気づきの日記「この世でいちばんコワイのは・・・」

 

この世でいちばんコワイのは、

オバケでもなければ、自然災害でもないし、自分の身に起こるかもしれないある状況でもありません。

自分を震えあがらせるとができるのは、じつは自分の考えだけです。

つまり、自分のものごとに対する「解釈」こそが、自分を怯えさせるし、自分を傷つけるし、自分を再起不能なほどにズタズタにすることもできるのです。

それ以外は、何もちからををもっていません。

まるで、自分の手にしている研ぎすまされた刀で自分を脅している、そんな感じです。

さらに、恐れを生みだしている自分の「解釈」が、まったく的ハズレだったら? ぜんぜん正しくなかったとしたら? ・・・ 恐れというものは成り立たなくなってしまいます。

ただ誤解から生まれた、ものの見方のエラーにすぎなかったということになります。それなのに、ちぢみあがって怖がっているなんて!(汗)

そのような間違ったものの見方によって怯えているにもかかわらず、私たちはその「考え」を変えようとはせず、もっぱら目のまえにあるものごとや人を変えることにやっきになってしまいます。

そうなると、間違ったものの見方は置き去りにされ、その結果の方にエネルギーを注ぐことになります。すると、その出来事がよりリアルになり、自分にはまったく勝ちめのない敵のように感じてしまうのです。

まず正すべきところは、間違っているところ、つまり自分の間違ったものの見方です。

一回静かに立ちどまって「なぜ、それがそんなにコワイのか」、そのことについての解釈について冷静にこころを探ってみましょう。

すると、もしかすると ・・・ 自分は小さいものでそれをどうすることもできないし、さらに何の助けも期待できない ・・・ というような無力感に出会うかもしれません。

起こることに対して、自分でどうすることもできず、さらに誰も助けてくれないなら、それはかなりコワイに違いありません。

でも、もしも・・・自分には全宇宙の力がそなわっていて、それに対してこころを開くことでそのすべてが自分のものにでき、さらに起きていることの先にはよきことのみが待っているとしたら ・・・?

「そんなムシのいいこと?! そんなことは自分には起きないのさ!」って?

そう言いはりたいこと、不幸で孤独な人生こそ自分にふさわしいと主張したいことこそが、間違っているのです。

「すべてのことは、自分ががいちいちかかわらなくっても全自動ですべてはうまくいっているんだ。だって、よきことだけが自分にやってくるはずだから」 ・・・ そんな新しい考え(真実)を採用してみてはどうでしょう?

迎え入れるこころをもてば、それはやってきます。そして、それは見せてくれます。

とてもそんな都合のいいこと信じられない・・・ というのなら、「今、自分ではその考えは信じることはできないけれど、でも信じられるようになりたい」と高い自己にお願いしてみましょう。

まず、手始めは他人の幸せを願ってあげるのと同じように、自分の幸せも願ってあげることです。

 

自分にもやさしくしてあげましょう。愛してあげましょう。(私たちみんな、人には思いやりをもつことができるのですが、自分に対してはサドさんレベルでかなり手厳しいようです。)

今は信じることができなくっても、招きいれる気持ちをもつことで、かならずそれはやってきます☆

ただ自分が向かいたい方向性(幸せ、安らぎ)を決めて、あとは高い自己に手をひいて連れて行ってもらいましょう。

 

 

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断捨離インパルス

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

何年かに一度起こる、はげしいモノ捨て衝動。

はじめは本棚だけ片づけていたら、止まらなくなって家中におよんでいます。

本だけでも、すでに300册以上捨てていて(仕事の資料だってみさかいなし! これでいいのか?!)、

それらを紐でくくって、ゴミ置き場まで運ぶだけでも相当な重労働。「千と千尋」の釜爺がいてくれたらいいのに!(二人で手が八本!)

一週間もやっているうちに、だんだん妥協がなくなってきて、「この三日で使わなかったものはいらない」ぐらいのシビアさに(汗)。正気になったら身ひとつになりそうでコワいです。

でも、ちょっとモノを捨てるだけで、ホントさっぱりします。ダイエットに成功したような達成感。

過去にも一度こんな衝動がやってきたときがあり、当時は路地がゴミ置き場だったのですが、その三角地帯がまるで私の部屋のようになっておりました。

そして、この直後、突然な理由で引っ越しをすることになり、「そうか、そうゆことだったのか〜!」と納得したものです。

こんどはいったいなんなのっ!?

