気づきの日記「イヤな気分はものごとのせいじゃない☆追伸」

 

「街でお買い物をしていたとき、知らない人に理不尽な言葉をなげかけられイヤな気分になっていましたが、昨日のブログ『イヤな気分はものごとのせいじゃない』が役に立ちました」とAさんから気づきのシェアをいただきました。

よかった!グッドタイミングですね ( ・◡・ )

イヤな気分になる出来事に遭遇したときのために、もう少々つけ足しておきましょう。

じつは・・・そのイヤな出来事というのは、お初の体験ではありません。自分のこころのなかで、すでに何度も上映されてきたおなじみの場面なのです。

ビデオで同じ場面を何度も見ているように、今回がはじめてなのではないのです(それをこころが覚えている場合は、デジャヴ感がよみがえります)。

その場面は、こころが正しく認識するまで永遠に繰りかえされる映像なのです。(いいかげん飽きそうですが、うんざりしてホントにもうイヤになるときがきたら、案外あっさりとやめられるかもしれません・汗。)

正しく処理されたあかつきには、きれいに消去され終わりになります。

つまり、そのことに遭遇したのは偶然ではなく必然の出来事です。

また、そのときに感じる動揺もそのストーリーの一部であり、自動的に起こっているので自分を責める必要はありません(勝手にそうなっています)。

大切なのはそのあとです。そのあとにどう対処するか? それが、再び繰りかえすか、もう終わりにするか、のわかれめです。

イヤな気持ちを抑圧したり無視したりすると、それはこころに保存されてしまうのでまたやってくることになります。それに対する怒りも、そこに罪が存在すると信じていることになるので、やはりふたたび罪を見ることになります。

昨日のブログでも書きましたが、正しい対処の仕方は、「なぜ、イヤな気分になったのか?」。その「イヤな気分の原因となった考え」を探求して、それをハイヤーセルフに手放すこと、でした。

たとえばこんなふうにやります。・・・「 理不尽な言葉をなげかけられてイヤな気持ちになってしまった」 ・・・ なぜなら、

→ 私は攻撃されたと感じた → 私は簡単にやられてしまう存在だ → 私は小さく脆い → 大きな力に守られてはいない → 私はひとりぼっちだ → 誰とも何ともつながっていない → つながれない私は何かが間違っているに違いない → 間違ってしまった私 → 罪悪感
(注:これはAさんの信じていることではありません。ひとつのモデルです。)

正さなければならないのは、この攻撃や間違いや罪を信じているこころそのものです。

これらを信じているからこそ、同じストーリーを繰りかえし見つづけ、脱却できずにいます。

何度も見てきたこの場面で、今度こそ「ここに罪(間違い)が存在することを信じている自分」、「それを見ている自分」をゆるす、つまり「ぜんぶ、私こそが間違っていました」ということを自ら認めなければならないのです。

このように自分のこころにおいて被害者意識を手放すことが、自分の体験を変えるためのポイントとなる場所であり、考えです。

被害者をやめ、間違い・罪を信じていた自分を自分自身がゆるす、ということです。

ゆるす、ということは、こころのゴミを手放すことであり、そのゴミの下には自分の正しいこころがあります。それは、間違いを知らない、愛そのものです。

私たちが目にするイヤなこととは、自分が無視してきた無意識のなかにある思いそのものであり、それがイメージとしてあらわれたものです。

それを出来事として見たり感じられたときにはじめて、自分で「気づく」ことができ、手放す意図をもつことができます。

だから今度こそ、そこに見ていた(そこにおしつけていた)自分の無意識下の不幸をよぶ考えを手放す機会を役立てなくてはなりません。

このような取り消しを行ってゆくと、同じような傷つく場面は削除されてゆき、自分が目にするストーリーがしだしに穏やかになってゆきます。

なぜなら、そこにある愛という光が輝きだす余地が生まれて、その光のなかで世界が見えるからです。

自分を傷づけることができるのは自分だけ。そして、いつでもそれをやめるために気づくことができるのです♡ (´▽`)v

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

20-08-03 イヤな気分はものごとのせいじゃない

 

Q: ある出来事からイヤな気分を引きづっています。まるで、こころにうっすらと雲がかかったように感じるのですが・・・。

A: イヤな気分に出くわすと、まず私たちがしようとするのは気分転換。あるいは、「私はぜんぜん大丈夫!」とまったく感じていないフリをすることも。

このような感情の抑圧や無視は、そのときはうまくいくように感じるかもしれません。が、遅かれ早かれ同じ気持ちが戻ってくることになり、自分の感情に対して手におえないという敗北や挫折を感じることになります。

