20-04-30 素晴らしき哉、人生!

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

古い映画にこころ惹かれます。これは1946年の作品。アメリカではクリスマスシーズンに放送される定番だそうな。

お家のなかも屋外も全部セットだとわかるほど手づくり感が満載で、どこかディズニーランドのようですが、それがメルヘンチックな雰囲気を醸し出しています。

決して豊かな時代ではないにもかかわらず、人々はそれぞれおしゃれをして、お家のなかをきれいに飾り、ささやかながら日々の暮らしを楽しんでいる様子。この時代の女性は、ばっちりメークにかっちりカールで、おうちでもパールのネックレスにレースのワンピース?!女子力、ハンバないです!

世界中を旅して、貿易の仕事につくことに憧れるジョージ青年。彼は父親の会社を継ぎ、狭いオフィスのなかで一生を終えることを拒否します。

しかし、父は急逝し、どうにもならない現状がつねに彼の夢のまえに立ちはだかります。仕方なく、弟が継ぐことができるまで会社をひきうけることに。

あれやこれやが次々と起こるうちにすっかり夢はついえて、それでもジョージはその現実のなかでつねに思いやりをもって決断し行動してゆくのですが・・・ついになにもかもが行き詰まり、意欲を失うときがやってきます。

夢破れたジョージは、「生まれてこなければよかった」と自分の命を断とうとします。すると、待ってました!とばかりに、嘆きを耳にした守護天使のクラランスが突然ジョージのまえに現れ、ジョージを「彼が生まれていない世界」、つまり彼が存在していないパラレルワールドに連れてゆきます(この時代にしては、なかなか斬新なストーリー運び!)

彼の顔見知りの人たちが、変わりなく暮らしているように見えますが・・・なにかがおかしい。彼らはジョージなんていう人物はまったく知らないのです。さらに、彼らはジョージが知っているような彼らでさえなかったのです。

つまり、ジョージが知っているみんなの人生が、彼がいないことでまったく違うものになっていたのでした。ジョージはそれを見て、ショックをうけます。

そしてクラランスは言います。「ひとりの命は大勢に影響し、その人間が欠けると世界は一変するのだ」と。

そうと知った彼は・・・。

たしかに〜。

私の人生で、もし○ちゃん、△さん、□くん etc・・・がいなかったら、決して今の私じゃありえない!と断言できます。

ふだんはそれほど意識していなくとも、どれほどお互いがお互いに影響を及ぼしあって生きていることか。どれほど、そのひとりひとりによって助けられ、励まされて、支えられ、導かれて、愛をうけとり、喜びをわかちあっていることか。

そしてそこで受けとったものがまた、バタフライエフェクトのように全体へと広がってゆくのです。

ジョージがガクゼンとしたように、私も「もし○ちゃんがいなかったら」「△さんに出会わなかったら」・・・と、しばし彼らのいないパラレルワールドに想いをはせてしまいました。

コロナ自粛で隔離されているように感じている今、不思議とふだんよりも「つながり」「きずな」「安心感」を感じます。それは、まさに私に与えられているひとりひとりからの支えや愛情という贈りもののお陰なのだな〜とあらためて感謝しました。

まわりにいてくれるひとりひとりが、ガーディアンエンジェルなのだな〜と感じます。(彼らに、背中に翼がプリントされてるTシャツでもプレゼントしなくちゃね!)

涙壷度:★★☆☆☆(ほっこり、じんわり、そして涙)

PS 1940年代の暮らし、ファッション、そして恋愛の仕方も楽しめます♪

 

 

お茶の間シネマトーク「素晴らしき哉、人生!」

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

古い映画にこころ惹かれます。これは1946年の作品。アメリカではクリスマスシーズンに放送される定番だそうな。

お家のなかも屋外も全部セットだとわかるほど手づくり感が満載で、どこかディズニーランドのようですが、それがメルヘンチックな雰囲気を醸し出しています。

決して豊かな時代ではないにもかかわらず、人々はそれぞれおしゃれをして、お家のなかをきれいに飾り、ささやかながら日々の暮らしを楽しんでいる様子。この時代の女性は、ばっちりメークにかっちりカールで、おうちでもパールのネックレスにレースのワンピース?!女子力、ハンバないです!