ちょっとドキドキしていますが、きっとこれが今必要なのでしょうね〜。

古いあれこれを始末するというのは、こころの贅肉が一気におちるようなサッパリ感。

おそらく、そろそろメタボをすっきろさせろよ!(こころのね)、ということなのでしょうね〜〜(汗)。

まだしばらくはつづきそうです。身軽になって、飛んでいっちゃえ〜♪

 

 

20-11-01 求めて、受けとる

 

クライエントさんとお話していて、よく耳にする言葉。それは、「私たちって、なんて間違ったことばかり信じてしまったのでしょうね?!」というひとこと。

間違った考えは、間違った体験へとつながります。

なので、癒しとは自分を苦しめている間違った考えに気づいて、それを取りのぞいてあげる作業です。(あくまでも間違った考えであって、自分を変えることではありません!)

自分が何かに行き詰まったり、悩んでいるとき・・・ その根底にある信念をよくよく調べてみると、自分がどれだけおかしな考えを信じているかがわかります。

人が聞いたら「そりゃ、すごくおかしい!お腹かかえて笑っちゃうぐらいおかしい!」という信念ですら、自分にとっては当然すぎて何がおかしいのかわからないのです。

「ある考えに一体化してしまう」ということは、それに対してまったく疑いをもたなくなることです。

それはまるで、「顔にはりついたサランラップ」のよう。サランラップがピタッと顔にはりつくと、はりついていることすらわからなくなります。

でも、ほんの1ミリでも端っこがめくれると、メチャ違和感。一気にぜんぶはがしたくなります。

あたりまえだったことが、「ん?なんかおかしい?!」と気づくと、それがサランラップ(いらないもの)にさよらなするという大きな変化につながったりします。

完全に一体化したおかしな考えも、ふと疑いをだくことでその牙城をくずし、まったく違うクリアな世界を目にすることもできるわけです。

私たちが幸せになるために、最初に取り消さなければならない間違った信念のひとつは、「誰かに頼ってはいけない」というもの。

これは、小学生の頃から、「ちゃんとひとりでできるようになりなさい」「人に頼るんじゃないわよ!」「自分のアタマで考えなさい」・・・と、

自分で! 自分で! とさんざん言われたあまり、その弊害はかなり甚大なものとなっています。自分に与えられている当然の特典が使用できなくなってしまったのです。

自分に与えられてた当然の特典?! ・・・ それってなによ? と思いますよね。

それは、「あまかせサービス」の特典。「全部やってあげるから、委ねてね!」という「おまかせサービス」つきで生まれてきているということなのです。

自分でやらないなら部屋の真んなかに坐っていればいいの? ・・・ そうではなくって、「自分であれこれやろうと四苦八苦するのではなく、すべて委ねてから、自然に身をまかせて動きましょう」ということなのです。

しかし、必死になって身につけた「自力」のワザによって、この「人生自動処理機能」は無効になっています。

だから、正しくは「自分ひとりでやらずに、委ねてから、自然に起こることに身をゆだねること」ことが正解なのです。

覚えておかなくてはならないのは、この「自動処理機能」はほおっておいては働かないということです。

つねに、「求めること」が必要です。「使いたいです!」という使う意思表示が大切なのです。(イエスの言葉にもありましたね!「求めよ、さらば与えられん」と。)

私たちがこの世界で旅をはじめたとき、宇宙は私たちに「無限オンラインショップ」の無償利用権を与えてくれました。が、誰もそのサービスについて聞いたことがある人はいません。学校でも教えてくれませんでした。

このオンラインショップは自分でオーダーする(求める)ことで、すべて必要なものがやってきて、すべての手配が整うようにできているのです。

私たちの「自力でどうにかするべき!」という信念から、このオンラインショップを使いそこなってきました。(何十年分も?!)

