18-05-20 存在するのは、ひとつの感情・ひとつの世界

「愛と怖れ」という本(G・ジャンポルスキー著)に出会ったのは、もうかなり昔のこと。

「愛」にしても「怖れ」にしてもふだんから耳にする言葉だけれど、「愛」に対比するものとして「怖れ」があるという考えは新鮮に感じたものです。「愛」の反対側は、「憎しみ」とか「愛がないこと」だと思っていたから。

人にはたったふたつの感情しかなく、それは「愛と怖れ」だといいます。

しかし、真に存在しているものは、ただひとつのもの(ワンネス)というか、「ひとつ」とも名づけることができない「すべて」なわけですが。そうなると、「愛と怖れ」という二者は存在できず、どちらかがまがいものとなります。

すべてを支配するたったひとつの力(神・宇宙・全能性)が「怖れ」であることはありえないので、ホンモノが「愛」だとするならば ・・・ 「愛」以外のすべてはことごとくまがいものであり、存在すらしないということになります。

では、「愛」とはなにものか? というと、安らぎであったり、平和であったり、思いやりであったり、喜びであったり、豊かなこころであったり ・・・ 喜ばしい要素のすべて。それが真に存在するもの。

一方、あるように見えながらも存在すらしていないという「怖れ」とは、「愛」に分類されることがないすべてのものをいいます。「愛」でないなら、それはすべて(行為も考えも)「怖れ」なわけで、架空のものということになります。

たとえば、テレビを観ながらこころのなかでチッと舌打ちしてしまうような攻撃的な想いとか、家族と話していて「なんでこうなのよ!」とイラっとくる怒りの感覚とか、まだ起こっていないことについてあれこれ心配する怖れの気持ちとか、「やっぱり私はダメに違いない」とか「しょせんムリだわ」と自虐的に考えてしまう自己卑下とか、ただモヤモヤとした倦怠感とか、ムカムカする嫌悪の気持ちとか ・・・、全部私ではありえない、ニセモノがやっていること。

これを自分がやっているのだ思うと、さらに怖れや罪悪感がが大きくなってしまいます。なぜなら、これらはまったくコントロール不能で、いつどんなときに襲ってくるのかわからないからです。コントロールできると思うと挫折感が強くなります。

よくよく注意してみると、私たちは「怖れ」という感情にほぼ病的に耽溺していることがわかります。

すでに耽溺していることすらわからないのは、中毒になっているということ(中毒症状とは、それなしでは生きていけないのです)。

すると、ほぼ怖れと一体化していると言っていい状態 ・・・ っていうことは、存在すらしないものと一体化してすごしている、つまりヘンなものに憑衣されたがために(といっても、じつは自分がそれを握りしめているのですが)完全に占拠されたというわけです。寄生獣に完全にのっとられた状態ですね。

私たちは、存在すらしない「怖れ」になってしまったのです。

だから、この「怖れ」ときっぱりと決別しない限りは正気の自分になることはありません。正気でないということは存在しない幻覚を見続けることになり、自分に与えられている全能性からくる権利をまるまる放棄していることになります。

私たちはつねに自分の「想い」というものを「目のまえに確認する場」として世界をつくりだしています。

世界は固定的に外側にあるののではなく、毎瞬ごとに自分のこころが提示しているイメージを見ているにすぎません。すると、この「愛か怖れ」の選択が目にするものを毎瞬々々決めているのです。この「愛か怖れ」の選択こそが、自分が目にするものの明暗をわけるのです。

つまり、こころの状態にあわせて2タイプの世界があるようなものです。「愛」のこころで見る真に存在する愛の世界と、「怖れ」のこころがねつ造する存在すらしていない怖れの世界。同じ世界のなかに、愛と怖れが共存しているわけではないのですね。

そして、寄生獣が見るのは、もちろん「怖れ」です。

「怖れ」とは、批判、価値判断、自虐、落胆、後悔、罪悪感、攻撃心、自己嫌悪、無価値観、憂鬱、退屈、怖れ、優越感、特別性、苦痛、病、死 ・・・ etc、これらはまるで自分の首についている縄のごとく、「怖れ」をもつたびに自分の首をしめあげてゆくようなものです。首がしまると幻覚が見えます。

まさに、自分のこころのなかにある怖れの考えを、自分の身を呈して体験しているというわけです。その縄はしだいにどんどんきつくなり、息ができなくなって、身動きもできなくなるのですが、自分ではなぜそうなっているのかわかりません。

一方、「愛」とは、穏やかさ、安らぎ、平和、喜び、楽しさ、寛容さ、受容、信頼、慈しみ、共感、赦し、分けへだてないオープンなこころ ・・・ etc、これらを選ぶたびに首に巻きついている縄が細くなり、ゆるくなり、しまいにはそんなものなかったんだ!と解放された気分になります。