世界中を旅して、貿易の仕事につくことに憧れるジョージ青年。彼は父親の会社を継ぎ、狭いオフィスのなかで一生を終えることを拒否します。

しかし、父は急逝し、どうにもならない現状がつねに彼の夢のまえに立ちはだかります。仕方なく、弟が継ぐことができるまで会社をひきうけることに。

あれやこれやが次々と起こるうちにすっかり夢はついえて、それでもジョージはその現実のなかでつねに思いやりをもって決断し行動してゆくのですが・・・ついになにもかもが行き詰まり、意欲を失うときがやってきます。

夢破れたジョージは、「生まれてこなければよかった」と自分の命を断とうとします。すると、待ってました!とばかりに、嘆きを耳にした守護天使のクラランスが突然ジョージのまえに現れ、ジョージを「彼が生まれていない世界」、つまり彼が存在していないパラレルワールドに連れてゆきます(この時代にしては、なかなか斬新なストーリー運び!)

彼の顔見知りの人たちが、変わりなく暮らしているように見えますが・・・なにかがおかしい。彼らはジョージなんていう人物はまったく知らないのです。さらに、彼らはジョージが知っているような彼らでさえなかったのです。

つまり、ジョージが知っているみんなの人生が、彼がいないことでまったく違うものになっていたのでした。ジョージはそれを見て、ショックをうけます。

そしてクラランスは言います。「ひとりの命は大勢に影響し、その人間が欠けると世界は一変するのだ」と。

そうと知った彼は・・・。

たしかに〜。

私の人生で、もし○ちゃん、△さん、□くん etc・・・がいなかったら、決して今の私じゃありえない!と断言できます。

ふだんはそれほど意識していなくとも、どれほどお互いがお互いに影響を及ぼしあって生きていることか。どれほど、そのひとりひとりによって助けられ、励まされて、支えられ、導かれて、愛をうけとり、喜びをわかちあっていることか。

そしてそこで受けとったものがまた、バタフライエフェクトのように全体へと広がってゆくのです。

ジョージがガクゼンとしたように、私も「もし○ちゃんがいなかったら」「△さんに出会わなかったら」・・・と、しばし彼らのいないパラレルワールドに想いをはせてしまいました。

コロナ自粛で隔離されているように感じている今、不思議とふだんよりも「つながり」「きずな」「安心感」を感じます。それは、まさに私に与えられているひとりひとりからの支えや愛情という贈りもののお陰なのだな〜とあらためて感謝しました。

まわりにいてくれるひとりひとりが、ガーディアンエンジェルなのだな〜と感じます。(彼らに、背中に翼がプリントされてるTシャツでもプレゼントしなくちゃね!)

涙壷度:★★☆☆☆(ほっこり、じんわり、そして涙)

PS 1940年代の暮らし、ファッション、そして恋愛の仕方も楽しめます♪

 

ちょっとお出かけ

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

所用のため、朝いちでおでかけ。

近所のスーパーは連日行列をなしていますが、都心は人も車もスコーンと消えています。

コロナで大騒ぎをしていても季節は着実に移りかわり、おこもりをしていた目にはみずみずしい緑がまぶしく映ります。

見慣れた風景も、人がいないとまた違ったおもむき。

この静けさのなかを歩いていると、「みんなどこかの星に移住してしまって、私だけここで一人ぽっち」・・・なんていうヘンな妄想がむくむく(笑)。そんな映画ありましたね〜。

 

 

20-04-22 喜びと恋をする

 

私たちが恋をしているとき・・・

その存在がこころからはなれず、
気がつけば、四六時中、その存在にこころをうばわれ、
なにが起ころうとも、その存在とからめて考えてしまいます。

恋をする相手は、リアル男性、女性にかぎりません。ちょっと変わったところでは、ダムや建物、巨大建造物に恋をする方もいらっしゃいます。

あるいは ・・・ 悪魔に恋をする場合だってあるのです。そして、苦しみながらも、恋をしていることに酔いしれます。

ふ〜ん・・・そんな人もいるのね、漫画やドラマではありそうな話しよね、って?!