自ら注文したなら、このオンラインショップはニーズのすべてを満たすラインナップを備えているので、ただそれが到着するのをリラックスして待つだけなのです。

私たちは「自力」という信念を持ってしまったがために、自分の当然の権利であるオンラインショップを使うことなくここまできてしまいました。

あたふた自力でかけまわって、汗水ながしてすべてをどうにかしようとする必要はなく、ただ静かにリラックスしてオンラインショップにつながって、「受けとりたいです」と注文すればいいだけだったのに。

ただし、つねに「注文すること」は欠かせないポイントです。なぜなら、私たちは「自力でやりますからいりません」と言っちゃったからです。

「求めよ、されば与えられん」は、「注文してね!そうすれば、届くからね」ということだったのですね。

注文の際、ひとつ注意事項があります。

それは、注文するときに「足りないです。だからお願いします」と求めるのはやめましょう。足りない気持ちで求めると、足りないがやってきます。

「私はすべてを与えられています。それを受け取りたいのです」とお願いしましょう。

具体的な要求はせずに届くのを待ちましょう。なぜなら、自分が思っているよりもよいものが用意されているからです。

そして、つねに「私はすでにもっているのだ!」という気持ちでいることも大切です。

すでに与えられている特典に気づくことができたのなら、どんどん使用してみましょう。使用回数、使用量に制限はありません。

ただ安らいでそれを求めて、受けとりましょう♡♡♡

 

 

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気づきの日記「求めて、受けとる」

 

クライエントさんとお話していて、よく耳にする言葉。それは、「私たちって、なんて間違ったことばかり信じてしまったのでしょうね?!」というひとこと。

間違った考えは、間違った体験へとつながります。

なので、癒しとは自分を苦しめている間違った考えに気づいて、それを取りのぞいてあげる作業です。(あくまでも間違った考えであって、自分を変えることではありません!)

自分が何かに行き詰まったり、悩んでいるとき・・・ その根底にある信念をよくよく調べてみると、自分がどれだけおかしな考えを信じているかがわかります。

人が聞いたら「そりゃ、すごくおかしい!お腹かかえて笑っちゃうぐらいおかしい!」という信念ですら、自分にとっては当然すぎて何がおかしいのかわからないのです。

「ある考えに一体化してしまう」ということは、それに対してまったく疑いをもたなくなることです。

それはまるで、「顔にはりついたサランラップ」のよう。サランラップがピタッと顔にはりつくと、はりついていることすらわからなくなります。

でも、ほんの1ミリでも端っこがめくれると、メチャ違和感。一気にぜんぶはがしたくなります。

あたりまえだったことが、「ん?なんかおかしい?!」と気づくと、それがサランラップ(いらないもの)にさよらなするという大きな変化につながったりします。

完全に一体化したおかしな考えも、ふと疑いをだくことでその牙城をくずし、まったく違うクリアな世界を目にすることもできるわけです。

私たちが幸せになるために、最初に取り消さなければならない間違った信念のひとつは、「誰かに頼ってはいけない」というもの。

これは、小学生の頃から、「ちゃんとひとりでできるようになりなさい」「人に頼るんじゃないわよ!」「自分のアタマで考えなさい」・・・と、

自分で! 自分で! とさんざん言われたあまり、その弊害はかなり甚大なものとなっています。自分に与えられている当然の特典が使用できなくなってしまったのです。

自分に与えられてた当然の特典?! ・・・ それってなによ? と思いますよね。

それは、「あまかせサービス」の特典。「全部やってあげるから、委ねてね!」という「おまかせサービス」つきで生まれてきているということなのです。

自分でやらないなら部屋の真んなかに坐っていればいいの? ・・・ そうではなくって、「自分であれこれやろうと四苦八苦するのではなく、すべて委ねてから、自然に身をまかせて動きましょう」ということなのです。

しかし、必死になって身につけた「自力」のワザによって、この「人生自動処理機能」は無効になっています。

だから、正しくは「自分ひとりでやらずに、委ねてから、自然に起こることに身をゆだねること」ことが正解なのです。

覚えておかなくてはならないのは、この「自動処理機能」はほおっておいては働かないということです。

つねに、「求めること」が必要です。「使いたいです!」という使う意思表示が大切なのです。(イエスの言葉にもありましたね!「求めよ、さらば与えられん」と。)

私たちがこの世界で旅をはじめたとき、宇宙は私たちに「無限オンラインショップ」の無償利用権を与えてくれました。が、誰もそのサービスについて聞いたことがある人はいません。学校でも教えてくれませんでした。

このオンラインショップは自分でオーダーする(求める)ことで、すべて必要なものがやってきて、すべての手配が整うようにできているのです。

私たちの「自力でどうにかするべき!」という信念から、このオンラインショップを使いそこなってきました。(何十年分も?!)

