ひろびろ〜

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

一月のこの時期はカラリと晴天のイメージですが、この一週間はつめたい雨ばかりでした。

ようやくもどってきた陽射しのあたたかなこと♡

少しばかり都心からはなれると、さらに空がひろびろしていて気持ちがいい〜   (。θ◡θ。)

雲ってこんなにもくもくしてたんだ〜 ・・・ と、ただ雲だけをみつめて何時間でもすごせたこどもの頃を思い出しました。

 

 

20-01-29 何かを強く願うよりも・・・

「このことをうまくいかせたい」「あれを手に入れたい」「これをぜったい叶えたい」・・・

このように自分の願望を実現したいとき、そのことに集中しているとそれが手にはいるように「見えます」。

はい、たしかに!

そして、「引寄せることができた!」「自分でつくれた!」と感じてうれしくなります。そしてもっともっと、あれもこれもと頑張ります。

手にはいるように「見える」と書いたのは ・・・ こころは望むことはなんでも「見せてくれる」からです。望めば、それが映しだされて「見える」のです。

「注意をたくさん向けたもの、強く想ったものを素直に目のまえに映しだす」というのがこころの働きそのものです。「見たい」という願望があれば、それは「見る」ことにつながります。

それは、「こころが求めていることは叶えられる」ということでもあるのですが、これは諸刃の剣です。

じつは、こころはニセモノとホンモノの二本立てになっていて、ほぼニセモノに憑依されているからです。そして、その憑依がふつうの状態となっています。

そして、ニセモノが望むのであれば、結果はおのずとニセモノとなり、それは痛みや苦しみや分裂という体験になります。

それでも、「願ったことが叶った」という嬉しさによってカモフラージュされているので、ニセモノのこころが仕切っていることや、その顛末までには気がつきません。

そもそも、幸せになるために「なにか特定なモノを望む」というのは、じつはあまりオススメしない方法です。

なぜなら、「なにか特定なモノを望む」ということは、すでに自分のために存在している無限の宝庫のなかからそれだけをチョキチョキ切り取って、「これだけください。あとのすべてはいりませんから廃棄してください」と言っているようなものです。

つまり、「これが欲しいのだ!」と執着するのは、自分がもっていたあらゆるものの中からほんの小さなものだけを選びだして、他のすべてを失うことであり、全体から小さく切り取られたえたいのしれないものを大切にしている、ということになります。

だから、いくら手にしてもほんとうに満足がえられず、またふたたび別のものを選んでチョキチョキすることになります。

それはまるで、大きく立派においしげる木からその美しい枝のひとつを切り取って自分のものにしたのはいいけれど、自分が握りしめている小枝はすでに死んでしまって、意味のない棒っきれになっている、というようなもの。一方、目もくれなかった大きな木は今もいきいきと生い茂っているのです。


エゴはとにかくスペシャルになりたいので、自分が手にしているものが死んでいようが意味がなかろうがどうでもいいのです。

「自分が欲しいものを自分で手にいれた!」という慢心のほうをエゴは大切にするのです。たとえ、手にしたものがゴミのような意味のないものであったとしてもそのことに気がつきません。

イソップ物語のなかに、肉をくわえた犬が水面に映った自分の姿をうらやんで、その肉を手にいれようと吠えたら、くわえていた肉がぽちゃんと水のなかに落ちてしまった、というお話があります。

すでにもっていることを忘れて、「それこそが欲しいのだ!」と水に映る幻を求めたことで、すでにもっていたものは失われてしまったのでした。

どうやらこの犬と同様に、私たちも「もっていること」がわからないことが問題なのかもしれません。その欠乏感から求めることをやめられずにいます。

そして、求めることは失うことだと気づくことができません。

けれども、「あっちだ!こっちだ!」と意識が外へ外へと向いていたら、自分の内側がすでに満たされていることに気づくことができず、それはまったくないことと同様なのです。

私たちが目にする世界は物理的に外にあるのではなく、こころの状態を映し出しているスクリーンなので、まずこころを整える、正しいこころに立て直すことがなによりも大切なのです。

