「ブツおくりました」・・・

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

お友だちのKちゃんとのあいだでときどき交わされる、このセリフ。

「ブツ」とは何か?というと・・・

私からのブツはたいてい、珈琲やチーズのお菓子、サプリなどで(Kちゃんは珈琲とチーズ好きなので)、一方Kちゃんからのブツは、Kちゃんよりすぐりの凄腕コスメやファッショングッズ。

つまり、ブツとはおたのしみ袋ならぬ、おたのしみ箱のこと。

今回は「夏仕様のブツ」と書いてあります?

夏仕様???なにかしら? ・・・ と楽しみにしていたら、こちらがとどきました。

ゴールドのスケルトンバッグ!

わあ☆ めっちゃ、Kちゃんらしいわぁ! 二十代の頃からとび抜けたセンスの持ち主なのです。

たしかにスケスケ夏仕様(笑) 。

中身まるみえって、ちょっと恥ずかしいのでは? と思いつつ ・・・ じっさい、入れてみたら、

お財布の柄がよい感じにマッチして、オトナかわいい雰囲気になりました。ゴールドのポーチがついているので、雑多なあれこれはスッキリそのなかへ。

Kちゃんいわく、神かがり的な買い物運の持ち主だそうで、目をつけているブツはいつも激安になるんだとか(笑)。そして、その恩恵にいつもあずからせていただいている私 ・・・ なむなむ・合掌!

たくさん入るので、この夏はいっぱいお世話になりそう(ああ、お出かけしたいっ!!)。

Kちゃん、いつもワクワクをありがと〜〜 ٩(๑❛ᴗ❛๑)۶

 

 

20-07-03 戦う相手はいつも自分

 

私たちが何かに悩んでいるとき・・・ たいてい、そのスタート地点ですでに間違ってしまっていることに気がつきません。

悩んでいる・・・ つまり、苦しんでいる、ということは、何かによって攻撃されているということですが、その何かがじつは存在していないものなのです。

たとえば、クライエントのAさん。

「最近、彼が連絡をくれません。嫌われてしまったのかも ・・・」「もう私には興味がなく、終わりになってしまうにちがいない」と涙をこぼされます。

「スタート地点で間違っている」というのをAさんの場合で考えると、

彼はAさんに対して、「嫌いになりました」「興味がありません」とはひとことも言っていないのです。さらに、「連絡がない」 = 「嫌いになった」証拠ではありません。自分で勝手に解釈し、悲しい結論を出してしまっています。

つまり ・・・ 心配ごとは、全部Aさん自身の考えによるものであり、推測にすぎない、ということなのです。実際に起こっていることではなく、自分の解釈です。

自分の解釈に対して抵抗していることになります。

「連絡がない」とき ・・・ 彼は、生活するだけで手いっぱいなのかもしれないし、なにかこころがモヤモヤしているのかもしれないし、あるいはただ自分の活動に集中しているだけなのかもしれません。はたまた、最近心配な表情を見せるAさんに対して、自分こそ嫌われたと不安に思っているのかもしれません。

が、これも全部推測です。結局、何を考えても真実ではないのです。

私たちは「何も本当のことを知らない」し、「何が真実かもわからない」のです。

自分の考えとは、自分独自の解釈で、ある意味「でっちあげ」なので、その考えに悩まされていることになります。

私たちの自動的な解釈は、自分を守りたいという自己防衛本能が働いているため、どうしても「攻撃的な見方」「被害者的な考え」になりがちです。

「私は攻撃されている」「傷つけられている」「ひどい立場におかれている」「悲惨なことが進行している」・・・エゴはドラマチックな悲劇の主人公が大好きです。

その目線からものごとを見れば、なんでも脅威に感じるし、自分を守らなければならないと感じて反撃にでてしまいます。

ついにその不安に耐えられなくなると、自ら関係を破壊し、立ち去ることでラクになろうとします。(あんなに相手を失うのがイヤといっていたのに、自分から破壊して去って行くのは本末転倒です。エゴのおもいは、いつもツジツマがあっていません!汗)

「可哀想な独りばっち」になることこそが、エゴがもくろんでいることだからです。

なので、他からやってくるように見えるどのような攻撃であっても、「攻撃」は自分のこころのなかにしか存在しないのです。

目にうつる出来事(形)は、じつは何も意味していません。

形だけで判断してしまうと、そこにある意味(内容)が見えなくなってしまいます。星の王子さまが言ったように、「ほんとうのことは目に見えない」からです。

だから、見かけではほんとうのことはわからないことを理解して、まったく判断などしないことです。

Aさんにも、「そのいろいろな推測がなかったらどんな気持ち?」とおうかがいしたら、「平和な気持ち」とおっしゃいました。その自分の判断こそが、苦しくさせているがわかります。

だから、判断するよりもこころをからっぽにして、あるがままを受け入れます。判断のかわりに、つながる気持ち、思いやりの気持ちで状況を見てみます。

この関係において、自分がすることは「反撃すること」ではなく、「愛すること」だと思い出しましょう。

批判はすでに攻撃なのです。攻撃してしまったら、もう愛するという選択肢は失われてしまいます。相手は敵になってしまったからです。

ただなにも判断せずに(攻撃せずに)、こころをカラッポにしておくと、そこにはすでに愛があります。そしてカラになったスペースに、ハイヤーセルフからただしい見方がポトリと落ちてきて導いてくれます。

たとえば、Aさんの場合だったら、すでに不安になっている感情は受けとめて感じてあげます。そして、「私は彼に何が起きているのかわかりません」といったんこころをカラにして、「ハイヤーセルフ、私が彼にできることは何でしょう?」と尋ねます。

もしかすると、「彼のこころは今、モヤモヤしているのかもしれない(そう!私たちは誰でも自分でもわからずモヤモヤするときがあります。)だったら、電話をして、彼の話しをとことん聞いてみようかな。そうしたら、こころが少し軽くなるかも」・・・そんなインスピレーションがやってくるかもしれません。

愛するとは、つながろうとすること。「してもらうこと」をじっと待っているよりも、なにができるかな?と相手に対して「できること、与えられること」を思いやります。つながろうとします。

自分の悲惨なストーリーにはまりこむことなく、おもいやり、気づかい、つながりのこころで与えようとするのです。

私たちのこころには、つねに自分を不幸にしようとするエゴの声がひそんでいます。

その声をやすやすと受け入れてしまうと、存在さえしない架空のストーリーに迷いこみ翻弄されることになります。

怖れの気持ちを手放して、こころをまっさらにして、ただ受け入れる、近づく、与える、つながりあうことだけを目標にしてみましょう。

自作のでっちあげのストーリーさえなければ、安らかなこころのなかでただそこにあるほんとうのことだけが見えてきます。

そして、それはいつもお互いにとって必ず癒しになるように働き、こころが繋がりあうことを体験できるようになります。そもそも出会いの意味じたいが、癒してつながりあうためなのですから大丈夫☆

エゴの悲しいストーリーは、すべてハイヤーセルフに渡してしまいましょう。そして、攻撃という見方ではなく、つねに愛とつながりを選びましょう。

ただまっさらなこころでおもいやりや気づかいを「与える」ために、相手とつながってみましょう!

それが、私たちがここに学びにやってきたことだから。学べがかならず贈りものがやってくるからです ♫•*¨*•.¸¸♪

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

気づきの日記「戦う相手はいつも自分」

 

私たちが何かに悩んでいるとき・・・ たいてい、そのスタート地点ですでに間違ってしまっていることに気がつきません。

悩んでいる・・・ つまり、苦しんでいる、ということは、何かによって攻撃されているということですが、その何かがじつは存在していないものなのです。

たとえば、クライエントのAさん。

「最近、彼が連絡をくれません。嫌われてしまったのかも ・・・」「もう私には興味がなく、終わりになってしまうにちがいない」と涙をこぼされます。

「スタート地点で間違っている」というのをAさんの場合で考えると、

彼はAさんに対して、「嫌いになりました」「興味がありません」とはひとことも言っていないのです。さらに、「連絡がない」 = 「嫌いになった」証拠ではありません。自分で勝手に解釈し、悲しい結論を出してしまっています。