自ら注文したなら、このオンラインショップはニーズのすべてを満たすラインナップを備えているので、ただそれが到着するのをリラックスして待つだけなのです。

私たちは「自力」という信念を持ってしまったがために、自分の当然の権利であるオンラインショップを使うことなくここまできてしまいました。

あたふた自力でかけまわって、汗水ながしてすべてをどうにかしようとする必要はなく、ただ静かにリラックスしてオンラインショップにつながって、「受けとりたいです」と注文すればいいだけだったのに。

ただし、つねに「注文すること」は欠かせないポイントです。なぜなら、私たちは「自力でやりますからいりません」と言っちゃったからです。

「求めよ、されば与えられん」は、「注文してね!そうすれば、届くからね」ということだったのですね。

注文の際、ひとつ注意事項があります。

それは、注文するときに「足りないです。だからお願いします」と求めるのはやめましょう。足りない気持ちで求めると、足りないがやってきます。

「私はすべてを与えられています。それを受け取りたいのです」とお願いしましょう。

具体的な要求はせずに届くのを待ちましょう。なぜなら、自分が思っているよりもよいものが用意されているからです。

そして、つねに「私はすでにもっているのだ!」という気持ちでいることも大切です。

すでに与えられている特典に気づくことができたのなら、どんどん使用してみましょう。使用回数、使用量に制限はありません。

ただ安らいでそれを求めて、受けとりましょう♡♡♡

 

 

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☆ Happy Halloween ☆

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

今年はどなたさまも、無料にてオオカミ男の仮装をお楽しみいただけます!
なんたって、今夜は満月ですから♪

夜は冷えるようですが、毛むくじゃらは温かくって最高ですよ〜!きっとやみつき・笑

 

 

 

20-10-26 外側をいじくらない

 

小学生の頃、こんなくちゲンカのセリフを耳にしたかもしれません。

「だったら、証拠見せてみろよ! え? え? 証拠あんのかよ、オイッ!」

私たちはオトナになっても、目に見える証拠にこだわります。愛の証(プレゼント、婚姻届)、安全の証(口座のお金)、健康の証拠(健康診断の結果)など・・・。

目に見えることこそが真実だと思っているからです。

まあ、この世界での「生きる」ということは、外の世界にある証拠に反応することだからです。

でも、私たちが外側にあることがらに反応しつづけるがために、同じパターンのループから抜けられなくなっていることに気づきません。

なぜなら、外側にあるものとは、自分のこころがそこに置いたものなので、それに対して責めたり、あれこれ不平不満を言いつづけると、さらにこころのなかでそれをリアルに強化することになってしまうからです。

不平不満こそ、それを長引かせて、そこから抜けられなくするいちばん強力な手段なのです。なんせ、外にあるものに私はやられちゃうんです!と言っているので、自分は本来のパワーを失い、とてもちっちゃな存在になってしまいます。