こころを立て直すことは、すべてを与えられている自分を受け入れることでもあるのです。

不足を信じるこころに騙されてなにかを強く追い求めるよりも、まず「私がすでに与えられているすべてを知ることができますように」「それらを受けいれて目にすることができますように」とハイヤーセルフにお願いすることからはじめます。

正しいこころで「見る」ことができるようになることが、すべての豊かさにつながります。

そうすることによって、幻を追い求めながら満たされずにさまよいつづけるのではなく、「すでにあるのだ」という正しい目線から生まれる豊かさを映しだして「見る」ことができるようになります。

そしてそのとき、身体という小さなものの目で世界を見るのではなく、こころの目で世界を見るようにします。

背景のなかに静かに下がっていって、全体をこころで見てみましょう。ホンモノの自分として、全体を見てみましょう。

それは、外にあると思っていた世界が自分のこころのなかにあり、それらはちりぢりばらばらのこま切れではなく、ぜんぶが自分とひとつのものであり、すでに満たされているという感覚があります。

その目線から、ハイヤーセルフに豊かさの知覚をおしえてもらいましょう。

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

気づきの日記「何かを強く願うよりも・・・」

「このことをうまくいかせたい」「あれを手に入れたい」「これをぜったい叶えたい」・・・

このように自分の願望を実現したいとき、そのことに集中しているとそれが手にはいるように「見えます」。

はい、たしかに!

そして、「引寄せることができた!」「自分でつくれた!」と感じてうれしくなります。そしてもっともっと、あれもこれもと頑張ります。

手にはいるように「見える」と書いたのは ・・・ こころは望むことはなんでも「見せてくれる」からです。望めば、それが映しだされて「見える」のです。

「注意をたくさん向けたもの、強く想ったものを素直に目のまえに映しだす」というのがこころの働きそのものです。「見たい」という願望があれば、それは「見る」ことにつながります。

それは、「こころが求めていることは叶えられる」ということでもあるのですが、これは諸刃の剣です。

じつは、こころはニセモノとホンモノの二本立てになっていて、ほぼニセモノに憑依されているからです。そして、その憑依がふつうの状態となっています。

そして、ニセモノが望むのであれば、結果はおのずとニセモノとなり、それは痛みや苦しみや分裂という体験になります。

それでも、「願ったことが叶った」という嬉しさによってカモフラージュされているので、ニセモノのこころが仕切っていることや、その顛末までには気がつきません。

そもそも、幸せになるために「なにか特定なモノを望む」というのは、じつはあまりオススメしない方法です。

なぜなら、「なにか特定なモノを望む」ということは、すでに自分のために存在している無限の宝庫のなかからそれだけをチョキチョキ切り取って、「これだけください。あとのすべてはいりませんから廃棄してください」と言っているようなものです。

つまり、「これが欲しいのだ!」と執着するのは、自分がもっていたあらゆるものの中からほんの小さなものだけを選びだして、他のすべてを失うことであり、全体から小さく切り取られたえたいのしれないものを大切にしている、ということになります。

だから、いくら手にしてもほんとうに満足がえられず、またふたたび別のものを選んでチョキチョキすることになります。

それはまるで、大きく立派においしげる木からその美しい枝のひとつを切り取って自分のものにしたのはいいけれど、自分が握りしめている小枝はすでに死んでしまって、意味のない棒っきれになっている、というようなもの。一方、目もくれなかった大きな木は今もいきいきと生い茂っているのです。


エゴはとにかくスペシャルになりたいので、自分が手にしているものが死んでいようが意味がなかろうがどうでもいいのです。

「自分が欲しいものを自分で手にいれた!」という慢心のほうをエゴは大切にするのです。たとえ、手にしたものがゴミのような意味のないものであったとしてもそのことに気がつきません。

イソップ物語のなかに、肉をくわえた犬が水面に映った自分の姿をうらやんで、その肉を手にいれようと吠えたら、くわえていた肉がぽちゃんと水のなかに落ちてしまった、というお話があります。