つまり ・・・ 心配ごとは、全部Aさん自身の考えによるものであり、推測にすぎない、ということなのです。実際に起こっていることではなく、自分の解釈です。

自分の解釈に対して抵抗していることになります。

「連絡がない」とき ・・・ 彼は、生活するだけで手いっぱいなのかもしれないし、なにかこころがモヤモヤしているのかもしれないし、あるいはただ自分の活動に集中しているだけなのかもしれません。はたまた、最近心配な表情を見せるAさんに対して、自分こそ嫌われたと不安に思っているのかもしれません。

が、これも全部推測です。結局、何を考えても真実ではないのです。

私たちは「何も本当のことを知らない」し、「何が真実かもわからない」のです。

自分の考えとは、自分独自の解釈で、ある意味「でっちあげ」なので、その考えに悩まされていることになります。

私たちの自動的な解釈は、自分を守りたいという自己防衛本能が働いているため、どうしても「攻撃的な見方」「被害者的な考え」になりがちです。

「私は攻撃されている」「傷つけられている」「ひどい立場におかれている」「悲惨なことが進行している」・・・エゴはドラマチックな悲劇の主人公が大好きです。

その目線からものごとを見れば、なんでも脅威に感じるし、自分を守らなければならないと感じて反撃にでてしまいます。

ついにその不安に耐えられなくなると、自ら関係を破壊し、立ち去ることでラクになろうとします。(あんなに相手を失うのがイヤといっていたのに、自分から破壊して去って行くのは本末転倒です。エゴのおもいは、いつもツジツマがあっていません!汗)

「可哀想な独りばっち」になることこそが、エゴがもくろんでいることだからです。

なので、他からやってくるように見えるどのような攻撃であっても、「攻撃」は自分のこころのなかにしか存在しないのです。

目にうつる出来事(形)は、じつは何も意味していません。

形だけで判断してしまうと、そこにある意味(内容)が見えなくなってしまいます。星の王子さまが言ったように、「ほんとうのことは目に見えない」からです。

だから、見かけではほんとうのことはわからないことを理解して、まったく判断などしないことです。

Aさんにも、「そのいろいろな推測がなかったらどんな気持ち?」とおうかがいしたら、「平和な気持ち」とおっしゃいました。その自分の判断こそが、苦しくさせているがわかります。

だから、判断するよりもこころをからっぽにして、あるがままを受け入れます。判断のかわりに、つながる気持ち、思いやりの気持ちで状況を見てみます。

この関係において、自分がすることは「反撃すること」ではなく、「愛すること」だと思い出しましょう。

批判はすでに攻撃なのです。攻撃してしまったら、もう愛するという選択肢は失われてしまいます。相手は敵になってしまったからです。

ただなにも判断せずに(攻撃せずに)、こころをカラッポにしておくと、そこにはすでに愛があります。そしてカラになったスペースに、ハイヤーセルフからただしい見方がポトリと落ちてきて導いてくれます。

たとえば、Aさんの場合だったら、すでに不安になっている感情は受けとめて感じてあげます。そして、「私は彼に何が起きているのかわかりません」といったんこころをカラにして、「ハイヤーセルフ、私が彼にできることは何でしょう?」と尋ねます。

もしかすると、「彼のこころは今、モヤモヤしているのかもしれない(そう!私たちは誰でも自分でもわからずモヤモヤするときがあります。)だったら、電話をして、彼の話しをとことん聞いてみようかな。そうしたら、こころが少し軽くなるかも」・・・そんなインスピレーションがやってくるかもしれません。

愛するとは、つながろうとすること。「してもらうこと」をじっと待っているよりも、なにができるかな?と相手に対して「できること、与えられること」を思いやります。つながろうとします。

自分の悲惨なストーリーにはまりこむことなく、おもいやり、気づかい、つながりのこころで与えようとするのです。

私たちのこころには、つねに自分を不幸にしようとするエゴの声がひそんでいます。

その声をやすやすと受け入れてしまうと、存在さえしない架空のストーリーに迷いこみ翻弄されることになります。

怖れの気持ちを手放して、こころをまっさらにして、ただ受け入れる、近づく、与える、つながりあうことだけを目標にしてみましょう。

自作のでっちあげのストーリーさえなければ、安らかなこころのなかでただそこにあるほんとうのことだけが見えてきます。

そして、それはいつもお互いにとって必ず癒しになるように働き、こころが繋がりあうことを体験できるようになります。そもそも出会いの意味じたいが、癒してつながりあうためなのですから大丈夫☆

