15-11-07 問題はもう一人の自分からの挑戦状

なにか問題が起ったとき私たちは、「いったい、自分のなにがいけなかったのか?」「自分のなにが足りなかったのか?」と、自分の間違いさがしをはじめます。

たとえば彼氏(彼女)とひどくケンカしたとき、「あの私のひとことがいけなかったのかも」とか、「いや、あのとき私がああしなければよかったのかも」と。そう考えれば考えるほどこの次会うときに、そのままの自分でいられなくなり萎縮してしまいます。

あるいは病気になってしまったとき。「お肉ばっかり食べていたのがいけなかったのかも」「もっと早く食習慣を変えてさえいれば」「いや、私のくよくよグセのせい?」」と、手あたりしだい自分の過去を責めて否定する方向にいってしまいます。

でも問題のほんとうの原因って、じつは自分が思っているようなところにはないものです。それに、そもそも行動が原因になっていることはありません。すべてはこころの問題。セラピーをしていると本当によくわかりますが、問題の根本はご本人にも思いもよらないような、ふとした思い込みにあったりするのです。

過去の自分のあれこれを批判することは、いたずらに自分に対する罪悪感と無価値感をふやしてしまうことになりかねません。

それに、人生に問題はつきもの!そのたびごとに自分を責めてしまうとさらに自分を小さくする悪循環にはまってしまいます。

じつは、それこそが問題が起きている最大の目的でもあるのですが・・・。

私たちのなかには、自分をくじこうとするイジワルなもう一人の自分がいます。いつも「どうせできっこないよ!」とか「そんなことしたってムダ!」「どうせそんな自分さ」とささやきかけるその存在です!

そのイジワルな自分が問題を作りだしては、その問題を使って無力な価値のないダメな私として自信をなくさせようとしかけてくるのです。いったい自分の「何が足りなくて」「何がダメで」「何が間違っちゃって」・・・というダメだらけの自分の信念をより強固にゆるぎないものにするために。

自信をくじき、罪悪感を深めることこそ、問題の目的なのですね。

だから、「いつだってうまくできずに問題を作っちゃう不十分な私」という自責の念は、まさにイジワルな自分のおもうツボ。

いずれにしもイジワルな自分はたえず問題をふっかけてくるし、それはドラマチックになるようにしくまれています。

そうとなれば、問題が目のまえにやってきたら、そのワナにはまらないためにサッと意識を変えることこそが必要になります。

イジワルな自分からの挑戦状には、まっこうから勝負しようとしてもラチがあかないのです。問題の原因はやすやすと見つからないようにできています。

原因探しでいたずらに自分を責めることはやめて、問題を光の下にもっていって「贈りもの」に変えてしまうことが大切。それは、たった今起きていることが、どんなふうに自分の最高の幸せの役に立ってくれるのか?そのために、これをどう生かしたらいいのか? ・・・その方向に意識を向けて、それを見せてほしいと高い意識にお願いします。

たとえば、料理人さんが今夜の食材としてレンコン一本を渡されたとします。「えっ?こんなものじゃおいしいものはなにも作れない。どうしてこんなもの買ってくるんだ?指示の仕方が間違っていたのか?」えんえんと、なぜここにレンコンがあるのかに不満を言ってもラチがあきません。

問題を贈りものに変えるとは、「なるほど〜。レンコン買ってきちゃったのね。レンコンの新しいレシピを作るいい機会だわ。じゃあ、今までにないとびっきりのびっくりするようなメニューを作って、こんなレンコン食べたことないと言わせてみましょう!手持ちのどの食材といちばん合うかな?」とくるりと方向を変えることもできます。

よりよく生きること、幸せに生きることって、目のまえで起きた問題を大騒ぎすることでも、あれこれ分析することでもなく、それをすぐに材料に変えて「最善」のなにかに仕立てる、ギフトに変えてしまう、というチャレンジ。

それによって、ラッキーな人になるのか、あるいは悲惨な被害者になるのか。それは、神さまが決めることではなく、自分が選択することなのですね。

じつは、こんなことを感じて考えたのも、数日まえに会った友人のおかげ。

彼女はふつうに言えば、にっちもさっちもいかない、いかなる迂回路も逃げ道もないように見えるガケっぷちに立たされちゃった人。

まさにガケのギリギリに立っているように見えはするけれど、彼女はすでにこれをしっかりと贈りものに変えてしまっていたのです。つまり、ガケっぷちにいる彼女の背中にはたくましい羽が生えていたのです。

そんな彼女は、いろいろないらないものそぎ落として、とっても透明でピュアでシンプルで、ほんとうのことだけを見据えているようなすがすがしさと軽やかさがありました。

そして、日に日に強まっていく愛と感謝を味方に、たくさんのミラクルを見はじめている。まさに、「なんで?」「どうして?」というのをとおりこして、その状況に光をあてて、贈りものに変えて、そしてわたしにもその光を照らしかえしてくれているのです。

問題のおもうツボでボコボコな被害者になるのか、それともそれを確かに贈りものであると認識して本当に極上の贈りものに変えてしまうのか。

「今がすごく幸せ。すべてが感謝だ」と言う友人は、まさに、究極のカケっぷちに魔法をかけて、光を放っているのを感じましたよ。

そんな生き方をするのに、わざわざガケっぷちは必要ありませんが、あらためてどんな問題も、ひとつひとつ輝きに変えてゆくことがわたしたちにとって生きるということで、その魔法は望むことで手に入れることができるのだな〜とこの友人を見ていて、強く感じたのでした。

こんなひとつひとつの出会いによって、わたしは今まで『いつだってミラクルは起る!』ということを身をもって教えられてきたし、もはや疑いようのないものになっているのですが、またひとつそれを見せてもらっています。Dちゃんに感謝です♡

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子ヒプノセラピーカウンセリング