すでにもっていることを忘れて、「それこそが欲しいのだ!」と水に映る幻を求めたことで、すでにもっていたものは失われてしまったのでした。

どうやらこの犬と同様に、私たちも「もっていること」がわからないことが問題なのかもしれません。その欠乏感から求めることをやめられずにいます。

そして、求めることは失うことだと気づくことができません。

けれども、「あっちだ!こっちだ!」と意識が外へ外へと向いていたら、自分の内側がすでに満たされていることに気づくことができず、それはまったくないことと同様なのです。

私たちが目にする世界は物理的に外にあるのではなく、こころの状態を映し出しているスクリーンなので、まずこころを整える、正しいこころに立て直すことがなによりも大切なのです。

こころを立て直すことは、すべてを与えられている自分を受け入れることでもあるのです。

不足を信じるこころに騙されてなにかを強く追い求めるよりも、まず「私がすでに与えられているすべてを知ることができますように」「それらを受けいれて目にすることができますように」とハイヤーセルフにお願いすることからはじめます。

正しいこころで「見る」ことができるようになることが、すべての豊かさにつながります。

そうすることによって、幻を追い求めながら満たされずにさまよいつづけるのではなく、「すでにあるのだ」という正しい目線から生まれる豊かさを映しだして「見る」ことができるようになります。

そしてそのとき、身体という小さなものの目で世界を見るのではなく、こころの目で世界を見るようにします。

背景のなかに静かに下がっていって、全体をこころで見てみましょう。ホンモノの自分として、全体を見てみましょう。

それは、外にあると思っていた世界が自分のこころのなかにあり、それらはちりぢりばらばらのこま切れではなく、ぜんぶが自分とひとつのものであり、すでに満たされているという感覚があります。

その目線から、ハイヤーセルフに豊かさの知覚をおしえてもらいましょう。

 

 

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かわいらしい赤い箱

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なかみはバームクーヘンで〜す♪

黄身を指でつまむことができるようなこだわりたまごをたっぷり使っているそうで、

まさに黄身の色、あたたかなたまご色です。

色だけでもおいしそうなのですが、口にいれるとふわっとたまごが香って、しっとりやさしいお味です(そうそう、まるでたまご焼きのよう!)。

すこ〜しあたためてもさらにいい香りになりそう。明日はぜひあたたかバージョンで!

Mさん、とってもおいしいバームクーヘンでしたよ〜!  ごちそうさまでした♡      ( ・◡・ )♫

 

20-01-22 人から攻撃されがちです・・・

Q: 職場でも日常の人間関係でも、責められたりイジワルなことを言われたりすることが多いように思います・・・。

A: なにかしら自分に攻撃がやってくるとき、それは外側の世界やらやってくるように見えるので、自分にはコントロールできないように感じてしまいます。

しかし、自分のこころが「責められている」「攻撃されている」と言っているのであれば、やはりそれは自分のこころのなかに存在する問題なのです。

そして、「自分」の問題であるからこそ、幸いにもそれは自分自身で変化させることができます。

私たちは「その出来事」に「その意味=イジワル・攻撃」がセットになっていると信じがちですが、じつはそうではありません。

同じ体験をしたとしても全員それに対する知覚(何を体験したのかの意味)は違ったものになるからです。全員、まったく違う体験をし、それを解釈しています。

となれば、自分がその出来事についての意味を「選んでいる」というわけです。それが、この出来事についての「自分自身の理解」なのです。

自分のなかに存在していないことは決して理解できません。その出来事について「イジワルされた」「攻撃された」という意味を選んだということは、無意識のうちに自分でも「イジワル・攻撃」というワザを外側の世界へとくりだしている、ということになります。

私たちは「自分のなかに存在しているもの」だけを知覚することができます。自分のなかにないものは、知覚しません。

「責め」「攻撃」を知覚するとしたら、それは確かに自分のなかに存在していて、そこにあるからこそ世界や人という外側のスクリーンに映し出すことによって眺めることができます。