いえいえ、それはあなたのことかもしれません。

四六時中、自分にとって役に立たない、自分を怯えさせるようなコワイことばかりを考えつづける・・・。

あ〜なったらどうしよう、こ〜なったらたいへん、いや、そうなるに違いない・・・。そうだ!そうなるに決まってる!ああ、どうしたらいいの?!(汗)・・・もう体がつめたくなって、いっきに具合が悪くなってしまうのです。

でも ・・・ まだなにひと〜つ起こっていません。し〜んとしています。アタマのなか以外は・・・。

これはまさに、悪魔に恋をしている状態。「怖れ」にこころをうばわれ、「苦しみ」に執着しているのです

つねにコワいストーリーばかり考えつづけ、いつもそんな考えでこころがっぱいで、コワさに酔いしれ、コワいこと以外考えられません。

まさに、「怖れ」と恋におちています。

こんなふうに、自分が「怖れ」に恋をして、こころを捧げるあまり、それを自分のものにしていることに気づいていません。

クライエントさんから、眠れません、不安で不安で仕方ありません、具合が悪くなってしまいました、という言葉をたびたび耳にしますが、

そのたびに、「どれほど自分自身で自分を怖がらせているのか」に気づいていないことがわかります。

自分を苦しめているのは、今起きていることやその状況ではなく、自分の考えじたいがコワイのです。

どうしてもコワイ方向に行きたがっている自分に気づいていません。

なんせ、「怖れ」と恋におちているからです。こころは「怖れ」に占拠され、すべてのことを「怖れ」とからめて考えることしかできなくなっているのです。

もし自分がこころを捧げている相手が自分を幸せにしないとわかったときには、私たちはその存在を手放すという選択をすることができます。

もしや、私は「怖れ」に執着していることで、自分を幸せにしていないのではないか?と感じたら、キッパリと方向転換をいたしましょう。

大切にしたいのは「怖れ」などではない。感じたいのは「喜び」である、と気づきましょう。「喜び」を自分の目標にいたしましょう。

それは、「私は喜ぶのだ!」とこころに決めることです。すべてのことのなかに意図的に「喜び」を見つけることです。

私たちは「見つけよう!」とするものをかならず見つけることができます。それがこころの「創造する」ちからです。

「喜び」について考える時間をたくさんもちましょう。「喜び」の機会を少しも逃さないように、あらゆる瞬間に「喜び」を見つけましょう。私のすべきことは「喜ぶことだ」とこころを変えましょう!

こころこそが、自分の体験を決める原動力そのものです。

こころが「喜びと恋をするの♡」と決めたのなら、必ずやこころのなかに「喜び」が広がり、自分の視野のなかに「喜べること」が広がってゆくのに気づくことができるようになります。

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

気づきの日記「喜びと恋をする」

 

私たちが恋をしているとき・・・

その存在がこころからはなれず、
気がつけば、四六時中、その存在にこころをうばわれ、
なにが起ころうとも、その存在とからめて考えてしまいます。

恋をする相手は、リアル男性、女性にかぎりません。ちょっと変わったところでは、ダムや建物、巨大建造物に恋をする方もいらっしゃいます。

あるいは ・・・ 悪魔に恋をする場合だってあるのです。そして、苦しみながらも、恋をしていることに酔いしれます。

ふ〜ん・・・そんな人もいるのね、漫画やドラマではありそうな話しよね、って?!