そうするともう、自分が誰だかわからなくなり、本来自分のものだった安らぎも幸せも、闇のなかに消え去ることになります(結局、自分で自分の幸せをふみにじっています)。

ほんとうは、目にしている形はスルーしなくてはなりません。形は簡単に欺いてくるからです。

そもそも自分が目にする形がどこからやってくるのでしょうか? それを理解することが大切です。

形は、自分の外側にあると信じてしまいますが・・・じつは、形は自分の意識のなかで起きています。

知覚は、意識のなかで意識が織りなすイメージだからです。形は、自分の思いと切っても切り離すことができないのですね。

私たちはいつも自分の思いを形にして見ており、それに怯えたり、怒ったり、動揺しているということになります。

それはまるで、自分でしかけたワナに自分でかかってビックリ仰天!という感じです。冷静な人が見たら苦笑ものです。

自分が目にすることを責め立てても意味はなく、ほんとうにイヤだったら、自分のこころを変えるしかありません。

目にするものがこころを乱すなら、

*まずは立ち止まって、外側のことは変えるべきものではないことに気づき、スルーしておきます。

**変えるべきは「こころ」だと気づきます。

***そして、「これは自分が見たいものではありません。私が間違っていました。これを映し出しているこころの間違いを取り去ってください」とハイヤーセルフにこころを変えられるようにお願いします。

あとは、ハイヤーセルフが全部とりしきってくれるので、安心してそれがどのようになってゆくのかをながめていましょう(シンプルです!)。

自分で自分をイジメる自虐的なあそびから脱するためには、自分のこころが動揺している場面にしっかりと気づき、そのたびに訂正することが大切です。

ものごとを変化させるには、外側であれこれ企てるのではなく、ただこころのなかにある間違った思いを取り去るだけでいいのです。

間違いが外へと映し出されていただけなので、こころを正してあげればすべてがあるがままの安らぎの状態に戻ります。

あるがままには、キケンも、困ったこともないので、すべてのピースがうまく組み合わさって完全さを織りなし流れてゆきます。

ただこころの間違いであることを認めて、それを訂正したら、すべてを手放してそのままにしてあげましょう。それで大丈夫です♡

 

 

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気づきの日記「外側をいじくらない」

 

小学生の頃、こんなくちゲンカのセリフを耳にしたかもしれません。

「だったら、証拠見せてみろよ! え? え? 証拠あんのかよ、オイッ!」

私たちはオトナになっても、目に見える証拠にこだわります。愛の証(プレゼント、婚姻届)、安全の証(口座のお金)、健康の証拠(健康診断の結果)など・・・。

目に見えることこそが真実だと思っているからです。

まあ、この世界での「生きる」ということは、外の世界にある証拠に反応することだからです。

でも、私たちが外側にあることがらに反応しつづけるがために、同じパターンのループから抜けられなくなっていることに気づきません。

なぜなら、外側にあるものとは、自分のこころがそこに置いたものなので、それに対して責めたり、あれこれ不平不満を言いつづけると、さらにこころのなかでそれをリアルに強化することになってしまうからです。

不平不満こそ、それを長引かせて、そこから抜けられなくするいちばん強力な手段なのです。なんせ、外にあるものに私はやられちゃうんです!と言っているので、自分は本来のパワーを失い、とてもちっちゃな存在になってしまいます。

そうするともう、自分が誰だかわからなくなり、本来自分のものだった安らぎも幸せも、闇のなかに消え去ることになります(結局、自分で自分の幸せをふみにじっています)。

ほんとうは、目にしている形はスルーしなくてはなりません。形は簡単に欺いてくるからです。

そもそも自分が目にする形がどこからやってくるのでしょうか? それを理解することが大切です。

形は、自分の外側にあると信じてしまいますが・・・じつは、形は自分の意識のなかで起きています。

知覚は、意識のなかで意識が織りなすイメージだからです。形は、自分の思いと切っても切り離すことができないのですね。

私たちはいつも自分の思いを形にして見ており、それに怯えたり、怒ったり、動揺しているということになります。

それはまるで、自分でしかけたワナに自分でかかってビックリ仰天!という感じです。冷静な人が見たら苦笑ものです。

自分が目にすることを責め立てても意味はなく、ほんとうにイヤだったら、自分のこころを変えるしかありません。

目にするものがこころを乱すなら、

*まずは立ち止まって、外側のことは変えるべきものではないことに気づき、スルーしておきます。

**変えるべきは「こころ」だと気づきます。

***そして、「これは自分が見たいものではありません。私が間違っていました。これを映し出しているこころの間違いを取り去ってください」とハイヤーセルフにこころを変えられるようにお願いします。

あとは、ハイヤーセルフが全部とりしきってくれるので、安心してそれがどのようになってゆくのかをながめていましょう(シンプルです!)。

自分で自分をイジメる自虐的なあそびから脱するためには、自分のこころが動揺している場面にしっかりと気づき、そのたびに訂正することが大切です。

ものごとを変化させるには、外側であれこれ企てるのではなく、ただこころのなかにある間違った思いを取り去るだけでいいのです。

間違いが外へと映し出されていただけなので、こころを正してあげればすべてがあるがままの安らぎの状態に戻ります。

あるがままには、キケンも、困ったこともないので、すべてのピースがうまく組み合わさって完全さを織りなし流れてゆきます。

ただこころの間違いであることを認めて、それを訂正したら、すべてを手放してそのままにしてあげましょう。それで大丈夫です♡

 

