さし入れ (๑❛ᴗ❛๑)۶

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

きょうのおやつで〜す♪

「ちょっと早いけれど、バレンタインチョコがわりに・・・」とさし入れをいただきました。恵比寿 レザネフォールさんのスウィーツ♡

このお店は近所なのでたまに伺うのですが(モンブラン、シュークリームをリピートしています)、このチョコレートケーキはお初です。バレンタインシーズンのラインナップ?

まわりがナッツとチョコでしっかりコーティングされていて、チョコレートバーのようにずっしり。

なかは三層のクリーム、土台はサクサクのメレンゲで、全体的にヘーゼルナッツやオレンジピール、リキュールがきいたガナッシュクリームのような味わい。

レザネフォールさんといえば、テリーヌのようなショコラケーキで有名です。だからチョコケーキはおハコなのでしょうね。

濃厚な味わいで、ヨーロッパスタイルの濃いコーヒーにとてもあいます。ひとつでかなりの満足感!

おうちバレンタインには、こんなチョコケーキを一緒に楽しむのもいいですね。

シーズンが終わるまえにもう一度いただきたい大人チョコスウィーツでした。ごちそうさま♡

 

 

 

21-01-23 自分を幸せにしてくれるもの

 

恋♡をしているとき、私たちは幸せな気分になります。

世界は以前よりもよいところに見え、ステキなことに満ちているよう。

それは世界が突然、自分に対する態度を変えたわけではなく、ただたんに自分のこころの状態が変わったからです。

こころに、優しさや愛、思いやりがあることで、自分のこころが自らを幸せにしてくれているのです。

・・・ということは、幸せになりたいのだったら、ただシンプルに優しさ、愛、思いやりの気持ちをいつもこころにキープするだけでよい、それらで満たしておくだけでよい、ということです。

ところが・・・ 私たちときたら、不平不満を言うことや裁くこと、攻撃することにかけては秒殺の早さを誇る達人です(それにおいてはコントロール不能! 自分でも気づかぬうちにもうやっちゃてます・汗)。

その秒殺は相手に向けられているだけではなく、自分の幸せも即死させている・・・ということになかなか気づけません。

先日もクライエントのAさんと話していたときのこと。

「ダンナに対する攻撃の言葉はまるでマシン銃のごとく無意識に連発できるのに、感謝のことばはまるで口にできないのです」とAさん。

まさに、私たちのこころのなかは不平不満、文句、裁きの思いの無法地帯でたれ流し状態ですが、感謝や愛の思いに関してはまさに気づいても気づかぬフリで通りすぎています。

チラリと相手に対して「ありがとう」と感じたとしても、言葉にされることも、行為で示されることもなく、一瞬で消えさってしまいます。だって、ハズカしいじゃな〜い、わかってるでしょ?!って。

日々、お店で、病院で、いろいろなところで感謝すべきことは多々あるのですが、面と向かって「ありがとう!」「助かりました」と全部伝えてはいないのです。

しかし、何かが起こったときにはじめて、「じつは、すごく感謝していたんだよ!」とあらためて口にしたりします(遅っっっ!汗)

なぜこうなるのか?

私たちにとって、無意識のうちに「自分を守らねば」という気持ちが強く、感謝するよりもキケンを察知することのほうがずっと大切だからです。だからこそ、すぐに不具合を見つけなければならないのです。そのための文句であり、裁きなのです。

でも、幸せとは、さきほども書きましたが、こころのなかの幸せ、愛、思いやりがあってこそはじめて感じられるものなのでした。

そうなれば、まずは自分がどれだけ文句たらたらなのか、裁きたくってしょうがないのか、攻撃的なのか、このさい正直にしっかりと知ることが大切です。(攻撃的というのは、被害者になりたがる、ということも含まれます。被害者はいつも、攻撃を見ているからです。それも攻撃のひとつの形です。)

何かを手放すためには、手放す対象がちゃんとわかっていなければなりません。

だから、どちらかといえば、「え〜〜〜!私のこころはこんなに不平不満と攻撃心でいっぱいだったの?! ガ〜〜〜ン!」とショックを受けることは、癒しにおいては正直でよい兆候なのです。みんなそんなものだからです。

