13-04-07 「べき」が大好き!わたしたち その2

(その1より)

なぜに、こうもわたしたちは自分の「べき」ルールに人を従わせたいと思うのでしょうか?「自分のルールの通りにして、あたりまえなのだ」という感さえあります。

それは、「わたしたちがコワガリだから」。

正確にいえば、「わたしたち」というよりは、「わたしたちの中のエゴ」がコワガリだから。(わたしたちの中には、エゴの自分とホンモノの自分の二人の自分がいます。意地悪になったり、自分のことしか考えていないときは、エゴの自分。まったく怖れがなく穏やかで愛がいっぱいのときには、ホンモノの自分。たいていはエゴの自分が優勢で、完全に乗っとられていますが・・・。)

エゴの自分は「この世はコワイところだ」「やるか、やられるかだ」と思っているからいつも怯えていて、そのため予測不能なことや自分でコントロールできないことが大嫌い。脅威なのです。だから、ちゃんとはじめから支配権を握っていたい。自分のルール、「○○するべき」をさっさと押しつけて、やられる前にやっちゃえ!というわけです。

でも実際に、手綱を握れるのは自分の現実だけ。人さまの世界まではコントロールできません。できないものをできると思ってしまっているところに苦しみが生まれちゃうわけです。

また、「人は好きなように振るまう権利がある」という基本的なことがスッポリ抜けているため、「べき」ルールを押しつけちゃうということもあります。つまり、自分の「ふつう」は、他人の「ふつう」だと信じちゃっているのです。そこには「自分はいつだって正しいのだ」という思いこみがあります。(これは劣等感の裏返し。自分で自分を信じていたら、あえて「正しさ」を主張する必要はありません。)

まあ、こんな様々な理由があって自分のルールを押しつけているわけですが、「こうであるべき」という言葉のもとに、コントロールできないものを懸命にコントロールしようとすることは、それはそれは疲れます。イライラします。・・・いくら頑張ってもコントロールできないからね。

だから、さっさと降参したほうがいいのです。消耗しないために。

サル山で日がな一日、毛づくろいにほうけているサルに「きみたちはもっと勤勉にするべきだ!」と言っても、できないものはできないし。飼ってるイヌやネコに「食べたら食器を洗うべきだ!」と力説しても、できないものはできないのです。

今、「できていない」ものは「できない」んだから。(将来のいつかの時点で、できるようになることはあるかもしれませんが。)

それを「できるはずなんだ」と信じきり、「わたしが言ったとおりにするんだ!降参しろ!ほら、やってみろ!」と地団駄ふんで指図してもしょせん、「できない」現実をつきつけられ、苦しみや葛藤が生まれちゃうわけです。

ジョン・レノンが歌っていました。「Let it be, let it be.  Let it be, let it be.  Whisper words of wisdom  Let it be」・・・物事を変えようとしないで、あるがままにしておこうよ。そのまま、そのまま、あるがまま、この智恵ある言葉をつぶやいてごらん・・・と。

できないものはできてない、ただそれを受け入れましょう。それが真実の姿なのですね。

「そうか〜、今目の前にあることが唯一の現実だ、変えようとするのはやめよう」と思うと、なんかグッと肩の荷が降りるかんじです。「そっか〜、この人はたんにできないんだ・・・。わたしは何を戦っていたんだろ〜?」って。

そしておもしろいもので、現実の「あるがまま」を受けいれてあげると、不思議と現実が自分にやさしく寄りそってきてくれるのを感じるんですよね。

これが戦わずして勝利をおさめる極意?「手放す」と「やってくる」ってことでしょうか?

セラピーでも、失恋相手や離婚したパートナーへの執着やコントロールを手放すと、一気に相手の方からよりを戻すような動きが起るのはおもしろいものです。

自然界は「コントロール」を嫌うのですね。コントロールを手放して、そのまま、そのまま、あるがままにしておくと、いちばんいいことが起るし、気持ちよくすべてと共棲ができる。

でもね、わかってはいても、いちばんこだわっていることに対しての「あるがまま」が本当にお腹に落ちるのには、5年や10年、かかってしまうこともあります。それだけ、「あるがまま」って、かんたんなようでいて、難しい。

「あるがまま」に抵抗しないって、ある意味じゃ弱さのようにも感じてしまいます。

でも、自分の新しいスタンスとして「すべてをそのまま、あるがままで受けいれる」という考えを取りいれてみると、また違った世界や流れが展開されてくるのかもしれません。

 

(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/心理療法家・ヒプノセラピスト)