっていません。

このストーリーのなかでも歌ってくれています♪(たしか、もともとはオペラを歌う男の子でしたよね) そして、このストーリーのなかでも、また水に飛び込んでくれます(笑)。

ルビーが学校の発表会で歌うシーン。人々がうっとりと聴き入るなか、その歌声が ふと・・・ 消え去ります。

あ・・・ これがルビーの両親とおにいちゃんが生きている世界なんだ。

愛しいルビーが目のまえで一生懸命歌っているけれど、その歌声も、歌詞すらもわからないのです。幸せな表情のひとびとのなかで置きざりにされているような感覚。

聞こえないってこういうことなんだ、とあらためて感じました。

ルビー役のエミリア・ジョーンズの歌声、こころにしみ入ります♡(→こちらから

ストーリーじたいは、「エール!」と同じですが、ハリウッド流の見せ方でオスカーになってしまうのですねっ!

涙壷度:★★★☆☆(すべての解決策は、おのずとやってくる!)

 

 

 

22-08-10 MISS ミス・フランスになりたい!

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「私は将来、お花屋さんになりたいです」「僕は電車の運転手さんです」。小学校の授業でよく見かける風景です。

9さいのアレックスくんはみんなのまえで「僕の夢はミス・フランス!」と、なんの躊躇もなく宣言するのですが、みんなから失笑をかってしまいます。

それからときは流れ、27さいのアレックスくん。ボクシングジムで働きながらも、うつうつとした毎日を過ごしています。

そこに幼なじみが現れ、彼と話しているうちにかつての夢がふたたびアレックスくんのこころに浮上しはじめ ・・・

彼はついに「ミス・フランス」のコンテストに挑戦することをこころに決めるのです。(→予告を見る

アレックスくんがお化粧をして女性のいでたちをするとあまりに自然なので、「あれ?これは大柄の女優さんを起用しているのかしら?」と思ったのですが、やはり男性でジェンダーレスモデルのアレクサンドル・ヴェテールさんという方でした。

この映画に起用されたというよりも、監督が彼に出会って、彼の生き方に触発され、彼のために作ったような作品です。

もともとゴルチェのモデルさんからスタートしたそうですが、キャスティングディレクターには男性と女性と両方のコスチュームの写真を渡していたそうです。

この物語のなかで、アレックスくんがほんとうに自分の気持ちに正直になり、やりたかったことに勇気をもってつき進んでゆく姿に感動するのは、アレクサンドルさん自身がそんな生き方を貫いている方だからなのでしょう。

彼自身の生きざまがアレックスくんをリアルにして迫力をあたえています。

まだまだ世の中にはいろいろなジェンダーや年齢やもろもろの制限があふれかえっています。

たとえば「ミス・コン」にしても、自分はミスだと思っている人、コンテストに出る資格がある!と自分が思っている人がみな出られたらいいのにと思います。たとえ80さいのレディーであってもね。

「他人に自分の価値を決めさせるな!」・・・ ズバン!とこのメッセージが胸に飛びこんできます。

PS 予告はちょっとキラキラポッブなハリウッド仕様になっていますが、こちらフランス映画でそんなにイケイケな感じではありませぬ。

涙壷度:★★☆☆☆(アレックスの正面切って自分であろうとする姿に涙がでました)

 

 

22-10-10 セッション

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米国最高峰の音楽院に入学したばかりのアンドリュー・ニーマンくん。彼はジャズ ドラマーとして偉大になることを夢見ています。

幸いにも著名な教師フレッチャーのもと、バンドに参加することが許されたのですが ・・・ そこでアンドリューくんは想像を絶する地獄を見ることになります。

教師からのハラスメントなんてものではありません。まるで「愛と青春の旅立ち」や「フルメタルジャケット」の鬼教官を彷彿とさせる血も涙もない拷問のようなシゴキそのもの。ここは軍隊?!

言葉の暴力は生徒自身のことのみならず、親や生まれのことにまで及び、さらにビンタは飛ぶは、ドラムやシンバル、椅子までも飛んでくるしまつ(わあ〜!この人、サイコパス?!)。

しまいには、アンドリューくんのドラムをたたく手は血まみれに・・・。(→予告をみる

人は自分の言動がどのようなものであろうとも、自分がそのときに最善だと信じていることを言ったり行ったりするものです(はたから見たら、それが狂気であったとしても)。

この教師は、自分が見こんだ生徒に対しては徹底的に貶めて、屈辱を与えて、心身ともにボロボロにすることこそが成長の動機となると固く信じています。

「次のチャーリー・パーカーはなにがあっても挫折しない」とフレッチャー。自分の使命は、生徒たちを期待以上の高みに引き上げること。それも自分が信じた方法で。

だから、それらは決してイジメや暴力ではなく、彼にとっては最善であり、生徒への愛そのものなのです(丸々信じたら、それがその人にとっては真実ですね・汗)。

しかし、こんなことが学校で問題にならないはずもなく・・・やがて傷ついたアンドリューくんも教師のフレッチャーもともに学校を去ることになるのですが、それが終わりではありませんでした・・・・(きゃあ〜☆コワ!)。

ふだんはあまり目がいくことはなかったのですが、ドラムスってたいへん〜〜〜! 演奏家というよりもアスリートです!

生徒役のマイルズ・テラーさんはドラム未経験者にもかかわらず、ほぼスタントなしで演じきったそうですが、まさに狂気の演奏です。

ずっとドキドキですが、私はこのエンディングのあとこそがすごく気になりました。

 

 

22-12-13 ビューティフル・レターズ 〜綴られた言葉〜

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うつうつとした毎日を過ごしているとき、自分宛に一通の手紙が送られてきて、もしそれを読んで心に灯がともるように感じて前向きな気持ち、やさしい気持ちになるとしたら ・・・ その手紙とはいったいどんなことが綴られている手紙なのでしょう?

もちろん自分宛なので、自分に語りかけてくれるような手紙なのですが・・・。

この作品の主人公であるマギーは高校生。大好きなバンド活動もうまく進まず、人間関係も勉強もいまいち、母との関係もぎくしゃくケンカばかり。マギーは人生そのものに行き詰まりを感じて、こころが荒れはじめていたとき・・・、

自分宛に一通の手紙が届きます。その手紙を読んでいるそばから、マギーの表情はやわらぎ、こころが変わりはじめます。

こころが変わる・・・ということは、まさに人生が変わりはじめるということ。

マギーはまったく身に覚えのないその差出人をなんとかつきとめることに成功し、ひとりの老紳士と出会います。

彼は日々、自分のことばのちからを手紙に託して、電話帳で無作為に選んだ人々に送っていたのです。

彼のことばのちから ・・・ それは過去においては人を攻撃し傷つける道具でもあったのですが、彼はあるときから自分のことばのちからをいいことだけに使おう、と心に決めたのです。

その老紳士とふれあううちに、マギーも自分自身を与える人生を学んでゆきます。

たったひとりでもほんとうの自分の姿を信頼してくれる人があらわれただけで、こころは甦りはじめます。

私たちが幸せを感じられる条件っていったいなんでしょうか? どうしたら幸せになれるのでしょう?

もっと、○○だったら・・・ と、今の状況が変わって自分や周りや環境がバージョンアップすることを望みがちです。あの人がこうだったら、もっとお金があったら、自分の外見がこんなだったら、こんなことが起こったら ・・・・と。

でも、自分のこころがパサパサのままだったら、どんな状況に身を置こうとも、いつだって自分の世界はパサパサなのです。

この作品は、「幸せって、外からやってくるもんじゃないんだよ。自分の内側からわき出してくるものなのだよ。外に与えてごらん。自分のギフトにも相手のギフトにも気づけるから。そうして、あなたの世界は変わってゆく」ということを教えてくれています。

自分が誰かのこころに灯をともすときに、同時に自分のこころも着火しているのです。(まさに、与えるものは受けとるもの♡)

この老紳士の言葉のなかに、たくさんのステキなこころあたたまるフレーズが登場します。

「人には神から与えられた才能がある。だから、それを磨きなさい。そうすれば、人に祝福を与えられるようになる。そして、与えたものとは、まさに自分が受けとるもの。自分こそが祝福を受けとれるようになる。世界は鏡なのだから。だから、自分の才能を、人を祝福することこそにに使いなさい」

人を祝福する、というとむずかしく感じるかもしれませんが、「ただ、あるがままを受け入れて称えてあげる」こと、「あなたは何も間違っていない、そのままで大丈夫なのだと伝えてあげる」こと。

私たちにとっていちばんの癒しとは、たったひとりの人からでいいから「それで大丈夫なんだよ、あなたでいい♡」と言ってもらえることなのだと感じます。

このおじいちゃんが、自分にもやさしく語りかけてくれているようで、こころがあたたかくなる作品です♡

 

 

 

23-01-29 舞妓さんちのまかないさん

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最近お気に入りのドラマ「舞妓さんちのまかないさん」は、是枝裕和監督の作品です。

人間模様があたたかくてほっこりするし、古都の街なみや四季は美しく、舞妓ちゃんたちは健気で愛らしい、そしてまかないゴハンがなんとも美味しそう♡

青森の中学を卒業して、舞妓さんの見習いで祇園の花街にやってきたキヨちゃんとすみれちゃん。ふたりは幼なじみで大の仲良し。

修学旅行で目にした舞妓さんにこころを奪われ、ふたりでこの道を志すことになったのです。

でも、憧れや決意だけではどうにもならないこともあり、キヨちゃんはお稽古数ヶ月でお師匠さんに見離されることに・・・。

あわや青森に送り返される寸前に、腰を痛めたまかないさんにかわって「もしよかったら、私に作らせてもらえませんか?きょうのまかないごはん」と声をあげたキヨちゃん。それによって、キヨちゃんは尾形のまかないさんとして京都に残ることになるのです。(→予告をみる

尾形のおかあさんいわく、キヨちゃんは「お多福」のようだと。

お多福といえば、穏やかで優しい顔の女性。そしてなによりも、まわりに福を運んで幸せにするひと。

実際、キヨちゃんは手に入らないものに執着したり、羨ましがったり、人や自分を責めることがありません。

たとえ、目のまえでひとつの扉が閉ざされてしまっても、次に開きかけている扉にひらりと自然体で身をまかせることができるのです。

だから、いつでも腐ることなく、たったいま目のまえにある現実を喜びと感謝をもって受け入れて、太陽のように無条件に喜びを与えてゆきます。

そのむかし、日本が舞台の作品であってもハリウッドが制作していると、「えっ?これどこよ?」と笑っちゃうぐらいヘンテコな日本になっておりましたっけ。

今は日本人の監督さんの作品がそのまま世界に配信されるようになり、日本古来の美しさや伝統がゆがめられることなくそのまま伝わるようになりました。

世界中の是枝ファンも、ぜひキヨちゃんとすみれちゃんの花街での奮闘を見て欲しいものです。

きっと、もっと日本が好きになっちゃうはず♡ そして、親子丼や茄子の煮びたしを食べるために、日本に来ちゃうかも?!(→メイキング映像

 

 

 

23-04-19 1960〜70年代の作品から

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タイトルはよく耳にしたことはあるものの、一度も観たことがない1960〜70年代の作品をいくつか鑑賞してみました。

 

☆「ドクトル・ジバゴ」☆

ロシア革命の時代、医師であり詩人としても有名だったジバゴの少年期から生涯を終えるまでを描いた三時間ごえの壮大なストーリー。デヴィッド・リーン監督の作品です。

この作品のほかにも、当時は「ベンハー」とか「風とともに去りぬ」とか三時間ごえの作品がたくさんあったようです。名画座系でリバイバルを観に行くときには、いつもお弁当必携でした。

ソビエト、ロシアというと暗いイメージしか湧きませんが、この作品を観ているとロシアもかつてのフランスのように上流階級が贅をつくす華やかな時代があったのですね。

歴史の波にもまれながら二人の女性のあいだで揺れるジバゴですが、どちらの女性も寛容に受け入れているのは動乱の時代も関係しているのでしょうか?

1966年の作品なので特撮やCGが使われていない分、どの場面もひとつづつ手で作りあげた重みがあり、まるで絵画のような美しさがあります。昨今の作品で使われるCGは何でもできてしまうけれど、この画面の力には及ばないと感じました。

見応えがあります。お時間のあるときにじっくりどうぞ。

☆「ディア・ハンター」☆

ワークショップやセラピーセッションのときにカバティーナというギター曲を使うことがあります。この映画の挿入曲であることは知っていたのですが、作品自体がどのような内容かは知りませんでした。

「ディア・ハンター」のディアは、てっきり dear(親愛なる)だとばかり思っていたのですが deer (鹿)のディアだったのでした。

製鋼所で働き、お酒を飲んで騒ぐことと休日の鹿狩りをささやかな楽しみにしていた若者たちが、やがてベトナムへと出征し、戦地で過酷な体験をし、なんとか生きのびて戦争から戻るまでを描いた物語です。

彼らが捕虜として囚われたときに、ロシアンルーレットを強要される場面があります。

ロシアンルーレットといえば、バラエティー番組に登場するわさびもりもりのお寿司ぐらいしかイメージがなかったのですが、まさか自分のアタマに拳銃をつきつけて発砲するゲームだったとは・・・まさに戦慄の場面でした。ロバート・デ・ニーロの迫真の演技でさらに凍りつきました。

デ・ニーロは、私が映画観るようになったときにはすでにオジサマlook だったのですが、若い頃はこんなに精悍な雰囲気だったのですね。メリル・ストリープも存在感があり、やはり目をひきます。

そして、このストーリーに静かに流れるカバティーナ・・・ さらにやるせない気持ちにさせられるのでした。

鑑賞に少し体力のいる作品でした。

 

☆「秋刀魚の味」☆

小津さんの作品がお好きなお友だちのオススメです。

小津安二郎監督の作品は、どれも自然でふつーで、映画だということを忘れてしまうような日常の空気感が好きです。

そして、当時のふつうの人々のふつうの生活をそのまま感じられるのもとても興味がひかれます。

男性がもっと威張っているかと思いきや、どこの家庭も女性がメッチャ強くて凛々しくてびっくり。

二十代の岩下志麻さんは、啖呵を・・・きっていません。初々しくて美しいです。さらにここから半世紀もの時をへて、今もなおメチャクチャおきれいな志麻さんはあっぱれです。

小津監督の作品はどれものどかで癒されます。ずっと観ていたくなります。

ところで、タイトルは「秋刀魚の味」ですが、どこにも秋刀魚は登場いたしませんでした。苦みがあるけれどおいしい秋刀魚。そんな人生のことでしょうか??