でも、そこで立ち止まらず、気づいたらそれを自分の高い自己(ハイヤーセルフ)に渡してしまいましょう。自分で大切にして、使いまわしていたものを自分では手放せません。すべて高い自己に回収してもらいましょう。

回収してもらううちに、本来の自分の愛であるものの見方が復活することになります。無理ににイイ人になろうとする必要はないのです。もともとそこにあるものだからです。

今まで自分が無意識のうちに不平不満、裁きをたれ流しにしていたことに気づいたら、ただ逆の方向に進もうとしてみましょう。

それは、今までチラとこころをかすめていた「ありがとう」の気持ちをちゃんとすくいあげてあげること。外に出してあげること。

それは無かったのではなく、じつはただ素通りされていただけなのです。あらためて表現の機会を与えてあげましょう。

怖れからわき起こる不平不満や攻撃の気持ちを野放しにすることなく、気づいて手放しながら、このような温かなこころを復活させてあげることこそが自分を幸せにする第一歩です。

自分を幸せにしてくれる自分の愛と優しさに気づいて、出し惜しみすることなく大きく解き放ってあげましょう。それは自分を包みこみ、どこまでも大きく広がって、そしてまた自分を幸せにするために戻ってきます☆☆☆

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

気づきの日記「自分を幸せにしてくれるもの」

 

恋♡をしているとき、私たちは幸せな気分になります。

世界は以前よりもよいところに見え、ステキなことに満ちているよう。

それは世界が突然、自分に対する態度を変えたわけではなく、ただたんに自分のこころの状態が変わったからです。

こころに、優しさや愛、思いやりがあることで、自分のこころが自らを幸せにしてくれているのです。

・・・ということは、幸せになりたいのだったら、ただシンプルに優しさ、愛、思いやりの気持ちをいつもこころにキープするだけでよい、それらで満たしておくだけでよい、ということです。

ところが・・・ 私たちときたら、不平不満を言うことや裁くこと、攻撃することにかけては秒殺の早さを誇る達人です(それにおいてはコントロール不能! 自分でも気づかぬうちにもうやっちゃてます・汗)。

その秒殺は相手に向けられているだけではなく、自分の幸せも即死させている・・・ということになかなか気づけません。

先日もクライエントのAさんと話していたときのこと。

「ダンナに対する攻撃の言葉はまるでマシン銃のごとく無意識に連発できるのに、感謝のことばはまるで口にできないのです」とAさん。

まさに、私たちのこころのなかは不平不満、文句、裁きの思いの無法地帯でたれ流し状態ですが、感謝や愛の思いに関してはまさに気づいても気づかぬフリで通りすぎています。

チラリと相手に対して「ありがとう」と感じたとしても、言葉にされることも、行為で示されることもなく、一瞬で消えさってしまいます。だって、ハズカしいじゃな〜い、わかってるでしょ?!って。

日々、お店で、病院で、いろいろなところで感謝すべきことは多々あるのですが、面と向かって「ありがとう!」「助かりました」と全部伝えてはいないのです。

しかし、何かが起こったときにはじめて、「じつは、すごく感謝していたんだよ!」とあらためて口にしたりします(遅っっっ!汗)

なぜこうなるのか?

私たちにとって、無意識のうちに「自分を守らねば」という気持ちが強く、感謝するよりもキケンを察知することのほうがずっと大切だからです。だからこそ、すぐに不具合を見つけなければならないのです。そのための文句であり、裁きなのです。

でも、幸せとは、さきほども書きましたが、こころのなかの幸せ、愛、思いやりがあってこそはじめて感じられるものなのでした。

そうなれば、まずは自分がどれだけ文句たらたらなのか、裁きたくってしょうがないのか、攻撃的なのか、このさい正直にしっかりと知ることが大切です。(攻撃的というのは、被害者になりたがる、ということも含まれます。被害者はいつも、攻撃を見ているからです。それも攻撃のひとつの形です。)