いえいえ、それはあなたのことかもしれません。

四六時中、自分にとって役に立たない、自分を怯えさせるようなコワイことばかりを考えつづける・・・。

あ〜なったらどうしよう、こ〜なったらたいへん、いや、そうなるに違いない・・・。そうだ!そうなるに決まってる!ああ、どうしたらいいの?!(汗)・・・もう体がつめたくなって、いっきに具合が悪くなってしまうのです。

でも ・・・ まだなにひと〜つ起こっていません。し〜んとしています。アタマのなか以外は・・・。

これはまさに、悪魔に恋をしている状態。「怖れ」にこころをうばわれ、「苦しみ」に執着しているのです

つねにコワいストーリーばかり考えつづけ、いつもそんな考えでこころがっぱいで、コワさに酔いしれ、コワいこと以外考えられません。

まさに、「怖れ」と恋におちています。

こんなふうに、自分が「怖れ」に恋をして、こころを捧げるあまり、それを自分のものにしていることに気づいていません。

クライエントさんから、眠れません、不安で不安で仕方ありません、具合が悪くなってしまいました、という言葉をたびたび耳にしますが、

そのたびに、「どれほど自分自身で自分を怖がらせているのか」に気づいていないことがわかります。

自分を苦しめているのは、今起きていることやその状況ではなく、自分の考えじたいがコワイのです。

どうしてもコワイ方向に行きたがっている自分に気づいていません。

なんせ、「怖れ」と恋におちているからです。こころは「怖れ」に占拠され、すべてのことを「怖れ」とからめて考えることしかできなくなっているのです。

もし自分がこころを捧げている相手が自分を幸せにしないとわかったときには、私たちはその存在を手放すという選択をすることができます。

もしや、私は「怖れ」に執着していることで、自分を幸せにしていないのではないか?と感じたら、キッパリと方向転換をいたしましょう。

大切にしたいのは「怖れ」などではない。感じたいのは「喜び」である、と気づきましょう。「喜び」を自分の目標にいたしましょう。

それは、「私は喜ぶのだ!」とこころに決めることです。すべてのことのなかに意図的に「喜び」を見つけることです。

私たちは「見つけよう!」とするものをかならず見つけることができます。それがこころの「創造する」ちからです。

「喜び」について考える時間をたくさんもちましょう。「喜び」の機会を少しも逃さないように、あらゆる瞬間に「喜び」を見つけましょう。私のすべきことは「喜ぶことだ」とこころを変えましょう!

こころこそが、自分の体験を決める原動力そのものです。

こころが「喜びと恋をするの♡」と決めたのなら、必ずやこころのなかに「喜び」が広がり、自分の視野のなかに「喜べること」が広がってゆくのに気づくことができるようになります。

 

 

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巣ごもりタイムの陣中見舞い

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東京は緊急事態宣言が出てから早一週間。毎日が元日のような街の静けさです。

いざ始まってみると、けっこう楽しくなってきました。

お料理の新しいレシピを試してみたり、じっくり読書に励んだり、ふだんは忙しくて連絡をとりあえないお友だちとおしゃべりしたり、やらなくちゃ!と思っていた仕事のあれこれも片付けて ・・・。

みんながおうちにいると思うと、お出かけしたい気持ちもおさまり、かえって集中できるようです。

そんななか、お友だちから「巣ごもりタイムに楽しんでね!」と陣中見舞いが届きました。

このお友だちからは以前、巷で欠乏しているマスク一箱をおすそわけしていただいたことがあるのですが、今回はマスクはマスクでもちがうマスク。美容マスクです。

うれし〜☆ こんなにいろいろ〜!最近のフェイスマスクは進化していて、ステップ1、2、3と番号がついていて、ふきとりローション、フェイスマスク、クリームなどがひとつの袋にセットされているのです。すごいですね〜。

おうちタイムが長いと、気がねなくマスクを顔にはったままでいられます。

ではでは、巣ごもり中にお肌のお手入れを! ありがとうございます♡

そして、きょうもまたまた別のお友だちから小包が!

