15-01-22 ついついイラっとくるわたしたち、あのナッツ姫も

先日、ネットでレストランを予約したときのこと。

待てどくらせど返事がこない ・・・。なので、もう一度メールをしてみた。 ・・・が返信なし。 ・・・しょうがなしなし、お店に電話をかけてみると、あっけらかんとした様子で「ああ、メール、見てませんでした!」と (おいっ!メールでご予約ください、って書いてあるじゃありませんかっ)。

まったく反省の色がないと、こちらもイラっとくる。こごとのひとつも言いたくなった。・・・けど、わたしがしたいのはこの人を教育しなおすことではなくって、「ただ、予約がとれるかとれないかを知ること」だったのだ!と思い直し、怒りをひっこめたのでした。

このところ世間を騒がせた、あの「ナッツリラーン騒動」だってそう。ナッツを袋のままじゃダメなんじゃないの?、が彼女が確認したかったであろうことであって、あの「怒り」はほんとうはまったく必要ないのですよね。(でも、彼女の場合は本当はナッツが問題じゃないのです。怒りたかった!)

ことほどさように、わたしたちはまったくもって「自分の権利だ!」とばかりに怒りをふりかざすことが大好きなようです。

相手が間違っていると気づいたら、ここそとばかりに「怒り」で攻めこむ。「ここで怒って当然でしょ!」と。

・・・でも、ほんとうはただ「それ、間違ってますよ」と静かに教えてあげるだけで十分で、わざわざ「怒り」のトッピングはいらないような。

ただ教えてあげればすむことに、なんでこんなにももれなく「怒り」がドッキングされてしまうのでしょう?

それはさっきもナッツ姫のところで書いたように、わたしたちがじつは「怒りたい」から。

メールを見忘れたレストランの店員も、ナッツを袋のまま出してしまったCAも、ほんとうは相手の「怒り」の原因などではないのです。

じゃあ、なにがその「怒り」の原因なんでしょ?

じつは、原因なんてなくって、わたしたちはたんに口実がほしいだけなのです。「怒り狂う」ための。

なんと、そこまでわたしたちは無意識のうちに怒りをためこんでいるし(怒りというよりも、自分の無力感にうんざりしていて本当は当たり散らしたい気持ちでいっぱいなのです)、また自分のある部分では「自分のことを絶対幸せにするものか!」と企んで人生をメチャクチャにしようとしています。

なぜなら、自分にとってすべてが一人称のこの世の中では、攻撃的になればなるほどその結果として自分を攻撃するする人をつくりだすし、また自分の発した攻撃性が人生の行く手に多くの山や谷をつくりだし、自分の歩む道を険しくします。これこそが、自分の幸せをぜったい認めないエゴの策略なのです。

むやみに人にイライラしたり、攻撃的になることが、どれだけ自分の人生にとって運を悪くしたり問題を勃発させることになるかわかっていたら、世の中もうちょっと平和で穏やかになるかもしれません。

世間をゴミ箱あつかいにして自分の「怒り」をなげすてても、結局はご丁寧に自分にもどってくるのでした。(ハイ!「与えるものは、受けとるもの」・・・)

どこかこころの中でわたしたちは、「この場面では怒ってあたりまえでしょ!」という常識のように考えている怒りのガイドラインがあるように感じますが(たとえば、レストランで待たされたら怒ってあたりまえ、店員が不手際だったら怒ってあたりまえ)、けれど自分に戻ってくることを考えたら「あたりまえ」の怒りなどないのですね。

まだまだ日常で、自動的にイライラしている自分を見つけてハッとします。身に染みついた習慣は、かなり意識的にならないとなかなか改善できませんよね〜(汗)。

でも、自分のイライラを世間にまき散らすのをやめるだけでも、じつは自分の人生の流れってずいぶんと穏やかに変わるものなのです。自分の人生に平和をもたらすために、自分のこころのイライラ、ムカっをちょっと気にしてみるのをおススメします!

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ヒプノセラピスト・心理カウンセラー