じつは「イヤな気分」というのは、「なにかが間違っている」というお知らせにすぎません。そこでするべきことは、間違いを正すことだけです。

そして、「間違っているなにか」とは自分の考えのことです。イヤな気分を感じているというのは、どこかで自分の考えが間違ってしまった、ということなのです。

「気分」というのは、自分の考えの結果として感じられるものです。

私たちは「ものごと」そのものがイヤな気分をもたらしたのだ信じがちです。けれど、「ものごと」には意味はなく、まったく罪はありません。

ひとつの「ものごと」でも、人によって「よかったじゃない!」と喜ぶ人もいれば、「最低最悪!」と落ちこむ人もいるし、こころになんの印象を残さない人もいます。

それぞれが意味を与えているので、人の数だけ「ものごと」の意味があるといえます。

ならば、「ものごと」じたいがイヤな気分を引き起こす原因ではないとわかります。

イヤな気分になるとしたら、どこかで「自分を傷つける考え方」を採用してしまった、ということになります。そのものごとに、「自分を傷つけるような解釈」を与えてしまったのです。

そして、そのとき感じるイヤな気分こそが、いつ自分で自分を傷つけてしまったのかを教えてくれるブザーのような役割をはたしてくれています。

しかし、私たちはイヤな気分を感じたとたん、そそくさとそこから逃げ出したくなってしまうのです。

なぜなら、外からやってきたなにかが自分をイヤな気持ちにさせたのだと信じているから。さらなる攻撃にさらされないうちに、早くそこから逃げなくてはと感じるのです。

そうすると、せっかくのお知らせブザーもスルーされ、「間違い」を正すためのチャンスがまた見送られてしまうことになります。

私たちのエゴは、イヤな気分という怖れを使って、目のまえのことに自分を釘づけにしようと企んでいます。

イヤな気分と出来事をリンクさせることで、その出来事こそが自分にとって脅威であるように勘違いさせることができるからです。すると、それに怯えて、きゃ〜きゃ〜わ〜わ〜することで、怖れというエゴは肥大して力を増すことができるのです。

つまり、こころのなかにあった怖れの気持ちとまったく関係のない事柄をリンクさせ、さもコワイことが起こっているように偽造することで、こころのなかで怖れを解決することを阻止しているのです。

そして怖れが温存されることにより、ほんとうの自分を思い出すことができなくなります。

本当の自分を思い出すことができなければ、安らぎは決して感じることができなくなり、安らぎがなければ幸せになることはできません。

解決策は、イヤな気分になったときには、出来事はさておき、イヤな気分をしっかりととらえて、それに向き合うことです。

「なぜ、今、私はイヤな気分になったのか?」 ・・・ この反応が起こるまえにあった、間違った考え、自分を傷つけている考えを洗いだしてみましょう。

そして、それが真実であるのか、問いただしてみましょう。自分ではわからないときには、自分自身の高い自己に尋ねてみましょう。

つねに自分に優しくない考え方を採用することによって、、自分自身を攻撃していたことにただ気づいてみましょう。(攻撃されていれば、誰だってイヤな気分になってしまうのです。)

その間違った考え方はハイヤーセルフに委ねて、正しくものごとを解釈できるようにお願いします。

自分のなかにある愛を、間違った考えで歪めてしまわない限り、怖れに遭遇することはありません。愛だけで見ていれば、すべてはキケンではないのです。

そのような自分本来の愛ある見方ができるようになるために、イヤな気分を喜んで訂正の機会とすることができます。

イヤな気分がやってくるたびに、自分の知覚に間違ったフィルターがかかって正しく見られていないことに気づきましょう。そして、汚れたフィルターをお掃除する機会といたしましょう。

お掃除さえしていれば、光は自分のなかにあるので、なににつけてもただその光を外に放ってあげればよいだけとなります

光は愛そのものなので、すべてを愛のなかで見せてくれます。

あらゆるものを自分の光のなかであるがままに見るのか、あるいは自分の傷ついた考えをとおして痛みのフィルターで見るのか・・・

すべきことは、ただせっせとこころのフィルターのお掃除あるのみなのです。

あとは、もともとそこに輝いている光におまかせなのです☆☆☆

 

 

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気づきの日記「イヤな気分はものごとのせいじゃない」

 

Q: ある出来事からイヤな気分を引きづっています。まるで、こころにうっすらと雲がかかったように感じるのですが・・・。

A: イヤな気分に出くわすと、まず私たちがしようとするのは気分転換。あるいは、「私はぜんぜん大丈夫!」とまったく感じていないフリをすることも。

このような感情の抑圧や無視は、そのときはうまくいくように感じるかもしれません。が、遅かれ早かれ同じ気持ちが戻ってくることになり、自分の感情に対して手におえないという敗北や挫折を感じることになります。