「早めに開けてね!」というメッセージをもらっていたので、もしや、もしや・・・と思っていたら・・・やっぱり☆ ・・・ パンが入っていました。

いつも手作りのパンを焼いてくださるのです。それも、私仕様のスペシャルバージョンとのことで、ラム酒につけたレーズンと手作りのオレンジピールとくるみがたっぷりと入ったパン。

こんがり焼いたところにバターをのせるの、オレンジピールのさわやかないい香りがしてほんとうにおいしいお気に入りのパンなのです(あまりにおいしいのでベーカリーならぬ、ブーランジェリーM と呼んでおります)。

あと、私の好きなスナップえんどう(これ、近所のスーパーではめちゃ高い!)、春菊も! あと品薄状態のアルコールジェルとウェットティッシュまで。めっちゃたすかります〜〜〜♡ お気づかい、ありがとうございます!

そんなこんなで、おうちマスクをしながら、おいしいパンをいただいて、こころ豊かな巣ごもタイムとなっています ˘⌣˘♡

 

おうちタイム

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新型コロナの感染拡大で、ついに東京も来月6日まで「緊急事態宣言」が出ました。

このウィルス感染への解決策は、「人と距離をとること」。となれば、友だちと遊べない、仲間と集えない、みんなで学べない、仕事ができない、一緒に楽しめない、盛り上がれない ・・・・ 。

人と人が引き裂かれて、遠くなってゆくように思えるこの状況 ・・・ まさに、見捨てられっ子でわびしい一人ぽっちにしようと企むエゴのしわざ! エゴめ〜〜☆

でも不思議なことに ・・・ 平常な日々にくらべて、かえってこの状況のほうがいろいろな人との距離、つながり、コミュニケーションが、ずっと近い? さらに強い? と感じられます。

友人、知人と「大丈夫? なにか困ってない? 足りないものはない?」と声をかけあったり(足りなかったマスクやトイレットペーパー、除菌ティッシュが届いて、おやつのオマケまでついていたり)、

ご無沙汰している方々から「どうしてる?元気?」とふいにご機嫌うかがいの連絡がはいったり、

みんな家にいる時間が長くなっているので LINE でメッセージを送りあったり、ふだんは長話などしない友人とあれこれ電話でおしゃべりしちゃったり・・・忙しい日常にはできないコミュニケーションができているようです。

だから、離れるどころか、より近〜くなっている感じ♡

身体と身体は出会っていなくとも、こころとこころはより一層、思いやったり、励ましあったり、声をかけあったりと、つながりあったりして、暖かさや優しさ、勇気、喜び、嬉しさを伝えあっている気がします。

そして、身体と身体が出会っているときにはついうっかり見落としていたこと(感謝とか、大切に思っている気持ちとか・・・)が、あらためて見えてきたりします。

だから、いっけん悪くなっていくように見えようとも、私たちはどこか正気を取り戻しているようにも感じるのです。

もちろん経済的には大変困った状況ではあるけれど、おうちタイムがたくさん与えられたことで、人との絆を深めつつ、自分を見つめる時間がもてるのは悪くないかな〜、とも感じています。(こころのリセット!リセット!)

この時期にしかできないこと ・・・ ず〜っとやらなくちゃ、やりたい、できたらいいな・・・と感じていたことをいろいろやってみたいな〜。(断シャリ? 久しぶりにお菓子を作る? 読書? 見たかった映画やドラマ? ただただお昼ね? ボ〜〜〜〜っとほおける・・・)

「いったい、ここになにを見たいのか」という想いこそが、自分が受けとるもの、見るものを決めてくれるのでした。

じゃあ、災いなどではなく、贈りものをリクエストすることにいたしましょ! この一ヶ月でなにを受けとることをお願いしましょうかね〜? (^。^)

 

 

20-04-07 人の目を気にするよりも・・・

 