 

 

23-05-25 ミセス・ハリス、パリへ行く

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

戦後十数年、いまだ戦地から戻らぬ夫を待ちつづけるミセス・ハリス。

親友に支えてもらいながら、家政婦の仕事に精を出す日々。とっくにわかっている答えを直視できずに過ごしていたのですが、ついに夫の戦死を知らされることになります。

はかなげに見えたミセス・ハリスはポッキリとこころが折れてしまうかと思いきや ・・・ 意外や意外、解き放たれた表情。「これで自由だわ」と自分の人生を生きることをこころに決めた様子。

彼女は家政婦の仕事先でひと目ボレしこころを奪われてしまった美しいディオールのドレスを手に入れるため、大胆に行動を開始します。(→予告をみる

当時のディオールはまだパリにしかお店がなく、世界中の上流階級が自分のためのたった一着のドレスを求めてやってくる超高級メゾン。

しかしそんなことなどお構いなしのミセス・ハリスは、さっさと必要なお金(今にしたら、一着のお値段は500万円ほど)を用意して、嬉々としてパリへと旅立つのです・・・が、

パリのメゾンではひどい門前払いをくらうことに。しかし、ドレスと恋におちたミセス・ハリスは、どんな難関もドレスへの恋心で乗りこえてゆきます。

ミセス・ハリスは、おそらく50代ぐらいだと思うのですが、ほんとうに無垢な乙女のような表情がとってもチャーミング。誰もが彼女の魅力に引きこまれ、気づかぬうちに見方となってしまい、そして次々にありえないことが起こる、という不思議な力の持ち主のミセス・ハリス。

彼女のチャーミングさとたくましさだけでなく、パリのディオールのメゾンの様子も面白いです。

ちょうど、「ディオールと私」という、ディオールの新デザイナーだったラフ・シモンズのコレクション発表までの日々のドキュメンタリーを観たばかりだったので、白衣のような作業着を着たお針子さんの様子や、ディールという看板の厳格さなど、今もむかしもあまり変わっていないのね〜、と感じました。

この作品のなかでミセス・ハリスの表情を見ていて、なぜかよく知っている人を見ているように感じたのです。

「誰だろう?」と考えていたら、それはこちらにいらしているクライエントさんたちの表情でした。

セラピーを受けられた女性クライエントさんたちは、どんどん無垢な乙女のような表情をされるようになります。

こころのなかのわだかまりを手放して、さまざまなルールや制限から自由になったとき、私たちはとても穏やかでありながら無垢で、そして輝きのある優しい表情になります。

ミセス・ハリスがパリにやって来て、ものおじせずにどんどん自分らしさを発揮しながら輝いてゆく姿も、まさにクライエントさんが変わってゆく様子と重なるのでした。

こころが開放されて自由だったら、ものごとはいいように流れて行くし、みんなハッピーになれる♡

そんなふうに感じさせてくれる作品でした。

 

 

23-07-01 夏へのトンネル、さよならの出口

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

先週、カフェでお喋りをしていたとき、「異次元につながる鳥居」についての話題でもりあがっていたのです(いったいど〜ゆ〜話題?!笑)。

そうしたら、数日まえにテレビで「最強にヤバいスポット」として、いわくつきのトンネルや鳥居が紹介されていました。

そしてさらに昨日は、不思議なトンネルと鳥居についてのアニメ「夏へのトンネル、さよならの出口」を見つけてしまい、この流れでさっそく観てしまいました。

高校生たちが噂するのは、なんでも欲しいものが手に入るというウラシマトンネル。

ひょんなことから、そのウラシマトンネルらしき洞窟を見つけてしまった塔野カオルくん。たまたま口をきくようになったクラスメイトの花城あんずとふたりで、欲しいものを手にするためにそのトンネルに挑みます。

しかし、そのトンネルは時空が歪んでいるようで、たった10秒入っているだけで出てきたときには6時間半も時間が流れているのです。

二人は三連休を費やして、108秒のトンネル探索に挑みます。しかし、欲しいものを手にするためには、トンネルのずっと奥にある鳥居にまで行きつかなければならないのです・・・。(→予告をみる

海と山が臨める愛媛(らしいです)の小さな村が舞台です。

梅雨の雨降りの景色にはじまって、夏のうっそうとした緑、入道雲、向日葵畑、夏祭り・・・画面を観ているだけで田舎のむせるような草の匂いが感じられます。そして、季節は移りかわり、青い空と一面の鮮やかな紅葉・・・どの場面もとても美しいです。

お話もおもしろいのですが、私はカオルくんの声にとても惹きつけられました。静かで包みこむような穏やかなトーンで、アニメの声優さんの作りこんだセリフの言い回しとは違って、とても自然な感じがしたのです。

そうしたら、私の直後に鑑賞したお友だちも、感想メールのなかでカオルくんの声についてコメントされていました。やっぱり☆

調べてみたら、やはりプロの声優さんではなく俳優さんが演じていらっしゃいました。

鈴鹿央士さん。あ、この方!!とすぐに思い出しました。

以前、「蜜蜂と遠雷」というピアノコンクールをテーマにした映画を観たとき、「巨匠のお墨つきのナゾの天才少年」としてちょっと不思議ちゃんな雰囲気の少年がいて、その子が登場する四人のピアニストさんのなかでいちばん気になったのでした。

あどけないピュアな雰囲気と、一本芯がとおったゆるぎない存在感。この俳優さんて・・・とこころに残ったのが、鈴鹿さんでした。(→「蜜蜂と遠雷」についてのブログ

「蜜蜂・・・」の演技も、このアニメのカオルくんも、とてもふつうに見えて、なにかこころに染みいってくるものを感じます。

そして、このアニメ全体が、どこか懐かしく、こころが昔の一場面にもどってゆくような(あ、こころがトンネルに入って遡ってる?)そんな感じのする作品でした。

この一週間のトンネルと鳥居の流れは、ここで終わりなのかしらん?! まだある??

 

 

「Lux の法則」

キャサリン・ゼタ=ジョーンズ、ペネロペ・クルス、シャーリーズ・セロン。この三人の女優さんに共通する点は何でしょね?・・・Lux のコマーシャル?そうです、歴代の Luxさんたちです。でも、もうひとつあります。三人とも Lux 後、超ゴージャス、すこぶるフェミニン路線をいっきにぶち壊す作品で大ウケしていること。キャサリンさんは、あの「シカゴ」でドスのきいた図太い姉御、「アメリカン・スウィートハート」で恐ろしく根性悪のお姉さんを演じ、ペネロペさんも「ウェルカム.ヘヴン」で外見は女性のオッサン役を堂々のガニマタで演技してました。そして、シャーリーズさんにいたっては、「モンスター」見ました?すごいアバズレ度、五つ星ものです。グゥネス・パルトロウが超おデブな役をやったときは、真のおデブちゃんとどこかちがうぞという感がありましたが、この「モンスター」は見てて誰だったかわからなくなっちゃう。セミヌードのシーンなんて、あまりのでデブデブダブダブぶりに拍手しそうになってしまいました。次の Lux のキャラクターは誰かしらん?

「RENT」

Five hudred twenty-five thousand and six hundred munites. How do you masure, mesure a year・・・

リズミカルなピアノのイントロではじまる8人の迫力のコーラス「Seasons of Love」。
「515,600分という時間。あなたは一年を何で数えますか?夜明け、日暮れ、深夜のコーヒーカップ、思い出、笑い泣いた日々・・・・何で数えて一年を過ごしますか?」
冒頭からハート鷲づかみなブロードウェイ・ミュージカルムービーです。

さすが舞台初演と同じオリジナルキャストがはっているので、歌のパワーたるやすごいものがあります。そして、さまざまな登場人物のシチュエーションから、おのずと観ているそれぞれが自分の一年の数え方をふりかえって、おもわずしんみり。

脚本・作詞・作曲を手がけたJ・ラーソンが公演の前日に亡くなるという大アクシデントつきのミュージカルですが、まさに「生」の輝きをとじこめたメッセージ的な作品です。ちなみに、わたしの一年の数え方。それは、大好きな人と分ち合ったスウィーツの数でしょうか?

涙壷度:★★★★☆ (冒頭のテーマだけでも、がっつり泣けます)

「SAYURI」

とってもシリアスな映画なのに、場面場面で客席にひそひそ声やらクスクス笑いが起こるのです。いろいろ噂は聞いておりましたが、やっぱりまさに「ここがヘンだよ!(この)日本人」と、かさねがさね口を出したくなってしまう一本です。ストーリーに集中したいのに、どうも間違い探しに注意がいってしまうフラストレーションまんぱい。

たとえば、相撲取りがシコをふむシーンで、なぜか土俵が板の間のようなちゃちな音がするとか(製作費の都合ではないでしょう)。それに、「満員御礼」という札の文字がまるで小学生の習字みたい(いや、小学生に悪い)。そのうえ、着物の着付けもたるみっぱなし・・・と、枚挙にいとまがありません。きわめつけは、京都の夕暮れのシルエットとか満開の桜の場面では、ナンか味気ない。これは、日本独特の湿度とか風とかを感じさせる空気感がないのに気がつきました。

そりゃ、「パール・ハーバー」やら「ベスト・キッド」やら、今まで外国の監督さんが描く日本の場面にはつねに「ありゃりゃ!」がつきものですが。しかし、「スシ」「スキヤキ」レベルで世界で通じる「ゲイシャ」ということばが、ここでは舞妓はんと同レベルになっているではありませんか〜。いっそのこと、これは「京都」でも「日本」でもない!ときめこんで見ていただいたほうが、内心スッキリするかもしれませんわ(笑)。

それはさておき、置屋のおかみ役の桃井かおり。彼女は監督のロブ・マーシャルに逆演技指導をしてしまったそうで、ハリウッドに行こうがどこに行こうが、あのマイペースの桃井節と桃井テイストはまったく健在でありました〜。あっぱれあっぱれ。

「おじいちゃんバンド?」

最近「ヤング@ハート」という、おじいちゃん「コーラス」の映画が人気でしたね(わたしは観ていないのですが)。

一方、こちらは「ロックバンド」。ドラムスがよわい67歳、ボーカルとギターは弱冠若くて65歳。ロッカーゆえに多少トシよりは若く見えたとしても、まあそれなりのグループを想像することでしょう。でもね〜、「度肝をぬく」とはこのこと!

じつはこれ、マーチン・スコセッシ監督のローリングストーンズ ライブ・ドキュメンタリー「シャイン・ア・ライト」。まったく、おそるべしローリングストーンズ、おそるべしミック ジャガーです。

わたしはストーンズファンというわけではないのですが、'90年の初来日にコンサートに行きました。東京ドーム!あのとき、カリスマバンドとして有名なストーンズとミック ジャガーのすごさを思い知らされましたよ。ファンでなくてもすっかり夢中。これぞ、世界に君臨するロックバンド。ミック独特のくねくねダンスと、ステージ狭しとダッシュで走りまわる姿。パワフルでした。

しか〜し、御年65歳にして、さらにそれがパワーアップしているとは(唖然)。あの声量、声ののび。身体のキレ、くねくねダンスの怪しさ・・・。衰えというものがない・・・。昔からミックは老け顔だったので、お顔もあまり変わっていないような。

このフィルムはライブの前の打ち合わせの様子から始まるのですが、コンサート直前になっても曲目リストがストーンズから渡されず監督がいらいらする様子やら、ステージ直前にクリントン前大統領一家ご一行さまが興奮してやってくる様子やら、臨場感にあふれながらステージへと突入していきます。

スタジアムのような大きなところでしか演奏しないストーンズにしては、この会場はこじんまりしていて、まるでオペラ座のようなクラッシックな雰囲気があります。いったい何台カメラを使ったのかと思うようなライブ感。そして、劇場とライトが醸し出す色合いも美しいです。何よりもバンドメンバーの仲のよさ、楽しんでいる感じがイイ!

しかし、このミックやキースのカリスマ性と年齢を超越したパワー!演奏中に見せる彼らの至福の表情から、ああこれは脳内ホルモン大放出だな〜という感じです。だから、こんなとんでもない若さを維持しているのですね。それに、まったくうまくやろうとか、感動させようなんて思ってもいない。「みんな、勝手に楽しんでるね〜!」と観客に声をかけるミック。

まったく衰えぬ若さ、パワーにびっくりしますが、それよりもびっくりすること。それは、45年も初代のメンバーでバンドを続けていること。この人間関係のむずかしい世の中、そしてすべてが人間関係から破綻する世の中で、この人たちは気負わず、力まず、仕事も人間関係もお金も、すべて楽しみながらベストなものを生み出してしまうのです。

最近のインタビューで、「70になってもやっていますか?」の質問に、ミックは「わからないよ〜」。しかし、キースは、「あとたった5年先だよ〜」と大笑いしていました

言葉でななく、彼らのパフォーマンスからいろいろなメッセージやインスピレーションがやってきます。パワーがほしいとき、おススメの一本です。

「じつはすご〜くハッピーだったレイさんの人生」

去年亡くなったレイ・チャールズのアルバムがグラミー賞をとりましたね。映画「Ray」はアカデミー賞候補だし。でも、いまひとつ日本人にはピンとこない存在かも。とくに私たち世代には。アメリカ人にとっては心の音楽そのものなのかもしれません(美空ひばりさんみたいに)。映画では、彼の人生をすべて網羅しようとするあまりかなり長すぎてインパクトに欠ける作品になっているのが残念。それに、弟の死のトラウマやら突然の失明、母の厳しい教育、そして麻薬中毒に女性問題、人生すべてが戦いであるかのようなストーリーで彼の喜びの瞬間に焦点があてられていないのですよね。まあ、どうしても故人のストーリーを描くとなると、本人はいないのでモロ他人の視点になるのはいたしかたないのですが。でも、それだけ世を動かし人々を感動させた音楽の神様の人生、その創造の源っていうのは決して「つらさ」ではないでしょうに。きっと、そんな様々な体験のうしろに本人にしかわからない輝くような瞬間が光を放っていて、それが彼をつき動かしたのでしょう。「真」のすばらしさは過酷さからは決して生まれないと思うのです。ねっ!レイさん!

「そして、ひと粒のひかり」

自分の知らない世界というのは多々あるものですが、そんないろいろをかいま見せてくれるのが映画の楽しさ。では、ミュールと呼ばれる麻薬の運び屋ワールドなんていかがでしょう?

ただ運べばいいというわけはなく、少々身体をはる必要あり。それは、小さなゴムの袋に詰められたドラッグを丸呑みし胃の中に隠し持って、コロンビアからNYへと渡るのです。ドキュメンタリーフィルムのようにたんたんと語られてゆくその様子が、かえって臨場感を高めるのか、はらはらどきどきミュール疑似体験ができます。

主人公のマリアが、大きなブドウ粒大のドラッグを渡されて、それを必死に60個以上飲み込んでゆく様子やら、機内で気分が悪くなりトイレに立ってしまう不測の事態やら、なんとか入国審査をパスしたかと思いきやおもわぬところで捕まってしまいレントゲン検査を強制されたり・・と、観てるまに人ごとではなくなっていきます。しかし、他のミュールが手錠をかけられたり、命をおとすなか、マリアは強運を発揮するのです。彼女の物怖じしないキッパリとした性格が、天を見方につけてゆくように。事件に巻き込まれながらも、ついには自分の新天地を求めてスタートをきるマリア・・・。軟体動物になりすぎた私たち日本人に喝を入れてくれる一本かもしれません!

「アニー・リーボヴィッツ レンズの向こうの人生」

女性写真家のドキュメンタリー・・・・と、いうよりも劇場版写真集。

たぶん、彼女の写真を見ると「ああ、これ知ってる!」という知名度の高いものがいくつもあります。とくに、ジョン・レノンが殺される数時間前に撮影されたヨーコとの最後の写真。構図の大胆さとはうらはらに表情がとても自然なふたり。わたしも、「この作品は、誰のだろう?」ととても気になっていたものです。

ファッション誌の表紙やグラビアというとヘルムート・ニュートンの作品が頭に浮かびますが、ハーパースバザー誌でのアニーの作品はさらにドラマチック。インパクトがあります。彼女の写真は被写体が自然体であっても、独特な存在感を醸し出しています。彼女のイメージどおりに空気の色を染めあげてレンズにおさめてしまうような。

インタビューの中で、彼女にかかわる誰もが口をそろえて、「仕事に対する姿勢はすごく真剣」、「あそこまでしなくても、いくらでもできるはず・・・」というような発言をしています。でも、撮影している本人を見ると、いたって気楽で飄々としているのです。力がぬけて「我」がなくなってしまってる状態。結局、芸術にしろ、どんな仕事にしてもそうですが、自分を捧げつくす、すると勝手に高いところのドアが開いてしまって天につながってしまうようです。

五十をすぎて子育てに目覚め、今や三児の母に。その生き方の柔軟さはいつも自分の気持ちに正直な証拠でしょう。女性というよりも人として魅力的です。

「シャーロットのおくりもの」

今年最後の一本です。友人の熱い要望にこたえて、子ブタムービーに決定。これまた、今年最後のキャラメルポップコーンを抱えての鑑賞です。

「シャーロットのおくりもの」というからには、この子ブタちゃんかブタを助けた少女がシャーロットかと思いきや、大はずれ!子ブタのすみかである納屋の入り口に巣をはるクモがシャーロットで、まあ彼女が影の主役です(原題は「Charlotte's Web」(シャーロットのクモの巣)なのですね)。

はじめは大っきなスクリーンにタランチュラのようなモコモコしたクモが映し出されるたびにゲゲッと拒絶反応だったのです。が、じつはこのクモ、声がジュリア・ロバーツなのです。知的で優雅な声でささやきかけるたびに、世で言われるゲテモノが慈愛にみちた聖母のような生きものに見えてくるから不思議です。

子ブタをはじめ、動物たちが表情豊かでとってもチャーミング。たわいもない話でありながら、思わずホロリと泣かされます。年末年始のリラックにはもってこいですよ〜。

涙壷度:★★☆☆☆(最後のほうで、ハラハラ泣けました)
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本年度の「たかちゃん日記」もここでひとまず終了です。
みなさま、ほんとうにお世話になりありがとうございました。
また来年もよろしくお願い致します。

どうぞ、元気で楽しくよいお年をお迎えくださいませ。

感謝をこめて。                     古川貴子

「シルヴィア」

友人のお誘いで試写会へ。米国を代表する詩人、シルヴィア・プラスが30才で自らの命をたつ
までの結婚生活を描いた作品です。才色兼備であることを自ら認めてしまうほどの美貌と才気にあるれたシルヴィア。そして同じく詩人であるテッド・ヒューズ
の才能に惚れ込んで妻となり、2児をもうけるのです。しかし、このへんからがスゴイ。やはり物書きのサガなのか、創造力がバンバンふくらんでありもしない
ストーリー(夫の浮気)をでっちあげ、二人の人生を次々に破壊してゆく様は手がつけられないほど悲惨そのもの。彼女の妄想を見ながら「ちょっとちょっと!
何も起こってないんじゃないの?」とチャチャを入れたくなるぐらい。彼女の両親についてはほとんど描写されていないのですが、それでも彼女が父親からの愛
の欠乏感に苦しめられていたのは手にとるようです。その乾いた心は、どんな愛をあたえられようとも受けとれず、まるで干涸びた大地のようにすべてを吸い尽
くし、まわりをも枯れさせてしまうのです。彼女の死後与えられたピューリッツァー賞も、そんな鋭敏な感性あってこそのもの。皮肉なものです。

「ジャック・ブラック、殺しの流し目にご注意」

「杉良太郎もまっ青だよね」とあきれ顔のCちゃん。「まったく・・・。あの何の躊躇もないイケメン・オーラ・・・」と私。

何の話かというと、本日一緒に観た映画「ホリデー」の中のJ・ブラックの流し目パワー。彼は小太りさんで、ぱっと見はどちらかというと吉本お笑い芸人系。しかし、スクリーンではいっつもカッコいいヒーロータイプなのです。今回の役どころも、モデルのG.F.がいて、なおかつケイト・ウィンスレットのような美女に恋される魅力的な作曲家。

何が彼をこうもイイ男にさせるのか・・・。その理由のひとつは流し目パワー。その小さなお目目で、フッと目線を送られて、100%の注意でジッと見つめられると、これはドキっとくるでしょう。目線と目力はとても大切な魅力の一つです。そしてもう一点は、彼のルックスがどうあろうと、なんの躊躇もなく発せられる「超イケメン・オーラ」。視覚的な情報よりもそのオーラにだまされて(?)、つい現実(例えば、小太り・・・吉本系・・・)を正しく認識する力を失います。

そう考えると、美人なのかイケメンなのかは、まわりが決めることではなくて、「自分が自分をパーフェクトだ」と信じて発するオーラに大きく影響されている気がします。ん〜〜、だってホントにCちゃんも私もJ・ブラックがイケメンにしかみえませんでしたからね〜。


でもね、この映画の中のジュード・ロウ。彼は言うまでもなく世界が認める「イケメン」中の「イケメン」ですが、今回はそれも特別!とってもとってもスウィートでナイーヴでピュアで・・・。Cちゃんも私も、いっきにfalling in loveでした(私のジョニ・デプ、きょうは許してね)。

「セブンティーン・アゲイン」

てっきりお子ちゃまムービーかと思いきや、結構楽しめます。笑えます、これは。とくに、外人客にうけまくり。なるほど、アメリカでヒットしたわけね。

ストーリーはというと、会社では昇進をのがし、家族には総スカンをくらい、妻とは離婚訴訟中の超冴えない37歳の男性。彼は、かつてハイスクールの人気者だった・・・。それも、すごいハンサム!バスケ部の花形でダンスもできて、GFはブロンド美人。その人気者を演じるのは、いまどきのイケメンくん、ザック エフロン、このナイスガイ・・・がどうしてこうなる??どう考えてもありえな〜〜い!