じつは「イヤな気分」というのは、「なにかが間違っている」というお知らせにすぎません。そこでするべきことは、間違いを正すことだけです。

そして、「間違っているなにか」とは自分の考えのことです。イヤな気分を感じているというのは、どこかで自分の考えが間違ってしまった、ということなのです。

「気分」というのは、自分の考えの結果として感じられるものです。

私たちは「ものごと」そのものがイヤな気分をもたらしたのだ信じがちです。けれど、「ものごと」には意味はなく、まったく罪はありません。

ひとつの「ものごと」でも、人によって「よかったじゃない!」と喜ぶ人もいれば、「最低最悪!」と落ちこむ人もいるし、こころになんの印象を残さない人もいます。

それぞれが意味を与えているので、人の数だけ「ものごと」の意味があるといえます。

ならば、「ものごと」じたいがイヤな気分を引き起こす原因ではないとわかります。

イヤな気分になるとしたら、どこかで「自分を傷つける考え方」を採用してしまった、ということになります。そのものごとに、「自分を傷つけるような解釈」を与えてしまったのです。

そして、そのとき感じるイヤな気分こそが、いつ自分で自分を傷つけてしまったのかを教えてくれるブザーのような役割をはたしてくれています。

しかし、私たちはイヤな気分を感じたとたん、そそくさとそこから逃げ出したくなってしまうのです。

なぜなら、外からやってきたなにかが自分をイヤな気持ちにさせたのだと信じているから。さらなる攻撃にさらされないうちに、早くそこから逃げなくてはと感じるのです。

そうすると、せっかくのお知らせブザーもスルーされ、「間違い」を正すためのチャンスがまた見送られてしまうことになります。

私たちのエゴは、イヤな気分という怖れを使って、目のまえのことに自分を釘づけにしようと企んでいます。

イヤな気分と出来事をリンクさせることで、その出来事こそが自分にとって脅威であるように勘違いさせることができるからです。すると、それに怯えて、きゃ〜きゃ〜わ〜わ〜することで、怖れというエゴは肥大して力を増すことができるのです。

つまり、こころのなかにあった怖れの気持ちとまったく関係のない事柄をリンクさせ、さもコワイことが起こっているように偽造することで、こころのなかで怖れを解決することを阻止しているのです。

そして怖れが温存されることにより、ほんとうの自分を思い出すことができなくなります。

本当の自分を思い出すことができなければ、安らぎは決して感じることができなくなり、安らぎがなければ幸せになることはできません。

解決策は、イヤな気分になったときには、出来事はさておき、イヤな気分をしっかりととらえて、それに向き合うことです。

「なぜ、今、私はイヤな気分になったのか?」 ・・・ この反応が起こるまえにあった、間違った考え、自分を傷つけている考えを洗いだしてみましょう。

そして、それが真実であるのか、問いただしてみましょう。自分ではわからないときには、自分自身の高い自己に尋ねてみましょう。

つねに自分に優しくない考え方を採用することによって、、自分自身を攻撃していたことにただ気づいてみましょう。(攻撃されていれば、誰だってイヤな気分になってしまうのです。)

その間違った考え方はハイヤーセルフに委ねて、正しくものごとを解釈できるようにお願いします。

自分のなかにある愛を、間違った考えで歪めてしまわない限り、怖れに遭遇することはありません。愛だけで見ていれば、すべてはキケンではないのです。

そのような自分本来の愛ある見方ができるようになるために、イヤな気分を喜んで訂正の機会とすることができます。

イヤな気分がやってくるたびに、自分の知覚に間違ったフィルターがかかって正しく見られていないことに気づきましょう。そして、汚れたフィルターをお掃除する機会といたしましょう。

お掃除さえしていれば、光は自分のなかにあるので、なににつけてもただその光を外に放ってあげればよいだけとなります

光は愛そのものなので、すべてを愛のなかで見せてくれます。

あらゆるものを自分の光のなかであるがままに見るのか、あるいは自分の傷ついた考えをとおして痛みのフィルターで見るのか・・・

すべきことは、ただせっせとこころのフィルターのお掃除あるのみなのです。

あとは、もともとそこに輝いている光におまかせなのです☆☆☆

 

 

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20-07-28 幸福なラザロ

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

とあるイタリアの小さな村でのこと。

その村はひどく貧しい。人々は公爵夫人の小作人で、働けど働けど農作物のすべてを搾取されてしまう。でも、人々は他の世界を知らないがゆえに、必死で働きつづける。

その村でいちばんの働きものはラザロという青年。彼は不平や不満、文句を知らず、せっせと働く。なぜなら、彼のこころはまったく判断をしないから、あるがままのなかで平和に暮らしている。

そんなある日、公爵夫人の息子が起こした偽装誘拐事件によって、村の人々は小作人制度がすでに廃止されている事実を知らされる。そして、人々はそこから解放されることになるのだが・・・ラザロの姿はどこにもない。(→予告を見る)

ラザロは新約聖書のなかに登場するイエスのお友だちの名前です。亡くなって数日後、イエスはラザロのお墓を訪れて「ラザロ、出てきなさい」と声をかけると、ラザロはお墓から出てくる・・・つまりイエスによって蘇った人物で、のちに聖人に列せられています。