何かを手放すためには、手放す対象がちゃんとわかっていなければなりません。

だから、どちらかといえば、「え〜〜〜!私のこころはこんなに不平不満と攻撃心でいっぱいだったの?! ガ〜〜〜ン!」とショックを受けることは、癒しにおいては正直でよい兆候なのです。みんなそんなものだからです。

でも、そこで立ち止まらず、気づいたらそれを自分の高い自己(ハイヤーセルフ)に渡してしまいましょう。自分で大切にして、使いまわしていたものを自分では手放せません。すべて高い自己に回収してもらいましょう。

回収してもらううちに、本来の自分の愛であるものの見方が復活することになります。無理ににイイ人になろうとする必要はないのです。もともとそこにあるものだからです。

今まで自分が無意識のうちに不平不満、裁きをたれ流しにしていたことに気づいたら、ただ逆の方向に進もうとしてみましょう。

それは、今までチラとこころをかすめていた「ありがとう」の気持ちをちゃんとすくいあげてあげること。外に出してあげること。

それは無かったのではなく、じつはただ素通りされていただけなのです。あらためて表現の機会を与えてあげましょう。

怖れからわき起こる不平不満や攻撃の気持ちを野放しにすることなく、気づいて手放しながら、このような温かなこころを復活させてあげることこそが自分を幸せにする第一歩です。

自分を幸せにしてくれる自分の愛と優しさに気づいて、出し惜しみすることなく大きく解き放ってあげましょう。それは自分を包みこみ、どこまでも大きく広がって、そしてまた自分を幸せにするために戻ってきます☆☆☆

 

 

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春を感じるコスメ

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クリスマスにお友だちのKちゃんからいただいたコスメ。

いつも自分では選ばないチョイスをしてくださるので、「あ、こんな色もあり?!」と新しい発見の連続です。

アイシャドーは、春を感じるようなちょっとスモーキーで優しい色合い。リップグロスは、くちびるがぷっくりとした感じに仕上がります。

年が明けたら使おう♪ ときめていましたが ・・・ またもやガマンの緊急事態宣言(泣く)。お出かけも先のばしに。

春には、新しいコスメでKちゃんと久々のランチがデートができますように♡

 

 

21-01-13 ストーリー・オブ・マイライフ

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私の好きな俳優さん、シアーシャ・ローナンとティモシー・シャラメが出演しているこの作品。「若草物語」の最新リメイク版です。

私の世代は「赤毛のアン」シリーズの方が人気があったので、「若草物語」は一度しか読んだことがなく初めてのような新鮮さで楽しめました。

19世紀の終わりごろのウィスコンシン州。黒人解放にかかわる牧師である父親が長く留守をしている一家は、母と四人姉妹だけ。

作家志望である次女ジョーの目をとおして紡がれる、女ばかりの家族の貧しくともなんとも賑やかな日常。

まだまだ性差別が強く、女性が生きづらかったアメリカ社会で、大人になるまえの娘であり姉妹である少女時代を惜しむように姉妹と母、そしてお隣の老人やイケメンくんとの出来事がイキイキと綴られてゆきます。(→予告を見る)

ある日、ジョーの態度に腹をたてた四女のエイミーが、ジョーが完全にうちのめされるようなことをしでかしてしまうのです。

そのときのエイミーのセリフが、「ジョーを傷つけるためにはこれをするしかなかった」と。

ひゃ〜〜!「がっつりと傷つける意図があってやった」と言ってしまうところに口があんぐり。友だち関係だったら、一生修復はむずかしいでしょうに。

うちのめされたジョーは悲しみと怒りがおさまらず、エイミーと目もあわせずさけていたのです。けれども、さすがに姉妹。ついには赦して受けいれます。そして、なにごともなかったようにいたわりあう関係に。

なぜならジョーにとっては、憎むことよりも姉妹としての「つながり」の方がずっとずっと大切だったから。ジョーにとって、家族全員にとって、この絆こそが生きるちからだったのです。