あんなに輝いていた男の子が、人生あきらめてる?すべてを人のせいにする?そして、ススけたおやっつぁん?ちょっとムリがありすぎじゃ・・・。

まあ、このありえなさがハリウッドムービーのおもしろいところ。その冴えないおやっつぁんが、ひょんなことから17歳のヒーローの頃の自分に戻ってしまうというのです。再びハイスクールへ。そこでは、そうとは知らない自分の息子に頼られて親友になり、娘には熱烈に恋をされ。そう、なんといっても、彼は37歳。37歳の余裕と包容力、プラス17歳のぴちぴちボディと甘いルックス・・・とくればモテないはずがありません。離婚訴訟中の妻に17歳のルックスであぶなく迫るはめになり・・・。

これを観ているとザック エフロンのヒット作「ハイスクール ミュージカル」番外編というか、焼きなおし。だって、舞台はハイスクール、それにバスケにダンス・・・こりゃ、まちがいなくあのトロイくんでしょうが(トロイくんも将来こうなる可能性があるってこと?)

まあ、若いうちにしかできないザック エフロンのはまり役。お決まりのストーリーですが、これがまた痛快でまだまだやってほしい感じです。ありえないぶん、ああ、おかしい♪

日本のハニカミ王子やハンカチ王子現象にしろ、この昔風好青年のザック エフロンの人気といい、時代はピュアでさわやかなイケメンを求めているのでしょうか?歴史はくりかえす・・・。婚活男性のみなさま、ザック エフロン路線ですよっ、きめては!

涙壷度:★☆☆☆☆ (笑いだけではなく、おもわぬところでホロリとさせられましたわ)

「チャーリーとチョコレート工場」

「映画鑑賞1000本達成」の記録樹立目前のCちゃんと、1/1000をご一緒させていただいた。二人のお好みが完全に一致したのが、「チャーリーとチョコレート工場」。Tim Burtonの作品は、いつもながらの独特な世界!ファンタジックでありながら、どこか容赦のないダークさ。それに、かなりあやういキャラもジョニ・デプにかかると、繊細で愛らしくさえなってしまうというおみごとさっ!チョコレートの池の場面では、なんと映画館にチョコの香りが満ち満ちてくるではありませんか。これは、新しい体験(さすがっ、ヴァージンシネマっ!)。さて、ランチは麻布十番の「喜虎」さんで「鮪にんにく石焼ご飯」をいただく(写真)。魚偏にめっぽう弱い私たちは何のお魚かさっぱりわからず、マグロときいてようやくワクワクもりあがる。特大ビビンバの器山盛りを、おニイさんが目の前でじゅうじゅうとおこげをつくってくれるのです。こんなに食べらんないといいつつ、ほとんど完食。たぬきのお腹をかかえて、それでもあきたらず六本木の裏通りにある静かな中庭でデザートに舌鼓をうち、おしゃべりに時を忘れること数時間。あっというまに夕方に。いい映画とおいしいご飯と愛すべき友人と、そしてもちろんスウィーツがあれば、人生大満足♪

「トラウマ恋愛」のゆくえ

二月下旬にひとつ試験なるものをひかえ、なにやら遊んでいる気分にもならない昨今(そのわりには、じゅ〜ぶん遊んでるとおもうが・・・)。きょうはシネマ・ジャンキーのわたしとしてはかなりひさびさに、映画鑑賞をしてきました。

「マリア・カラス 最後の恋」。マリア・カラスのキャリアにスポットをあてた映画は以前にありましたが、これはあの海運王オナシスとの恋を中心に描いたもの。歌姫としてのたぐいまれなる才能をもうちすて、彼女がのめりこんだその恋とは・・・。

ちょうど数日前、友人と話題になったのが「トラウマ恋愛」。これは何かというと、えてして最初の恋愛は自分の癒されていないコンプレックスをベースにして相手を選んでしまうということ(もちろん、二度目も三度目もそのパターンの方もいらっしゃいますが)。コンプレックスを埋めあわせてくれる相手こそ「私に必要な人!」と執着するので、「ちょ〜だい!ちょ〜だい!」エネルギーが強すぎて、結局重たがられてうまくゆかなくなる、という話です。

はっはっは。これも、カラスとオナシスというよりは、まさにこの典型がた。カラスは幼少期に体験できなかった父の抱擁力をオナシスに投影し、すべての愛情を吸いつくそうとするのです。自分に与えられた天賦の才など、飢え乾いた愛情を満たすためだったらいくらでも棒にふってしまうというわけです。しかし、あそこまで成り上がり、自分の名声のためならチェスの駒のごとく人を動かすオナシスにしたら、これは重い・・・。一方、オナシスもつらい少年期の体験から「大物になってやるぅぅ!」と心に誓い、それが人生のすべてのモノサシになっているのです。だから、女性はステータスを上げる道具にすぎず、次ぎのステップがくると取り替えなければなりません。そして、お互いがニーズのぶつけあいになり破局。あ〜あ・・・。

こんな簡単に分析してますが、少なくともすべての恋愛にはこのカラクリがいくばくかは働いております。自分の痛みは、実は相手に無条件で与えることによってのみ癒されるのですが・・・なかなかその境地に達するのはむずかしいですな〜。(しみじみ・・・)

涙壷度: ☆☆☆☆☆(ゼロ)
セレブ度: ★★★★☆(当時のセレブの生活ぶり、観ていてゴージャス感いっぱい!)

「ドリームガールズ」

楽しみにしていた一本が公開されました。それは、ブロードウェイミュージカルを映画化した「ドリームガールズ」。映画というよりは、まるでライブを観に行っているようなド迫力とエネルギーに満ちています。

ビヨンセが主演と聞いていたけれど、どうもビヨンセが見えない・・・というよりは霞んでしまうのは、強力に脇をかためるジェニファー・ハドソンのせい。いったいこの人は何者じゃ?完全にビヨンセをくってしまいました。この歌唱力、この存在感、この愛らしさ!もう、スゴイとしかいいようがありません(汗)。すでに、彼女のための「ドリームガールズ」になってしまっています。

三人のポーカルグループの女性が、無名からバックコーラスへ、そして表舞台で頂点に上りつめてゆくまでを描いているのですが、彼女たちのヘアスタイル、メイク、ファッション、そして表情の変化などをながめてゆくのもまたおもしろいものがあります。

とってもエンターテイメントな一本。
涙壷度は・・・ ★★☆☆☆ (ちょっと、ホロリときます)

「ナルニア国物語」

「ナルニア国物語」といえば、どっさり何巻にもわたる長編ストーリーです。いつも読み始めるたびに「今度こそ、制覇するぞ!」と息まくのですが、たいてい岩波少年文庫の2巻めほどで挫折するのがつねでした。さて、このたびは映画で登場。封切り初日に行ってまいりました。

映像にしてしまうとイマイチかな〜と心配でしたが、そんなことはありません。のっけからの空襲シーンで、そのあまりのリアルさに他の映画の予告かと思ってしまうほどでした。ディズニーというよりは、スピルバーグばりの迫力と特撮のこりようで、ぜんぜん子ども騙しではありません。本よりおもしろいです(全部読んでないくせに!)。大人もかなりエキサイトできること間違いなし。

本のなかでは、悪い魔女が少年を「プリン」でそそのかして手下にするのですが、映画では「プリン」ではなくて「ターキッシュ・ディライト」というシャレたお菓子に変っていました。いくらなんでも、いまどきプリンごときではそうやすやすと子どもはついて来ないでしょう。この新種のお菓子は、口のまわりが真っ白になるほどパウダーシュガーたっぷりで、不思議な赤茶色。どうやらイギリスのティータイムにはかかせない定番のお菓子のようです。少年がハグハグっとぜんぶ平らげてる様子に、わたしも思わず生ツバものです。 お願い!なんでもいうこと聞くから、ひとつ私にくださいな〜♪(桃太郎の家来か?)

「ハリー・ポッター」は、一話め以外はみてる途中で眠くなってしまうのですが(なんせ、話がこむずかしい)、ナルニアは今後も期待大です。不思議な動物オンパレードが楽しいです。わたしは、ビーバー夫婦の仲睦まじさに心酔してしまいました。ビーバー奥ちゃまが、なんとも愛らしいです♪

涙壷度: ★☆☆☆☆(お涙ちょうだいものではありません)
はらはらドキドキ度:★★★☆☆

「プロデューサーズ」

あの超クールなイメージのユマ・サーマンが、歌ってる!踊ってる!コメディしてる!と、びっくりなブロードウェイ・ヒットミュージカルのリメイク版「プロデューサーズ」。

いろんなおちゃめなキャラクターに彩られながら、滑稽で、おかしくって、にぎやかで・・・いつのまにか歌のフレーズを一緒にくちづさんじゃうような・・・ミュージカル映画の王道ともいえる作品です。

興行に大失敗することで大もうけをたくらむプロデューサー二人組。最悪のシナリオやら演出家、出演者をえらんだものの、これがまた大ヒット。そこからボロが出て刑務所行きに・・・。登場人物もかなり怪しいキャラですが、マシュー・ブロデリックをはじめ、みんなとってもチャーミング。とくにゲイのおにいさんたちが、なんて愛らしいのでしょう♪そして、よ〜く見ていると隅々にいろんな演出があるのも楽しめます。

ゴールデンウィークののんびり気分には、ぴったり!

涙壷度: ★☆☆☆☆(これは笑い泣き)
盛り上がり度:★★★★☆

「プロヴァンスの贈りもの」

”プロヴァンスの〜〜”というネーミングだけで人が集まるぐらい、日本人はフランス、プロヴァンス地方が大好き。あのピーター・メイルのかつてのベストセラー「南仏プロバンスの12ヶ月」の影響でしょうか?素朴な、でもとても心豊な田舎生活をイメージいたします。

そのピーター・メイル原作の映画が、「プロヴァンスの贈りもの」。でも、ぎょっといたしました。監督と主演が、リドリー・スコットとラッセル・クロウ。あの「グラディエイター」コンビではありませんか。まさか、のどかなプロヴァンスで、猛獣と食うか食われるかの死闘ですか〜?

どうなることか・・・と観てみたら、よくあるまったりゆるゆるのプロヴァンス映画とは違って、とてもテンポがよくって楽しいコメディに仕上がっています。

プロヴァンスに住むおじさんの遺産を相続することになった超仕事人間のマックス。人生のすべてが金・金・金のやり手トレーダーの彼にとって、相続でプロヴァンスに滞在することすら面倒なきわまりないのです。お留守中の仕事はトラブル続きで失職にまで追い込まれそうななか、幼少時代をすごしたプロヴァンスのぶどう畑、テニスコート、プールなどの思い出をたどりながら失っていた人間らしい感覚をゆっくりと取り戻してゆきます。

じつは亡くなったおじさんの遺産とは、屋敷よりもぶどう畑よりも、マックスを人生の楽しみ、豊かさに目覚めさせてくれたこと。亡くなったおじさんとの少年時代の回想がなんとものどかで美しくって、「ああ、こんな暮らしっていいなぁ」と感じさせてくれるほんとうの豊かさを教えてくれる一本です。

最近、映画館に入ると爆睡をくりかえしていたわたしが、ひさびさに意識を保ったまま最後まで楽しめた作品でした(笑)。

涙壷度: ☆☆☆☆☆ (ゼロです・・・笑えます、心がほぐれます)

「ベルヴィル vs ファントム」

試写会のお誘いをいただき「オペラ座の怪人」を一足早く鑑賞してきました。舞台では2回ほど観ているのですが、映画だとかなりダラダラするのでは?と危惧していたのです。ところが、引き込まれます。泣けます。せつないです。A. L. ウェバーの名曲に、クリスティーヌの美しい歌声、ファントムの純粋さ、そして華やかな演出に・・・!もう一本最近のお気に入りは、「ベルヴィル・ランデブー」。これは、フレンチアニメなのですが、粋です。日本では可愛くないアニメはうけないようですが、これがほんとに可愛くない。むしろグロテスク。すべてがおそろしく誇張されてるのです。それに、主人公二人(おばあちゃんと孫)には、せりふがなく感情表現もほとんどないのです。しかし、淡々と物語が進行していくところが逆に語りかけてくるのですね。母にはないおばあちゃんならではの図太さ、誘拐された孫奪還のあっぱれを見て下さい。静かだけれどにぎやかで、シニカルだけどユーモアいっぱいの大人のアニメです。

「ベンジャミン・バトン 〜数奇な人生〜」

のっけから、せつないエピソードに泣かされます。駅の構内にかける大きな飾り時計を依頼された時計職人。時計の除幕式で、みんな「あっ!」と声をあげます。その時計は、なんと逆回りするように作られていたのです。なぜなら、戦死した息子を取り戻したかったから。時を巻き戻すことによって。

そして、話は時を逆に刻む時計から、時を逆行する男へとかわります。80歳で生まれ、0歳で生涯を終えた・・・そんな男の物語。

ベンジャミンのお父さんが彼を捨てたのが老人ホームの玄関。なので、彼は幸いにも老人の風貌で幼児期を生きることに何ら違和感を感じず育ちます。

でも、そんな男の人生がたやすいはずがありせん。若い頃から老人の風貌でさまざまな経験を積み、彼はどんどん若返ってゆきます。かなしいことに、愛する人とようやく釣り合うようになるのは人生のほんのつかのまのできごと。すべてはうつろい・・・まさに諸行無常です。

ベンジャミンの場合は時の流れというものが、とても克明でインパクトがあります。決して人と同じ流れで時を刻めないから。でも、考えてみると、わたしたちだってただ気がついていないだけで、いつだって時は刻一刻と流れ去って、けっして同じではないのですよ。

そして、もうひとつ感じたこと。わたしたちが人生のなかでほんとうに深い出会いをするのは、わたしたちが思っているほどそうたくさんの人たちではないということ。世の中にはこんなにたくさんの人があふれているように見えるけれど、実際、自分の人生にかかわり真の登場人物となるのはごくごく一握りの人だけ。それが、魂が結ばれているということなのでしょうね。だから、自分に与えられた近しい人との縁をいつも大切に慈しんでゆかなければなりません。

ひさしぶりにブラッド・ピット主演作で、ちょっと楽しみにしていたのです。アンジェリーナ・ジョリーとパートナーになって一気に子だくさんになったブラピが、どんな「おとっつぁん」になってたのかと・・・。しかし、これはほとんどが特殊メイクの老人顔で現在のブラピがどれなのか・・・。しかし、青年になったベンジャミンは、ちょっと太めではあるものの、あの若かりし頃のブラピそのものでしたよ。特殊メイクすごいですね〜。

涙壷度:★★★☆☆ (時計屋のおじさんにいきなりやられた!)