「人の目が気になるし、人の気持ちにも左右されやすいのです」とAさん。「だから、こころが休まりません。いつも、これでいいのかな?間違っていないのかな?どう思われているのかな? と気になってしまうのです」と。

私たちは誰でも(たとえ、どんなに自信があるように見えるような方であっても)、

こころの深いところには「自分に対する不信感」が潜んでいるものです。(そうでなかったら、私たちはなにもする必要がなくなります。)

だから、誰でも「自分はなにものなのだろう?」「これでいいのか?」「正しくできているのか?」「間違っていないのか?」「はたして価値があるのだろうか?」と無意識のうちに問いかけています。

その結果として、「頑張る!」「努力する」「活動的になる」「自分をよくしなければ」「何かを変えよう!」とうまくいっている証明をしようと頑張ることになるのです。

そのとき、まわりにいる人こそが、これらの努力がちゃんと成果を出しているのかどうかをはかるモノサシとなるわけです。

彼らがヨイ反応を示してくれていれば、私は大丈夫なんだ!と。

だからこそ、うまくいってる? これでいい?と、まわりの人につねに気にして、承認を求めてしまうのです。

彼らが認めてくれれば、「ああ、自分の不足、不満足、足りなさがちゃんと補えているのだな〜」「努力が功を奏して、うまくごまかしがきいたのだな〜」(なんせ、最初から自分は足りないと決めていますから)と安心するわけです。

でも足りないものを必死で補い、認めてもらう、というのはある意味ではサギ的手口です(苦笑)。

だって、自分が好きでなないものの見栄えをちょっとばかりよくして、まんまと売りこんで、買ってくれたらしめしめと喜んでいるというようなものだからです。

自分こそが売りこんだ商品を信用していないのです。好きじゃないけれど、パッケージ、包装紙をなんとか見栄えよくしたら、あ〜ら!売れちゃった!やったぜ!、という感じです(笑)。

しかし、彼らが好きになってくれないと(でっちあげた自分を認めてくれないと)、やっぱりダメなのかと振りだしに戻ります。

(でも、彼らが認めないのは、彼らの勝手、あくまでも彼らの自己都合であって、ほんとうは私自身とはな〜〜〜〜んにも関係がないのです。しかし、それさえも自分と関係あると思ってしまうところが、すべての目線が自分の不足感だけに向いている、ということなのです。)

そもそもの大きな間違いは、

自分に対して自分が不信感をもってしまっていた、ということです。

自分のこころのなかで、「私ってなに?」「私ってどんな存在?」と、自分自身の価値について答えを求めた相手が、とんでもない詐欺師だったのです(それは、エゴとしての自分です)。

ほんとうのことを言うはずもなく、答えるこたえは、気落ちすることだけ、怖くなるようなことだけ、これっぽっちの愛もないツライ言葉なのです。

だったら、静かにして、こころを落ちつけて、ゆったりとした気分でもういちどちゃんと尋ねてみましょう。あるがままのほんとうの自分を知りたいと。自分の正しい価値を受けとりたい、ホンモノに答えを求めてみましょう。

宇宙は「求めた」からには、答えを与えてくれます。

あなたの正気であるハイヤーセルフに、ほんとうの自分を教えてほしいとお願いしましょう。

きっと、宇宙(神さま)は不良品や粗悪品はど創造していないのだ、ということを教えてくれることでしょう。そればかりか、自分がびっくりするような自己イメージを教えてもらえることになるでしょう。

でも、この答えは、「人」に頼っているときには受けとることはできません。方向が違うからです。ほんとうの自分に向かわなければなりません。

間違った自分像を正当化するために、賞賛、承認を他人から求める注意&愛情吸血鬼になるのをやめましょう。

正しい努力とは、人から認めてもらう、受け入れてもらうために払う努力ではなく、

自分ではない想い・イメージを自分のこころから一掃するために払う努力です。

正しくない想いさえこころのなかに存在しなければ、誰に対してもなにも要求する必要はないのです。

そうなれば、人の目線、反応から自由になることができます。

そのためには、こころに風をとおして、ほんとうの自分でない想い、愛でない想いはハイヤーセルフのごみ収集センターにお願いして一掃してしまいましょう。

 

