15-10-13 わたしたちはバラバラ好き

こどもはなんでもバラバラにするのが大好き♡

好き放題にバラバラにできるから、ブロック遊びがお気に入りなのですね。

ブロックにとどまらず、男の子だったら懐中電灯や置き時計にはじまり、はてはラジオまでも、手あたりしだいにバラバラにしてきたはず。女の子だって、ティッシュボックスのティッシュをつぎつぎひっぱりだしてバラバラにしたり、ひもの通ったビースをバラバラにしてみたり、いろいろなバラバラ体験があることでしょう。

そのままで完璧だったものをバラバラにする。すると、それらはひとつでは意味のわからないピースになる ・・・ 。

バラバラにしてしまうと、意味が失われます。つまらなくなります。ブロックは全体が組み上がることで楽しいけれど、たった一個もっていてもあそべない。機械だって、部品一個を手にとってみても意味がわかりません。これ、いったいど〜するの? っていう感じです。

それでも「バラバラにしたい」という不思議な欲求は、じつはおとなになった今でもわたしたちのなかで健在なのです。そしてそのことによって、いろいろなことの「ほんとうの意味」が失われるということが起っています。

たとえば ・・・日常のなかで人のふとした言動をまのあたりにして、「あ〜、この人ってこういう人なんだ。(はいはい、もうわかりましたよ)」とすべてがわかった気になっているとき ・・・(その人には、ほかの膨大な部分があるのですが)。あるいは、日常のひとこまに起きた出来事にたいして、「きっと、これってこういう意味だわ(わかった、わかった、そうなのよ)」 ・・・とわかっちゃった気分の自分になっているとき(それも、大きな流れのなかのほんの一点にすぎません)。

これらはまぎれもなく、バラバラにしている作業なのです。一瞬でものごとを価値判断することによって、完璧だった全体の意味から一部だけをきりはなして、ほんとうはわけがわからなくしているという。

そのとき、ものごとや人のなかにすでに保たれている完全性は無視されています。ただ自分の注意がひかれたある一部だけが大切に扱われてピックアップされ、意味づけがなされ、答えが与えられます。

自分がたまたま手にとった小さな意味のわからないピースだけを見て、「はい、この意味はわかりました」と理解した気になっているけれども、じつはぜんぜん意味などなしていないのです。それは意味などないピースだから。ピースのままでは意味がない。全体があってこそ、はじめてそこに意味が生まれるのです。

だから、わたしたちは「わかった!わかった!」と言ってしまうとき、それは全体の意味は無視して、一部の意味のないものだけによって無理やり意味を決めてしまった、ということになります。

これはおそらく、無意識のうちに「わたしたちは目にしたものにすばやく反応し、意味を理解しなければバカな子だと思われるに違いない」という怖れがあるから。小学生のころ、教室で先生が問いをなげかけたら、間髪をいれずに反応しなければならなかったし、そこにはいつもちゃんとした答えがあってあたりまえだと教わったから。すばやく答えをさがしに行くことになれているのです。

だからわたしたちは「これってなんだ?」と疑問に思うやいなや、ほんとうはわかってなどいないのに「ああ、知ってる知ってる!」と答えをねつ造し、わかった気になってしまうクセがついているようです。目にしたらとりあえず答えをでっちあげるというルール。

でも、わたしたちの「こころ」にはとてつもない力があります。

その真実などではないでっちあげを答えとして受けいれると、結局は自分が不自由になります。自分で言い放った言葉は、自分にとって真実であり、自分にとっての規則になります。自分はそこから出ていくことができなくなっちゃう。自分の言葉が自分の足かせになってしまうのです。

自分の放つ言葉はいつも一人称的であり、自分にとっていいきかせるもの、自分にとっての呪文のようなものです。自分がてきとうに言い放ったことによって、自分が制限されてしまう不都合が起るのです。

自分にとってのおなじみの意味を与えるということは、自分のおなじみの世界に入っていきます。おなじみの景色が見え、おなじみのパターンがくりかえされ、おなじみの結末がやってくる、そして同じようにがっかりする・・・というかわりばえのしない世界。

つまり、価値判断するということは、宇宙が決めたはかりしれない完璧な意味と全体性は無視しておいて、意味をなさない一点だけをきりとってバラバラにし、「これこそが真実である」と主張し、その真実とはいえない規則を自分の人生の絶対的なルールとして受けいれてしまうこと。これではうまくいかないのは当たりまえです。

自分のでっちあげた意味に人生を左右されないために ・・・見たものをただ観察するだけにとどめること。なにも価値判断しないこと。それにたいして黙っていること。あーだ、こーだと意味をくっつけたり、解釈しないこと。

でもわたしたちは、どうしても意味を知りたい存在です。意味こそ、生きる目的であると。だったら・・・

自分で答えないで、ほんとうの自分ともいえる自分の高い意識(ハイヤーセルフ)に意味のお答えのパートは担当していただきましょう。

「これはいったいなんでしょうか? どんな意味があるのでしょうか? わたしにはわかりません。教えてください」とお願いして、パーツの意味を理解することをあきらめて、全体のもつ完璧性をあらわす意味を教えてもらいます。

完璧性をあらわす意味とは ・・・まさに自分にとっての完璧なる幸せ。わたしたちにとって、「完璧なる幸せ」なんて見たことも、経験したこともないからわからない範疇のことですが、それは自分の価値判断というものの外に出ないと完璧性は見えてこないということです。自分の考えに頼っている限りは、完璧のなかのほんのちっちゃな一点だけを凝視することになってしまいます。

わたしたちが即座に自分で意味を与えてしまうのは、意味がわからないで放っておくほどコワいことはないと思っているから。暗闇のなかで光を見失った気分になるのです。でも、急いで意味を与えたい衝動こそ押さえて、じっとがまん!! つねづね自分が与えている意味が間違っていて、それこそが自分を制限していることを認識すれば、意味を与えることを踏みとどまるのも難しくありません。

オモチャの小さなピースにこだわっていては、全体の働きや目的はいつまでもわからないのです。

自分の習慣的な判断には一歩ふみとどまって、「尋ねる」という習慣をつけること。ほんとうの自分にいつもおうかがいをたてるクセをつけること。

意味をなさない小さなピースで遊ぶのになれていたけれど、完璧に完成した意味のある楽しいおもちゃを知りたい、見たい、体験したいとこころに決めて、一歩自分がひきさがって教えてもらうこと。そうすると、自分が知らない展開や違った感じ方、新しい世界を見せてもらえるようになるのだと思います。

「おっと、まてよ!」 ・・・「これについてはわからない」 ・・・「教えてください」 ・・・そして「じっと待つ」 ・・・これを習慣にしましょう♪ 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子ヒプノセラピーカウンセリング )