この作品のなかのラザロ青年はまさに純粋無垢な存在なのですが、彼のあまりにまっすぐな瞳に衝撃を受けます。

この俳優さんは役者さんではないそうで、素人の高校生さんたちのなかからスカウトされたそうな。まるで裁くことを知らず、なにが起ころうとも平和のなかに生きているラザロのイメージにぴったりの青年でした。

ストーリーの結末はいろいろな解釈ができるので、観た人なりに感じることもさまざまだと思います。

ここでは私の感想はふせておきますが(ああ・・・言いたいっ!)、ただ「罪なきこころにはなんでもありなのだわ!」と深く感じいりました。

この作品はカンヌで脚本賞を受賞しているのですが、このアリーチェ・ロルバケルという監督さんは以前にもカンヌでグランプリを受賞されていて、そのときの作品が「夏をゆく人々」。

あら、「夏をゆく人々」は以前から私の「観たいものリスト」にすでに入っていた作品です。さっそくこちらも観てみたくなりました。

涙壷度:★★☆☆☆(じわっと涙が誘われました)

ストーリー自体も興味をひくのですが、この青年の存在があったからこそ、彼のまなざしあってこそ、さらに引きこまれます。

そしてなによりも、こころが澄みきっていることこそがいちばんの幸福なのだわ、と感じたのでした♡

PS お友だちが、BGMは大好きなイタリアの作曲家ベッリーニのオペラアリア「清らかな女神」だと教えてくださいました。「ラザロくんの目がダビデ像のお目めにそっくり」というコメントも、まさに!  彼の目は、世界を反射せずに澄んでいるのです。

 

 

 

お茶の間シネマトーク「幸福なラザロ」

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

とあるイタリアの小さな村でのこと。

その村はひどく貧しい。人々は公爵夫人の小作人で、働けど働けど農作物のすべてを搾取されてしまう。でも、人々は他の世界を知らないがゆえに、必死で働きつづける。

その村でいちばんの働きものはラザロという青年。彼は不平や不満、文句を知らず、せっせと働く。なぜなら、彼のこころはまったく判断をしないから、あるがままのなかで平和に暮らしている。

そんなある日、公爵夫人の息子が起こした偽装誘拐事件によって、村の人々は小作人制度がすでに廃止されている事実を知らされる。そして、人々はそこから解放されることになるのだが・・・ラザロの姿はどこにもない。(→予告を見る)

ラザロは新約聖書のなかに登場するイエスのお友だちの名前です。亡くなって数日後、イエスはラザロのお墓を訪れて「ラザロ、出てきなさい」と声をかけると、ラザロはお墓から出てくる・・・つまりイエスによって蘇った人物で、のちに聖人に列せられています。

この作品のなかのラザロ青年はまさに純粋無垢な存在なのですが、彼のあまりにまっすぐな瞳に衝撃を受けます。

この俳優さんは役者さんではないそうで、素人の高校生さんたちのなかからスカウトされたそうな。まるで裁くことを知らず、なにが起ころうとも平和のなかに生きているラザロのイメージにぴったりの青年でした。

ストーリーの結末はいろいろな解釈ができるので、観た人なりに感じることもさまざまだと思います。

ここでは私の感想はふせておきますが(ああ・・・言いたいっ!)、ただ「罪なきこころにはなんでもありなのだわ!」と深く感じいりました。

この作品はカンヌで脚本賞を受賞しているのですが、このアリーチェ・ロルバケルという監督さんは以前にもカンヌでグランプリを受賞されていて、そのときの作品が「夏をゆく人々」。

あら、「夏をゆく人々」は以前から私の「観たいものリスト」にすでに入っていた作品です。さっそくこちらも観てみたくなりました。

涙壷度:★★☆☆☆(じわっと涙が誘われました)

ストーリー自体も興味をひくのですが、この青年の存在があったからこそ、彼のまなざしあってこそ、さらに引きこまれます。

そしてなによりも、こころが澄みきっていることこそがいちばんの幸福なのだわ、と感じたのでした♡

PS お友だちが、BGMは大好きなイタリアの作曲家ベッリーニのオペラアリア「清らかな女神」だと教えてくださいました。「ラザロくんの目がダビデ像のお目めにそっくり」というコメントも、まさに! 彼の目は、世界を反射せず澄んでいるのです。

 

 

 

ちょっと緊張しつつお出かけ

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

さまざまな活動が再開され「さあ、これから!」というところで、ふたたび雲ゆきが妖しくなってきました。四連休をまえにまたもや自粛ムードです。

ガマンしていたお出かけも、ほんのつかのまのこと。でも、数ヶ月ぶりのお外ゴハンでお友だちと寛ぎタイムをもつことができました。

「私たちのダイニング」と呼んでいるペニンシュラホテルのラウンジは、天井が高く通気性もよく、予約も一回に十名ほどなので安心してゆったりとお食事ができる雰囲気です。

私たちのお目あては、いつも楽しみにしている季節のスープ!(メインよりもスープ LOVE♡で、ずっと来たいと思っていました。 スープとパンだけで幸せになれる私たち)。今回は冷たいコーンスープで、優しい甘さに癒されました。