 

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気づきの日記「人の目を気にするよりも・・・」

 

「人の目が気になるし、人の気持ちにも左右されやすいのです」とAさん。「だから、こころが休まりません。いつも、これでいいのかな?間違っていないのかな?どう思われているのかな? と気になってしまうのです」と。

私たちは誰でも(たとえ、どんなに自信があるように見えるような方であっても)、

こころの深いところには「自分に対する不信感」が潜んでいるものです。(そうでなかったら、私たちはなにもする必要がなくなります。)

だから、誰でも「自分はなにものなのだろう?」「これでいいのか?」「正しくできているのか?」「間違っていないのか?」「はたして価値があるのだろうか?」と無意識のうちに問いかけています。

その結果として、「頑張る!」「努力する」「活動的になる」「自分をよくしなければ」「何かを変えよう!」とうまくいっている証明をしようと頑張ることになるのです。

そのとき、まわりにいる人こそが、これらの努力がちゃんと成果を出しているのかどうかをはかるモノサシとなるわけです。

彼らがヨイ反応を示してくれていれば、私は大丈夫なんだ!と。

だからこそ、うまくいってる? これでいい?と、まわりの人につねに気にして、承認を求めてしまうのです。

彼らが認めてくれれば、「ああ、自分の不足、不満足、足りなさがちゃんと補えているのだな〜」「努力が功を奏して、うまくごまかしがきいたのだな〜」(なんせ、最初から自分は足りないと決めていますから)と安心するわけです。

でも足りないものを必死で補い、認めてもらう、というのはある意味ではサギ的手口です(苦笑)。

だって、自分が好きでなないものの見栄えをちょっとばかりよくして、まんまと売りこんで、買ってくれたらしめしめと喜んでいるというようなものだからです。

自分こそが売りこんだ商品を信用していないのです。好きじゃないけれど、パッケージ、包装紙をなんとか見栄えよくしたら、あ〜ら!売れちゃった!やったぜ!、という感じです(笑)。

しかし、彼らが好きになってくれないと(でっちあげた自分を認めてくれないと)、やっぱりダメなのかと振りだしに戻ります。

(でも、彼らが認めないのは、彼らの勝手、あくまでも彼らの自己都合であって、ほんとうは私自身とはな〜〜〜〜んにも関係がないのです。しかし、それさえも自分と関係あると思ってしまうところが、すべての目線が自分の不足感だけに向いている、ということなのです。)

そもそもの大きな間違いは、

自分に対して自分が不信感をもってしまっていた、ということです。

自分のこころのなかで、「私ってなに?」「私ってどんな存在?」と、自分自身の価値について答えを求めた相手が、とんでもない詐欺師だったのです(それは、エゴとしての自分です)。

ほんとうのことを言うはずもなく、答えるこたえは、気落ちすることだけ、怖くなるようなことだけ、これっぽっちの愛もないツライ言葉なのです。

だったら、静かにして、こころを落ちつけて、ゆったりとした気分でもういちどちゃんと尋ねてみましょう。あるがままのほんとうの自分を知りたいと。自分の正しい価値を受けとりたい、ホンモノに答えを求めてみましょう。

宇宙は「求めた」からには、答えを与えてくれます。

あなたの正気であるハイヤーセルフに、ほんとうの自分を教えてほしいとお願いしましょう。

きっと、宇宙(神さま)は不良品や粗悪品はど創造していないのだ、ということを教えてくれることでしょう。そればかりか、自分がびっくりするような自己イメージを教えてもらえることになるでしょう。