エゴの悲しいストーリーは、すべてハイヤーセルフに渡してしまいましょう。そして、攻撃という見方ではなく、つねに愛とつながりを選びましょう。

ただまっさらなこころでおもいやりや気づかいを「与える」ために、相手とつながってみましょう!

それが、私たちがここに学びにやってきたことだから。学べがかならず贈りものがやってくるからです ♫•*¨*•.¸¸♪

 

 

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20-06-24 勝つために退くこと

 

仕事にしろ、人間関係にしろ、お金や病気やさまざまな苦痛、困難にしろ ・・・ 世にいう問題が目のまえにあらわれると、私たちはおのずと問題を敵として扱い、「問題(敵)」vs 「自分」という構図で戦おうとします。

でも ・・・ もし、その問題自体が自分の足をすくうために自分自身が編みだしたものであるなら、それに挑みかかることは自ら術中にはまりこむことになります。まさに自爆行為です。自分と戦っても勝者はどこにもいません。

もともと転ばせることが目的ならば、対決姿勢で問題は解決されることはなくさらに悪化することになります。

だとすれば、問題を解決するためには別のやり方が必要です。

問題が見えているとき、それはこころが真の自己からそれて偽りのエゴとして障害を作り出しているときです。

ならば、こころを真の自己に戻してあげることこそが解決策となります。

しかし ・・・ 残念ながらエゴが自分で自分を正気にしてあげることはできません。すでに何が正気かわからないからです。

ニセモノに憑依されているときに、自ら正気になれるのであればとっくに正気になっているはずです。(それに、狂人こそ自分がまっとうだと主張しがちです・笑)

いったん脱線してしまった列車が自力でもとに戻れないように、正気に戻るにはより力のある存在の助けが必要になります。上に吊りあげてもらって、正しい位置にリセットしてもらわなければなりません。

そのためには、とりあえず脱線していること(問題があること)に気づいて、「自分ひとりでは正しい状態に戻ることができません」「助けてください」と謙虚に負けを認めることが必要です。(負けていると認めない限り、だれも真摯に助けを受け入れないからです。)

そして、大きな力に働いてもらうために、すでにおかしくなっている自分は脇にどく必要があります。脇に退いて高い存在に場所をあけ、そのちからに委ねることこそがエゴのワナからの脱出方法です。

しかし、これが簡単なようでなかなかできません。

負けを認めることは、プライドがゆるさないからです。助けを求めることは弱さであり、恥ずかしいことであると信じているので誰の手を握ることもできません。

だから、自分ひとりで挽回できると信じて、エゴの仕掛けたワナのなかで戦いつづけることを選択します(・・・負け戦とはつゆ知らず)。

どこまでも私たちはボス面をしていたいのです。

「脱線したので正してください」と高い存在に丸投げしてしまえば、すぐさま光のクレーンがやってきて正してもらうことができるのに・・・トホホ・・・残念なことです(汗)。

以前に観た「War Room」という映画を思い出しました。そこには、「退く」「明け渡す」「委ねる」ということをみごとに行いながら、すべての問題を解決するクララという女性が描かれていました。

クララの家には、Answered Prayer(叶えられた祈り)という額が掲げられています。

これは、すでに答えが与えられた問題の数々が誇らしげに列挙されているのですが、その答えのすべてはこの家の片隅にある「War Room」という小さなスペースから生み出されていたのです。

「War Room」とは、戦いのための戦略を練る部屋、いわば参謀本部ことです。

クララの「War Room」はウォークインクローゼット。彼女は日課としてそこにひとり退き、静かに高い存在とつながる時間をもち、自分やまわりの人々の問題のすべてを委ねることをしています。