スープのつぎは、デザートとカフェラテがお目あて! デザートは甘さや酸味、バターの香りが絶妙で濃いめのカフェラテがとってもあいます。この日は、サブレにのったマンゴームースでした。

もちろんメインのお食事もとってもおいしかったです。レンズ豆をつけあわせたイベリコ豚のグリル♡

お友だちとはなにかと連絡はとっていたものの、やっぱり顔を合わせたときにしかできない話しもあり、あっというまの楽しいひとときでした。

「早くこころおきなくお出かけできるようになるといいね〜」とホテルをあとにする私たちは、まるで兜の緒をしめなおすようにしっかりとマスクをかけて、ちょっとばかり戦場に向かうような緊張感を感じつつ家路についたのでした。

PS ひさしぶりに地下鉄に乗ってびっくりしたのは、駅がひとつふえていたこと。高輪以外にも虎ノ門にもふえていたのね!まるで浦島さんです(笑)。

 

 

 

20-07-18 ラスト クリスマス

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

時間があいて何をしようかな〜? というときはいつも、私の高い自己であるハイヤーセルフにおうかがいをたてます。

お散歩でもしてくれば? というときもあれば、お昼寝や、読書、お友だちとのおしゃべりをオススメされるときもあります。

このときは、シアタータイムのご提案。では、なにを観ましょうか?

これもまた決めてもらいます。そうすれば映画を楽しむとともに、そのときに必要なメッセージやインスピレーションの贈りものも受けとることができます。

今回は「ラスト クリスマス」ですって? ・・・ 今どき、まさかのクリスマス映画?! といぶかりつつも素直に観てみることに・・・。

クリスマスソングの定番、ワムの「ラスト クリスマス」をモチーフにした作品です。

ロンドンのクリスマスショップで働くケイトという、ちょっと自己破壊的な生き方をしている女の子と、ミステリアスな雰囲気をもつトムという青年の出会い。

自分の欲望のはけ口としてしか相手を求めないケイトにとってトムはぜんぜんタイプではなかったのですが、非日常的で不思議な包容力のあるトムに惹かれはじめます。ところが、トムにはケイトお得意の恋愛テクは一切通用せず。神出鬼没でどこかつかみどころがない存在なのです。

近づけそうで近づけない・・・いったい彼はなにもの?!

私も自分なりに推測したけれど、ちょっと意外な過去が明らかになります。

ワムの「ラスト クリスマス」は軽快なメロディで楽しげなクリスマスソングに聞こえますが、歌詞を聞くとちょっと悲しいのです。

Last Christmas I gave you my heart
But very next day you gave it away....

それが答えでした。

ラスト30分ぐらいはけっこう泣けます。(→予告を見る)

私たちはこころを開いて人に自分をさしだすことで、自分自身を発見し、人も発見します。ケイトが勇気をもって自分を開きはじめることで、まわりも巻き込んで変化が広がってゆく様子が印象的です。

ほんとうの自分を求めて自分と闘っているケイトにトムがささやくいくつかの言葉がこころに残っています。
「普通なんてない。 普通っていう言葉がひとを傷つけている」
「なぜ何かになりたがる? 特別ってことが過大評価されている」

普通にも、特別にもなる必要がない。自分らしささえも探す必要はない・・・と。

観終わったあとにお友だちにシェアをしたら、何かを感じとったお友だちもすぐにこの作品を時差鑑賞して、まるでともに映画館に出かけたように感想を語りあうことができました。

さすがハイヤーセルフのオススメだけあって、お友だちにも大切なメッセージがある作品だったようです(なによりも、ケイト役が大好きな女優さんだったそうな)。

むかし、クリスマスの時期にロンドンを訪れたことがあり懐かしくなりました。

この作品のなかではクリスマスイルミネーションは濡れた道路に映しだされて二倍にきらきらしているのですが、そう、ロンドンはいつも小雨でしたっけ。

こんな時期のクリスマス気分もよいものです。 Merry Christmas ☆

涙壷度:★★★☆☆

PS 全編、ジョージ・マイケルの歌ですが、パブにジョージ・マイケルのそっくりさん風がさりげなく登場してました。

 

 

お茶の間シネマトーク「ラスト クリスマス」

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

時間があいて何をしようかな〜? というときはいつも、私の高い自己であるハイヤーセルフにおうかがいをたてます。

お散歩でもしてくれば? というときもあれば、お昼寝や、読書、お友だちとのおしゃべりをオススメされるときもあります。

このときは、シアタータイムのご提案。では、なにを観ましょうか?