「マイケル・ジャクソン THIS IS IT」

五十才になる男性を想像してみてください。それなりに脂がのって貫禄がついてきて、それとともにオツムもちょっと涼しげだったり・・・。まだ日本の男性は若く見えますが、アメリカ人男性だったらビア樽まちがいなし!・・・なのに、この人はどうしちゃったのでしょう?このスレンダーボディに風に舞うような動き。まるで時が止まったような。まさに永遠のピーターパン。

「マイケル・ジャクソン THIS IS IT」を観てきました。よかったです。とっても。涙・・・。

ずっとずっとスキャンダルばかりで、そこにしかスポットライトを当てられなかったマイケルだけど、これぞマイケル。この、人となり、やさしさ、純粋さ、この謙虚さ、この才能。実際のところ、歌って踊っているか、スキャンダルしか知らず、彼がどんな人なのかは知らなかったのだと感じます。それに、10年のブランクもなんの、その歌声もダンスもすごいです。一世を風靡した頃よりも、ずっと深みがあるしオーラを放っています。

まわりの若いダンサーたちはまさに必死にダンスをしてるけれど、マイケルはといえばダンスをするというよりはまるで音の中にとけ込むように動いていて、とても自然で軽くて美しい。まったくムダのない動き。どのダンサーもかなわない存在感。たいてい、過去のスーパースターがリバイバルしてステージをすると、どこかムリな感じがあったりしますが、マイケルは確かに進化しています。過去の焼き直しではないのです。

それに、このフィルムを見ていると、せっぱつまっているはずのリハーサル中にマイケルはいちいち相手を思いやります。「これは文句を言っているのではなくて、ただ音が聞こえにくかったと伝えたいんだ」とか、いちいち「I love you!」「God bless you!」のメッセージ。かかわる一人一人をほんとうに大切にしていて、スタッフのひとりから「ここは教会かい?」というコメントまで。

人はたまたま死んでしまうことはないといいます。表面の意識では気づけなくても、すべてそれは自分の計画の中。きめられた時がやってきたのです。彼はこんな素晴らしいステージ(ほんとうにこれが完成していたらどうなっていたことか)を、ひとにぎりのファンのためにするのではなく、劇的な人生の幕切れをすることによって本来だったら伝わらなかった人たちにもメッセージを残したのだと感じます。

これだけ純粋な人だったからこそ、世の中と戦うこともなく、彼の中の研ぎすまされた感覚はひたすら自分に向けられたのかもしれません。

自分への愛、人への愛、そして自然や地球への愛があふれています。・・・これはリハーサルフィルムにとどまることなく、もしかするとコンサート以上にマイケルからたくさんの贈りものが届けられているように感じます。心があたたかくなりました。そして、ますますマイケルが恋しくなりますよ。

「ヤァヤァ・シスターズの聖なる秘密」

セラピーで幼児虐待の後遺症による問題が多いこの頃、ちょっと考えさせられる映画です。作家として成功した娘がインタビューで母親の暴力にふれたことで、母は激怒。母の友人が仲裁に入るなか、自分が生まれる前の母親の夢や挫折、哀しみ、あきらめなどを通して一人の女性としての人生を知り、母の心の傷の深さを理解し始めます。人に暴力をふるったりむやみに傷つける人は、好きこのんでそうしているのではない、ということ。じつは深い傷からそうせざるをえないことをおしえられます。そんな苦しみを理解し受け止める器をもつため、自分自身も癒してあげないといけませんね〜、しみじみ。

「ラフマニノフ ~ある愛の調べ~」

シューマン、ベートーヴェン、ショパン・・・と自伝的映画が作られてきましたが、待っていましたセルゲイくん!「ラフマニノフ」の登場です。わたしの大好きな作曲家のひとり。

雄大なロシアの大地を感じさせながらもどこか深い悲しみをたたえた美しい旋律、「ピアノ協奏曲第二番」と「パガニーニの主題による狂詩曲」がわたしのお気に入り。

「協奏曲第二番」は、すでに古典となった映画「逢いびき」に使われていたり、ナチス下のユダヤ人家族の悲劇を描いた「遠い日の家族」でも耳にしました。そう、ドラマチックなストーリーをさらに盛りあげます。あと、エリック・カルメンが自作の曲の中にも上手にアレンジしていましたっけ。

「パガニーニの主題・・・」が使われていた映画「ある日どこかで」は、時空をこえたまか不思議なラブ・ファンタジー。切なくて哀しくて涙・涙でした・・・。

今回の映画でラフマニノフを演じている俳優さんはかなりラフマニノフっぽい。もう少し痩せて神経質さがましたら上々でした。プロのピアニストさんばりの雰囲気と、指さばきはお見事!

映画の中でラフマニノフの曲はフルには堪能できませんが、あちこちにちりばめられた美しい旋律にふれるときっともっとラフマニノフが聴きたくなることでしょう。

「レミーのおいしいレストラン」

これは、大人も楽しめるアニメ!

パリの街並は美しいし、フレンチの名店「グストー」のお料理はほんっとリアルでおもわず生ツバ(隣にいた女の子も「わ〜♪おいしそ〜!」と大歓声)。登場人物&動物のコミカルな動作や表情もよくキャラクターの内面を表現しているし。それに、CGの出来が素晴らしくって、主人公のおちこぼれシェフのリングイニと、ネズミにして天才シェフのレミーとひとつになって、はらはらどきどき楽しくふりまわされます。

こんなリアルなアニメを見て育つ現代のお子ちゃまはラッキーですね〜。とてつもなく想像力が豊になりそう。だって、大人だってこんなに目をみはる世界ですもの。子供にしたら、映画のなかで大冒険。

最近の人気アニメは、世の嫌われものがヒーロー。この作品だって、パリの下水道から出てきたネズミが超人気フレンチのシェフときてる。「汚い、気持ち悪い、ありえ〜〜ん!」と嫌悪感でいっぱいになるはずが、「かわい〜!おいしそ〜!たべた〜い!」になってしまう不思議。

この夏人気だったもう一本のアニメ「シュレック」だって、沼に住む化け物がお姫様と結婚してヒーローになっちゃう。もちろん、イケメン王子も登場するけど、なぜか腰抜けだったり、大の勘違い男だったりとさんざんなキャラクター設定ときています。「シュレック」は三作目になりますが、あのミドリで超太鼓腹の化けもの・・・いえ、もう化けものとよべないぐらい、チャーミングでハンサムで素敵に見えちゃう。今の時代、たんにハンサムで優秀なだけじゃヒーローになれないのですね〜。

レミーの作るオムレツを見て、むしょうにフワフワオムレツが食べたくなりました。レミーのお店はどこだっ??目印はネズミの看板!

涙壷度 :☆☆☆☆☆
お楽しみ度 :★★★★☆

「仕事も恋もお金も・・・ぜんぶあきらめな〜い!!」

「なんか、お気楽な映画が観たいね〜」とチョイスしたのが、キャメロン・ディアスの「べガスの恋に勝つルール」。”私は、よくばる!”というキャッチがついているだけに、「よくばる」ことに身体をはった一本です。

見知らぬ男女が傷心のすえべガスにやって来てふと出会い、泥酔のすえ即日結婚。一夜あけてシラフになったら、お互い最悪な気分。さっさと別れてすべてなかったことにしようとしたところ、スロットで300万ドルの大当たり。この大金をめぐって、ふたりのニセ結婚生活がスタート。どちらがどちらをおとしいれるのか、攻防がつづきます・・・。

この日の劇場は満席で巨大スクリーン最前列左端にようやく坐ったものの、首が90度にのけぞって今や頭がもげ落ちそう。キャメロン・ディアスの顔は妙に変形して見えるし、そのうち吐き気までしそうな無理な態勢。なぜ、こんなところに座席をつくってお金をとるの〜?

しかし、ノンストップのおバカなストーリーのおかげで、なんとか我を忘れてサバイバルすることができました。

ロマンティックコメディの女王、メグ・ライアンはとんと見なくなりましたが、「メリーに首ったけ」から十年たってもまだこんなハイテンションのドタバタコメディができるキャメロン・ディアスはすごいです。だいたい、彼女のシリアスものはあまりイメージできないし(・・・といってもじつは、シリアスドラマもやってるのですよね)。いったいいつまでこのはちゃめちゃコメディが続くのか、まだまだがんばってほしいものです。

キャメロン・ディアスのハイテンションとやりたい放題が日頃のたまったストレスを増してくれるのか癒してくれるのか・・・あなたしだいの一本です(笑)。

「厨房で逢いましょう」

またまた、美食ムービーです。

レストランでおもわず犬食いになる、我を忘れて皿をなめる、はては恍惚状態・・・いったいどんなお料理なのでしょう?てっきり、美食の都フランスを舞台にしたストーリーだと思いきや、なんとドイツです。でも、だからこそ美味なる料理に予想外の反応をひきおこすとも考えられます。

幼い頃、母の臨月まぢかの大きなお腹に魅せられて、自分もああなりたいと食べることだけに情熱をもやしつづけた少年グレゴア。がやがてシェフとなり天才的な料理を作り出すことになります。でも、料理に没頭しすぎ、また臨月体型もわざわいして、とんと女性には縁がないのです。

そこに現れた倦怠期に悩む人妻エデン。彼女はグレゴアの料理のおかげで癒されて、だんなさんとの仲も再びあつあつに。しかし、グレゴアの料理の腕が冴えわたって人を恍惚とさせるのは、じつはエデンに恋をしていたから。それに、なぜか突然イキイキしはじめたエデンをみて、だんなさんはじつは心中穏やかではありません。ここから、物語は思わぬ方向へ・・・。

結局、ものごとはどう取り繕おうがジタバタしようが、なるようにしかならない。おさまるところにしかおさまらないのです。

人は恋に落ちるとき、頭ではなくって五感で恋におちるもの。シェフ、グレゴアにはほとんどセリフがなく、目で語っています。とても繊細で深い優しいまなざし。そして、「エロティック・キュイジーヌ」といわれる彼のお料理は、目も舌も鼻も胃袋も心地よく刺激して・・・。エデンが我を忘れてグレゴアのもとに通ってしまうのも、頭でとめられるものではないのですね。。・・・・ん〜、その後は、当然の結末といえるでしょう。納得。

お腹グ〜グ〜度; ★★★★★ (ああ・・・おいしいものが食べたい・・・)

「君のためなら千回でも」

ひたむきな少年たちのちょっと泣ける友情もの・・・かと思いきや、舞台はアフガニスタン、そして少年から大人へと時をこえた物語。

強い絆で結ばれていた二人の少年。しかし、純粋さゆえの残酷さから、ある出来事によってふたりの友情はあっけなく失われてしまいます。いちばん自分を気づかい愛してくれていた人をふみにじってしまうのです。

少年の一人はアメリカに亡命し、それから二十数年。そこに一本の電話が入ります。昔の親友の消息について。そして、電話をうけたその青年は愛する家族をも残して、かつての親友のためにタリバン政権下のアフガニスタンへと向かいます。親友は、もうこの世にいないにもかかわらず・・・。

長い時がたって、やっとんほんとうの答えが出ることもあるし、見えなかったものも見えてくる・・・。だからこそ、人生は深みがあるし愛おしいのでしょう。
予想外に泣けました。

涙壷度: ★★★★☆(ハンカチ必携)

「存在に癒される」とはまさにこのこと!

その昔、ローマ法皇、故ヨハネ・パウロ二世が来日されたおり、幸運にも来日記念のミサにあずかる機会がありました。そのとき、ローマ法皇が姿を現すなり、どっと涙が溢れ出しとまらなかったのを思い出します。まわりを見まわすと、誰もがハンカチを握りしめ感動で顔をくちゃくちゃにしながら笑っていました。

なぜそんなことを思い出したかというと、きょう同じような体験をしたのです。「東京都写真美術館」にドキュメンタリーフィルムを観に行ったのですが、上映がはじまるといっせいに鼻をすする音がしてみんな泣いている様子。じつは、私もずっと涙がこぼれてしょうがありませんでした。

何を観たかというと、マザー・テレサの没後十年のドキュメンタリー。その活動と言葉を記録したものです。

マザーは「すべての人には愛し愛される権利がある。だから、これは福祉活動ではなくて魂にかかわる「愛」の行為である」と、政府からの援助はいっさい受けとらないという方針で活動を世界に広げてきたといいます。貧困を救うというよりも、もっと深刻な愛のない乾いた心を救うこと。ひとつまちがうと自己満足におちいりがちなボランティア活動ですが、純粋な愛に根ざした行為が人をひきつけ感動させる源となっているのでしょう。

マザーがアメリカの病院に活動で訪れたとき、すすめに従って健康診断を受けたそうです。そのとき心臓が悪いことが判明したそうなのですが、ただちにこのことは口止めされたとか。自分の状況、状態、それは神から与えられたもの、だから静かに受けとめるのだと。たとえどんな状況におかれたとしても、それが今いるべき「自分の居場所」であると。身体の悪いことはマザーにとっては普通の状態となったわけです。忙しい活動を緩めるどころか、同じように心臓に病と共生するように活動を続けたそうです。

自分のおかれた状況をまさに自分の居場所として選択しつづける、「すべてにサレンダーする」生き方。これは、セラピーの中でもつねにキーワードとなる言葉です。今までわかっていたつもりでしたが、マザーがまさにそれを生きる姿を見たとき、理解できたというよりもお腹の深いところにポト〜ンと落ちた気がしました。

「癒し」の仕事の原点をみせていただきました。

「宇宙へ。」

何年か前、フロリダ滞在中にNASAを見学しに行ったことがあります。ほんもののスペースシャトルがある広大な敷地の一角がビジターセンター。たしか、入り口のチェックもかなり厳しかったのを思い出します。そして、「猛犬注意!」ならぬ、「アリゲーター注意!」のたくさんの立て札。たしかに、このあたりの沼地には棲息しているのでしょうが、挙動不審にウロウロしていると巨大獰猛アリゲーターに食べられちゃいますよ、ということらしいです(汗)。

さて、そんなNASAの宇宙開発のすべてを収めたフィルムが、このたび英国のBBCワールドワイドによってドキュメンタリー映画になりました。ドキュメンタリー作成には定評のあるBBC。さっそく観てきました。

あれ?トム・ハンクスもエド・ハリスも出てこない・・・?!ハイ、これは正真正銘ホンモノ映像なのです。

映像のドラマティックさ、美しさ、まるで脚本を書いて作成したようなさまざまなカット。たんにドキュメンタリーフィルムにとどまらないおもしろさがあります。宇宙船に乗りこんだ飛行士の最後の表情、ロケット打ち上げを見守る人々の様子(この当時の髪型、ファッションもおもしろいい!)、トラブル発生時の管制室の張りつめた空気(あわてるというよりも、まさに目がテン!という感じでした)、ミッション成功の様子(宇宙飛行士は子供のようにはしゃいでいます)・・・真実だからこそ胸に伝わってくるものがあります。

しかし、五回に一回は失敗をかさねつつ、有人飛行を成功させて、わずか十年足らずで月に降りてしまったすごさ!人間の能力と可能性は偉大です。今じゃ、宇宙に実験室がありますものね。

以前にも何度か目にした、月の向こう側から地球が昇ってくる映像。寂寞とした月の表面と漆黒の宇宙の中に現れる発光体のような地球の姿。なんて美しい星なのでしょう!あらためて、感激。この星の住人である幸せと誇りを感じます。

さまざまな地球の映像や銀河の映像。巨大なスクリーンで観るていると、自分も宇宙に行ってきた気分になります。そして、いつも近視眼でものごとを見ることに慣れてしまっているわたしたち。とくに、行き詰まっているときは超近視眼。

宇宙から眺めるという、自分の姿が針の穴にもならないほど引いた目線でものごとを眺めてみると・・・ああ、すべてがど〜でもよくなってくるこの脱力感(笑)。わたしたちのものの見方が変わると、自分の感じ方も変わり、また自分の体験も変わってくる、そして人生が変わる。

ああ、楽しかった♪

「宇宙戦争」

スピルバーグとトムクルーズにして、まだこんなことやってるんですかぁ〜?と感心(寒心?)してしまうのが「宇宙戦争」。観たわけではないのですが、予告だけでも唖然。ソビエト・イラクなど戦う相手がいなくなったはては、宇宙人?それにこのキャッチときたら、「地球最後の日に愛と勇気がためされる!」。これには、友人と大笑い。べつに地球最後じゃなくたって、日々愛と勇気でいいわけだし、試さなきゃいけないほど疑ってる?(笑)それに、何かが攻めてきてやられちゃうなんて、もう古い!だって、攻めてくるという信念さえ持たなければ、誰も攻めてこないわけだし。わざわざ攻めてくるものをこしらえ続けるのは、エネルギーのムダ&被害者意識まるだし。被害者って一見同情をかいますが、結局悪者をつくって「私は正しい!」と主張する優越感と傲慢さが生み出していたりします。コトが起こると、ひとは被害者に同情しますが原理的にはどっちもどっち。これじゃ、たんに手をかしたいと思っているであろう宇宙人に対して、はなはだ失礼じゃありませんこと。しかし、なにぶん観ていないので、ご覧になった方、何か新たな視点がありましたらご報告くださいませ。(写真は、「宇宙戦争」とは何の関係もありません)

