17-09-19 「死ねば?」が一転、「死にたい」 ・・・死は解決策?

「死ねば? おまえなんか、生きてる価値ないだろ?」 ・・・ 耳タコなぐらい聞きましたよね。あの議員さんの録音された暴言。そして一転、今度は「こんなことになって、(私は)死んでしまいたい」と。

そうね・・・ 無意識のうちに自分自身を憎んでいて、「自らを殺してしまいたい」と思っている人のみが、実際、人に対して「死ねば?(死んでしまえ)」と言ってしまうものです。たとえそれが人に向けられたとしても、言葉はいつも自分に対して発せられるものだから。

「殺してしまいたい」ほど価値がない自分だからこそ、死ぬほど頑張って、努力して、なんとか外から評価をえて、価値を見出そうとしたところ ・・・ みごとその計画が頓挫してしまったわけです。そうなれば、もちろん「死んでしまいたく」なるわけです。

そう ・・・不自然な努力というのは、きまって自分に対する価値の低さが動機となっています。そのむかし、妙に頑張り屋さんだった自分がいるので、わかるなあという感じ・・・(^^;; 。だから、なんとしても自己価値を取り戻すためには、あの方にとっては再出馬は必然なのでしょう。

おっと ・・・ 本日はそのようなことを書くつもりではありませんでした。 ・・・「死にたい」という言葉そのもののほうでした。

ひどく追いつめられているとき、あるいは苦しくって八方ふさがりなとき、私たちはふと「死にたい」という言葉を口にすることがあります。実行したいかには関係なく。

その場合、「死ぬ」 = 「楽になる」「リセットされる」「逃げられる」というイメージ。だから、「死にたい」 = もうラクにしてくれ〜!! ということ。

宗教的な教えや臨死体験の話しなどから、「死んだら」光のトンネルをとおってすばらしいところへ行き、すべてから解放されるとか、お花畑や懐かしい人々との再会、癒し、喜び、至福、などなど。

つまり、「死ぬ」 = 天国、極楽浄土、涅槃、解放、光、自由、癒し、という限りなくハッピーな図式になっているわけです。

でも夢をこわすようですが、残念ながらそんなことはありません。あ、もちろんそのような素晴らしい体験を「そのとき」はするかもしれませんが、「そのとき」限定でそれだけではない、ということです。それに、死後の体験はこの世と同様、その人の信じていることをまるまる反映しているので、三途の川も、天使のお迎えも、お好みのままに♪ という感じです。

このような「死ぬこと」の美化ということこそ、エゴのたくらみではないかと感じてしまいます。

苦しみというものの正体を見きわめることなく、美化された「死」というものに逃げるこむことで、心はせっかくもたらされた癒しの機会を逸っしてしまうのです。

そして、終わることのない永遠に苦しいこの世というものへ、輪廻をくりかえすことになります(そんなに苦しくはありませんが ・・・ という方は、さまざまなモルヒネ剤 〜お酒、ギャンブル、娯楽、恋愛、忙しさ、仕事、問題、抑圧 ・・・ 〜 というもので上手にごまかしているだけです。本当に正直になったときには、この世はやってられないぐらいじつはヘンんなところなのです)。

しっかりと心に向きあう習慣がないと、心が病んでいることにさえ気づくことができません。そして、心は癒されないまま放置され、ある種逃避をくりかえし(ムダな輪廻をくりかえし)、痛みや、怖れ、罪悪感という負債はどんどんつみ重なるばかりとなります。

これこそ、「絶対に苦しみから卒業させないぞ!」というのがエゴのたくらみそのものです。だからこそ、エゴは「死」というものを美化して、「死んじゃえば、すべてチャラになるよ」「気がついたら、すごくステキなところにいて、解放されているのさ」と言うのです。

そして、それは断じて「NO! 」なのです。

死んじゃうことで、リセットされることはありません。

ちょっと場面が転換しただけです。本当はここ(この世)にいることも、あちら(あの世)にいることも、本質的には同じなのです。なぜなら、どちらも心のなかで起きていることだからです。

隣の部屋に移動して、「ああ、あのゴミ(問題)だらけの景色は見えなくなった。これで安心だ」と思うかもしれません。だけど、ゴミをためこむのは自分の心の性癖であり、またゴミは本当は外側にあるのではなく自分の心のなかにあるので、部屋を変えようが、隣の家に行こうが、ゴミは自分についてまわります。

本当のところ、目のまえに問題があらわれるのは、それにおびえて逃げるためではなくって(もちろん、エゴはそれを目的としていますが)、本当はそれを取り消してきれいにするためです。

すでに、ここまでのおびただしい輪廻のくりかえしによって、そうとうな怖れや罪悪感を自らの無意識の心にためこんでしまっています。

私たちの高い意識が望むのは、痛みとも怖れとも罪悪感ともまったく無縁で、源(神)とまったく同じ制限のない力をもつ本来の私たちの姿に戻したいということです。

そのためには、本来の「自分ではないもの」をことごとく手放してゆく必要があります。無意識のこころにためこんだものをきれいにする必要があるのです。

その手放す作業としては、何が本来の自分ではないかを見極める必要があり、そのためにはいちいち体験していることを認識して、取捨選択の決断をしなければなりません。そのためにこそ、今までずっと自分を無為におどかして無力にしてきた痛み、怖れ、罪悪感のすべてが浮かび上がってくるのです。

そう、「もう、こんなものいらん!」と決断するため、手放すために、です。見て、選択してもらいたいのです。

だから、エゴにそそのかされて、それから目をそむけて、とっとと逃げてはいけないのです。

逃げる ・・・ 死んじゃった場合、隣の部屋に移動することで、しばしゴミは見えないかもしれません。でも、そうでした!ゴミは心のなかにあるので、逃げた先でもやっぱりゴミに煩わされます。で、また部屋を移動しよう!とする ・・・ それが、そこから抜け出してここに再び生まれる、輪廻するという決断です。

で、輪廻しました。あらら〜、また同じレッスンがっ(汗)!! それに、さらにハードル高くなってません? ってことになります(なんせ、ぜんぜんお片づけしていないからね)。

本当の平安、安らぎ、幸せ、解放、というものは、部屋(この世、あの世、中間世)の移動、場面の転換とはなんら関係がないのです。それは、ただひたすら心の問題なのです。

本当の終わりは、部屋、場面が連なる、苦しみのドラマから完全に脱すること。

そのためには、感じている痛み、怖れ、罪悪感にあざむかれることなく、しっかりと見極めて、自分の高い意識にゆだねて、もっていってもらうことが必要なのですね。

そうなると、真の苦しみからの脱出のために、問題ウェルカム! 痛み、怖れ、罪悪感、どんどんいらっしゃいということになります。だって、見極めれば見極めるほど、同じところをグルグルすることなく、真の「あがり」に近づくからです。

それこそが、間違ったこころからの脱出、本当の天国、涅槃、解脱です。

だから、問題と闘うのはやめましょう! 逃げるのもやめましょう!それがいったいなんなのか、見てやりましょう!

思いのほか、ちっぽけなものかも?! (*⁰▿⁰*)

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子ヒプノセラピーカウンセリング )