これもまた決めてもらいます。そうすれば映画を楽しむとともに、そのときに必要なメッセージやインスピレーションの贈りものも受けとることができます。

今回は「ラスト クリスマス」ですって? ・・・ 今どき、まさかのクリスマス映画?! といぶかりつつも素直に観てみることに・・・。

クリスマスソングの定番、ワムの「ラスト クリスマス」をモチーフにした作品です。

ロンドンのクリスマスショップで働くケイトという、ちょっと自己破壊的な生き方をしている女の子と、ミステリアスな雰囲気をもつトムという青年の出会い。

自分の欲望のはけ口としてしか相手を求めないケイトにとってトムはぜんぜんタイプではなかったのですが、非日常的で不思議な包容力のあるトムに惹かれはじめます。ところが、トムにはケイトお得意の恋愛テクは一切通用せず。神出鬼没でどこかつかみどころがない存在なのです。

近づけそうで近づけない・・・いったい彼はなにもの?!

私も自分なりに推測したけれど、ちょっと意外な過去が明らかになります。

ワムの「ラスト クリスマス」は軽快なメロディで楽しげなクリスマスソングに聞こえますが、歌詞を聞くとちょっと悲しいのです。

Last Christmas I gave you my heart
But very next day you gave it away....

それが答えでした。

ラスト30分ぐらいはけっこう泣けます。(→予告を見る)

私たちはこころを開いて人に自分をさしだすことで、自分自身を発見し、人も発見します。ケイトが勇気をもって自分を開きはじめることで、まわりも巻き込んで変化が広がってゆく様子が印象的です。

ほんとうの自分を求めて自分と闘っているケイトにトムがささやくいくつかの言葉がこころに残っています。
「普通なんてない。 普通っていう言葉がひとを傷つけている」
「なぜ何かになりたがる? 特別ってことが過大評価されている」

普通にも、特別にもなる必要がない。自分らしささえも探す必要はない・・・と。

観終わったあとにお友だちにシェアをしたら、何かを感じとったお友だちもすぐにこの作品を時差鑑賞して、まるでともに映画館に出かけたように感想を語りあうことができました。

さすがハイヤーセルフのオススメだけあって、お友だちにも大切なメッセージがある作品だったようです(なによりも、ケイト役が大好きな女優さんだったそうな)。

むかし、クリスマスの時期にロンドンを訪れたことがあり懐かしくなりました。

この作品のなかではクリスマスイルミネーションは濡れた道路に映しだされて二倍にきらきらしているのですが、そう、ロンドンはいつも小雨でしたっけ。

こんな時期のクリスマス気分もよいものです。 Merry Christmas ☆

涙壷度:★★★☆☆

PS 全編、ジョージ・マイケルの歌ですが、パブにジョージ・マイケルのそっくりさん風がさりげなく登場してました。

 

 

20-07-09 くり返す不調を取り消す

 

A:「頭痛やだるさ、発熱など、体調の悪さをくり返しています。クスリもだんだん効かなくなってきました」

Q:「そうですよね〜。こんな梅雨どきは誰もが体調の悪さに悩まされがちです。それにコロナのストレスもありますし」 ・・・

そう言われると「そうだよね!」とちょっと安心したりしますが、こんな「もっともらしい答え」にだまされてはなりません。真の原因と解決から自分を遠ざけてしまうからです。

無難な答えはそれっぽく聞こえるので納得しがちですが、ほんとうの答えを見つけないためのオトリにすぎません。

自分の外側で起こっていることは一切、自分の原因とはなりえないのです。だから、問題が解決することはありえず、また再び起こります。

自分に起こることはなんであろうと自分のこころにしか原因はなく、決して外側にはないからです。

私たちはいつでもどんなときでも、「自分のこころが望んでいるもの」だけをきっちりと自分に体験させることをくり返しています。

「そうはいっても、体調の悪さなんて自分は望んだ覚えがないのですが」・・・たしかに ・・・。

私たちのこころの大部分は意識することができない無意識の部分なので、そこにどのような決断があるのかは当の本人にもわからないのです。

それが苦痛や不調、問題となってあらわれてはじめて、自分のこころになにが潜んでいるのかを知ることができます。

さらに、私たちのこころのなかには二人の自分(ホンモノとニセモノ)が存在していて、ホンモノはニセモノによってまんまとのっとられている状態なのです。

ということは、私たちの目にする問題は「意識できないこころに潜むニセモノの決断からやってくる」ということになります。

ホンモノの自分からしたら、「そんな体調の悪さは、私にはありえない!だってわたしは完全さそのものだから。喜びやしあわせ以外、私にふさわしくないのです」というはずです。

けれど、ニセモノに完全にのっとられた状態であるならば、この体調の悪さ、不調はニセモノのお望みの結果であり、それを目にしているにすぎません。

それを解消するためには、「ニセモノ(エゴ)はいったい、この体調の悪さを使ってなにを企てているのか」を暴くことが必要です。

くり返して一生懸命やっていることはすべて、なにか大きなメリット、手にできるなにかがあるからこそ続けられるのです。エゴはそれを手にして喜びたいのです。

つまり、体調の悪さや痛みはエゴにとってはなにか大変価値のあるものがてっ取り早く手に入る方法であり、それは絶対やめられないオイシさがあるわけです。

さて、そのオイシイなにかとはなんでしょうか?