人のなかに自分の隠しもった姿を映し出すことで、エゴはそれを公然と裁くことができ、裁きによって自分の存在を肥大化しようとたくらみます。

このように自分の中のエゴを人のなかに映し出して見ることによって、「人は間違っている!けれど、私は正しい!」と裁きをくだし、自分のなかに隠れている間違いをパワーアップすることに成功しているのです。

外の世界に間違いがあるように見えるなら、自分のなかなど正す必要はないので、エゴの間違いはただただ力をえてゆくのみです。

しかし、もし「外に見える以上、それはもれなく自分のなかにある」「あるからこそ見える」と認めることができたなら、自分が直面している状況(イジワル・攻撃)に変化をもたらすことができ、その状況から解放されることが可能です(なんせ、自分が映し出していたので)。

そしてまた、自分が隠蔽して巨大化させつづけていたエゴを駆除して、本来のしあわせな自分の道へ戻ることもできるのです。

そのためにはまず、自分のこころの動きに注意してみる必要があります。

あからさまな責めやイジワルでなくても、そこはかとない批判や裁き、攻撃の想いを見つけることができるかもしれません。

たとえば、テレビを見ていて出演者に「わあ!このひと、バカなこと言ってる!」とか、道ゆくひとに「なに?このファッション?!おかしい」という具合に、つねにぷちディスっている自分を発見するかもしれません(あからさまに攻撃せず、かすかに責めているように見えるかもしれませんが、責めて攻撃していることになんら変わりはありません)。

あるいは、よわよわな被害者になることで、自分がよい人であることを強調し、相手をわざわざ悪者に仕立てあげている場合もあります。

少しでも自分が上になって見下している感覚があったり、あるいはやられちゃっている可哀想な自分にとどまっている感じがあるなら、それこそが自分自身が「責め」や「イジワル」、不条理なことを積極的にこうむる原因をつくっていることになります。

自分が与えたものは、必ず自分のものになるし、また与えていないものは、どのようにしても自分のものにならないのです。

なにを見ても、なにを体験しても、エゴの判断、感想が自動的に出てきてしまうのが私たちです。

それは仕方がないのですが、むしろそれを無意識のままほっておくことによって、自分の苦しみの原因を取り除く機会を逸してしまうことになります。

裁いてしまうのがサガなのであれば、そこでいちいち罪悪感を感じて目をそらすことよりも、まず素直にどれだけそれをやっているのかを逐一観察してみましょう。

そこはかとなく自分が責めたり攻撃したりしているのに気づいたら、それをハイヤーセルフに渡してキャンセルしてもらいます。そして、自分が幸せになる新たな意味を教えてもらわなくてはなりません。それは攻撃するために判断するのではなく、愛でるために見ます。

それができるようになるには、自分のこころのなかで24時間勝手にながれている「価値判断」の声に耳をすませる練習をする必要があります。

これがほんとうにできるようになると、「え〜〜〜!私って、こんなに裁いているの?!」と自分の考えにびっくりするかもしれません。

オメデトウゴザイマス!自分の考えにガッカリしてこそ、ほんとうにそれを手放そうと決心することができます。自分が世界にたれ流していた(?)、自分の問題の原因を回収することをようやくはじめられます。それは、ほんとうの安らぎへの扉が開くときなのです。

裁きの考えがなくなればなくなるほど、「責め」「イジワル」「攻撃」から自由になります。自分の世界が安らかになるのを感じます。

まずは、自分の間違った想いに気づくことからはじめて、ハイヤーセルフとともに正しく知覚できるようにつねに助けてもらう習慣をもちましょう。

それは、幸せな世界であるパラレルワールドを選ぶことでもあるのです。

 

 