「愛」を選ぶことは、自分が囚われているという錯覚から解放されて、制限などないもともとの自由な自分を知る、もともとの自分の権利をしっかりと享受するということです。

しかし、私たちはある意味、エゴにのっとられて憑衣されているので、無意識でいると「怖れ」を選択するクセがついています。

なんせ、「個体」としての自分が生きのびて、安全でいるためには、「守る」か「攻める」かする必要があり、いつも戦々恐々としているからです。だから「闘い」の想いはエゴの定番です。

しかし、生き延びるための定番の想いを選択したはずなのに、縄は喉もとにくいこみ、かえって生き延びることを阻止する結果になります。

存在しているのはただ「ひとつのもの」、「愛」だけであるならば ・・・

私たちは自分のこころをちゃんと調教して、正しい選択ができるように教育してゆく必要があるのです。それは一回教えたらオシマイということではなく、毎瞬々々自分のこころがなにを選んでいるのかということに意識的になることです。

オイシイ匂いがすると(エゴからの呼びかけはたいていオイシイ匂いがするものです)、ついついクンクンとついていってしまう犬のような私たちですが、これをすると完全に道からはずれて迷子になります。

エゴはいつもオイシイ匂いで「こっちにゴチソウがあるよ!」とおびきよせますが、それにのってしまうと、道に迷い、ひとりぼっちで孤独になり、いっくら歩きつづけたとしても、結局そこには何ひとつなく、帰る道さえわからなくなります。

だから「愛」をえらばなかったとき、「怖れ」を選択した結果としてやってくるものは、「怖れ」なんていうなまやさしいものではなく、気がつけば「恐怖」物語、あるいは「ホラー」なストーリーなのです。

自分の見ているドラマという現実が、恐怖の様相を呈してきて、しまいには怪奇ものからホラーへ。それがエゴのもくろみです。

でも、それも全部、自分のなかで無意識のうちに着々と「怖れ」を選びつづけたまさに証なのです。

しかし、「愛」を選ぼう! と意識的になって、いちいち選びなおすことによって、こころの映しだす世界がシフトします。ほんとうの自分がもっている輝かしい恩恵に浴することができるようになるのです。それは、いわゆるすべてであるものの恩恵。

ふたつにひとつの選択なのですが、私たちは無意識のままなので、「怖れ」を選びつづけていることに気づけなくなっているのです。なので、まずは自分が毎瞬、なにを選んでいるのか意識的になることが大切です。

「素敵な自分になる」「もっと素晴らしい自分になる」と、頑張ってみても、この「愛か怖れ」の選択が間違っていると、全部水の泡になってしまうのです。

「愛」のこころには「愛」の世界が、「怖れ」のこころには「怖れ」の世界が ・・・ それぞれご案内先はまったく違った世界です。こころにそったものしか見えません。

そもそもこの選択さえまちがわなければ、「素敵な自分」になる必要もなければ、「もっと素晴らしい自分になる」必要もありません。

首にかかっている縄さえとれてしまえば、もともとそなわっている完全な自分らしさに出会うことができるのです。完全な自分になる、というのは、作ったり、くっつけたり、でっちあげたり、目指したりする種類のものではなく、もともとあるものを解き放って、そのままにしてあげる以外にはすることがないのです。

だから、私たちが注意深く取り組むべきことは、ていねいに自分の「こころを見張る」こと。

「愛」以外になっていることに気づいたら、すぐに却下して、高い意識にさし出して、こころからその感情や考えを取り除いてもらうお願いをすることです(間違ってしまった自分には、訂正はできません)。

「自分ではないものをとりのぞいてゆく」、つまり「愛」でないものを却下し続ける作業をしてゆくと、おのずと「愛」だけに気づくようになり、「愛」をとおして正しい知覚がもどってきます。それにふさわしい世界だけを見るようになります。

「愛」を通して見る、というのは私たちがおなじみの「愛」という名のフィルターでものごとを見ることではないのです。

ただひとつの存在するものを選びつづけたときに思い出すことができるほんとうの自分の記憶であり、視力であり、ものの見方。

それはどうやら、私たちが知っている「愛」の概念とは違うもので、そういう制限さえもこえたまっさらな目線をいうのだと思うのです。

今の自分の状態がどうであろうとも、ただシンプルに真に存在する思いを選びつづける努力をすることで、自分の足かせがはずれ、ラクチンになり、自由の身になり、より幸せで楽しくなるのであれば、やっぱり存在するものだけを選びつづけるという地道な作業を一瞬々々つづけられたら ・・・ と思うこのごろです。

 

 

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