「山の郵便配達」

上映20分前の岩波ホール、すでに満席で補助席に座らされた。きょうは平日、そのうえ昼間、「みんなど〜した、いったい?」という感じ。(え、私も?)中国映画というと、残酷でおどろおどろしいイメージがあるけれど、ナントこの純なことといったら・・・かなり泣けます。保証付き。

「幻影師アイゼンハイム」

「幻影師」とは、今でいうなら「イリュージョニスト」。引田天功のように 大掛かりなびっくりを見せてくれる人です。

この物語は19世紀末のウィーンが舞台。イリュージョンといってもハデなパフォーマンスやきらびやかな演出はないのですが、それでも現在わたしたちが目にするイリュージョンになんら劣らず、トリックなのか超常現象なのか・・・人々を惑わせます。

そして、そのイリュージョニスト、アイゼンハイムの初恋の相手をかけて行われるいちだいイリュージョン。そこには、当時のハプスブルグの皇太子も巻き込み、あれよあれよという展開。

そして、いつのまにか映画を見ているわたしたちまでもが、イリュージョンの観客のひとりになっていたとは・・・。

アイゼンハイムを演じるのは、エドワード・ノートン。
彼の出演作は久々に観ましたが、好きな俳優さんの一人です。彼の監督&出演作「僕たちのアナ・バナナ」はわたしのお気に入。

ほんとうに、この人はもの静かでクールな素顔とは一転して、いったん役に入ると七変化。どんな役でも圧倒的な存在感と迫力を放ちます。
今回も、彼のカリスマ性がアイゼンハイムをがぜん神秘的にしているようです。

あっぱれアイゼンハイムのイリュージョンを観て下さいませ。

涙壷度: ☆☆☆☆☆
(ゼロ・・・最後は泣いたという人もいますが、わたしはむしろ笑ってしまいました)

「時代はハーフマッチョ」

ホントに類は友を呼ぶもので、「”チャーリー&チョコ工場”を観て来たよ!」と友人たちに報告すると、「ジョニデプ、大好き〜」と口をそろえたような反応がかえってくるのです。「彼の繊細そうなところがいい!」という意見は、さすが同類。わたしも同感っ!ジョニデプは純粋さ、繊細さが魅力のひとつ。なので、私の場合ムキムキ・マッチョ系はちょいと苦手。そうはいっても、一人だけ別格あり、それはラッセル・クロウ。「グラディエーター」にはじまり今回の「シンデレラマン」にいたっては、「戦う男」まさにマッチョのあかしです。でも、彼の場合、ムキムキ感あふれるなかにも、どこか繊細で哀愁がただよっているのがイイっ。あんなに強そうなのに、彼の目は捨てられた子犬のようにちょっと哀しげ。フルマッチョ(なんだそれは?)ではない、このハーフマッチョ感がまた世の女性の心をくすぐるのでしょう。人間、強いだけとか、優しいだけとか、あるいはめちゃくちゃ美人というのは、あんがいつまらなかったりするものです(そうはいっても、やっぱり美人はいいっっ・・・)この「シンデレラマン」はそんなハーフマッチョが、家族愛からボロボロになっても戦い続ける、観ていてかなり「痛たた・・・」な一本。弱さを隠すためにひたすら強くなろうとするマッチョが多い中、じつは本当に強いというのは弱さを知りつつ、それでも立ち上がり続けることであると感じますね〜。涙壷度★★☆☆☆(バシバシ痛そうで、あまり泣いてるヒマなし)

「残暑の三連発」

残暑が厳しいと、映画館に到着するなりいっきに極楽&和みモードに突入して、意識がモウロウ。気がつけば、映画はとっくにエンドロールだったりします(泣)。それに、ちょっとでもおもしろくないと、即どこぞへかトリップしちゃうという持病(?)の持ち主だし・・・。でも、しっかり最後まで見たこの三本。まずは、「アルフィー」。主演ジュード・ロウが知人のT氏にそっくりじゃありませんことっ!(ちなみにJ・ロウは、今やアメリカで最もセクシーな男優だそうな) そう思って観ていると、さらに同一人物にみえてくるからおかしい。くわえて、スーザン・サランドンが私のかつてのピアノの師匠に似てるとくれば、親近感たっぷり。たぶん、どちらも顔の詳細より、表情や物言い、エネルギーが似てるのでしょうね。
さて、お次は「ヒットラー〜最後の12日間〜」。追いつめられた地下要塞で起こる様々な人間ドラマ。なるほど、模擬刑務所で心理実験をしているうちに参加者が狂気に陥るという実話を映画化した、あの「es(エス)」の監督さんらしい作品です。この監督さん、密室での狂気がお好み?しかし、かつて天使役だったブルーノ・ガンツのヒットラーは、ちょいお人好し気味。いくら最期で弱っているといっても、もう少しコワレてる感じがほしかったですね。
さて、最後の「コーチ・カーター」は、なりゆきでたまたま見てしまった一本。期待がなかった分おもしろかったです。バスケ好きにはおすすめ。最悪な落ちこぼれチームが、コーチの愛情と信頼でメキメキ強くなって、人間としての尊厳まで磨かれてゆくさまを描いている実話です。やっぱり人の健全な成長には愛情にまさるものはありません。なまじっか小難しい作品よりも、単純明快、最後まで楽しめました。

「海を飛ぶ夢」

実話にもとづいたお話です。二十数年にも及ぶ全身麻痺のすえ法廷で尊厳死を勝ち取ろうとする男性と、痛いほどその苦悩を知りながらもそれに手を貸すことに苦しむ家族や弁護士の葛藤の物語。主演のハビエル・バルデムのみならず、脇を固める俳優さんたちがいいです。いつも思うのですが、スペイン映画はハリウッドのような美男美女やらカリスマは見当たらなくて、一見地味で普通なのですが見ているうちに引き込まれて胸の奥底をがっつり掴んでしまうような俳優さんたちがたくさんいます。尊厳死に関しては、推奨されることでも否定されることでもないように思います。賛成する、あるいは反対するとき、いったい何を恐れているのか、何に抵抗しているのか、というかなり個人的な問題で、そこからそれぞれの信念や怖れがみえてくるかもしれません。さて、今回の涙壷度(これはどのぐらい泣けるかの私なりの度合い、笑):★★★☆☆(星三つ)で、もれなく涙がついてきます。

「生きる」

映画好きのわりには、めったにしないのがおうちシネマ。なぜなら、いつも知らないあいだにグ〜ッスリなのです。そんな私が、これまた珍しく『邦画』のDVDを借りてきてしまったのが、黒澤明監督の「生きる」。

30年間無遅刻無欠勤で、ミイラという愛称までつけられているお役所の課長さん。彼についてこんなナレーションが入ります。「今は、彼について語るのは退屈だ。彼は時間を潰しているだけだから。彼は生きた時間がない。彼は生きているとはいえないからである。これは死骸も同然だ。この男は20年ほど前に死んでしまった。それ以前は少しは生きていた・・・」。たしかに・・・いのちがあるから生きているとはいえません。

そんな彼が突然末期がんになり、急にあり金をはたいて遊びまくります。しかし、空虚さはつのるばかり。ふと、「私にも何かできるかもしれない・・・」と目醒めがやってきた喫茶室。若い女性たちが友人の誕生日を祝ってバースデイソングを合唱しているさなか、彼は火がついたように飛び出してゆくのです。まさに、彼が本当の意味で生まれた瞬間でした。そして、数ヶ月間奔走し児童公園をつくりあげます。

病魔におかされ歩くことさえままならない身体になりつつも、どこまでもあきらめません。できあがった公園でぶらんこに揺られながら息をひきとる彼の瞳は、満足げでどこまでも澄みきっていました。

最近の日野原先生のお話に続いて、「真に生きた時間を活ききる」ということを考えさせられる一本でした。
涙壷度:★★★☆☆
昭和レトロがはやる昨今、この1950年はじめの作品は今観るからこそ、建物・服装・生活などなど、かなりおもしろいです。

「眠っちゃったの!エコサンデー」

地球温暖化問題に取り組む元米国大統領候補アル・ゴアさん。彼のセミナーをドキュメンタリーにしたのが、今上映中の「不都合な真実」。

「私たちが知らされていない環境破壊の現状をが、もっとつぶさに肌で感じられるかも・・・」と予告を見て興味を持ったのと、「エコサンデー」キャンペーンで500円で観られるというイージーな理由でさっそく出かけました。

バージン・シネマの巨大スクリーンで前から三列目はちとキツイ。でも、夕食をお腹いっぱい食べてマブタがおも〜い私たちにとっては、こんな至近距離の迫力映像では寝るどころじゃないでしょ〜、と思っていたのですが・・・・。

・・・みごとに寝ました。もちろん、このドキュメンタリーの意図、内容ともども文句のつけようがないのでが、なんせアル・ゴアさんが英語でまくしたて、のべつまくなしのチャートやグラフのオンパレード・・・。もう、左脳がフリーズ状態になって、右脳が開いたとたんトランス状態(お昼ね状態)におちいってしまいました。

やっぱり、この方政治家ですから、喋らせるとどうも演説になっちゃう。でも、ほんとうに人に伝えたいとか心情にうったえるときは、説明やら数字は期待されるほど受けとれないものです。それよりも「感覚」「ヴィジュアル」に訴えるほうが大切なのです。

たとえば、このポスターにしてもグラフや数字ばかりだったら興味をもたないけど、この不気味な煙突の写真が感覚をくすぐるのですよね。ですから、今起きてる危機に関する実際の映像やストーリをふんだんに取り入れ危機感をしっかりあおったすえに、数字を紹介するし解決策を提案する・・・、すると即座に私たちの潜在意識にその「感覚」が伝わることでしょう。

もっともっと「右脳(感覚・イメージ)タイプ」のプレゼンテーションがこれからの「伝わる」プレゼンテーションの主流になることでしょう。

「砂の器」

いったいいつの映画なのでしょうか? なんと30年前!!(えっ?生まれてない?) 10代の頃、私は原作のほうにはまって「青春の蹉跌」やら「ゼロの焦点」「点と線」など、松本清張三昧の日々をすごした思い出があります。ミステリーのおもしろさに加えて、心理描写がホント巧みなのですよね。今回、デジタルリマスター版ではじめて本編を観たのですが、 ・・・・よかったです。はじめのうちは、TVの「○○ミステリー劇場」となんら変らないチープな雰囲気にがっかり気味だったのですが、それがどんどんひきこまれること。それに俳優陣ときたら、今じゃすっかりあの世のイメージの丹波さんの味のある刑事役、加藤剛の冷酷なピアニスト。この田舎の警官って緒形拳っ?!あっ、それに渥美清さんも! 街並も、そうとうレトロです。かなり原作に忠実に作ってあるようで、映画になっていてもいい作品でした。涙壷度(泣ける度合い)は、★★★★☆。父子の愛情に泣いて下さい。

「私の中のあなた」

わずか11才の女の子が自分の権利を守るため両親を訴えます。なぜなら、この子は白血病の姉を救うため、遺伝子操作で生まれてきた妹、つまりドナー。「わたしはボディーパーツを提供するためにデザインされた」と弁護士を訪ねるのです。

でも、母は母として「娘を一人失うかもしれない」という絶望に直面しきれず、救うためなら手段をいとわない。というか、何が人を傷つけるのかわからない状態。また、ドナーのその娘は、「わたしはもう切り刻まれるのはごめんだ」という思いと「姉が病気じゃなかったら、わたしは生まれてこなかった」という事実に深く傷つきます。そして、白血病の長女は長女で、じつは両親に隠している本心、意図があり、それを達成したい。それをドナーの妹は知っているのです。母と姉妹の思いが交錯し・・・さてどうなる?

この物語を見る限り、キャメロン・ディアス演じる母親はエゴのかたまりのよう。でも、娘を救える可能性が少しでも残されていたら、母親として素直にその道を選ぶのかもしれません。それは、その立場に立ってみないとわからない。誰も裁くことができないのです。

上の娘の病がすすめばすすむほど、家族の関係はすさんでゆきます。結局のところ、それぞれの思惑をこえて、いくら母親がジタバタしようとも現実はなるようになってゆくのですが・・・。すべてのいさかいも愛するためであり、最後には現実を受け入れて純粋な愛へと昇華してゆきます。

わたしたちは、愛する人がどんな状態でも少しでも長く生きてくれることを願います。本人の意向とは関係なくチューブや器具につなぎとめ、ありとあらゆる投薬を施し、なんとか息だけでもさせ続けようと努力します・・・。でも、もしそれが本人の魂が決めた終わりのときであるなら、本人が決めて去って行くのを尊重してあげなければならないのですよね。生かしておこうと不自然な努力をするのは、結局失う悲しみからのエゴであったりします。

涙壷度:★★★★☆(かなり泣けます)

ドナー役の娘を演じているアビゲイル・ブレスリンはスゴイです。すごい存在感。同じく子役からスタートしたジョディ・フォスターを彷彿とさせます。アビゲイルもきっと同じようなカリスマのある女優さんになりそう。そういえば、ジョディとアビゲイルは「ニムズ アイランド(邦題、忘れた・・・)で共演していまたね〜。

「縞模様のパジャマの少年」

ブルーノ少年のたった一人のともだちは、いつも農場のフェンスの向こう。どんなときも縞模様のパジャマ姿で、とってもお腹をすかせているのです。

これはナチス時代、強制収容所所長の息子と、収容所のユダヤ人少年との金網ごしの友情物語。ブルーノ少年がいつも自室の窓からながめていたパジャマ姿で働く不思議な農場とは、まさに強制収容所だったのです。

こんな現実がホントにあった、そしてはるか昔に感じる一方、まだ数十年しかたっていないことに驚ろかされます。たった今だって、形をかえつつ人種の迫害は続いているのです。

「お友達には親切に」「人を傷つけるようなことはしてはいけません」・・・こんな基本的なことを幼少の頃に教わったはずなのに、小学生にさえ顔向けができないレベルの大人達。それでも、わたしたちはやっとこさ、急速なスピードで学びつつあるのを感じます。

もっとも「こうあって欲しくない」結末で終わるこのドラマ。強く感じるのは、自分がどこに身をおくかで「真実」が簡単に変わってしまう怖さ。ああ、今の自分の目線も、気がつかなくてもたくさんのフィルターにおおわれているのだろうな。

この男の子たちのようにお互いに「知り合って」しまったら友達になれる。友達をクズ扱いはしないでしょう。この世界にはもっともっとコミュニケーションが必要ですね。

少年たちがまた愛くるしくて、なおさら悲劇が胸につきささります。

涙壷度:★★★★☆ (最後、フリーズ状態・・・)

「記憶の棘」

輪廻をまったく信じないアナ(ニコール・キッドマン)の夫・ショーン。彼が心臓発作で突然世を去り、その十年後アナの前に姿を現すのです。たった10歳の少年として・・・。はじめはたんなるいたずらだと拒絶していたアナも、二人だけの秘密が次々明かされるたびに混乱してゆきます。

この映画が超常現象まがいのことを扱いながらもまったくシリアスさ、おどろおどろしさがないのは、音楽のせいでしょうか・・・?夫のショーンがバッタリ亡くなる場面にしろ、シリアスな場面でどこか人ごとであるようなあっけらかんとした音楽が流れているのです。そして、映像のトーンもどこか絵画的で、現実感がないのかもしれません。

しかし、かつて失ってしまった最愛の人と同名で、数々の共通の記憶を持ち、あつい眼差しでみつめられたとしたら・・・きっと、誰でも困惑することでしょう。このアナも、ようやく新しいパートナーを手にする寸前にもかかわらず、過去に舞い戻って行こうとします。

結末はナイショですが、紆余曲折があったからこそ大切なものに気づくこともあるのです。それも、「死」という純粋な意識を体験してこそ。「結局、いちばん愛していて心残りだったからこそ戻ってきた。もういちど、素直に愛したかった」・・・・本心は、ただそれにつきるのかもしれません。

涙壷度:★☆☆☆☆
あまり泣けはしませんが、「私だったらいったいどうする・・・・?」と考えさせられる一本でした。

あたまがよじれる?「ダイアナの選択」

みずみずしい花々に彩られた明るい画面からはじまるこの物語。それとは対照的に、主人公ダイアナ(ユマ・サーマン)の心はうつろです。過去にさまよい、恐怖、悲しみ、後悔、罪悪感の中に生きているのです。

それは、ダイアナの癒えぬトラウマ、学生時代に遭遇した学内銃乱射事件のせい。犯人に追いつめられ、ダイアナは自分が殺されるか、それとも親友か、という究極の選択を迫られます。