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気づきの日記「人から攻撃されがちです・・・」

Q: 職場でも日常の人間関係でも、責められたりイジワルなことを言われたりすることが多いように思います・・・。

A: なにかしら自分に攻撃がやってくるとき、それは外側の世界やらやってくるように見えるので、自分にはコントロールできないように感じてしまいます。

しかし、自分のこころが「責められている」「攻撃されている」と言っているのであれば、やはりそれは自分のこころのなかに存在する問題なのです。

そして、「自分」の問題であるからこそ、幸いにもそれは自分自身で変化させることができます。

私たちは「その出来事」に「その意味=イジワル・攻撃」がセットになっていると信じがちですが、じつはそうではありません。

同じ体験をしたとしても全員それに対する知覚(何を体験したのかの意味)は違ったものになるからです。全員、まったく違う体験をし、それを解釈しています。

となれば、自分がその出来事についての意味を「選んでいる」というわけです。それが、この出来事についての「自分自身の理解」なのです。

自分のなかに存在していないことは決して理解できません。その出来事について「イジワルされた」「攻撃された」という意味を選んだということは、無意識のうちに自分でも「イジワル・攻撃」というワザを外側の世界へとくりだしている、ということになります。

私たちは「自分のなかに存在しているもの」だけを知覚することができます。自分のなかにないものは、知覚しません。

「責め」「攻撃」を知覚するとしたら、それは確かに自分のなかに存在していて、そこにあるからこそ世界や人という外側のスクリーンに映し出すことによって眺めることができます。

人のなかに自分の隠しもった姿を映し出すことで、エゴはそれを公然と裁くことができ、裁きによって自分の存在を肥大化しようとたくらみます。

このように自分の中のエゴを人のなかに映し出して見ることによって、「人は間違っている!けれど、私は正しい!」と裁きをくだし、自分のなかに隠れている間違いをパワーアップすることに成功しているのです。

外の世界に間違いがあるように見えるなら、自分のなかなど正す必要はないので、エゴの間違いはただただ力をえてゆくのみです。

しかし、もし「外に見える以上、それはもれなく自分のなかにある」「あるからこそ見える」と認めることができたなら、自分が直面している状況(イジワル・攻撃)に変化をもたらすことができ、その状況から解放されることが可能です(なんせ、自分が映し出していたので)。

そしてまた、自分が隠蔽して巨大化させつづけていたエゴを駆除して、本来のしあわせな自分の道へ戻ることもできるのです。

そのためにはまず、自分のこころの動きに注意してみる必要があります。

あからさまな責めやイジワルでなくても、そこはかとない批判や裁き、攻撃の想いを見つけることができるかもしれません。

たとえば、テレビを見ていて出演者に「わあ!このひと、バカなこと言ってる!」とか、道ゆくひとに「なに?このファッション?!おかしい」という具合に、つねにぷちディスっている自分を発見するかもしれません(あからさまに攻撃せず、かすかに責めているように見えるかもしれませんが、責めて攻撃していることになんら変わりはありません)。

あるいは、よわよわな被害者になることで、自分がよい人であることを強調し、相手をわざわざ悪者に仕立てあげている場合もあります。

少しでも自分が上になって見下している感覚があったり、あるいはやられちゃっている可哀想な自分にとどまっている感じがあるなら、それこそが自分自身が「責め」や「イジワル」、不条理なことを積極的にこうむる原因をつくっていることになります。

自分が与えたものは、必ず自分のものになるし、また与えていないものは、どのようにしても自分のものにならないのです。

なにを見ても、なにを体験しても、エゴの判断、感想が自動的に出てきてしまうのが私たちです。

それは仕方がないのですが、むしろそれを無意識のままほっておくことによって、自分の苦しみの原因を取り除く機会を逸してしまうことになります。

裁いてしまうのがサガなのであれば、そこでいちいち罪悪感を感じて目をそらすことよりも、まず素直にどれだけそれをやっているのかを逐一観察してみましょう。

そこはかとなく自分が責めたり攻撃したりしているのに気づいたら、それをハイヤーセルフに渡してキャンセルしてもらいます。そして、自分が幸せになる新たな意味を教えてもらわなくてはなりません。それは攻撃するために判断するのではなく、愛でるために見ます。