これが、クララにとって問題と戦うための戦略なのです。

クララいわく、「みんな戦う相手が誰であるかわかっていない。さらに、戦うためには、正しい戦い方と戦略が必要なのだ」と。

つまり彼女は、自分のこころ(エゴ)が生み出したものと直接戦うことで問題は解決できないことを知っていたのです。さらに、正しい戦略とはものごとを変えようとすることではなく、こころこそを変えてほしいと高い存在にお願いすることだともわかっていました。

だから問題に直面すると、自分が脱線状態であることを正直に認めて、どうか正しい場所に戻してくれるよう熱心に祈るのです。実際に問題と戦うことはせずに、静かに退くことに時間を費やします。

クララはキリスト教徒なので、まるで目のまえいにイエスが立っているがごとく情熱的に語りかけます。大いなる存在と自分との距離がまったく存在せず、まるで信頼できる友人に困りごとを相談するように、助けがえられることを確信して話しつづけます。

完全に委ねきるために真剣に祈ることこそが、正しい問題解決法なのだとクララは知っていたのでした。(この映画は「War Room」というタイトルですが、邦題は「祈りのちから」となっていました。)

私たちのエゴは私たちがここで失敗をくり返し、罪悪感の壁をどんどんぶ厚くしながら、本来の自分自身のから遠のいて闇に沈んでゆくことに喜びを感じています。

だから、真の解決法とはワナである問題に突進して戦いを挑むことではなく、そのような問題をつくり出したエゴのこころを正してもらうべく、自分は静かに退いて高い存在に助けを乞うことなのです。

高い存在とは、自分にとって心地よいシンボルであればかまわないので、ブッダでもエンジェルでもマリアさまでも大いなる光でもなんでもよいのです。

そして、自分は助けが必要であることを謙虚に認め、間違ったこころを正してもらえるように真剣にお願いし、すべてを委ねます。

あとは、その後に自然に起こってくることに抵抗せず、信頼して身をまかせてゆきます。ただ安心して見ているだけで、特別なことは必要ありません。

これがこころの脱線を正すことであり、自然な流れのなかで関係するすべての人にとって役にたつ真の解決へと導かれる方法なのです。

PS War Room がなくっても、大切なのはしっかりとこころを高い存在に向けてつながろうとすること。それは人との関係とまったく同じですね。

 

 

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気づきの日記「勝つために退くこと」

 

仕事にしろ、人間関係にしろ、お金や病気やさまざまな苦痛、困難にしろ ・・・ 世にいう問題が目のまえにあらわれると、私たちはおのずと問題を敵として扱い、「問題(敵)」vs 「自分」という構図で戦おうとします。

でも ・・・ もし、その問題自体が自分の足をすくうために自分自身が編みだしたものであるなら、それに挑みかかることは自ら術中にはまりこむことになります。まさに自爆行為です。自分と戦っても勝者はどこにもいません。

もともと転ばせることが目的ならば、対決姿勢で問題は解決されることはなくさらに悪化することになります。

だとすれば、問題を解決するためには別のやり方が必要です。

問題が見えているとき、それはこころが真の自己からそれて偽りのエゴとして障害を作り出しているときです。

ならば、こころを真の自己に戻してあげることこそが解決策となります。

しかし ・・・ 残念ながらエゴが自分で自分を正気にしてあげることはできません。すでに何が正気かわからないからです。

ニセモノに憑依されているときに、自ら正気になれるのであればとっくに正気になっているはずです。(それに、狂人こそ自分がまっとうだと主張しがちです・笑)

いったん脱線してしまった列車が自力でもとに戻れないように、正気に戻るにはより力のある存在の助けが必要になります。上に吊りあげてもらって、正しい位置にリセットしてもらわなければなりません。

そのためには、とりあえず脱線していること(問題があること)に気づいて、「自分ひとりでは正しい状態に戻ることができません」「助けてください」と謙虚に負けを認めることが必要です。(負けていると認めない限り、だれも真摯に助けを受け入れないからです。)

そして、大きな力に働いてもらうために、すでにおかしくなっている自分は脇にどく必要があります。脇に退いて高い存在に場所をあけ、そのちからに委ねることこそがエゴのワナからの脱出方法です。