この時代のファッションも可愛いらしいです。

腰までとどくふわふわのロングヘア。ボリュームのあるギャザーのロングスカートに編みあげブーツ。たっぷりしたブラウスにざっくりと編んだ大きめのカーデガン。エディ バウアーやむかしのローラ アシュレイのイメージです。

家族を助けるためにジョーがロングヘアをお金にかえてしまうシーンがあります。

自分の意志で髪を売った気丈なジョーでさえ、夜中にひとり「私の髪が〜・・・」と大泣きしていました。それに気づいて抱きしめるエイミー。

ロングヘアはまさに女性としてのシンボルのようなものだったようです。

自立心が旺盛で、夢をあきらめない勇気があり、自分の道をつきすすむジョーであっても、いちばん愛しているのは家族であり、家族があってこそそんなジョーでいられたようです。

「ブルックリン」や「レディーバード」の頃よりも少しほっそりとしたシアーシャ・ローナンが、そんなジョーのイメージにぴったりでした。

映画のなかでは、現在のストーリーが過去の出来事とのあいだを行ったりきたりするので、ちょっと混乱しそうになりますが、あたたかな四姉妹に励まされる作品です。

PS *ティモシー・シャラメは、美しさに磨きがかかっておりました♡
四姉妹のお隣さんである青年を演じているのですが、こんな姉妹たちがお隣に住んでいたらそわそわして当然。彼もじっと椅子に坐ってお勉強などしていられない様子でした(笑)。

*ピアノが得意な三女のベスが演奏する場面があります。流れるような美しいメロディーはベートーヴェンの「悲愴」の第二楽章とシューマンの「こどもの情景」から「見知らぬ国」。

どちらも、ステイホーム中に私が弾いていた曲なので嬉しくなりました。

「見知らぬ国」は、「ソフィの選択」のなかでもネイサンが異国からやってきた恋人ソフィのために弾いておりましたっけ。ピアノのまえに坐るソフィの後ろに腰掛けて弾くシーンはとってもロマンチックで、この美しい旋律にぴったりでした。

 

 

 

お茶の間シネマトーク「ストーリー・オブ・マイライフ」

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

私の好きな俳優さん、シアーシャ・ローナンとティモシー・シャラメが出演しているこの作品。「若草物語」の最新リメイク版です。

私の世代は「赤毛のアン」シリーズの方が人気があったので、「若草物語」は一度しか読んだことがなく初めてのような新鮮さで楽しめました。

19世紀の終わりごろのウィスコンシン州。黒人解放にかかわる牧師である父親が長く留守をしている一家は、母と四人姉妹だけ。

作家志望である次女ジョーの目をとおして紡がれる、女ばかりの家族の貧しくともなんとも賑やかな日常。

まだまだ性差別が強く、女性が生きづらかったアメリカ社会で、大人になるまえの娘であり姉妹である少女時代を惜しむように姉妹と母、そしてお隣の老人やイケメンくんとの出来事がイキイキと綴られてゆきます。(→予告を見る)

ある日、ジョーの態度に腹をたてた四女のエイミーが、ジョーが完全にうちのめされるようなことをしでかしてしまうのです。

そのときのエイミーのセリフが、「ジョーを傷つけるためにはこれをするしかなかった」と。

ひゃ〜〜!「がっつりと傷つける意図があってやった」と言ってしまうところに口があんぐり。友だち関係だったら、一生修復はむずかしいでしょうに。

うちのめされたジョーは悲しみと怒りがおさまらず、エイミーと目もあわせずさけていたのです。けれども、さすがに姉妹。ついには赦して受けいれます。そして、なにごともなかったようにいたわりあう関係に。

なぜならジョーにとっては、憎むことよりも姉妹としての「つながり」の方がずっとずっと大切だったから。ジョーにとって、家族全員にとって、この絆こそが生きるちからだったのです。

この時代のファッションも可愛いらしいです。

腰までとどくふわふわのロングヘア。ボリュームのあるギャザーのロングスカートに編みあげブーツ。たっぷりしたブラウスにざっくりと編んだ大きめのカーデガン。エディ バウアーやむかしのローラ アシュレイのイメージです。