それができるようになるには、自分のこころのなかで24時間勝手にながれている「価値判断」の声に耳をすませる練習をする必要があります。

これがほんとうにできるようになると、「え〜〜〜!私って、こんなに裁いているの?!」と自分の考えにびっくりするかもしれません。

オメデトウゴザイマス!自分の考えにガッカリしてこそ、ほんとうにそれを手放そうと決心することができます。自分が世界にたれ流していた(?)、自分の問題の原因を回収することをようやくはじめられます。それは、ほんとうの安らぎへの扉が開くときなのです。

裁きの考えがなくなればなくなるほど、「責め」「イジワル」「攻撃」から自由になります。自分の世界が安らかになるのを感じます。

まずは、自分の間違った想いに気づくことからはじめて、ハイヤーセルフとともに正しく知覚できるようにつねに助けてもらう習慣をもちましょう。

それは、幸せな世界であるパラレルワールドを選ぶことでもあるのです。

 

 

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お友だちと久しぶりゴハン

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九州からお仕事で来ていたお友だちと久しぶりの再会。

もうなが〜〜〜いおつきあいのお友だちですが、ついこのあいだのように話していることが、「え〜っ! あれって、もう二十年もまえ!?」なんてことに。

若人のみなさん、気をつけてくださいね。あるトシをすぎると、時間にイジワルされているような、まるで欺かれているような気分になりますから・・・。

「ついこのあいだ!」と思っていることが、あらら〜!十年まえどころか、もう二十年もまえ。二十年ってかんたんに言うけれど、生まれたばかりの赤ちゃんが成人しちゃうぐらいの時の流れですからね〜。

この時間の速さ、どう考えてもなにかがおかしいとしか思えません(汗)。

そうはいっても、そんな時の流れのなかで、自分もいく度か脱皮してちがう人生を生きているようにも感じるのですが、旧友に会ってみればなんら変わっていないようにも感じます。

よくセラピーをして、こころのなかのホコリを落とすとちがう人になってしまうのでは・・・と心配される方がいますが、そんなことはありません。

こころのチリをはらうとよりリアルな自分になるので、以前よりも人との距離が縮まって心地よいつながりが感じられたり、人やモノや体験とのかかわりがより濃くなるように感じます。

さて、本日の再会ディナーですが、ちょっと上品な焼き鳥屋さん えびす坂鳥幸さん@恵比寿ガーデンプレイスタワー 38F。

前菜・焼き鳥とお野菜の串いろいろ・親子丼・デザート。お肉がジューシーでとっても美味でした。

煙もくもくでシッポが出てしまいそうな焼き鳥屋さんも好きですが、ゆっくりしたいときにはオススめのお店です。

いつも時の流れを感じさせない変わらぬおつきあいに感謝の夕べでした。

 

 

百金マカロン

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

ブームはさったけれど、あいかわらずマカロン、好きです♡

それを知るお友だちが差し入れてくれました。「フランスのマカロンだよ〜☆」って。

バニラ、チョコ、キャラメル、さすが本場モノ、とてもおいしいです♡ マリーアントワネットもこんなの食べてたのかな?

すると、お友だちが「おいしかった?あれね、じつは今流行の激安スーパーで300円でゲットしたマカロンなのよ〜(笑)」とたねあかし。

まあ、いまどきのスーパーはフランス製のマカロンなんて手に入るの?! それも、たったの百円で本場の味?! (ふつう、一個二〜三百円、ピエールエルメだと一個五百円のものも!)

百円となれば、おまんじゅうを買う気安さ!さっそく教えてもらったお店に向かってみると・・・

商品棚はカラッポでした。

あらら! みんな、にわかに百金マカロンにめざめちゃたのかしらん? おフランス製、ゲットしそこないました〜☆

 

20-01-09 映像よりも、コワいのは音!

「こどもの頃、エクソシストってえらくコワかったよね! 女の子の首がグルって回ったりして・・・」「コワかった〜!」



怪談やお化けものじゃないホラー映画のはしりです。女の子に悪魔がのりうつって、助けにやってきた神父と闘いをくりひろげます。

お友だちとそんな話しをした後に、こんな YouTube が送られてきました。



ありゃりゃ!(汗)めちゃコワかったクライマックスシーンが別ものに! コワいどころか、抱腹絶倒。同じ画像でも、こうも変わるものか!?

