16-05-24 じつは、誰もがキケンな山登り人生が好き

今開催中のブータン展を紹介する番組のなかで、ブータンの寺院に立ちならぶ大きな柱がうつしだされ、それを一生懸命ぐるぐるまわすたくさんの人たちが。

この柱、マニ車というものらしく、一回まわすとお経を一巻となえたご利益があるとか。だから、グルングルンすればするほど極楽浄土は近い! ということに。でも、そうかんたんに極楽ご到着の様子はうかがえません。

マニ車をまわすスピードにもまして、エゴが問題をつくりだすスピードもアップしているようです。

マニ車を一回まわせば 、エゴは負けじとばかりにさらなる問題を繰りだすわけです(倍返し?もっとか! 笑)。マニ車がなくっても同じこと。私たちのエゴはいつも、こっそりとバレないように狡猾に、でも決してとぎれることなく問題をつくりつづけます。

なぜ?!  幸せになりたいんじゃ?

わたしたちは幸せになりたいけど、エゴは違うのです。

エゴはヒマになったら困っちゃう。エゴはヒマが大嫌い。そして、安らかさがさらに嫌いです。だから、エゴにとって幸せは NG。

実際わたしたちは「働くのがいやだ〜!会社なんて行きたくない」といいつつも、「もう来なくていいですよ」といわれようものならとたんにブルーになります。「ヒマな人生はいやだ!」「することがないのは地獄だ」とうろたえます。

なんたって、ヒマであることがいちばんコワイ。ヒマになったらエゴは生きていられないから!・・・ そう、安らぎとエゴは、ともに生きられないのです。安らいだらエゴは消えちゃう。苦しみのなかでしか、いきいきと自己主張できないのです。だから、苦しみは大好物、攻撃やめらんない、戦い血が騒ぐ! いつだって戦々恐々としてる必要があるのです。

「いかに苦しみをつくりだすか!それも途切れることなく」、それがエゴの死活問題であり、存在の目的でもあるのです。

だから、お花畑で昼寝をするような人生はもってのほか。

わたしたちは、エゴの生存を保証するために、無意識のうちに苦しみと戦いを求めて生きています。

エゴは、滑落するか遭難するかのような険しい山を征服する人生がお好みです。だから、わざわざ困難をこしらえておいて、危険でドキドキする感じや、征服したときの達成感を感じて、これぞ「生きている」という証なんだぞ〜といい聞かせます。「野原でまどろんでいるなんて、屍同然!イキイキするためには、もっと苦しめ、危険を冒せ。それが人生だ」と。

攻略できないかと思うほど険しい山をわざとつくりだしては、ほとんど死にそうになりながらも征服しようとして、「ああ、でも生きてる。これが生きてるってことだ」といいきかせます。

これじゃあ問題がなくなることはありません。エゴの価値観に耳を傾けtいる限り、日々エヴェレスト登山です。そのうちに、あっというまに人生 The End になっちゃいます。

ほんとうに何度も命を落としそうなほどボロボロになって、「こんなのイヤだ! これはなんか違うぞ」って思うまで、危険な山登りはやめられないのかもしれません。

ほんとうの幸せってどうやら、刺激でも興奮でも、バクバクしたり、ドキドキしたりすることではないような。

たとえば、広々とした大自然のなかで、その景色をながめているうちに景色と自分が一体化しちゃったときのような。まさに自分がすべてに溶けこんでなくなってしまったようなとき、言葉にできない解放感、自由さ、安らかさ、幸福感を感じたことがありました。「自分」はもうそこにはいないのです。・・・じつは、これこそがエゴはゆるせない状況。エゴが抹殺されているのです。

エゴがいなくなったときのこの解放感は、苦しい山登りの達成感とはまったく別もの。それは、自分のワクがなくなる快感と安心感、全部である感覚。

この解放感は、じつは自分の内側にもちゃんとあります。わざわざ自然のなかにお出かけしなくても。

それは、止まって、静かにして、内側に向かうこと。野原でくつろいでいるようなときにこそ、やってくるもの。エゴが生きている証だといいはる、刺激や興奮、攻撃性がおさまったところにしかやってこないもの。

止まって、静かに自分の内側に意識を向けると、じつは広大な自然よりももっと大きく解放された無限の空間があります。そして、そこに静かに溶けこんで、ひとつになること、とどまることは、あの自然とひとつになる感じとまったく同じ。

そのむかしご多分にもれず、「ドキドキ、バクバクこそが生きてる証だ」と信じて疑わなかったわたしは、イキイキ人生を生きるためにありとあらゆるドキドキバクバクを世界中に求めて経験しようとしていました。やれどやれど ・・・「あれ? いつになっても自分が望んでいるような幸せ感はえられないなあ」と気づいたのは、ほとんどやり尽くしたようなとき。ある意味、「もう、飽きた」と感じたのです。

だからわたしの場合は、引き出しのすべてを片っぱしからすべてあけてみて、「ぜんぜんここじゃなかった!」とようやく気づいたしだいです(汗)。

きっとみんないつかは自分に戻ってくることになります。

それは世界の最高峰の危険な山々を登りつくしたあとかもしれないし、あるいはなんかの拍子にエゴの問題大量生産の策略に気づいてしまったのかもしれません。いずれにしても、危険な山登りにあきあきして、外にはなにもないのでは?と思ったときこそ、内側の大きな宇宙を探求するときです。

でもね、「そうだ方向転換だ!内側だ!」と思いついても、最初のうちは内側に向かおうとすると怖れに直面することになるかもしれません。それは、自分でためこんできたジャンク(ゴミの山)にまずは突きあたることになるからです。ジャンクとは、自分が「ないこと」にして感じずに抑圧してきた感情の山のこと。まずはこのお掃除が必要なのです。ほんとうの自分に到達しようとするときには(これがあるからこそ、ひとは内に向かうことをしたくなくなるのです。)

自分の内側に向かおうとするときに直面する空虚感、落ちつかない感じ、嫌悪、孤独、怖さ、とにかくイヤな感じ、を地道にとりのぞいていきます。それをただ「感じる」ことによって終わりにさせてあげること。

ゴミの山にひるむことなくちゃんと向きあうことで、じつはそこにずっとあった、隠されていた大切な宝ものにつながることができます。それは、ほんとうの自分の安らぎ。エゴがいちばん怖れていたものです。

それを見つけたら、もうエゴの陰謀である危険な冒険には興味がなくなっちゃいます。自分を満たすものが刺激や興奮ではなくなってしまい、ただゆるぎない安心感がいちがん大切なものとなるのです。

わたしはクライエントさんとの最初のセッションのときに、「すべては自分の内側にあって、その輝きとつながることこそが大切なこと。だからこころのコミ出しを頑張りましょう!」とお話しします。

エゴからの危険な冒険のお誘いよりも、自分のこころのなかにあるさまざまな落ち着かない感じにひとつひとつ地道に向きあって、ちゃんと感じて消し去ってあげることが、わたしたちにとってマニ車をまわすこと、幸せへの道なのです。

こころのなかのゴミがなくなると、エゴが脅威をおぼえていたヒマとかくつろぎ、静けさが、自分にとってのほんとうの幸せになるようです。

 

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