あれから15年、表向きには幸せな結婚をし、娘に恵まれ、自分のキャリアも築き・・・。しかし、今だに過去に生きる彼女の生活がうまくいくはずもありません。

・・・という、かなりヘビーなテーマです。でも、映像がつきぬけて明るいのでまだ救われますが。この映画は、最後の最後にあたまがねじれる感じがしましたよ〜。だって、(ネタバレになっちゃうので書けないのがストレスですが)「私が今まで観てきたストーリーは何だったのだ?!」ということになってしまうからです。

あの結末の解釈について監督に聞いてみたいところではありますが、それぞれがそれぞれに解釈をするというのがこのストーリーの醍醐味かもしれません。

(観てない方にはさっぱりわかりませんが)わたし流にはふたつの解釈。ひとつめは、ああ、あそこで親友とともにダイアナの「心」も死んだのだ、ということ。だから、その後の彼女の人生はぬけがらなのです。そしてもうひとつは、スピリチュアルな表現で言うパラレルワールド。この瞬間にすべてのありとあらゆる可能性が同時に存在していて、自分が意識的にも無意識的にも選べるというもの。だから、ダイアナの現実はどちらも存在していて、どちらも選択可能、さあ、どっちにしてみる?という(このハナシからは、どちらも針のムシロではありますが)。

ちょっとあたまがよじれてみたい方はどうぞご覧くださいませ。でも、テーマがヘビーなのでお元気なときに。デートには・・・う〜ん、あとでディスカッションで盛り上がりたいならいいかもしれません。

しかし、脚本はよくできているな〜と感心いたしましたよ。ぎゅ〜ん!と、よじれてくださいな♪(笑)

あっぱれ!「僕のピアノコンチェルト」

成海璃子演じる天才ピアノ少女の葛藤を描いた「神童」という映画がありましたが、これは「神童」スイス版。

ヴィート少年はわずか12歳にしてピアノの神童・・・であるばかりか、計りしれないほどのIQの高さを誇る天才。そして、起業家であり、パイロットであり、株式投資の影のドンというウラの顔も。もちろん、12歳でですよ。でも、これがまた、とてつもなくナマイキで・・・。

こういうストーリ−には、おじいちゃんがつきもの。自分自身でさえ持てあます特異な才能に翻弄される少年の心によりそい導く・・・いちばんの理解者。そして、とんでもない共謀者でもあるのです。この二人の悪だくみときたら痛快です。

ヴィート少年には、ほんものの神童テオ・ゲオルギューが扮しています。最後のピアノ・コンチェルトなどは舌を巻きますよ〜。

観終わったあと、あっぱれで、また心があたたかくなるおすすめの映画です。

満足度: ★★★★★
涙壷度: ★★★☆☆

あなたのなかの子供も目を覚ます

公開になったばかりの「アメリ」、最終回をねらって出かけたのにすでに立ち見。午前0時終映のレイトショーでようゃく席を確保。なるほど〜、今までにないフランス映画。空想好きだったアメリは、大人になってもその部分を失っていない。でも、ちょっぴり臆病なアメリの恋のゆくえは・・?アメリの隣人達もかなり個性的で笑えるし、ストーリー展開もテンポがいい。そして、おとぎ話のような映像と色調が印象的。

お昼寝態勢に入れなかったです、コレは

映画に関してはけっこう正直で、ちょっとでも退屈すると容赦なく寝入ってしまいます。最近ではドイツ映画「グッバイ レーニン」がおすすめ。「スパニッシュ・アパートメント」もなかなかでした。バルセロナでの7カ国の学生の共同生活をフランスからやってきた男の子の目線で語るユーモラスなお話。尼僧のような生活を送るイギリス人のウェンディ、ある日突然パパになっていたのを知らなかったデンマーク人のラース、なんでもちゃ〜んとしないと気がすまないドイツ人のトビアス、次から次へと気が多いフランス人のグザヴィエ・・・。そこはかとなくお国柄が現れてます。(ここに日本人がいたらいったいどういう人物にされていたのやら?)こんなアパートで起こるドキドキハラハラで笑える事件の数々。軽快なテンポで楽しませてくれる寝てるヒマもない作品です。

お茶の間シネマトーク

ポップでカラフル、おとぎ話のようにファンタジック・・・にもかかわらず、コワ〜イ、容赦ないストーリー展開。シビアです。過酷です。でも、この美しい映像だからこそ救われてるフシも。最後のオチにしても、ハッピーエインドなんだか悲惨なんだか・・・煙にまかれています。タイトルは「世界でいちばん不運で幸せなわたし」(チケット買うとき正しく言えるかな?)。刺激が欲しい方には、おすすめかも。でも、ああコワ。
さて、もう一本は「誰も知らない」。あのカンヌ映画祭で少年が主演男優賞をとった作品です。ポネットにロッタちゃん、クリクリにリアムなど、おこちゃまムービー全盛で、「子供さえ出しときゃ」的風潮に反発を感じておりました。で、この作品も「おんなじようなもんさ!」とタカをくくっていたのですが、ひょんなことから鑑賞のはこびに。カメラがすごく子供の目線によりそっていて、見てるまにその子と一体化してしまいます。「そうそう小さいときって、こんな細かいとこを見てたな〜。アスファルトの割れ目とか、たたみの目とか、手すりとか」そんな目線から巧みに心理描写をしているのですよね。淡々と撮っているところが、より現実味があってよかったです。

お茶の間シネマトーク 2005年総集編

本日、今年最後の一本を愛でてまいりました。タイに実在する古典楽器ラナート奏者の物語、「風の前奏曲」。インドネシアのガムランによく似た旋律で演奏される木琴は、素朴でありながら不思議な響きで聴く人をトランスに導くよう・・・。

さて、今年のわたし的お気に入り5作品の発表です!これは、あくまでも激しく私情に走った選考結果で、決して傑作・秀作ではありません(笑)。が、かなり味があります。(順不同)
●50回目のファースキス・・・たった一日しか記憶がもたない女の子と、彼女にアタックし続ける悲劇の男性の物語。この状況は、そうとうエネルギーを要します。でも、メゲません。切な&ハートフルラブストーリー。
●変身・・・けっこう玉木宏くんがお好み。こういうはかない男の子役がぴったりで、「恋愛小説」も大好きでした。ともに、かなり泣かされます。
●きみに読む物語・・・主人公たちの晩年の描写は「ちょっとぉ〜」ともの申したい感じですが、ラブストーリーとしてはロマンチックでひきこまれます。映像も美しい。
●ニューシネマパラダイス・・・もう、何回観たことか。トト少年の「アルフレードォォ!」といういたずらっぽい呼び声と、モリコーネのあの音楽だけで一気にウルウル。
●エリザベスタウン・・・人生の大失敗と父親の死という喪失からはじまる新しい人生と出会いの物語。しみじみ・・・。俳優さんたちもイイ!!

ああっ!予想したとおり、やっぱり5本ではおさまりません。あとは、「海を飛ぶ夢」「ラベンダーの咲く庭で」「ミリオンダラー ベイビー」・・・・etc。
今年も私のハートにたくさんの栄養を与えてくれた素敵な作品の数々に心から感謝です。

このご時世、心をくすぐる?「モンテ・クリスト伯」

おじさんが大行列、満席の映画館。でもR指定といういかがわしいものでもないんです。無学だけれども性格がよくて美しい恋人と成功を手に入れる青年。しかし、妬みをかって13年間も幽閉されたすえ、命からがら脱獄。手に入れた財宝で「モンテ・クリスト伯」として華麗に甦る。そして、自分を苦しめたものへの復讐を果たし恋人も取り戻す。文豪デュマの名作です。リストラの時代、オジサンに大きな勇気を与えているのでしょうかね?

ちょっぴりフランスの香りのする東洋、ベトナム

9年位前「青いパパイヤの香り」という映画があった。ベトナム生まれフランス育ちの監督の、みずみずしい色彩と静かだけれどインパクトのある映像が心に残る。新作「夏至」もその雰囲気は変わらず、さらに風や空気・湿度まで醸し出す。前回同様、出演の女優さんは監督夫人。日本女性の忘れてしまった、たおやかさ、おくゆかしさ、静かな強さにフランスっぽさもあわせもつ。ベトナムは不思議。

とっちゃん坊やずき? (--;)

トムおじちゃんとレオ坊の映画を観ました。トム・ハンクスは少年っぽさがウリだったのに、このところ急にマフィアやらFBI やらすっかり「おやっつぁん」路線。一方、ディカプリオくんはいつになってもソープオペラの息子がはまり役。トム・ハンクスには、かつての「 BIC 」のように、少年っぽくトシをとってもらいたかったのに。「 BIC 」は少年に魔法がかかっていきなり大人になって、オモチャ会社の社長になったり恋をするお話し。彼の童顔で無垢な感じが「ホントは子供の大人」にぴったりでした。

ひさびさの登場、シャーロット・ランプリング

まぼろし」という映画が上映中です。S・ランプリングの作品はリアルタイムで観たものはほとんどなくて「愛の嵐」とか「地獄に堕ちた勇者ども」などすべてビデオ。なんといってもあのグレーの瞳がミステリアスで、退廃と禁断の象徴でした。今はおいくつになったことやら。年を重ねて、カトリーヌ・ドヌーヴはお金と手間をかけた人工的な美術品のような感じがしてしまうけれど、彼女は時間の流れの中で抵抗なく自然に年を重ねた感じです

べつに「蜘蛛女」を目指しているわけではありません、あしからず

まだ観ていないギア様主演のビデオを借りてきました。相手役の女優さんは・・・レナ・オリン・・・?観てみてびっくり!ギア様じゃなっくって、レナ・オリンに!ここではすご〜くエレガントにしているけれど、間違いなくあの「蜘蛛女」だっ!その昔、ちょっと仲間内で流行ったかなりどぎついB級映画。このレナ・オリン扮する女マフィアのすごかったこと。警官を手玉にとるほど妖艶で、なおかつ想像を絶する凶暴さ。捕らえられて鎖でつながれても、自分の腕を切り捨ててまで平気で逃げきるあっぱれな根性。お子ちゃま好みの日本の男性にはとうてい受けそうもないけれど、私はこのレナ・オリンとか、女銀行強盗を演じたキム・ベイシンガーなんかカッコよくて大好き!

やさしい嘘

グルジア旅行のあとのグルジア映画。パリに新天地を求めて旅立った息子からの便りを、何よりもの楽しみに暮らすおばあちゃん。そんな息子の突然の訃報。どうしても真実を伝えることができない家族はおばあちゃんに嘘をつき、息子のかわりに手紙を書き続ける。何かを察知したおばあちゃんは、息子に会うためにパリに旅立つ・・・。相手を思うがゆえに娘や孫娘、それにおばあちゃんまでもがそれぞれ嘘をつくというお話。映画のなかでのたびたびの停電の場面。そうそう、あるんですよ。わたしも美術館に行ったとき、ちょうど停電で足止めをくってしまいましたっけ。それから、おばあちゃんが息子の友人に持たせるお土産、長細い棒のようなもの。これはブドウ果汁と小麦粉にくるみを加えて干したお菓子です。あと、おばあちゃんが幸福の木に願掛けに行く場面にも思い出あり。木にお願いごとをしてハンカチを結ぶのです。わたしもティッシュでやってみました。街の風景にも見覚えがあったり、食卓に並ぶお料理も知ってるメニュー。とっても遠いはずのグルジア映画はなつかくやさしい映画でした。

やっぱりチャーミングでなくっちゃ

老醜街道まっしぐらになるか、はたまた、いぶし銀やつやけし真珠の厳かな存在感をはなつのか。この分かれめは、いったいどこにあるのでしょうか?たとえば、節子・クロソフスカさん。彼女は、だんなさんであった画家のバルテュスが亡くなってから急にその生き方に注目が集まっていますが、60をこえていまだ可憐でありながら気品に満ちている、まさにつやけし真珠の女性です。男性だと、エド・ハリスとかクリント・イーストウッドとか。少し前に、C・イーストウッドが監督した「じいちゃん、宇宙へ行く」(正式な題名忘れました。笑)という老男性4人組が夢を叶えて宇宙飛行士になる映画がありました。このおじいちゃんたちが、まためちゃくちゃ色気があってチャーミングだったのですよね。いっぽう、’60年代はじめに活躍したフランスの某男優さんは、かつての超美男ぶりがあだになって、その栄光にすがりついていたせいか、今や変り果てた自分を安売りするような役柄ばかり。さて、今年のアカデミー賞に輝いた「ミリオンダラー・ベイビー」が封切りになりました。C・イーストウッドが、監督としても役者としてもまさに円熟のきわみ。いぶし銀ばりばりです。ほんと、すばらしいお歳の重ね方です。

インパクトたっぷりの2本

若かりし日のクリント イーストウッド、たしかにかっこいいです。でも、ほとんど興味のなかったわたしはつきあいで「ダーティ ハリー」」やもろもろ数本を観ましたっけ。渋好みの友人はたいそうご満悦でしたが、わたしにはさっぱり・・・。あれから数十年、「ミリオンダラー ベイビー」に続く、C イーストウッド自ら監督&主演をこなした作品「グラン・トリノ」。

「ミリオンダラー ベイビー」でイーストウッドおじちゃんのいぶし銀の光沢に多少はクラッときてはいましたが、今回はさらにイイです。偏屈オヤジのおとしまえのつけ方!これが、息をのむほどカッコよすぎ。

この作品を観ると、派手なハリウッド俳優というイメージではなく、ちゃ〜んと人生に真っ向からむきあって丁寧に生きてきたC イーストウッドの目線がにじみ出ています。いいトシのとり方をされてきたんだな〜というのがうかがえる作品。涙壷度は・・・★★★★☆(ガ〜ン!けっこうやられました)

さてさて、がっつりくるもう一本は、今年のアカデミー賞作品賞の「スラムドッグ ミリオネア」。マサラムービーはいつ観ても熱いです。そして、人情、ロマンス、バイオレンスにサスペンス・・・とてんこ盛り。

スラム育ちの無学の青年がなぜクイズショウに挑戦したのか、どうしてすべての問題に正解できたのか、イカサマ疑惑をかけられながらも果たして全問正解でミリオネアになれたのか?それは、見るも涙、語るも涙。はらはらドキドキわくわく・・・と見応え十分。

だいたい過酷なスラム育ちの男の子が、あそこまでま〜っすぐ成長できるものでしょうか?まさに彼はシビアな人生をひたむきに生きながら、全宇宙を味方につけてしまったような・・・。流れにのるって、こういうこと??

そして、「マサラムービー」ときたら、マイケル ジャクソンばりの群舞がお約束。まさかこのストーリーではないよね・・・?と思っていたら、キターッ!やっぱりやっちゃったのね。最後に、みんな踊りまくってます。まあ、最後のこれを観て、インド映画(実際は、イギリス製作)を観にきたんだな〜と実感します(笑)。涙壷度は・・・★★☆☆☆(涙よりも、手に汗にきりました!)

オレサマ流映画鑑賞「セントアンナの奇跡」

予告がはじまった頃、隣の空席にバッグを置くと、ものすごい勢いでオジサンがやってきてそのままドスッと坐った。無惨にもプレスされたわたしのカゴバック・・・(泣)。「ここいいですか?」とか、ひとこと欲しかったんですけど〜。

このオレサマオジサン、最初から印象がよくなかったので上映中もなにかと気になった。突然あくびをしたり、ぼりぼり頭を掻きむしったり、貧乏ゆすりをしたり、うなり声ともいえない声を発したり。退屈してるんだろうか・・・。

そのうち、グググ・・・ゴゴッ・・・。あらら、寝てしまったらしい。

けれど、さすがなのは「woman's breast(女性の胸)」というセリフが聞こえるやいなや、ピピっと反応して目を覚ました。オジサン、英語のリスニングが得意なのか?ラブシーンともなれば、「まったく寝てなんかいませんでした」という感じで、完璧に覚醒しておりました(笑)。なんか、こういうシーンを察知するセンサーでもついとるんやろか?

しかし、そのあとは再び深い眠りにおちてしまったようです。この映画は戦闘シーンがほとんどなので、オジサンのガ〜もグ〜もわたしはほとんど気にならなくなりましたが。

物語がいよいよクライマックスを迎えてこの長い物語のナゾが解けたとき、ぐらり!というかグワッ!と大きく揺れた。うわ〜っ!地震!?ついにきたか!

と思ったら、例のオジサンが身体を前後に揺らして号泣していたのです。あれ〜?グ〜とかガ〜とか、深い眠りじゃなかったの?(すごい変わり身の早さ!汗)

冒頭とラブシーンとクライマックスを堪能して深く感動したオジサンは、エンドロールが流れるやいなやさっさと姿を消しました。うむむ・・・なんというコンパクトな映画鑑賞の仕方。あっぱれ!