他のお友だちにもシェアしたみたところ、「結局、映像よりサウンドのほうが影響力があるのかもね」「無音で恐怖DVD観ると、あまり怖くないからなぁ」と。

そうなんですよね。そこについている「音」がくせものなのです。

私たちは見えている映像よりも、「音」を怖れているのです。

たとえば、自分が部屋でコーヒーを飲んでいる画像をイメージします。

ここに「ジョーズ」のBGMがついていたら、どんな感じ?・・・「未知との遭遇」だったら?・・・(スミマセン、両方とも古すぎてわからない?汗)

これらのBGMだと、ちょっと不穏な感じ、なんかよからぬことが起こりそうな、ザワザワ感をよびさますかもしれません。

じゃあ、Queenの「We will Rock You」 だったら?・・・アナ雪の 「Into the Unknown」 だったら?

なんか、ちょっと力が湧いてくる感じ、なにかが始まりそうな感じ。

ひとつの場面も、BGMが違うだけでまったく違ったストーリーの一部となります。

じつは、私たちが目にしている日常の世界という画像も、BGMがついています。

BGMを選んでいるのは自分で、それがまさに自分のテーマソングになっていて日常の色みを決めているのです。(いつも何かにおびえているビクビクさんは、無意識のうちにジョーズがなっているのかも。)

その自分専用BGMは、毎日、年がら年中かかっているので、もう自分では慣れっこになっていて(踏切の隣に住んでいる人が、カンカン鳴る警報をいちいち気にしないのと同じで)、自分ではまったく聞こえていないのです。ほぼ無意識になってしまっています。

でも、いつもアタマがガンガンする感じがしたり、何かにおびえているかもしれません。

そのBGMが、「あるがまま」という何でもない画像のうえにかぶさって、自分のストーリーの色あいを醸し出しているのです。

私たちが人生のなかで何かを怖がったり、脅威を感じているときには、目のまえで起きていること(画像)が問題というよりは、まさにこの無意識となったBGMに怯えさせられている、ということなのです。

いつだってコワい原因は、決して映像(起こっていること)にあるのではなく、音。そこに被せている無意識の自分の想いであり、価値判断であり、感情なのです。

でも、私たちは「このイヤな感じは、私が目にしているもの “そのもの” のせいだ」と勘違いして、外側の画像を変えようとやっきになりますが、結局変えられません。変わったように見えても、変形して別の形になるだけなので何も変わってはいません。

それは、「変えなくちゃダメだよ!」とあおって、無力感を感じさせるのがエゴのやり口です。「頑張ったのにやっぱりダメだ〜!」という挫折感をためこませたいのです。

唯一変えることができるのは、BGM(無意識のうちに自分のこころが、想ったり、判断したり、感じていること)。BGMさえキケンでなければ、画面を変える必要はありません。

イヤな感じたしたら、いったい自分はそれにどんな意味(音)を与えているのか意識してみる必要があります。自分がどんな音を与えていたのかに気づけば、それを「無音」にするために手放すこともできるからです。

「自分こそがつけていたBGM」に気づいて、「変更する」意志をもつことで、エクソシストのキョーフの場面に大笑いしたように、最悪と感じていた場面がじつは最大のチャンスの場面に変えることができるのかもしれません。

さらに、ハイヤーセルフにお願いしてBGMをつけてもらえば、それはきっと身もこころも踊るワクワク感にあふれた喜びの場面になるのかもしれません。(これぞパラレルワールド☆ですね!)

PS 今、お友だちから、笑点のテーマ曲がオススメとのメールがきました!(笑)イイですね! 