人によっては、体調が悪くなることで、

「人に気づかってもらえる。優しくしてもらえる。つまり、注目されて愛をいっぱいもらえる」とか、
「やらなくちゃならないことをサボるための言い訳になる」
「仕事のパフォーマンスが悪くても、万がいち失敗しても、適切な口実になる」
「絶好調になってしまったら、どんどん責任がふえてしまう。頼られてしまう」
「不幸そうに見える自分でいることで、罪悪感を感じさせ反省させたい相手がいる」・・・etc

というような企みがあり、こういったことを達成しようとしているのです・・・が、

それを手に入れようとすればするほど、自分の「安らぎ」が失われていくことに気づくことができません。

私たちにとって、こころの「安らぎ」こそがしあわせの唯一の原因となるものです。うちに「安らぎ」があってこそ、それが外側へと映しだされ、それを自分が受けとることになるからです。

なのに、そのしあわせの原因である「安らぎ」をやすやすと失っていることに気づくことができません。

しかしエゴにとっては、「やすらぎ? そんなものはクソくらえだ!」というレベルなのです。

エゴの企みを野放しにしておけば、しあわせになるための原因は失われたままとなります。

内側の「安らぎ」が「しあわせ」のための唯一の条件であるなら、しあわせになりたかったらそれを死守しなければならないのです。

自分の「安らぎ」を乱すものは1ミリたりともこころに侵入させないぞ!というぐらいの勢いで。

そうとなれば、エゴの企みをしっかりと暴く必要があります。

エゴがこの体調の悪さを使って、どのように欲しいものを手にいれようとしているのかを見てみると、それはただ「欠乏、不足」という間違った考えを守ろうとしているにすぎないことに気づきます。

間違った信念に気づいたら、ただその想いをキャンセルするだけです。(用途なないと認められたものは、たやすく手放すことができます。)キャンセルは自分でする必要はなく、ただ高い意識(ハイヤーセルフ)に不用なものを渡してしまうことで完了します。

大切にすべきこころの「安らぎ」は、たんに邪魔な想いをひとつひとつ取り去ることで達成されます。

邪魔なものがなくなれば、そこにはすでにまるまる完全なこころが存在しているからです。それこそが安らぎそのものです。

こころにしろ身体にしろ、なにか不具合を感じるときには、無意識となっているエゴの企みを暴いて手放すための浄化の機会といえます。体験となってあらわれてくれたからこそ、それを手放すことができるのです。

不調にむきあって、いったいエゴはなにを得ようと頑張っているのか、正直な気持ちでこころを探求してみましょう。

エゴの企みを見つけて冷静にながめてみれば、すでに完全であるはずの自分にとって、そのようなことをする必要などないことがわかります。

ハイヤーセルフに不用な想いはすべて委ね、完全さを受け入れることができるようにお願いしましょう。

する必要のないことをやめることこそが、自分の完全さを受け入れるために必要なことなのです。

エゴの想いをハイヤーセルフに渡したら、すでにそこにある「安らぎ」(本来の自分のスペース)のなかにゆったりと溶けこんでリラックスしましょう。

いままで不具合そのものに向けつづけていた注意を、「安らぎ」のスペースへと注いでみましょう。ほんとうの自分である「安らぎ」がよりリアルに力をましてゆきます。

そして、それが自分の外側に映しだされるようになることで、自分の見る世界を変えてくれるのです。

それが自分にとっての幸せな世界です。

すでにこころのなかにある「安らぎ」が輝きだすように、不毛な企みはすべてハイヤーセルフに手放してしまいましょう。

 

 

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気づきの日記「くり返す不調を取り消す」

 

A:「頭痛やだるさ、発熱など、体調の悪さをくり返しています。クスリもだんだん効かなくなってきました」

Q:「そうですよね〜。こんな梅雨どきは誰もが体調の悪さに悩まされがちです。それにコロナのストレスもありますし」 ・・・

そう言われると「そうだよね!」とちょっと安心したりしますが、こんな「もっともらしい答え」にだまされてはなりません。真の原因と解決から自分を遠ざけてしまうからです。

無難な答えはそれっぽく聞こえるので納得しがちですが、ほんとうの答えを見つけないためのオトリにすぎません。

自分の外側で起こっていることは一切、自分の原因とはなりえないのです。だから、問題が解決することはありえず、また再び起こります。

自分に起こることはなんであろうと自分のこころにしか原因はなく、決して外側にはないからです。

私たちはいつでもどんなときでも、「自分のこころが望んでいるもの」だけをきっちりと自分に体験させることをくり返しています。

「そうはいっても、体調の悪さなんて自分は望んだ覚えがないのですが」・・・たしかに ・・・。

私たちのこころの大部分は意識することができない無意識の部分なので、そこにどのような決断があるのかは当の本人にもわからないのです。

それが苦痛や不調、問題となってあらわれてはじめて、自分のこころになにが潜んでいるのかを知ることができます。

さらに、私たちのこころのなかには二人の自分(ホンモノとニセモノ)が存在していて、ホンモノはニセモノによってまんまとのっとられている状態なのです。

ということは、私たちの目にする問題は「意識できないこころに潜むニセモノの決断からやってくる」ということになります。

ホンモノの自分からしたら、「そんな体調の悪さは、私にはありえない!だってわたしは完全さそのものだから。喜びやしあわせ以外、私にふさわしくないのです」というはずです。

