18-02-10 ついつい食べ過ぎて、罪悪感・・・

おもしろいのですが、いらっしゃるクライエントさんにはその月ごとにシンクロニシティがあったりします。

どういうことかというと、オール「16歳の女の子」オンパレードの一ヶ月とか、先月についていえば「32歳の男子」てんこもり(いったい32歳の男性になにが起きたのか?!)。そして、相談内容も、「浮気されちゃいました」ばかりの一ヶ月とか、「私の人生、行き止まり」連発の一ヶ月とか ・・・。

昨年のご相談内容のなかでもけっこう多かったテーマのひとつとしては、「つい食べるのがやめられなくって、あとですごくイヤな気分になりへこみます」というもの。

これは女性に多いのです。きっと男性はたくさん食べてしまっても「それがどうかした?」という感じで、あまり問題意識がないのかもしれませんね。

男性の場合は、「アルコールを飲み過ぎる」「ギャンブルをやめられない」「浮気がとまらない」など。女性だと、「買い物がとまらない」「彼氏にかまってもらわないとダメ」など。すべて同じ原理で起こります。

しかし、他の「やめられない」に比べて、「食べ過ぎ」は罪悪感を強く感じやすいようです。おそらく、食べ過ぎると気持ち悪くなるので、もともともっていたイヤな感じと食べ過ぎた気持ち悪さがダブルでやってきて、「あ〜あ、またやっちゃった!」感を強く感じるのだと思います。

なので、本日は「つい食べるのがやめられないことと罪悪感」について。

過食についてよく言われるのは、「こころに穴があいているから、食べものをつめこんで埋めてしまいたいのだ」ということ。

たしかに、「埋めたい」「ごまかしたい」というのが、あらゆる中毒や依存症のメカニズムです(アルコール中毒、ギャンブル中毒、恋愛中毒、携帯中毒、ワーカホリック・・・などなどみんな問題を煙にまいてしまうためのお道具なのです)。

そこで、なぜ「埋めたい」のか「ごまかしたい」のか? という、さらに深い動機を明らかにしてゆく必要があります。

「なにをごまかしたいのか?」 というと、シラフではやってられないほどの「イヤな感情」がそこにある、ということです。

とにかく、今ここにあるこのイヤな感じに向きあいたくないから逃避をくわだてます。イヤな感じとは、嫌悪であったり、恐怖であったらい、罪悪感であったり、苦痛の記憶であったり、それらがごちゃまぜになった胸が悪くなるような感じ。

その「ついごまかして隠しておきたいイヤな感じ」を、ほんとうはちゃんと片づけてあげる必要があるのです。しかし、あまりにも嫌悪感が強いために、そちらに顔を向けてまっすぐに見てあげることすらできないことに問題があるのです。

見たくないからこそ、そのイヤな感じから気をそらすために、たくさん食べることによって、あふれるほどの味覚や満腹感で感情をかき消し追いはらおうとします。

しかしその結果として、「ああ、またやってしまった・・・」という自責の念、罪悪感を感じることになります。ちゃんと本当の問題に向き合っていないのだということが自分でわかっているからなのですね。

そしてさらに、その罪悪感をかき消すためにまた食べる、という負の堂々巡りにおちいるわけです。

ほんとうのところ、こころのなかでは「隠しつづけておきたいイヤな感情」と向きあわなくちゃいけないぐらいだったら、この食べ過ぎによる罪悪感を感じているほうがよっぽどましだわ ・・・ とヘンに矛盾した決断をしているのかもしれません。

なので、やらなければならないのは、そこにひそんでいる「嫌悪感、イヤな感じ」をしっかりとつきとめて、勇気をもって向かいあってあげることが必要となります。

それをちゃんと見るために、まずその「嫌悪券」の真の原因をはっきりさせるということです。(慣れてくると感情だけ感じてもよいのですが、最初はいったいなにが起こっているのかを認識する必要があります。認識することで、ものごとは終わりにすることができます。)

たいてい過食に走ってしまうときには、「ある出来事」が起こっていて、それによる動揺が原因となって過食をしてしまいます。でも、その表面上の「出来事」は真の過食の原因ではないと気づくことが必要です。その「出来後」がこころに抑圧されていた感情を刺激してしまったため、そこにもともとあった「嫌悪感」が浮上してきてしまったというわけです。

つまり、その「出来事」はたんに引き金にすぎなかったのです。

たとえば、クライエントのA子さんのケースをみてみると、表面上の出来事と問題の原因が違うことがよくわかります。

A子さんの問題は、「男性から大切にされる」ということが起こると、過食をしてしまうのだということなのです。ふつうだと、何かトラウマがあり、男性恐怖症なのでしょうか?と思ってしまいますが。

実際なにが起こっているのか調べてみると、

「男性に愛される」→「私は女性だと意識する」→「女性=母のイメージ」→「母は私を傷つけて苦しめた」→「つまり私は女性=母と同じひどい人間だと感じてしまう」→「男性に近づかれる=母にまつわるイヤな感情がわきあがる」→「そのすべてのイヤな感情を隠すために味覚と満腹感に頼ろうとする」→「じゃんじゃん食べて感情をかき消そうとする」→「すごく満腹で苦しい」→「感情は解決されず、まだそこにある」→「失敗した感じ」→「満腹の苦しさとともに、またやってしまったという敗北感、罪悪感を感じる」→「でも、もともともっていた母への苦しみよりもこの罪悪感のほうが少しはマシかもしれない(これは無意識的)」→「やめられない」というプログラミングになっていたのです。