 

 

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気づきの日記「映像よりも、コワいのは音!」

「こどもの頃、エクソシストってえらくコワかったよね! 女の子の首がグルって回ったりして・・・」「コワかった〜!」



怪談やお化けものじゃないホラー映画のはしりです。女の子に悪魔がのりうつって、助けにやってきた神父と闘いをくりひろげます。

お友だちとそんな話しをした後に、こんな YouTube が送られてきました。



ありゃりゃ!(汗)めちゃコワかったクライマックスシーンが別ものに! コワいどころか、抱腹絶倒。同じ画像でも、こうも変わるものか!?

他のお友だちにもシェアしたみたところ、「結局、映像よりサウンドのほうが影響力があるのかもね」「無音で恐怖DVD観ると、あまり怖くないからなぁ」と。

そうなんですよね。そこについている「音」がくせものなのです。

私たちは見えている映像よりも、「音」を怖れているのです。

たとえば、自分が部屋でコーヒーを飲んでいる画像をイメージします。

ここに「ジョーズ」のBGMがついていたら、どんな感じ?・・・「未知との遭遇」だったら?・・・(スミマセン、両方とも古すぎてわからない?汗)

これらのBGMだと、ちょっと不穏な感じ、なんかよからぬことが起こりそうな、ザワザワ感をよびさますかもしれません。

じゃあ、Queenの「We will Rock You」 だったら?・・・アナ雪の 「Into the Unknown」 だったら?

なんか、ちょっと力が湧いてくる感じ、なにかが始まりそうな感じ。

ひとつの場面も、BGMが違うだけでまったく違ったストーリーの一部となります。

じつは、私たちが目にしている日常の世界という画像も、BGMがついています。

BGMを選んでいるのは自分で、それがまさに自分のテーマソングになっていて日常の色みを決めているのです。(いつも何かにおびえているビクビクさんは、無意識のうちにジョーズがなっているのかも。)

その自分専用BGMは、毎日、年がら年中かかっているので、もう自分では慣れっこになっていて(踏切の隣に住んでいる人が、カンカン鳴る警報をいちいち気にしないのと同じで)、自分ではまったく聞こえていないのです。ほぼ無意識になってしまっています。

でも、いつもアタマがガンガンする感じがしたり、何かにおびえているかもしれません。

そのBGMが、「あるがまま」という何でもない画像のうえにかぶさって、自分のストーリーの色あいを醸し出しているのです。

私たちが人生のなかで何かを怖がったり、脅威を感じているときには、目のまえで起きていること(画像)が問題というよりは、まさにこの無意識となったBGMに怯えさせられている、ということなのです。

いつだってコワい原因は、決して映像(起こっていること)にあるのではなく、音。そこに被せている無意識の自分の想いであり、価値判断であり、感情なのです。

でも、私たちは「このイヤな感じは、私が目にしているもの “そのもの” のせいだ」と勘違いして、外側の画像を変えようとやっきになりますが、結局変えられません。変わったように見えても、変形して別の形になるだけなので何も変わってはいません。

それは、「変えなくちゃダメだよ!」とあおって、無力感を感じさせるのがエゴのやり口です。「頑張ったのにやっぱりダメだ〜!」という挫折感をためこませたいのです。

唯一変えることができるのは、BGM(無意識のうちに自分のこころが、想ったり、判断したり、感じていること)。BGMさえキケンでなければ、画面を変える必要はありません。

イヤな感じたしたら、いったい自分はそれにどんな意味(音)を与えているのか意識してみる必要があります。自分がどんな音を与えていたのかに気づけば、それを「無音」にするために手放すこともできるからです。

「自分こそがつけていたBGM」に気づいて、「変更する」意志をもつことで、エクソシストのキョーフの場面に大笑いしたように、最悪と感じていた場面がじつは最大のチャンスの場面に変えることができるのかもしれません。

さらに、ハイヤーセルフにお願いしてBGMをつけてもらえば、それはきっと身もこころも踊るワクワク感にあふれた喜びの場面になるのかもしれません。(これぞパラレルワールド☆ですね!)

PS 今、お友だちから、笑点のテーマ曲がオススメとのメールがきました!(笑)イイですね!

 

 

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