でも、この答えは、「人」に頼っているときには受けとることはできません。方向が違うからです。ほんとうの自分に向かわなければなりません。

間違った自分像を正当化するために、賞賛、承認を他人から求める注意&愛情吸血鬼になるのをやめましょう。

正しい努力とは、人から認めてもらう、受け入れてもらうために払う努力ではなく、

自分ではない想い・イメージを自分のこころから一掃するために払う努力です。

正しくない想いさえこころのなかに存在しなければ、誰に対してもなにも要求する必要はないのです。

そうなれば、人の目線、反応から自由になることができます。

そのためには、こころに風をとおして、ほんとうの自分でない想い、愛でない想いはハイヤーセルフのごみ収集センターにお願いして一掃してしまいましょう。

 

 

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20-04-03 みんなが幸せになる世直し

 

「間違っていることを目にすると、世直ししたくなってしまうのです」とクライエントのAさん。

たとえば、マナー違反とか、常識はずれとか、ちゃんとできてないとか ・・・ そんなことを目にすると、正したい気持ちがムクムクするそうな。

しかし ・・・ 相手にしてみればそれをよしとしているからこそやっているわけで、指摘されてしまうと否定されたように感じてしまうことも。すると、その方とのあいだに摩擦が生じ、正した方も正された方もイライラします。

だれでも、「正される」のは好きではありません。

また、「正すべきものがある!」と常に感じているこころは安らぐことができません。「あなたは間違っているけれど、私は正しい」と、ある意味ケンカ状態なので平和はないのです。

「自分自身が幸せにならないことにこそ、幸せがあるように感じてしまう」というのはよくあることですが、それに一生懸命になってしまうと自分の首をしめてしまいます。

よかれと思ってやっている「世直し」は、どちらにとっても幸せはのぞめないのです。

それでは、みんなが幸せになる世直しとは・・・?

正しい世直しは、「オセロ方式」がオススメです。

クロい石をシロに変えたいとき・・・

クロい石を指さして、「きみはなんでクロなんだ!シロになるべきだろ!はやくシロくなってくれ!クロは見たくないんだ!」と腕をくんで責めたてても、クロい石はクロのままです。

シロにしたいときにはどうするかというと、

「そうだ!きみはシロだ!」ときめること。はじめに、そこにシロを見ること。

そして、優しく裏返してあげる。責めることなく、ただシロにしちゃえばよいのです。

それは、自分自身が「それはシロだ!」(そこの石はシロであるべき)という意志をもって、「裏返す」(積極的に自分がシロを見る)ということなのです。

シロい姿を、相手に与えてあげること。シロにしてあげること。

それは、「なぜクロいんだ!」と叫びつづけることとは違います。

一方、「なぜクロいんだ!」と責め立てると ・・・ クロだと認めたから、クロをより強めることになります。その結果、クロがパタパタとふえてゆきます。

それよりも ・・・「いま一瞬、すご〜〜くクロに(間違っているように)見えたけれど・・・私の見たいものはそれじゃない! 私が見たいのはシロ! だから、私が見たいシロい姿(何も間違っていない姿)をきみに見るよ」と、自分が見たいものだけを相手にとことん見ようとします。

私たちは、見たいものこそを目にします。シロなのだ!と最初に決めることで、ちゃんとシロに見えるのです。(ある意味、シロであるパラレルワールドを選ぶということです。)

そして、シロを選んだからこ、シロがパタパタふえてゆきます。

「与えるものこそ、受けとるもの」。

シロだと決めて、シロを見たから、シロを受けとる。つまり、相手もシロに見えるし、自分もシロに見えるのです。

「ほ〜ら!みんなシロなんだよ〜!」「だって、私にはシロであるあなたたちしか目に入らない」「あなたは、シロだね!」とシロを決めることで、決めたものを受けとり、目にするものはオセロのようにぱたぱたとシロにかわってゆくのです。

もちろん、い自分自身もまっシロ!

それだけ、わたしたちの想いにはちからがあるのですね。さきに与えて、受けとりましょう♡

 

 

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