けれど、ニセモノに完全にのっとられた状態であるならば、この体調の悪さ、不調はニセモノのお望みの結果であり、それを目にしているにすぎません。

それを解消するためには、「ニセモノ(エゴ)はいったい、この体調の悪さを使ってなにを企てているのか」を暴くことが必要です。

くり返して一生懸命やっていることはすべて、なにか大きなメリット、手にできるなにかがあるからこそ続けられるのです。エゴはそれを手にして喜びたいのです。

つまり、体調の悪さや痛みはエゴにとってはなにか大変価値のあるものがてっ取り早く手に入る方法であり、それは絶対やめられないオイシさがあるわけです。

さて、そのオイシイなにかとはなんでしょうか?

人によっては、体調が悪くなることで、

「人に気づかってもらえる。優しくしてもらえる。つまり、注目されて愛をいっぱいもらえる」とか、
「やらなくちゃならないことをサボるための言い訳になる」
「仕事のパフォーマンスが悪くても、万がいち失敗しても、適切な口実になる」
「絶好調になってしまったら、どんどん責任がふえてしまう。頼られてしまう」
「不幸そうに見える自分でいることで、罪悪感を感じさせ反省させたい相手がいる」・・・etc

というような企みがあり、こういったことを達成しようとしているのです・・・が、

それを手に入れようとすればするほど、自分の「安らぎ」が失われていくことに気づくことができません。

私たちにとって、こころの「安らぎ」こそがしあわせの唯一の原因となるものです。うちに「安らぎ」があってこそ、それが外側へと映しだされ、それを自分が受けとることになるからです。

なのに、そのしあわせの原因である「安らぎ」をやすやすと失っていることに気づくことができません。

しかしエゴにとっては、「やすらぎ? そんなものはクソくらえだ!」というレベルなのです。

エゴの企みを野放しにしておけば、しあわせになるための原因は失われたままとなります。

内側の「安らぎ」が「しあわせ」のための唯一の条件であるなら、しあわせになりたかったらそれを死守しなければならないのです。

自分の「安らぎ」を乱すものは1ミリたりともこころに侵入させないぞ!というぐらいの勢いで。

そうとなれば、エゴの企みをしっかりと暴く必要があります。

エゴがこの体調の悪さを使って、どのように欲しいものを手にいれようとしているのかを見てみると、それはただ「欠乏、不足」という間違った考えを守ろうとしているにすぎないことに気づきます。

間違った信念に気づいたら、ただその想いをキャンセルするだけです。(用途なないと認められたものは、たやすく手放すことができます。)キャンセルは自分でする必要はなく、ただ高い意識(ハイヤーセルフ)に不用なものを渡してしまうことで完了します。

大切にすべきこころの「安らぎ」は、たんに邪魔な想いをひとつひとつ取り去ることで達成されます。

邪魔なものがなくなれば、そこにはすでにまるまる完全なこころが存在しているからです。それこそが安らぎそのものです。

こころにしろ身体にしろ、なにか不具合を感じるときには、無意識となっているエゴの企みを暴いて手放すための浄化の機会といえます。体験となってあらわれてくれたからこそ、それを手放すことができるのです。

不調にむきあって、いったいエゴはなにを得ようと頑張っているのか、正直な気持ちでこころを探求してみましょう。

エゴの企みを見つけて冷静にながめてみれば、すでに完全であるはずの自分にとって、そのようなことをする必要などないことがわかります。

ハイヤーセルフに不用な想いはすべて委ね、完全さを受け入れることができるようにお願いしましょう。

する必要のないことをやめることこそが、自分の完全さを受け入れるために必要なことなのです。

エゴの想いをハイヤーセルフに渡したら、すでにそこにある「安らぎ」(本来の自分のスペース)のなかにゆったりと溶けこんでリラックスしましょう。

いままで不具合そのものに向けつづけていた注意を、「安らぎ」のスペースへと注いでみましょう。ほんとうの自分である「安らぎ」がよりリアルに力をましてゆきます。

そして、それが自分の外側に映しだされるようになることで、自分の見る世界を変えてくれるのです。

それが自分にとっての幸せな世界です。

すでにこころのなかにある「安らぎ」が輝きだすように、不毛な企みはすべてハイヤーセルフに手放してしまいましょう。

 

 

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