しかし、これが簡単なようでなかなかできません。

負けを認めることは、プライドがゆるさないからです。助けを求めることは弱さであり、恥ずかしいことであると信じているので誰の手を握ることもできません。

だから、自分ひとりで挽回できると信じて、エゴの仕掛けたワナのなかで戦いつづけることを選択します(・・・負け戦とはつゆ知らず)。

どこまでも私たちはボス面をしていたいのです。

「脱線したので正してください」と高い存在に丸投げしてしまえば、すぐさま光のクレーンがやってきて正してもらうことができるのに・・・トホホ・・・残念なことです(汗)。

以前に観た「War Room」という映画を思い出しました。そこには、「退く」「明け渡す」「委ねる」ということをみごとに行いながら、すべての問題を解決するクララという女性が描かれていました。

クララの家には、Answered Prayer(叶えられた祈り)という額が掲げられています。

これは、すでに答えが与えられた問題の数々が誇らしげに列挙されているのですが、その答えのすべてはこの家の片隅にある「War Room」という小さなスペースから生み出されていたのです。

「War Room」とは、戦いのための戦略を練る部屋、いわば参謀本部ことです。

クララの「War Room」はウォークインクローゼット。彼女は日課としてそこにひとり退き、静かに高い存在とつながる時間をもち、自分やまわりの人々の問題のすべてを委ねることをしています。

これが、クララにとって問題と戦うための戦略なのです。

クララいわく、「みんな戦う相手が誰であるかわかっていない。さらに、戦うためには、正しい戦い方と戦略が必要なのだ」と。

つまり彼女は、自分のこころ(エゴ)が生み出したものと直接戦うことで問題は解決できないことを知っていたのです。さらに、正しい戦略とはものごとを変えようとすることではなく、こころこそを変えてほしいと高い存在にお願いすることだともわかっていました。

だから問題に直面すると、自分が脱線状態であることを正直に認めて、どうか正しい場所に戻してくれるよう熱心に祈るのです。実際に問題と戦うことはせずに、静かに退くことに時間を費やします。

クララはキリスト教徒なので、まるで目のまえいにイエスが立っているがごとく情熱的に語りかけます。大いなる存在と自分との距離がまったく存在せず、まるで信頼できる友人に困りごとを相談するように、助けがえられることを確信して話しつづけます。

完全に委ねきるために真剣に祈ることこそが、正しい問題解決法なのだとクララは知っていたのでした。(この映画は「War Room」というタイトルですが、邦題は「祈りのちから」となっていました。)

私たちのエゴは私たちがここで失敗をくり返し、罪悪感の壁をどんどんぶ厚くしながら、本来の自分自身のから遠のいて闇に沈んでゆくことに喜びを感じています。

だから、真の解決法とはワナである問題に突進して戦いを挑むことではなく、そのような問題をつくり出したエゴのこころを正してもらうべく、自分は静かに退いて高い存在に助けを乞うことなのです。

高い存在とは、自分にとって心地よいシンボルであればかまわないので、ブッダでもエンジェルでもマリアさまでも大いなる光でもなんでもよいのです。

そして、自分は助けが必要であることを謙虚に認め、間違ったこころを正してもらえるように真剣にお願いし、すべてを委ねます。

あとは、その後に自然に起こってくることに抵抗せず、信頼して身をまかせてゆきます。ただ安心して見ているだけで、特別なことは必要ありません。

これがこころの脱線を正すことであり、自然な流れのなかで関係するすべての人にとって役にたつ真の解決へと導かれる方法なのです。

PS War Room がなくっても、大切なのはしっかりとこころを高い存在に向けてつながろうとすること。それは人との関係とまったく同じですね。

 

 

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20-06-18 ベロニカとの記憶

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老年のトニーはひとり暮らし。

離婚した妻や娘とは良好な関係を保ってはいるものの、実際、人に対してあまり興味はなくこころを開かない。

ある日、トニーは弁護士からの手紙を受けとる。それは、学生時代の親友エイドリアンの日記が遺言によって自分に託されている、という内容だった。

しかし、エイドリアンは学生時代に自殺しており、その遺言の主はエイドリアン本人ではなく学生時代の恋人の母親だった。

なぜ今頃、旧友の日記が自分に遺されたのか? なぜ元恋人の母親からなのか? 疑問を抱きながらもその日記を請求すると、遺言執行人である元恋人のベロニカは「もう日記は焼いてしまった」と。