家族を助けるためにジョーがロングヘアをお金にかえてしまうシーンがあります。

自分の意志で髪を売った気丈なジョーでさえ、夜中にひとり「私の髪が〜・・・」と大泣きしていました。それに気づいて抱きしめるエイミー。

ロングヘアはまさに女性としてのシンボルのようなものだったようです。

自立心が旺盛で、夢をあきらめない勇気があり、自分の道をつきすすむジョーであっても、いちばん愛しているのは家族であり、家族があってこそそんなジョーでいられたようです。

「ブルックリン」や「レディーバード」の頃よりも少しほっそりとしたシアーシャ・ローナンが、そんなジョーのイメージにぴったりでした。

映画のなかでは、現在のストーリーが過去の出来事とのあいだを行ったりきたりするので、ちょっと混乱しそうになりますが、あたたかな四姉妹に励まされる作品です。

PS *ティモシー・シャラメは、美しさに磨きがかかっておりました♡
四姉妹のお隣さんである青年を演じているのですが、こんな姉妹たちがお隣に住んでいたらそわそわして当然。彼もじっと椅子に坐ってお勉強などしていられない様子でした(笑)。

*ピアノが得意な三女のベスが演奏する場面があります。流れるような美しいメロディーはベートーヴェンの「悲愴」の第二楽章とシューマンの「こどもの情景」から「見知らぬ国」。

どちらも、ステイホーム中に私が弾いていた曲なので嬉しくなりました。

「見知らぬ国」は、「ソフィの選択」のなかでもネイサンが異国からやってきた恋人ソフィのために弾いておりましたっけ。ピアノのまえに坐るソフィの後ろに腰掛けて弾くシーンはとってもロマンチックで、この美しい旋律にぴったりでした。

 

 

 

21-01-05 プチな意図をこころにともす

 

新しい年があけ、あっというまに日常がまわりはじめました。

今年の新たな決意さえも、忙しい日々にまぎれて「あれ?なにを決めたんだっけ?」とアタマのかたすみで忘れさられているかもしれません。

変化を起こしたいとき、私たちは大きな改革を一気に起こそうとします。今まで進んでいた方向から理想のゴールへ、えいっ!と一気に180度曲がりきろうとするのです。

でもそれは、いまの自分とはあまりにかけ離れているのでリアリティがなく、あっというまに興味が失われます。キラキラ輝くステキな決意の一瞬として、日記や手帳のかたすみに消えさります。

そうならないためにも、

なにかを変えたいと思うときには、「ほんのちょっとの違い」を大切にしましょう。

少しだけ、いつもの自分とは違う、バージョンアップしている自分を大切にするのです。

そのバージョンアップとは、思いや言葉や行動です。

表現されることはほんの小さなことかもしれませんが、その下にある意図は大きなものも、小さなものも、意図としてはまったく変わりがありません。意図は意図として偉大なのです。

大きさに関係なく、愛は愛であり、やさしさはやさしさです。

たとえて言えば、100人に対するやさしさも、1人に対するやさしさも、こころのやさしさとしては変わらないものです。

いつもだったら「ここまででいいや・・・」と満足している思いやりを、もう一歩ふみこんでみる、とか。

「ありがたかったな〜」とか、「助かったな〜」とか、「そういうところステキだな〜」とこころのなかでひそかに感謝して、口にしないままになってしまう思いを、あえて相手の人に伝えてみる、とか。

関係が気まづくなって、相手から離れたいと思うときに、勇気をだしてそこにとどまり、自分の正直な気持ちを伝えてみる、とか。

つい怒ってしまいそうになる場面で、「どういうことか理解してみよう」とふみとどまってみる、とか。

とにかく、いつもよりプチ、思いやりや、やさしさ、気遣い、勇気、愛、正直さをバージョンアップさせてみること。ここまで!と思っていたことを、もう少し盛ってみること。

いくらそれがプチであろうとも、そこにある意図はプチではないからです。

私たちのこころは、そんな小さな方向転換を「変化」としてしっかりとキャッチします。

そして、方向転換の意図はかならず、自分の目にする世界に同じものをはっきろと示してくれるようになります。

気がついたら、自分のプチな意図が大きくなって、広がって、自分を包みこみ、そんなやさしい世界に住んでいることに気づくかもしれません。

プチであろうが「意図」こそがすべてです。表現の大きさは関係がありません。

だから、こころのなかでささやかでも愛とやさしさと思いやりの炎をともしたら、それを世界にかざしてみましょう。

マッチ売りの少女のごとく、ともされた炎はきっと違う世界を見せてくれるはず・・・♡

 