ちなみに、この映画はスパイク・リーの「セントアンナの奇跡」。実話をもとにした作品で、NYで郵便局員が起こしたナゾの殺人事件と押収された古美術品、そのナゾをひも解くと第二次世界大戦下のイタリアまでさかのぼるのです。160分ほどの長〜い作品なのですが、激しい戦闘シーンが多く、ほとんどドンパチしています。さすがに、年配の男性が多いです。

わたしはドンパチにはちと疲れましたが、クライマックスのシーンにいよいよ感動しようとしたらオジサンに気を取られ、なんか中途半端・・・。う〜ん、この作品について聞かれたら、たぶんオジサンの奇行しかおぼえてないな〜・・・。

涙壷度:★☆☆☆☆(ホントは、もっと高得点のはずですが、オジサン観察日記に忙しかった)

ジェラルドとオフェーリアの熱い休日

久しぶりに丸一日のお休みで〜す!  \(^ ^)/ 

すでに心に決めていたプランは、ジェラルドとオフェーリアという美男美女に会いに行くこと。ジェラルドは午前中、オフェーリアは午後ということでまとめて面倒みちゃいましょう♪

じつは、最近美術館とか映画のチケットをよくいただくのですが、なかなか時間がつくれずつぎつぎムダにしておりました。なので、きょうはここぞ!とばかりにまとめて使ってしまうわけです。まず、午前中に秋にぴったりのラブストーリー、ジェラルド・バトラー出演の「P.S. アイラヴュー」に酔い、午後は「エヴァレット・ミレイ展」でオフェーリアを堪能。

最近ノッてるジェラルド・バトラー。ジョディ・フォスターと共演した「NIm's Island」の二役もよかったけど、「P.S. アイラヴュー」の彼もロマンティックでステキです。

この話は、ケンカばっかりしているカップルのだんなさんが突然ガンで亡くなります。その後、立ち直れずにすさんでゆくおくさんのホーリーに、亡くなっただんなさんから次々とラブレターが届きはじめるのです。1年かけて送られてくる10通のラブレターに導かれながら、ようやく愛する人の死に直面し再生してゆく物語。

あの微笑んでいるだけでどっしりとした安心感と抱擁力を感じさせるジェラルド・バトラーならではの役どころでした。

さて、午後のオフェーリア。ロンドンのテートギャラリー以来の再会です。

じつは、この時代(ヴィクトリア朝)の絵画がわたしのいちばんのお気に入りです。エヴァレット・ミレイもその一人。こんなにまとめて観られるなんて夢のよう。

すばらしい緻密なタッチにヴィヴィッドな色彩。オフェーリアはやっぱり美しかったです!!そして、ミレーのこどもたち(8人もいたそうです)をモデルにしたお子ちゃまシリーズもすばらしくうるわしい。彼の高い美意識があふれだしています。ちなみに「オフェーリア」は、おくさまのエフィがモデルだそうです。この時代の女性の持つ独特な美しさが堪能できますよ〜♪ああ、幸せ!

ドラマにハマった私、「冬ソナ」?

寝不足ぎみです。そうなんです。ビデオ屋さんの半額クーポンで、この時とばかりに目一杯かりてきて友人と盛り上がってしまいました。それが30年も前のドラマ。時のスーパースター、ジュリーが三億円犯人を妖しい魅力いっぱいに演じています。ワキを固めるメンツがまたおかしい。若いはずなのにぜんぜんオバサンな樹木希林や、どこまでが演技かわからないほどジュリーに色っぽく迫る藤竜也、それから妙にハマってるオカマなヤクザの伊東四朗、それにあんなにダンディーなのにどうしちゃったの?というほどずっこけてるネンネコ姿の細川俊之、そしてどこにどう登場しようとももれなく看護婦さんコスチュームの篠ひろ子。あとは、岸部一徳やら尾崎清彦やら、みんなえらく若くって笑えます。一度も再放送されない今だにファンが多い幻のカルトドラマといわれているけれど、これはちょっと再放送できないでしょ〜(バタバタ死人が出るし、セリフもキワどいです)。スタッフも現在は大御所となっている蒼々たるメンバーで、視聴者を楽しませるよりも完全に自分たちのロマンで作ちゃった感じです。年代ものの雰囲気がまたおもしろい。ああ、ノンストップ17話・・・ぜ〜ぜ〜。この次はもうちょいロマンチックなドラマにハマりましょう。

ヒア アフター

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

津波に襲われて臨死体験をしたフランス人キャスター、あの世と交信できる天賦の才をもつアメリカ人サイキック、事故死した双子の兄ともう一度話しがしたいイギリス人少年 ・・・。

三人それぞれが「死」というものをとおして、違う世界をかいま見たり、つながれたり、心をひかれたりします。しかし、それが彼らをこの世界から「浮いた人」にしてしまい、その結果生きづらくなるのです。

ヒア アフターとは、まさに、ここのあと、あの世を意味しています。

キャスターのマリーは、臨死体験で深い安らぎや光を体験し、それ以降、相手を論破したり攻撃的になる今までの仕事スタイルに興味を失い、人とつながるという違う価値観をもちはじめます。丸くなってしまった結果、担当の番組を降板させられ、信用も失い、恋人ともうまくいかなくなり ・・・。

一方、生まれながらのサイキックであるジョーは、その能力を頼みとする人たちがつぎつぎに集まってくるのですが、私生活ではその能力が災いし、恋人もできずじまい。まさに、彼にとってはその能力こそが呪いと感じられるのです。しまいには、自分で自分が信じられなくなり、希望を失います。

さらに、兄を亡くして一人なった少年マーカスは、アルコール依存症の母のもとを離れ、里子に出された先にもなじめず、兄と再び話しがしたいという気持ちがおさえられなくなり、霊能者を求めて家を出ることに・・・。

苦しみを抱える三人が最後には引きつけられ ・・。それぞれに不思議なかたちで助けがやってきます。

この世界の向こう側を感じてしまった人たちは、たしかにそこに安らぎや希望や言葉にならない自由を見だしたにもかかわらず、それに反して現実社会では生きづらさを感じる、という矛盾が生まれます。

このアリ地獄のような世界の脱出口を見つけてしまうと、まるで脱出をはばむがごとくツライ体験するという ・・・ これこそがアリ地獄の仕組みそのものですよね

たしかに、あざむかれたこの世界のなかで、ホントのことを真っ正面から言っちゃおうものなら、ソク病院行きになりかねません!(ねえ、ホントは誰もここにはいないんですよ!あなたはあなたじゃないんです!なんてね・・・ 笑)いかに、この世界のカラクリがヘンであっても、口を閉ざし、隠れキリシタンのように静かに静かに自分の信じる方向に進まねばならないという・・・(苦笑)。

クリント・イーストウッドはこんなテーマの作品も撮っていたのですね。ラフマニノフの静かな音色のなかで、光をみつけだす三人の姿が印象的です。

 

フリーダ!すごく魅力的

メキシコの女流画家の映画「フリーダ」が上映されています。彼女は17才で交通事故に遭い、その後の人生はギブスに固められ40回にも及ぶ手術や足の切断という過酷な人生の中で自分の苦しみをキャンバスへぶつけて昇華してゆくのですが、ずいぶん前にも「フリーダ・カーロ」といタイトルの同じような映画があって、そちらのほうはかなり悲惨さに溢れておりました。観ているだけでフリーダの苦しみをしょいこんでつらくて仕方がなかったのですが、今回の作品はフリーダがすごく逞しくて輝いていて魅力的です。ちょい役でエドワード・ノートンがでていてハテ?と思ったのですが、フリーダ役のサルマ・ハエックとは私生活でのパートナーなのですね。人生のどの部分に焦点をあてるかによって、同じ人生でもまるっきり違ったものになってしまうものです。

ヘアスプレー

さて、立てつづけにもう一本!
柳原可奈子ちゃんも真っ青なパツパツの女の子、トレイシーが歌い踊りまくるミュージカルムービー。

トレイーはよくぞこの体型でダンスができる!と驚愕するほどのおデブちゃん。本来だったら「ビューティー・コロシアム」で「脂肪吸引して下さ〜い!」と涙を流して嘆願してそうですが、ところがどっこい。からだ全体から人生だいすき!オーラを発散しまくって、ふれあう人誰をも幸せにしてしまうミラクルパワーの持ち主。

だから、憧れの人気番組のダンスショーにはちゃっかり出演できてしまうし、ダンスのアイドル、超イケメンにも熱く想われてカップルになってしまうというラッキーガール。

この幸せオーラの秘密はなにか・・・。結局、その人の魅力って、太っているとか痩せているとか、顔がどうのということはさして関係ないと思うのです。それよりも、「決して自分を恥じず」「まわりをつねに味わい愛で」「人生を楽しみきる」。こんな人は誰が見ても美しく魅力的に見えてしまうのですね。美人の秘訣はじつは、エネルギーなのです。

トレイシーのお母さんもさらにメガ級の迫力体型なのですが、これがなんとジョン・トラボルタ。かつてのフィーバーの貴公子は、かなり妖しい形相になっておりました。けど、そこらのオバサマよりよっぽどチャーミング。これも、やっぱり人生を楽しみ愛でるオーラのなせるわざ。すっきり元気になりたいときに、オススメの映画です。

爆発度&ハッピー度:★★★★★
涙壷度:☆☆☆☆☆

PS 映画の帰りに神南でゴハン。三連休初日なのですね〜。かなりにぎわってレストランも超満員。でも、いつも雑踏をさけているわたしたちには逆にイイ刺激になりました。

ベジャールといえばドンちゃんね!

「ベジャール・バレエ・リュミエール」を観てきました。これはあの独特な振り付けで知られるモーリス・ベジャールが新作を作り上げてゆく6ヶ月もの過程をドキュメントしたもの。天才のインスピレーションはどんな風にやってくるのか、なかなかおもしろいでした。ベジャールといえば、80年代にあのカリスマダンサー、故ジョルジュ・ドンの踊る「ボレロ」で日本でも相当ブレイクしておりましたが。私は映画「愛と哀しみのボレロ」の中で彼の姿を初めてみたのですが、エッフェル塔の前の真っ赤なステージで踊る姿がものすごいインパクトでした。たしか、映画の中で彼はヌレエフをモデルにしたバレエダンサーで、その他グレン・ミラーやらカラヤンらしき人物も登場する第二次世界大戦にまつわるちょっとばかり重たいストーリーだったような。フィナーレのドンの踊るボレロの圧巻といったら!もう一度観たくなっちゃった!

ホントにそういう顔だったんだ〜

マンガ「ベルサイユのばら」にはずいぶんお世話になった。中学時代、フランス革命に関してはテスト勉強をした覚えがないもの。昨日観た映画「マリーアントワネットの首飾り」はアントワネットを断頭台に送る引き金になったといわれる2800カラットものダイヤの首飾りをめぐる事件について。登場人物がことごとくマンガとうりふたつで、あまりにも似てていちいち「おみごとっ!」と喜びたくなった。友人は宝塚とそっくり!と笑っていた。

ムービームービー

忙しくって映画を観るヒマがな〜い!と言いつつ、たまに観れば爆睡 (^^ゞ 最近のお気に入り作品といえば・・・まず「たまゆらの女」。チャン・イーモウ監督との破局以来、ドラマチックな映画にぱったり出演しなくなったコン・リー。この二人は別れてからお互いまったく違う路線をゆくようになったのをみると、パートナーの影響力のスゴさを感じます。まるで大地のような演技をする女優さんだった彼女が新監督と組んで、なんとも繊細でたおやかな美しい女性を演じています。そしてもう一本は、「アダプテーション」。あの「マルコヴィッチの穴」の脚本家が、自分と弟を主役にこの映画の脚本を書いているさなかに起こる出来事いろいろ。観ているうちに、現実なのか物語なのかさっぱりわからなくなりますよ〜。しかしこんな結末でいいの??(観てのお楽しみ)

一部、まんぞく「ラスト・サムライ」

ラスト・サムライ」を観てきました。「Karate Kid」の沖縄とか、「コンタクト」の北海道とか、「これって、いったいどこ?ちがうでしょ〜!」と、かなり笑えちゃう日本の描写が多いハリウッド映画の中で、今回のは日本製サムライムービーを観ているように違和感がありませんでしたね。でも、ちょっとウスイ。太刀まわりのド迫力だけで、人間ドラマがないのです。やっぱりサムライときたら、「桃太郎侍」とか「子連れ狼」(これって侍だった?)とか、人情の世界をコテコテに描いて泣かせてほしいものです。(かなり偏見が入っておりますが)そう考えると、日本の時代劇はワンパターンではあるものの、たった一時間で濃ゆいものがありますね〜。それに、トム・クルーズがこの場合、一人生き残っちゃうのもマズイでしょう。(日本人が制作したらこんな味けないエンディングにはならないかも・・・)なにはともあれ, Ken Watanabeのオーラはすごかった!トムくんを完全に食われてましたね〜。

上映後、みんな拍手でした「ベン・ハー」

渋谷東急文化会館閉館上映で「ベン・ハー」を観ました。コレ、なんと‘59という私が生まれる前の作品。しかし、戦車競争の場面なんて特撮なのかマジなのか(マジだったら人がいっぱい死んでいるハズ(‥;))よくわからないほどリアルで4時間近く画面に釘付。後ろ姿のキリストが息絶え絶えのベン・ハーに水を与えるシーンは、「存在するだけですべてを癒す」とはこういうことか!と、いたく感動。水だけでなく知らぬまに生きる希望まで与えてしまうのです。ベン・ハーが復讐心から解放されたときに、彼を悩ませていた家族の苦しみのすべてが合わせ鏡のようにきれいに癒されてゆくのも象徴的なシーンでした。

不思議な一本「言えない秘密」

音楽学校の一室で、ピアノの音色に導かれ運命的に出会う二人。惹かれあい、恋に落ち・・・しかし、ある日彼女はこつ然と姿を消すのです。なぜなら、「言えない秘密」があったから・・・。

なるほど〜、ラブストーリーにおきまりの「言えない秘密」。おそらくは不治の病やなんとやら・・・。あんのじょう、彼女はたしかに喘息もち。でもそんなこと、このストーリー展開からしたらたいした問題ではありません。

この映画がおもしろいのは、この「言えない秘密」があまりにも想像をこえていたことにもあるのですが、わたしはこの主役のジェイ・チョウという俳優さんに感服いたしました。初めて耳にするお名前でしたが、台湾ではかなりの人気だとか。

映画のなかで学友とピアノバトル(相手が弾いた曲を即興ですべて完璧にひきこなす)を演じるのですが、すごいピアノテクです。これはまったく代役なし。彼そのものの演奏なのです。じつは、この舞台になっている音楽学校は、かつてこのジェイ・チョウが学んだ音楽学校だとか。

もっと驚いたことは、このストーリーでキーになる美しい旋律のピアノ曲があるのですが、これも彼の作曲。さらに、さらに、この主演のみならず、監督、脚本、音楽もすべて彼が手がけているということ。まさに、このジェイ・チョウという青年が表現したかった彼独特の映像と音楽の世界を完璧に創りあげているのでしょう。舌を巻きましたよ〜。

話のテンポもよく、まったく何の予備知識もなく観に行ったにもかかわらずけっこう掘り出しものの一本でした。映画全編に流れる旋律も美しく、映像もあたたかみがあります。中国でもなく、香港でもなく、韓国でもなく、ましてや日本でもない、台湾映画の不思議なレトロさ。どこか、昔に見た風景のようでした。

涙壷度:★★☆☆☆(激しくではないけれど、「秘密」に泣かされました)

世界でいちばん不運で幸せなわたし

ポップでカラフル、おとぎ話のようにファンタジック・・・にもかかわらず、コワ〜イ、容赦ないストーリー展開。シビアです。過酷です。でも、この美しい映像だからこそ救われてるフシも。最後のオチにしても、ハッピーエインドなんだか悲惨なんだか・・・煙にまかれています。タイトルは「世界でいちばん不運で幸せなわたし」(チケット買うとき正しく言えるかな?)。刺激が欲しい方には、おすすめかも。でも、ああコワ。
さて、もう一本は「誰も知らない」。あのカンヌ映画祭で少年が主演男優賞をとった作品です。ポネットにロッタちゃん、クリクリにリアムなど、おこちゃまムービー全盛で、「子供さえ出しときゃ」的風潮に反発を感じておりました。で、この作品も「おんなじようなもんさ!」とタカをくくっていたのですが、ひょんなことから鑑賞のはこびに。カメラがすごく子供の目線によりそっていて、見てるまにその子と一体化してしまいます。「そうそう小さいときって、こんな細かいとこを見てたな〜。アスファルトの割れ目とか、たたみの目とか、手すりとか」そんな目線から巧みに心理描写をしているのですよね。淡々と撮っているところが、より現実味があってよかったです。

大富豪、貴族の生活、覗いてきました

ひさびさのジェイムス・アイヴォリーの彼らしい作品「金色の嘘」。手に汗握るSFにドップリならされた目には、なんとも新鮮、静かな満腹感がある。19世紀の貴族の生活が艶やかで優雅で、衣装の美しさやお城のデコレーション、美術品など贅を尽くしたオーソドックスな映画。J. アイヴォリー作品はたかちゃん的には、アンソニー・ホプキンスが老執事を哀愁たっぷりに演じた「日の名残り」、泣ける父娘愛を描いた「シャンヌのパリ、そしてアメリカ」がお気に入り。

心おきなくバカ笑いできる友人と行きましょう

予告を観たとき、「こんなの観る人いるのぉ」と呆れてしまった。しかし、次の瞬間には「ねぇ、あれ観よぉ!」と友人を誘っていた(笑)「少林サッカー」。少林寺拳法でサッカーをするチームのお話しなんだけど、なワケないでしょ、というぐらいのバカらしさ。ゴールに打ち込む剛速球でキーパーは丸裸とか、W杯でホンモノサッカー観た後だからこそ楽しめる。このハンカチが必要なほどの大笑いは、熱い夏にむかって抵抗力つくこと必至。

心のお洗濯にいかが?