この出来事を機にトニーの記憶の扉が開き、学生時代のさまざまな場面がフラッシュバックのように甦る。

またベロニカとも40年ぶりに再会することとなり、忘れさっていたこころのうずきを感じはじめる。

なにも語ろうとしないベロニカとの間で、トニーの記憶はゆらぎはじめる・・・。(→予告を見る)

嬉しかったり、傷ついたり、恥ずかしかったり・・・私たちのこころのなかにある様々な記憶。

そもそも記憶は私たちのこころによって取捨選択されうるし、また記憶のモトになっている自分自身の認知じたいが「ほんとうのことを見ることができない」ということに私たちは気づきません。

私たちが見ている世界は、まるでカギ穴から覗いているような限られた一部であって、それはあるがままの事実とは違うのです。

さらに、私たちにはあらかじめ自分で目にしたいと思っているストーリーがあり(たいていは被害者のストーリー)、そこにあわせて起こっていることをあてはめて自分なりの物語を紡いでゆきます。

つまり、あるがままではなく、起こっている一部をつなぎ合わせて、組み立てて、自分好みのストーリーにして納得しているのです。でもそれは、自分が「傷ついた」というストーリーであることが多いのです。

このお話のなかのトニーも、自分が思い出した過去の記憶というものが、この「日記」の出来事から揺らぎはじめます。

自分がねつ造した「カギ穴」から見たストーリーではなく、ドアを開け放ち全体を知りはじめたとき、そこにはまったく違うものが見えはじめるのです。

トニーがそのことに気づきはじめたとき、彼はなんと自分が自分を被害者にしていたことか、そのために心をとざしてそこにある愛も拒否していたことに気づきはじめます。

神さまのような目線ですべての出来事の全体を、そのうわべだけでなく内容もながめ渡すことができたとしたら、ほんとうは傷ついたり、被害者になったりすることはできないのかもしれません。

そして、自分のこころの癒しを求めるとき、こころで全体で見ようとする気持ちが欠かせないのだと感じます。

PS 再会したトニーのまえで、なにも語ろうとしない元恋人のベロニカ。シャーロット・ランプリングの存在感だけですべてを語っている感じがします。

 

 

 

お茶の間シネマトーク「ベロニカとの記憶」

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

老年のトニーはひとり暮らし。

離婚した妻や娘とは良好な関係を保ってはいるものの、実際、人に対してあまり興味はなくこころを開かない。

ある日、トニーは弁護士からの手紙を受けとる。それは、学生時代の親友エイドリアンの日記が遺言によって自分に託されている、という内容だった。

しかし、エイドリアンは学生時代に自殺しており、その遺言の主はエイドリアン本人ではなく学生時代の恋人の母親だった。

なぜ今頃、旧友の日記が自分に遺されたのか? なぜ元恋人の母親からなのか? 疑問を抱きながらもその日記を請求すると、遺言執行人である元恋人のベロニカは「もう日記は焼いてしまった」と。

この出来事を機にトニーの記憶の扉が開き、学生時代のさまざまな場面がフラッシュバックのように甦る。

またベロニカとも40年ぶりに再会することとなり、忘れさっていたこころのうずきを感じはじめる。

なにも語ろうとしないベロニカとの間で、トニーの記憶はゆらぎはじめる・・・。(→予告を見る)

嬉しかったり、傷ついたり、恥ずかしかったり・・・私たちのこころのなかにある様々な記憶。

そもそも記憶は私たちのこころによって取捨選択されうるし、また記憶のモトになっている自分自身の認知じたいが「ほんとうのことを見ることができない」ということに私たちは気づきません。

私たちが見ている世界は、まるでカギ穴から覗いているような限られた一部であって、それはあるがままの事実とは違うのです。

さらに、私たちにはあらかじめ自分で目にしたいと思っているストーリーがあり(たいていは被害者のストーリー)、そこにあわせて起こっていることをあてはめて自分なりの物語を紡いでゆきます。