 

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20-10-23 バレエボーイス

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

まだあどけない面影が残る三人の男の子たち。

14歳というと、まだ青年でもなく、少年でもない、そんな年齢。

サナギが変貌をするように、日々、体格も、顔つきも、声色も、語る言葉も、物腰も大人びてゆくのが見てとれます(自分もこの年齢、こんなだったのでしょうか?)。

そんな実在する三人の男の子の日常を4年間にわたって追いつづけたドキュメンタリー作品なのですが、彼らはちょっとばかりふつうの男の子とは違うのです。彼らは、バレエボーイズ。

バレエを習う女の子は多いなか、男子は希有な存在。彼らは、オスロのバレエスクールで、日々ダンサーを夢見て練習にうちこむそんなバレエ男子なのです。

勉強も忙しさをますなか、バレエの練習もかなりキツく早朝から夜遅くまでつづき、友人と遊ぶヒマもないクタクタな毎日。そのうえ、先生に進路についてのプレッシャーをかけられ ・・・。

このまま自分を信じていいのか? この道をつっぱしっていいのか? プロへの道は拓けるのか? はたして才能はあるのか? ほんとうに努力は実るのか? ・・・ 希望と不安が交錯します。

でも、踊ることは大好きで、踊っていると気持ちがいい、自由を感じる、と。

とにかく、三人の男の子たちがかわいらしいです。

まだ中学生なのでどこか恥じらいながらも神妙な顔つきで、女の子の腰に手をそえて回転をサポートをします。「女の子と踊れるのは楽しいけど、舞台で失敗したらずっと恨まれる・・・」と苦笑。

コンクールやバレエスクールの進学において、三人は険しい道を支えあう仲間ならではの強固な絆が感じられます(ホントに仲良し♪)。きみたちがいるからこそできるんだ! という感じです。

いちばん練習熱心なルーカスは、バレエは夢、踊っていると最高に楽しい!と。コンクールで大失敗してしまったシーヴェルトは、それでも名の知れたダンサーになりたいと。スポーツ万能のトルゲールは、本気で望みさえすれば何にでもなれる・・・と。

4年に渡る撮影でみんなどんどん背が高くなり、ついには180センチ越え。女の子を軽々リフトする青年に成長します。

迷いや葛藤のなかにあっても、喜びや希望に輝く彼らの表情は、ホンモノだからこそとても美しいのです。

それから?それから?・・・と、彼らの成長を身内のように見守っているうちに ・・・ え?ここで終わり?! うっそ〜〜〜!(汗)

もっと観ていたかったのに〜〜♡ 

おもわず、その後を検索しちゃいましたよ。すると、「バレエボーイスその後」なるサイトが存在(笑・みんな気になっていたのね!)。

彼らのその後の道のりに、「うんうん・・・そっかそっか〜♡」と親戚のオバサンのように微笑んでしまいました(笑)。

彼らの情熱と無垢なまなざし、それを静かに見守るご両親の愛情や不安、かけがえのない仲間との友情や別れ ・・・一緒になって、がんばれよ〜〜!とエールを送ってしまう作品でした☆

涙壷度:★☆☆☆☆(旅立ちの場面はホロリときました)
(→予告を見る

 

 

 

お茶の間シネマトーク「バレエボーイズ」

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

まだあどけない面影が残る三人の男の子たち。

14歳というと、まだ青年でもなく、少年でもない、そんな年齢。

サナギが変貌をするように、日々、体格も、顔つきも、声色も、語る言葉も、物腰も大人びてゆくのが見てとれます(自分もこの年齢、こんなだったのでしょうか?)。

そんな実在する三人の男の子の日常を4年間にわたって追いつづけたドキュメンタリー作品なのですが、彼らはちょっとばかりふつうの男の子とは違うのです。彼らは、バレエボーイズ。

バレエを習う女の子は多いなか、男子は希有な存在。彼らは、オスロのバレエスクールで、日々ダンサーを夢見て練習にうちこむそんなバレエ男子なのです。

勉強も忙しさをますなか、バレエの練習もかなりキツく早朝から夜遅くまでつづき、友人と遊ぶヒマもないクタクタな毎日。そのうえ、先生に進路についてのプレッシャーをかけられ ・・・。

このまま自分を信じていいのか? この道をつっぱしっていいのか? プロへの道は拓けるのか? はたして才能はあるのか? ほんとうに努力は実るのか? ・・・ 希望と不安が交錯します。

でも、踊ることは大好きで、踊っていると気持ちがいい、自由を感じる、と。

とにかく、三人の男の子たちがかわいらしいです。

まだ中学生なのでどこか恥じらいながらも神妙な顔つきで、女の子の腰に手をそえて回転をサポートをします。「女の子と踊れるのは楽しいけど、舞台で失敗したらずっと恨まれる・・・」と苦笑。

コンクールやバレエスクールの進学において、三人は険しい道を支えあう仲間ならではの強固な絆が感じられます(ホントに仲良し♪)。きみたちがいるからこそできるんだ! という感じです。

いちばん練習熱心なルーカスは、バレエは夢、踊っていると最高に楽しい!と。コンクールで大失敗してしまったシーヴェルトは、それでも名の知れたダンサーになりたいと。スポーツ万能のトルゲールは、本気で望みさえすれば何にでもなれる・・・と。

4年に渡る撮影でみんなどんどん背が高くなり、ついには180センチ越え。女の子を軽々リフトする青年に成長します。

迷いや葛藤のなかにあっても、喜びや希望に輝く彼らの表情は、ホンモノだからこそとても美しいのです。

それから?それから?・・・と、彼らの成長を身内のように見守っているうちに ・・・ え?ここで終わり?! うっそ〜〜〜!(汗)

もっと観ていたかったのに〜〜♡ 

おもわず、その後を検索しちゃいましたよ。すると、「バレエボーイスその後」なるサイトが存在(笑・みんな気になっていたのね!)。

彼らのその後の道のりに、「うんうん・・・そっかそっか〜♡」と親戚のオバサンのように微笑んでしまいました(笑)。

彼らの情熱と無垢なまなざし、それを静かに見守るご両親の愛情や不安、かけがえのない仲間との友情や別れ ・・・一緒になって、がんばれよ〜〜!とエールを送ってしまう作品でした☆

涙壷度:★☆☆☆☆(旅立ちの場面はホロリときました)
(→予告を見る

 

 

 

20-10-20 理由のわからない感情に悩まされる

 

米国制作のドキュメンタリー「死者の記憶をもつ子供たち」を観ていました。

以前、日本のバラエティでも一部紹介されましたが、その子のものではない記憶に苦しめられる子供たちを取材しています。

その記憶というのは、たとえば第二次世界大戦だったり、9.11、ホロコースト、すでに亡くなっている有名人など、自分ではない誰かの記憶です。

子供たちは、そのリアルなイメージや恐怖感によって怯えつづけたりうなされたりするのです。

我が子の苦しむ様子にいたたまれなくなった両親が、子供からその詳細を聞きだし調査をすすめてみると、戦時中や実際の出来事において、子供の記憶と同名の人物が存在し、同じ体験をして亡くなったことが明らかになります。

まさに、その子供たちは亡くなっている人たちの生前の記憶を自分の記憶のように持っているわけです。このドキュメンタリーのなかではその遺族と面会(再会?)するという場面も見られました。

