19-05-09 ほんとうの自分を望むこと

「思いがものごとをつくりだす」という、こころがもつ創造する力に気づいていらっしゃる方は多くなってきました。

そう、こころには絶大な力があるのです。

自分自身のこころの力だからといって、それを理解してうまく使えている、というわけではありません。ほぼ、すべての人が若葉マーク以前です。

こころの力は絶大すぎるので、ある意味制御不能で、もはや何がどうなっちゃっているのかわからないほどです(強力すぎる武器を手にして、それにぶんぶん振りまわされている状態です)。

だから、自分であれこれつくり出しておいてから、「私はこんなものを知らない。きっとあの人のせいじゃない?」と簡単に被害者になれちゃうのです。

それはまるで新米の魔法使いそのもので、自分の使った魔法(思い)であわや自爆しそうになり、ヨレヨレのコゲコゲボロボロ、瀕死の状態にさえなれてしまうのです。

そうなってさえも、それが自分の魔法(思い)のせいだと気づくことができません。残念なことに、あっちにいる誰かに攻撃されたに違いない!と固く信じているのです。

魔法の杖をふりまわせばふりまわすほど、自らドツボにはまる、というのが現状です。

はたから見ているぶんにはコメディちっくで笑えるけれど、当の本人にしてみれば自分のせいで生きるか死ぬかの瀬戸際まで追いつめられていることに気づけません。

少しでも気づけたら、まだ救いはあるのですが・・・。

自分の魔法(思い)は一秒もまったなしです。

自分に石つぶてを降らせるか、あるいは自分を幸せにしてくれるお望みのものが降り注いでくるのか ・・・・それを決めるのは毎瞬毎瞬の自分の思いなのです。

人に向けた思い、自分をのぞいた思いなどというものは存在しないので、思いはすべてもれなく自分自身に対するものです。

だから、攻撃や批判の思いというのは、まるで私を剣や槍でめったざしにして下さいとお願いしているようなものです。そしてツライ状況がやってきても、まさか自分の攻撃性でそうなっているとは思いもしません。

そう考えると、自分の思いの内容は、自分に向けられて嬉しいものにしなければならないことになります。

誰もがこころの力を、何かを望み、欲しいものを手にするときにはひんぱんに使います。

たとえば、「いついつまでのこれぐらいのお金が用意できますように」「この仕事が思うような結果になりますように」「この身体の不調がなくなりますように」「誰々ちゃんと仲良くなれますように」・・・

私たちがこころの力を使おうとしているときには、前提として望まない状態があるのです。何がが「足りない」のでうまくいっていない、ということをうめるためにこころの力を使っているのです。それはお金であったり、成功であったり、安心であったり、健康であったり・・・.

しかし、思いはベースにあるものを原因として、そこから結果を生み出しているので、ベースが「欠乏」「足りない」思いだと、結果も「欠乏」と「足りない」をさらに助長することになり悪循環になります。

だから、こころの力を使うときには「欠乏」をうめようとするよりも、「すべてをもっている、すべてを与えられている、その当然の権利を忘れずにいられますように」「すでに与えられているものをしっかりと見ることができますように」とお願いすることで、欠乏を見ることがなくなるのです。

源、宇宙、神とひとつである私たちは、当然の権利としてすでにすべてを与えられています。しかし、自分の間違った思いでそれを遮り、まったく見ることができなくなっています。

私たちは何を見るのかは、自分の思いで選ぶことができるのです。だったら、そこに与えれているもの、すでにあるものを見たい!と望むことができます。自分のこころがつくりだした架空のものではなく。

当然のものが見えないのであれば、ただ見えるようになることをお願いするだけです。そこには、特定の細々とした要求は必要なくなるのです(結局、特定の要求は欠乏を前提としているので、欠乏をつくりだしてしまうのです)。

「何もつけ足す必要がない、すでに完全であるほんとうの自分でいられますように」「それを見て、体験できますように 」・・・これがすでに完全である、ほんとうの自分のための正しい望み方、思いの向け方なのです。

 

 

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