この呪縛をとくためには、とにかく抑圧してしまった対象の人物(母)とのあいだの感情を少しづつ地道に丁寧に手放してゆくことが必要となります。

しかし、過食やなんらかの中毒、依存症状で苦しんでいる人だけが抑圧した感情を抱えているというわけではありません。

ほんとうは私たちの誰もが、「見たくない」「向きあいたくない」「隠しておきたい」感情を抱えています。それは時限爆弾を抱えているようなものです。いつかは爆発します(今世でなくとも・・・)。

だからこそ、ゆったりとくつろぐことにも恐怖を感じます。爆弾が突如爆発するのではないか・・・とうすうす感じているからです。

会社なんかに行かないで暮らせたらいいのに、長い休みがあったらいいのに、と言いつつもいざ一ヶ月も休みができたら、まったくどう過ごしたらいいのかわからなくなってしまいます。それによってイキイキするどころではなく、魂をぬかれたように元気がなくなってしまう人もいて、かつての忙殺されていた頃の自分を懐かしんだりします。

「だって、止まったら死んじゃうの!」という回遊魚状態というのは、やめられない慢性病なのです。

そんな私たちにとって、ケータイは「自分の抱えている爆弾を直視しなくてもいい」「爆弾を忘れさせてくれる」という、とっても重宝なヒマつぶしになるわけです。

だから、もしも今苦しく感じているのであれば、たんに「私はこころの荷下ろしの時期にきているのだわ」と思って、ただお片づけに励めばよいわけです。何かが間違ってしまったというよりは、ただそういう時期にきているのです。そうすれば、爆弾によってこっぱみじんになることを避けることができます。

一方、爆弾は今だ深く自分のこころに埋めこまれたままで、まったくピンとこない方もいらっしゃることでしょう。でも、それもその方のペースで、今は穏やかな時期を楽しめばよいのです。

そういうお片づけの時期にきちゃったときには、ただ「ごまかさない」ことが大切です。つまり、何かに逃げこまないこと。

「え〜! そんな?! それは苦しすぎます。コワすぎます!」と感じますか?

それそれ! それです! その感じ! それこそを感じてみましょう! それが、たまりにたまっていて、自分の人生を見るレンズを泥だらけにしてしまい、ほんとうの自分を見えなくしているものです。そのため自分をみくびって、とても小さな価値のない存在にしてしまっているのは自分自身なのです。

感情のお片づけをするときに大切なのは、感情に善悪の価値判断やストーリー、文句、セリフ、あれやこれやをつけないこと。つまり、沈黙すること。

もし、自分のセリフやら、場面、情景がくっついていると、とてもじゃないけれど怖くて受け入れがたくなります。それらは自分が個人的にくっつけているものなのです。感情とは、ただそのまま、それだけです。本当は善悪の判断も、セリフも、場面も、記憶もないのです。

どんな感情も、それらは電気で感電したときの感じと大差はありません。コンセントを触ってしまってビリっときたら、「わ、びっくりした!」。それでおしまいです。

感情も出てきて、それに出くわして、感じて、「わ、びっくりした!」・・・ハイ、それでおしまい!

そのぐらいシンプルです。ただ、感情に感電して(笑・そうでう感情は感電です)、それで終わりにしちゃいしょう。大丈夫です。ビリっとしますが、死にはいたりません。

なので、すべてのあれこれをとりはらって、ただの体験、感覚だけにしてゆく必要があります。

そうすると、善悪なしでそれに共鳴し、許され、ほんとうのあるがままの「受け入れ」をすることができます。人生においては自然な「受け入れ」がなされたとき、人生は本来の流れを取り戻し、キケンなものではなくなるのです。

そのためには、アタマをストップする、セリフをくっつけない、ということが大切なことです。これが感情において、正しくあるがままに「感電する」ポイントです(感電に正しいやり方などあったのね?!笑イ。

問題に出くわしたら、なにが起こっているのか探求して、そこに感情が出てきたらただ何も考えずに「感電してみる」。

とくに過食の場合には、食べてしまうこと自体はそのまま自分に許してあげることが大切です。なるべく罪悪感をふやさないようにすることです。ただ、食べてしまうまえに、そこにある動揺を「感電するようにただ感じてみること」をします。そして、食べましょう。

これを少しづつ行ってゆくことで、隠しておいた感情の塊が少しづつ削りとられて小さくなってゆきます。そうすると、その不快さをカバーするために使っていた味覚や満腹感はだんだんと必要なくなってくることでしょう。

これも、頑張ってするのではなく、少しづつでよいのです。

逃避するのではなく、向きあう方向に向かおうとすると、必ず自分自身の高い意識があとは引き受けてくれます。その力にゆだねて、お任せしてしまいましょう。

高い意識のサポートを信頼しつつ、自分の感情に正直に、怖れずに受け入れて、あるがままに完全に「感電」してみる・・・。このように「受け入れる」気持ちが起こると、人生との戦いが終息にむかい、向い風がいつのまにか背中をおして、ふわりと持ちあげてくれるように感じられるかもしれません。そうしたら、委ねて運ばれてみましょう。

PS A子さん、こころのなかで起きていたことを見破りさえしたら、あとはそれにまつわる感情の手放してゆくことです。来週は一緒に練習して、感電(感情の解放)のエキスパートになってしまいましょう! 少しづつ練習してゆくうちに、いつのまにか感情の塊がどんどん小さくなって、楽しみながら適度な量を食べられるりますよ。また来週お待ちしています♡♡

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング