17-12-07 なにも握らない・・・

「私たちって、ホントなんでもかんでも握りしめちゃいますよね〜」。

クライエントのAさんと話しあっていたのは、すでに過ぎ去ったことに対して、私たちがいつまでも執拗に「あ〜だ、こ〜だ」とこころのなかでこだわりつづけることについて。それは、自分を責めていることもあれば、他人に不平不満を言いつづけていることもあります。

たまに、ブツブツとあるいは大声でしゃべりまくるオジサンに道ばたで出くわしたりしますが、もし私たちのこころに拡声器がついていたなら、まあ、同じような状態になることでしょう(汗)。

私たちがこころのなかでぶつぶつ言いつづけるそのパワーと執念といったら ・・・。外にもれ聞こえてこないだけ幸いです。

テレビをつけると、ワイドショーやら報道番組のほとんどが、すでに過ぎさった過去の出来事について、当事者でもないのに、何時間も何週間も「あ〜だこ〜だ」「誰が悪い」「こうするべきだった」と論じ続けています。

もう過ぎ去ってしまって、ここにはないことをいじくるのに、多大な労力を注いでいるようです。

時間というものは一瞬一瞬あたらしくやってくるというのに、私たちのこころはあたらしい時間のすべてを過去というペンキであっというまに塗りつぶしてしまい、過去と同じ時間にしてしまうようです。

まっさらな時という「贈りもの」は、おなじみの汚れたペンキでべとべとです(汗)。

幼いこどもがお母さんのエプロンのはしをぎゅっと握りしめることにはじまって、さらにお気に入りの毛布やぬいぐるみを握りしめ ・・・

だんだん大人になるにつれて握りしめることから卒業するのかと思いきや、たんに対象がすり変わるだけで、握りしめるということはあからさまに、あるいはこっそりとつづけられてゆきます。

親、パートナー、こどもを握りしめ(依存し)、さらにお金、ステータス、美しさ、習慣(お酒、ギャンブル、タバコ、過食、ショッッピング・・・)を握りしめ。また、ひきこもりやウツといったこころの状態も、つらい記憶も握りしめているもののひとつです。

このように、私たちは日々、人やモノ、感情、思い、出来事、行為、記憶を握りしめつづけます。

いくつかの握りしめ状態はそうとう強固に長時間つづいたため、握りしめていることさえまったく気づかなくなってしまうこともあります(「私は何も握りしめていませんよ!」と思われた方、そうなっている可能性も・・・)。

何かを全力で握りしめつづけると、手はその状態に固まってしまい、握りしめているという自覚さえなくなってしまうのですね。いわば、麻痺状態。そうなると、もはやどう手を開いていいのかわかりません。手放してください、と言われてもなんのことかわからなくなってしまうのです。

こんなにさまざまなものを握りしめつづける私たちは、千手観音のようにたくさんの手が必要になります。手が足りなくなれば、ついには着ぐるみのように頭からかぶってしまうかもしれません。

そうなると、もはや自分が誰であるのか、人はおろか自分にとってもまったく正体不明となります。

私たちが幸せを目指したいと思うなら ・・・ じつは「引き算」がかかせないのです。

握りしめているものも、かぶっちゃっているものも、自分でないものをひとつ残らず、ことごとく取り去ってゆく必要があります。取り去ってしまえば、何もしなくてもホンモノが出てきます。

ところが、「握りしめ」が起こるというのは、怖れを感じているからなのです。コワイからつかんでいたい、つかんで自分のものにしてしまいたい。つまり、自分に「つけ足したい」という「足し算」の衝動が、握りしめるという行動をひき起こしています(これじゃ、ホンモノの自分とは逆方向!)。

そんなコワさから、何でもかんでもとりあえず去らせない、行かせない。握りしめて、ためておけば、安心 ・・・ みたいな。(^^;;

残念ながら「ほんとうの自分」というものは、何かをつけ足してせっせと創りあげてゆくものではなく、はじめっからそこに輝いているものです。今も無傷で。なにひとつ不純物があってはいけないのです。

ほんとうの自分を知りたかったら、何ひとつとして握らないし、掴まないし、とどめてもいけないのです。

だから、思いも、感情も、出来事も、行為、記憶も ・・・自分というスペースのなかにあらわれたら、さらさらと小川の流れのごとく通りぬけさせてあげなければなりません。何ひとつとして跡形も残さずに。

すべて、 自分というスペースを横切ってゆく通行人のようなもの。家のまえを歩いてゆくただの通行人にいちいち声をかけて引きとめて、意見を言ったり、ダメだしをしたり、文句を言ったり、指図をしたりしないように。思いも、感情も、出来事も、行為、記憶も、そのままほっておいてあげてよいのです。

まったくコメントせず、価値判断せず、口を開かず、指一本ふれません。見てるだけ。なんせ通行人ですから。さっさと通りすぎもらいます。

でも、いったん声をかけたり、ちょっかいを出したり、かかわってしまおうものなら、その通行人は親切にもそこにとどまって、ずっと相手をしてくれるというわけです。

思いも、感情も、出来事も、行為も 、記憶も、あるがままにほっておきさえすれば、あとかたもなく消え去ってゆくのです。そして、こころのスペースには、余計なものがない状態となります。

さて ・・・ 余計なものがないスペースには何があるのでしょうか? ・・・ 静けさ、安らぎ、穏やかさ、そしてホンモノの自分といる喜び ・・・。

そして、さらに、私たちが絶対握りしめて放したくない「私」という思いも、手をゆるめて放してしまいましょう。

「私」という思いが強くなると、何が起こるかというと ・・・

「私」という思いは、「私」以外のその他大勢をつくりだし、孤独や分離、疎外感を強めます。

さまざまな美しさが映りこむ一枚の世界という集合写真のなかから、「私」だけハサミでジョキジョキ切り離して別のところにもっていってしまうということ。全体という完全さから、「私」だけを切り抜いてしまうのです。

すでにそこには調和、完全さ、美しさがあったのに、「私」という意識こそが自分をそこから追放してしまい、孤立させてしまうのです。そうすると、自ら全体からの完全さを受けとれない状態をつくってしまいます。自分だけ離れ小島に隔離されて、なんの供給もない状態をつくりだしてしまうのです。

不思議です。「私」という意識がなければ、「その他大勢」は存在しません。そして、「私」という感覚がなくなってゆくと、全部が自分になってゆくのです。そして、「私」がなくなると、じつは問題というものも存在できなくなってくるのです(「私」と「あなた」という摩擦があるところにだけ、問題は生じます)。

「握りしめない」ということは、こだわらない、ということ。

感情にしろ、出来事にしろ、何かが気になっていて握りしめているなと思ったら、ただ立ち止まって、それに気づいてみてください。そう考えたがっている、そう感じたがっている自分がいるということを、ただ静かに客観的に気づいています。ただ眺めてみるだけで言葉はいりません。

そうすると、もうそれを放していることに気がつきます。握りしめることなく、姿を消してゆきます。

握りしめてしまったあとでも、意識的になることですぐにそれをやめることができます。

また、「握りしめたがっている」自分がいたら、「なぜ?」と聞いてみてください。そのこころの声に耳を傾けてあげることも大切なことなのです。聞いてあげないからこそ、叫びつづけます。

耳を傾けることで、そこに傷ついたままの自分が声をあげているのに気がつくかもしれません。その自分に対して「もう、大丈夫だから」と声をかけながら、気づかって安心させてあげてください。

何も握りしめないでいると、自分のなかにもともとある宝ものに気づくことができるようになります。そことつながることによって、握りしめる必要もなくなるのです。

自分のなかがクリアになってくると、そこには今までなかった静けさ、穏やかさ、平和、安らぎ、愛を見つけることができるようになるかもしれません。

 

 

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