つまり、あるがままではなく、起こっている一部をつなぎ合わせて、組み立てて、自分好みのストーリーにして納得しているのです。でもそれは、自分が「傷ついた」というストーリーであることが多いのです。

このお話のなかのトニーも、自分が思い出した過去の記憶というものが、この「日記」の出来事から揺らぎはじめます。

自分がねつ造した「カギ穴」から見たストーリーではなく、ドアを開け放ち全体を知りはじめたとき、そこにはまったく違うものが見えはじめるのです。

トニーがそのことに気づきはじめたとき、彼はなんと自分が自分を被害者にしていたことか、そのために心をとざしてそこにある愛も拒否していたことに気づきはじめます。

神さまのような目線ですべての出来事の全体を、そのうわべだけでなく内容もながめ渡すことができたとしたら、ほんとうは傷ついたり、被害者になったりすることはできないのかもしれません。

そして、自分のこころの癒しを求めるとき、こころで全体で見ようとする気持ちが欠かせないのだと感じます。

PS 再会したトニーのまえで、なにも語ろうとしない元恋人のベロニカ。シャーロット・ランプリングの存在感だけですべてを語っている感じがします。

 

 

 

久々のおそと珈琲タイム

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

お届けものに来てくださるというお友だちと、出先で落ちあうことに。

珈琲屋さんで何ヶ月ぶりかのお喋りタイム。お店はほぼカラっぽでどちらかといえば安全なのに・・・ どこか気がとがめて言いわけをしている私たち(笑)。

前回会ったのはいつだろう・・・と想いをはせてみると、ああ!トイレットペーパーが底をつきる寸前で、お友だちがわざわざデリバリーをしてくださって以来。あれは三月のはじめなので、「私たちって、三ヶ月も会わずにいい子にしていたのね」と笑ってしまいました。

久しぶりにプロがいれてくださる珈琲がしみいるようにおいしこと。二人で感動しながら、しばし積もる話にテンションあがりっぱなしでした。

少しづつ戻ってくる日常に嬉しくなります。

このお店は素敵な珈琲カップがいっぱい (@ 恵比寿 備屋珈琲店さん)。ベージューのウエッジウッドは、この日の私のスカーフの柄にあわせてくださったよう。

ここに来ると、いつもホットケーキを注文してしまいます。しばらく来ないうちに、以前よりもしっとりおいしくなっておりました。

いつもはお尻に根っこが生えたように時を忘れてお喋りに興じるのですが、この日は早めにきりあげることに。

それでも、お友だちと会ってお喋りしたり、珈琲屋さんでおいしいコーヒーを味わうという ・・・ そんな何気ないことがとても新鮮でありがたく感じるのでした。

 

 

 

 

ねじ

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ボルトがあって

ナットがあって ・・・

ネジネジすると ・・・ こうなって

あら? どこにいっちゃった?

食べちゃったのでした〜!(笑)

これ、いただきものの NEJI CHOCO

チョコだけど、ちゃんとネジネジできるんですよ〜って

いろんな形のチョコがあるけれど、ネジときましたか〜!?

食パンとかにネジ穴をあけたら、これで組み立てられそうですね!

お味も、しっかりとカカオのきいたチョコで、これは男子にウケそうです

最近、アタマのネジが数個足りていないようなので、こちらで補っておきましょう!ごちそうさまです ٩(๑❛ᴗ❛๑)۶

 

 

マスク散歩

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急激に気温が上がりはじめたこの頃。マスクをつけているのがこんなに息苦しいのか!と改めて感じます。

このむし暑さのなかで、一日中マスク着用でお仕事されているみなさまはほんとうに大変。首掛けミニ扇風機とかがもっと普及するとよいですよね。

私の場合、屋外はお買い物かウォーキングぐらいですが、お花を見つけたら撮影がてらちょっとマスクをはずして深呼吸。

風ってこんなに甘い香りがするなんて!と自然の空気の癒し効果を感じます。

湿り気のある六月の風は、お花や木々の香りをたっぷりと運んでくるようです。