 

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気づきの日記「プチな意図をここにともす」

 

新しい年があけ、あっというまに日常がまわりはじめました。

今年の新たな決意さえも、忙しい日々にまぎれて「あれ?なにを決めたんだっけ?」とアタマのかたすみで忘れさられているかもしれません。

変化を起こしたいとき、私たちは大きな改革を一気に起こそうとします。今まで進んでいた方向から理想のゴールへ、えいっ!と一気に180度曲がりきろうとするのです。

でもそれは、いまの自分とはあまりにかけ離れているのでリアリティがなく、あっというまに興味が失われます。キラキラ輝くステキな決意の一瞬として、日記や手帳のかたすみに消えさります。

そうならないためにも、

なにかを変えたいと思うときには、「ほんのちょっとの違い」を大切にしましょう。

少しだけ、いつもの自分とは違う、バージョンアップしている自分を大切にするのです。

そのバージョンアップとは、思いや言葉や行動です。

表現されることはほんの小さなことかもしれませんが、その下にある意図は大きなものも、小さなものも、意図としてはまったく変わりがありません。意図は意図として偉大なのです。

大きさに関係なく、愛は愛であり、やさしさはやさしさです。

たとえて言えば、100人に対するやさしさも、1人に対するやさしさも、こころのやさしさとしては変わらないものです。

いつもだったら「ここまででいいや・・・」と満足している思いやりを、もう一歩ふみこんでみる、とか。

「ありがたかったな〜」とか、「助かったな〜」とか、「そういうところステキだな〜」とこころのなかでひそかに感謝して、口にしないままになってしまう思いを、あえて相手の人に伝えてみる、とか。

関係が気まづくなって、相手から離れたいと思うときに、勇気をだしてそこにとどまり、自分の正直な気持ちを伝えてみる、とか。

つい怒ってしまいそうになる場面で、「どういうことか理解してみよう」とふみとどまってみる、とか。

とにかく、いつもよりプチ、思いやりや、やさしさ、気遣い、勇気、愛、正直さをバージョンアップさせてみること。ここまで!と思っていたことを、もう少し盛ってみること。

いくらそれがプチであろうとも、そこにある意図はプチではないからです。

私たちのこころは、そんな小さな方向転換を「変化」としてしっかりとキャッチします。

そして、方向転換の意図はかならず、自分の目にする世界に同じものをはっきろと示してくれるようになります。

気がついたら、自分のプチな意図が大きくなって、広がって、自分を包みこみ、そんなやさしい世界に住んでいることに気づくかもしれません。

プチであろうが「意図」こそがすべてです。表現の大きさは関係がありません。

だから、こころのなかでささやかでも愛とやさしさと思いやりの炎をともしたら、それを世界にかざしてみましょう。

マッチ売りの少女のごとく、ともされた炎はきっと違う世界を見せてくれるはず・・・♡

 

 

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謹賀新年 2021

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今年もみなさまにとって、穏やかでよろこびあふれる一年となりますように。

本年もどうぞよろしくお願い致します。

オフィス・るん
古川貴子

 

 

今年もありがとうございました♡

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だいぶまえからお友だちと約束をしていたので、近所でサックリとお疲れさまのお茶を。

そうはいっても、東京 感染者1300人ごえの速報に、ありゃりゃ〜!(汗)。そそくさと帰宅いたしました。

今年もお友だちや皆さまに支えられ、元気に笑顔で過ごすことができた一年でした。

ほんとうに感謝でいっぱいです。

来年も、安らぎのなかで丁寧に日々をかさねてゆけたらと感じています。

どうぞ、みなさまもよいお年をお迎えになってください。