学生時代の第二外国語は中国語。社会人になってはじめて旅をしたのは中国。そんなわけで、昔から中国映画も大好き。妙に共感を覚える。以前は、「いかにもあの西太后さまのお国だわね〜」と妙に納得するオドロオドロなストーリーが多かったが、最近は家族の絆もので泣かされっぱなし。今、上映中の「北京ヴァイオリン」もかなりのおススメ。その他、「山の郵便配達」「初恋のきた道」「この櫂に手をそえて」なんかは思いっきり泣いてハートが暖っかくなりたい時にどうぞ。ご鑑賞には厚手のタオルをご用意くださいまし。

悩殺ヒュー・グラント「ラブソングができるまで」

軽薄男をやらせたら右に出るものがいない最近のヒュー・グラント。「もう、俳優なんて飽き飽き!」と豪語していたわりには、あっさりラブコメディに登場。

80年代に人気を博した男性デュオの「POP」。これがまた、曲調といい歌い方といいコスチュームといい、「ワム」そのもの。いつもシニカルなあのヒュー・グラントがワムって歌って踊っちゃいます。その後、すっかり過去の人となってしまったディオの片割れアレックス(H・グラント)は、どさ回りの日々。クラブで歌ったり、遊園地で歌ったり。でも、その過剰なまでの腰振りダンス(途中でギックリ腰になるし)が、なんともあか抜けずイタイタしくさえあって、かなり笑えます。

そんな落ち目のアレックスが、部屋に植物の水やりにきた女の子とひょんなことからラブソングを作りつつ再生してゆくお話。

見どころといえば、やっぱりH・グラントの腰振りダンス。これにつきます(笑)。彼が劇中で作曲したラブソングは、どこか懐かしくって映画が終わる頃には思わず口ずさんでしまいそう。映画館をあとにしながら、腰振りダンスをしないようご注意を!!
涙壷度(どれだけ泣けるか):☆☆☆☆☆(ゼロ)    笑ってください!

情報があふれてる?知るべきことを知らない私たち

東京フィルメックスで「カンダハール」という作品を観た。女性ジャーナリストがアフガニスタンを旅する様子をイランの監督がロードムービーとしてカメラにおさめたもの。ジャーナリストの女性が女優さんのように美しいのでドキュメンタリーであることを忘れてしまう。ショッキングなのは、画面の向こうから松葉杖をついた男性達が真剣な目つきで中空を見つめながら、すごい勢いで押し寄せてくるシーン。バラシュートにひとつついた義足めがけて地雷で傷ついた人たちがむらがってくる。この作品は、来年2月一般公開もされる。

愛のかたち、いろいろ

暑〜いところに、お熱い映画を二本。

まずは、巨匠リチャード・アッテンボローの「あの日の指輪を待つきみへ」

ある日、ひとつの指輪がはるばる海をわたって老女(シャーリー・マクレーン)のところに届けられます。それは、50年も前に結婚を誓った恋人が戦死した地で見つけられたもの。

ここから、この老女の心の封印がとかれたように、癒されないまま葬られたひとつの恋ともういちど遭遇することになります。しかし、ほんとうは封印なんてされていなかったのです。50年間、彼女はその恋を胸に抱き続けてきたのでした。


そして、もう一本はわたしも好きなコロンビアのノーベル賞作家、ガルシア=マルケス原作の「コレラの時代の愛」。こちらの作品はコレラが流行った時代と、まるで熱病のような恋愛とを重ね合わせています。

一本目に負けていません、こちらの主人公のフロレンティーノは、ナントさきほどの50年を上回り、51年と9ヶ月と4日、愛する人をひたすら待ちつづけるのです。ついに愛する人のだんなさんが亡くなるや、かつての恋人の前に姿をあらわし求愛するフロレンティーノ。結果は、激い拒絶・・・。

人は、「さっさと気持ちを入れかえて新しい恋をさがしたら、51年と9ヶ月と4日はもっと穏やかだったろうに・・・」と言うかもしれません。でも、これが彼の「愛し方」そのものだったのでしょうね。
さて、この半世紀をこえる片思いのゆくえとは・・・。

わたしたちは、なんにしても心のなかでしっかり折りあいをつけないと前進することはできません。1時間で折り合いをつけちゃう人もいれば、50年といのもあり・・・。まさに、人生とは本人の「選択」そのものだな〜と感じます。フロレンティーノにとっての選択は、幸せであるかとか不幸であるか・・・ということをこえて、そこまでコテコテな恋愛の醍醐味を体験することに意義があったのでしょうね。

映画じたいがすでにLost in Translation

「ロスト・イン・トランスレーション」どうだった?と聞かれて、ふぅぅ〜む・・・というリアクションしかできませんでした。東京のイルミネーションや雑多な無国籍感が不思議でいいとか、はじめてやってきた外国人が戸惑う様子がうまく描写されているとか。ほんとにそう?私にしてみれば見慣れすぎてる新宿・渋谷はそのままだし、外国人からみるとこうなんだ〜という目新しい視線も感じられず、たんに寂しい異邦人男女が東京を徘徊している、だから何?という感じです(笑)。外国人の友人に聞いてみたら、やっぱり答えは私と同じ、「ん〜・・・よくわからん」でした。しかし、アカデミーとかゴールデングローブとかいっぱい獲っている作品ですよね。ソフィア・コッポラの前作、「バージン・スーサイズ」は醸し出す空気感が好きな映画でしたが。さてさて、批評家のみなさん、この二作目は何がどうよかったんす??

爆睡シネマシリーズ

この湿度がどよよんと重い季節。体も同様で、映画館で爆睡忘我の境地にはいってしまうこともしばしば・・・、というよりはイマイチな映画は素直に睡眠時間にとってかわってしまうのです(笑)。

その1 噂の「ダヴィンチ・コード」
原作は読まずに、TVや雑誌で特集されたダヴィンチの絵画の様々な謎に惹かれて観た一本。う〜〜ん、まず、キャスティングがどうなんでしょ?ハーヴァード大の教授としてトムハンクス?もうちょいインテリジェンスが感じられるお方のほうが信憑性があったのでは・・・。それに膨大な原作に忠実であろうとすればするほど、もうついていけな〜〜い!とっくに事件が解決できそうな場面が多々あり、わざわざひっぱってる感もいなめません。漫然とストーリーが続く3時間近い映画はシンドイです。ダヴィンチの謎に関するテレビ特番のほうがずっとおもしろかった次第です。

その2 「ナイロビの蜂」
レイチェル・ワイズが今年のアカデミー助演女優賞をとった作品です。妻が殺害された事件を追ううちに、妻の生き方と深い愛にたどりつくというストーリー。夫であるレイフ・ファインズが事件を追う姿と、過去の記憶をオーバーラップさせながらストーリが展開してゆくのですが、観ているはなからどんなことがあったのか読めてしまうので、さらなるエンディングを期待していたら何もなかった・・・という感じでありました。

その3「GOAL!」
メイキシコ生まれの青年サンチャゴが、一流のサッカー選手になってゆく・・・その途中に挫折あり、出会いあり、家族の死あり・・・・の、スポコンもの。ホンモノのジダンやベッカムも登場。しかし、サンチャゴがスカウトされてボールを蹴りはじめるまでがちょっとモタモタ。体調がいまいちだったせいもあり、隣の友人に肘でつつかれて起こされました(苦笑)。でも、パート2、3とあるようで、じつは楽しみにしています♪

*あくまでも、今のわたくしめの体力・気力・好みにあっていなかっただけであって、また違う機会にみたら痛く感動し、涙にむせんでしまうかもしれません。

秋からの新作に期待してます!

友人とも話していたのですが「今年の映画界は不作である」と。「何か映画観た?」とたずねられて、この映画好きの私がつい先週のことさえまったく思い出せない。「えっと、えっと・・・」と頭の引き出しのあちこちを探すこと十数秒。たしか何か観たな〜とさらに考えて、それでも何も出て来なくて、ついには「電車でどこに行ったんだっけ?」とまったく関係ないところから記憶の断片をたぐりよせる感じ。「そうだ!銀座だ!ベルトルッチのドリーマーズ!」。これだったら「先週、誰と会った?」と聞かれたほうがよっぽど簡単。そんななかで、お気に入りが一本が封切りに。「CODE46」。マイケル・ウィンターボトムの作品は、光がほんとに美しい。小説だったらそれは行間を読む、という感じなのかもしれませんが、役者さんの演技プラス、その光、空気感が観ている者の心の中にいろいろな感情を伝えてきます。特に「ひかりのまち」は好き。さて、新作に期待するのはやめてCちゃんにもらったDVD「ニモ」でも楽しみましょうかね〜♪

脱がせちゃダメよ

今年のアカデミー賞の「ビューティフルマインド」。主演のラッセル・クロウは連続受賞できなかった。観てて思った!変わりものの天才数学者、偏屈っぽい感じはよかった。しかし、一枚シャツをはいだら「き、き、きみはまぎれもなくグラディエーター!」その丸太のような二の腕は隠しきれない。精神病院がいきなり古代ローマのコロッセウムに急変しちゃう。学者はライオンとは戦わないぞ。それに、現役大学生にはちとムリがある?

若さのエキスを吸いつづけるアジャーニ嬢

この人の体内時計はいったいどうなっちゃっているのだろうと不思議です。久々の新作「アドルフ」でのイザベル・アジャーニ。若作りだったり無理に努力をしているという風でもなく、ふつ〜にそのまま10年前とまったく変わらないのです。マドンナとかカトリーヌ・ドヌーブ、日本では松坂慶子さんとか由美かおるさんなどなども相当びっくりものですが、それなりの努力とか細工のあとがうかがえるし、同年代とくらべたらかなりイイという程度でしょう。アジャーニの場合は、発するエネルギー自体がういういしいといいましょうか?かなり化物チックです。聞くところによると49才、そのうえ今回競演した20才年下(親子並み!)の俳優さんと熱愛中とか?やっぱり、ルールがないというか制限を超えちゃってるところがタダものではないポイントでしょうか?

飛び出すカールじいさん

久しぶりに3Dの映画を観ました。そう、この眼鏡がミソなのです。予告の途中、「ここからは眼鏡をかけてご覧ください」というテロップが出ると、客席から「おぉっ・・・!」というどよめきが。きれいなのです。映像が以前の3Dよりもずっと美しい!ちょうど、ジョニー・デップ主演の「アリス イン ワンダーランド」の予告で、きゃ〜、ジョニデプが画面から飛び出して目の前にいる〜!たまりまへん。ティム・バートン監督の映画で、それがまた妖しくって楽しそう。これ、来年の4月の封切りですって(わくわく・・・)。

さて、鑑賞しにきたのは「カールじいさんの空飛ぶ家」。

これは、テレビの予告でもおなじみ。「愛する妻が死にました」という老妻を亡くしたおじいちゃんが「妻との約束の旅」に出るお話。それも、家ごと、たくさんの風船をつけて。

じゃじゃ馬の女の子と出会い、ともに成長し、結婚し、子どもをなくしながらも苦楽をわかちあい愛しあってきたカールじいさん夫妻。ふつうだったら、それで一本の映画に仕上がりそうです。でも、ここまでたったの数分、それも予告で全部見せちゃっています。

その後、よぼよぼのカールじいさんはどうしたのか?愛する奥さんとのほのぼのしたくだりからは予想もできない、とんでもない冒険へと突入。なんとかカールじいさんを支えていた歩行器は、いつしかカールじいさんの必殺凶器と化します(ひえ〜、おそろしや・・・汗)。

人はいくつになってもチャレンジと冒険があれば、じつは老いないのかもしれません。「災いといえども、結局はおくりもの」、つねづねそう感じてはいますが、カールじいさんの場合も妻を亡くしたことから人生のまったく新しい次なる章へと突入したのでした。

およそ、あの予告のようなさめざめとした内容ではありません。しかし、ディズニーはなんでも主人公にしたてるのが上手。おじいちゃんもので1時間半もたせるのはスゴイ(笑)。

涙壷度:★★★★☆(この涙は、はじまって直後、つまり予告のところだけです)

PS こう言ってはなんですが、アニメのカールじいさんよりも、実写のジョニデプが飛び出してくるほうが興奮しましたわ(^。^;)。3Dではない劇場もあるようなのでご注意。ちなみに、わたしは六本木ヒルズでした。

魔女修行の物語デス

ふだん読み終わった本は、ほとんど処分してしまいます。手元に残るのは、何度も読み返したいわたしにとっての「よりすぐり」だけ。

梨木香歩さんの「西の魔女が死んだ」は、いつからか本棚の片隅にありました。これは、中学生のマイが、ふとしたことから学校に行かれなくなり、田舎暮らしをするおばあちゃんのところで過ごす一ヶ月の物語。「西の魔女」と呼ばれるおばあちゃんは、魔女修行と称して丁寧に暮らすこと、そしてなんでも自分で決めることをマイに教えてゆくのです。

「がばいばあちゃん」のように「おばあちゃんと孫」って、親子よりも少し力が抜けてて、経験から豊な教育ができるものですね。

映画化された「西の魔女が死んだ」を観ていると、デジャヴ体験。わたしがこの小説で読んだイメージがまったくそのままが映像としてそこにあって、すべてを知っている感覚でした。

残念だったのは、物語のあらすじをサラリサラリとなぞるだけになっていること。いつも寛容で、無条件の愛をふり注ぐおばあちゃんが、いちどだけマイに激しく怒ってしまう場面があるのです。映画の中ではその理由についての描写はほとんどなかったのですよね。

おばあちゃん役のサチ・パーカーは、あのシャーリー・マクレーンの娘さん。もともとは、シャーリーにまわってきた役だったとか。サチさんは、たしかまだ四十代。幼い日々を日本で過ごした彼女は、なんの違和感もなくステキなおばあちゃんになっていました。

ふざけて友人たちに「東の魔女」と呼ばれているわたしは、ふと夜中にクッキーを焼く性癖があるのですが、この「西の魔女」も夜中にふとクッキーを焼いておりましたよ♪

小説を読んでいないとわりと淡白に感じる映画かもしれません。でもエンドロールでは、すすり泣きがあちこちから聞こえてきました。

「何気ない日常をていねいに生きることこそが、魔法をもたらしてくれる」・・・そんなことを教えてくれるハートがあたたかくなる一本でした。

涙壷度:★★★☆☆ (ハンカチ必携!)

10分の人生も眠気にはかなわない

ごぶさただと中毒症状が出るんですよね〜。映画好きの私としては。で、時間がないにもかかわらず、とりあえず一本。でも、お疲れのときの長編シリアスものは深い眠り確実。これならよさそう!と選択したのが「10ミニッツオールダー 人生のメビウス」。これは7人の監督さんが10分の人生を描いたショートフィルムコンビネーション。10分ごとに違う刺激がきたら寝ることもできないでしょう。(まったく、ここまでして観なくちゃならないの?)しかし、大きな間違い。はじめの三作品はまるでサイレントもののように静かで、もちろんぐっすりお休み。でも、お気に入りのジム・ジャームッシュやヴィム・ヴェンダースあたりには突然覚醒。ちゃんと見逃さないのです。私のセンサーはやっぱり好きなものにしか反応しないようです。

15年したらまた再会いたしましょう

ビデオをうちで観ることはほとんどない私だが、もう一度観たい映画は数本ある。15,6年前の「ソフィーの選択」もそのひとつ。メリル・ストリープの哀しげな表情が青白い月明かりに浮かびあがって美しかった。TSUTAYAに勤める友人の恩恵で、今朝そのビデオがポストに投げ込まれていた。M・ストリープのポーランド語なまりの英語に感心したり、登場人物の精神分析をしたり。以前と見る視点がまるで違って、まったく新しい一本をみるよう。

80s の夕べ「愛と青春の旅立ち」

東急文化会館閉館上映でおもわず手が出たもう一本は、「愛と青春の旅立ち」。これは、`81にリアルタイムで観ているので、その時の自分の目線と今の自分の目線の違いにちょっと笑えます。隣の友人は今回はじめて観て、「たかちゃんは青春まっただ中で、きっとこんな気持ちで観たのだろう」と推測して笑っておりましたが。ハイ、そうなんです。こんな王子さまをまっていた頃もありました・・・(^_^;)タラ〜。ちょっとびっくりなのは、主演のリチャード・ギアのマッチョでギラギラなこと。彼はお年を召されるほどに美しくなってゆく方で、「プリティ・ウーマン」以降の白髪のギアさまの方がよっぽどステキ。