子供たちは、その記憶にただホンロウされるのではなく、正面から向き合うことでしだいにそれから解放されてゆきます。

まるで、その人物の恐怖や無念やさまざまな思いが癒されて無くなってゆくように。

たしかに ・・・ なくなる直前に恐怖に直面し、その恐怖をかかえたまま亡くなったとしたら、それは心に鮮明に刻印されうることもあるでしょう。

そして、輪廻という時間軸(これもひとつのものの見方にすぎませんが)から見れば、癒されていないものこそを抱えて再びやってくる、ということも不思議ではありません。

へえ〜〜、おもしろいね! と感じられるかもしれませんが、

これは誰にでも少なからずあるように思います。

子供たちのようにここまで鮮明でなくとも、誰もが子供の頃に同じ夢を何回も見ていたり、同じような恐怖心を感じつづけていたりしていることもあります。

あるいは、何かの出来事によって心の深いところが刺激を受けると、その記憶が表面に浮上してきて、わけのわからないザワザワ感だけが感じられるようなことが起こります。(あの子供たちのような鮮明なストーリーや画像は欠落しているため感情だけが感じられるのですが、じつは心の底にはストーリーも画像もひそんでいます。これはヒプノセラピーなどをしていると鮮明に現れます。)

私も五歳ぐらまでは、同じイメージをくり返し見てはうなされ、毎晩母を起こしていたものです。

それは、浜辺に打ちあげられた難破船と波内ぎわの骸骨のイメージ。死んじゃったあとは、自分を外から見ているのでおそらくあれは自分ではないかと感じています。なので、この人生では海は好きだけれど、水のなかでゴボゴボするのは大嫌いで泳ぎたくありません。

クライエントさんやお友だちからも、まったく幼児体験とは関係ない恐怖を小さい頃からずっと感じていた、という話を耳にします。圧死する恐怖、孤独死する恐怖、人から責められる恐怖、裏切られる恐怖 ・・・。

生い立ちや身に覚えのない恐怖を小さいころから強く感じていた方は多いのです。

初対面の人になんかザワザワする、というのも、詳細の記憶はなくなっていても、その感情だけは抱えているパターンですよね。

この子供たちのように過去世としての鮮明な記憶でなかったとしても、私たちのなかには自分では理由がわからない「感情」の刻印は残っているよう。

愛情深い両親のもとで大切に育ったのに、強い見捨てられ感があるとか。悲惨な体験はしていないのに、いい知れぬ恐怖が襲ってくるとか。裏切られた体験なんてないのに、絶対裏切られるという頑な信念を持っているとか。恋愛でツライ体験をしたこともないのに、とにかく異性に嫌悪感を感じるとか。・・・・

ヒプノセラピー(リラクゼーションを使い潜在意識を癒すセラピー)を行ってみると、みなさんなんらかの過去世らしきイメージやストーリーや感情が浮上してきます。まるで、この番組の子供たちが他の人の記憶を持っているように。

やはりそれは、戦時中だったり、災害だったり、その人生のなかでのインパクトのある事件だったり、あるいは個人的な悲しい出来事だったり ・・・ そこで強い恐れを感じたため、心に刻印されているようなのです。

そして、この子供たちと同様、それらの記憶や感情に正面から向き合い、受けいれてあげることで消え去ってゆきます。

まさに無念、後悔、執着、罪悪感こそが同じことをぐるぐるくり返させる原因であることがわかります。

それらは、心のなかで認めて、受けいれられたときに、穏やかに消滅してゆく(成仏してゆく)ことができます。

そうですよね。何か後悔があるときに、誰かに耳を傾けてもらって、「そうだったんだね!うん、うん、そっか〜!」と聞いてもらえたら、気がすむのと同じですよね。

もしも ・・・ご自分のなかに、自分の生い立ち、人生ではあるはずがないような「恐怖」「動揺」「執着」「混乱」など、ある種のパターンがあるようだったら、

それを無視してなきものにしようとするのではなく、とことん耳を傾けてあげましょう。

もしかすると、その感情を感じているうちに、ふとストーリーを語りたくなるかもしれません。あるいは、あるイメージが浮かんでくるかもしれません。あるいは、ただただその感情がよりリアルになってくるかもしれません。

ただ受けとめて、小さい子供の話を聞くように受けとめてあげましょう。それにあるがままに語らせてあげましょう。

自分のものではない記憶と向きあった子供たちのように、きっとそのわけのわからない感情はそれによって満足して、落ち着いてくると思います。

無視すること、逃げること、なきものにすることなく、正面から向き合うことが解放のカギになるのですね!

 

 

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