気づきの日記「なぜ? どうして? は必要ない」

 

「幸せをもたらすもの」だけがリアルです。それだけが、宇宙から私たちへのプレゼント。

それだけが、私たちが受けとるべきものであり、私たちにふさわしいもの。

もし・・・それ以外を受けとっていると感じるなら、なにかが間違っているようです。

私たちは、自分のこころが決めればなんでも見ることができるので、自分のこころが間違ったものを望んでしまい、その結果を見ている、ということなのです。

すでに与えられていた贈りものは、それらにおおい隠されてしまいました。

でも、ご心配なく!

ハイヤセルフは「そんな不用なものを見つけたら、ゴミとしてお出しくださいな。いつでも焼却いたしますよ!」と言ってくれています。

ところが・・・

私たちときたら、「幸せ」以外のものがあったとしても、素直に焼却をお願いしていないのです。

なにをしているのか?というと ・・・ そのゴミをいじくりまわすことに熱中します。

ゴミに対して、「なんで?」「どうして?」「どうしたらこうなる?」「誰のせい?」「なにが悪かった?」云々・・・と目のまえにあることの分析をつづけます。

これってゴミの袋をあけて、「これはなんでゴミになったの?」「誰がここに捨てたの?」「なんでここにあるの?」と言っているようなものです。

これをしているうちに、すっかり捨てることを忘れてしまいます(汗)。

大切なことは、「これは持ちつづける(大切にする)必要があるものなのか?」「自分にふさわしいものなのか?」、それとも「さっさと捨てるだけのものか」ということです。

自分を幸せにしていなかったら、問答無用、さっさと捨てましょう!

ゴミに対して、お話する必要も、詳細な分析の必要もないのですから。

捨てるものだとわかったら、さっさとゴミ焼却場へ!

ゴミ清掃会社は、ハイヤーセルフです。

この感情、この想い、この出来事、この状況は、自分にふさわしくないと認識したのなら、すみやかにハイヤーセルフに渡します。

「これは私にふさわしいものではありません。これを私のこころから取りのぞいてください。そして、目にしているものを訂正してください。すでに私に与えられているものを見ることができるように助けてください」とお願いします。

ハイヤーセルフの清掃会社は、迅速です。

でも、指示がなければ決して勝手にもちさることはありません。だから、私たち自身が「なにが自分にふさわしくないのか」をしっかり見極める必要があります。

これをするには、文句をいったり、あれこれ分析したり、詮索したりする必要はないのです。

「これは私にはふさわしくありません。もって行ってください」、このひとことでOKです。

そうしたら、ハイヤーセルフはそれらをお炊きあげしてくれます。

いつでも、どこでも、何度でも。そして、ナント太っ腹! 料金はいつだって無料。使用回数の制限もありません。

どうぞお気軽に〜!(笑)

 

 

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オペラ「リゴレット」♡

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お友だちのオペラ公演にお招きいただきました。

演目は、ヴェルディの「リゴレット」。吉原圭子ちゃんは、この作品の要となるジルダ役でご出演です。

「リゴレット」はヴェルディの代表作であることは知っていましたが、ストーリーはいまいち把握していませんでした。それが・・・ けっこうショッキングなストーリー展開でドキドキ☆

リゴレットは宮廷道化師。彼には、家にひっそりとかくまう最愛の娘 ジルダがいるのです。

しかし、リゴレットが仕えるマントヴァ公爵はどうしようもない女好きで、ついにその毒牙がジルダにおよぶことに。

それを知ったリゴレットは怒りに燃えて、公爵の殺害をはかります。しかし、その企てはうまく運ばず・・・。

ストーリーのおもしろさと、アリアや重唱の美しい旋律にグイグイ引きこまれました。

この作品のなかで、まさに誰もが知っているカンツォーネ「女心の歌」が歌われます。それは、明るく晴れやかなメロディーなのですが ・・・

まさかのまさかの展開で、それが悲劇の結末への伏線となっているのです・・・(曲だけ聴いていたら、こんなストーリーはおもいもよりません!)。

リゴレットはこのカンツォーネの歌声を遠くに聴いて、ガクゼンとします。なぜなら、その声は殺害したはずの公爵の歌声だったから。では ・・・ いったいあの袋に入っている屍は誰なのか?!

リゴレットは、そこに息絶える寸前の愛する娘の姿を見つけます。

自分の策略によって、まさか娘をあやめることになってしまったとは・・・。リゴレットは、泣き叫びます。

リゴレットの娘への溺愛は失う怖れへと姿をかえ、ジルダを監禁状態で育てることになりました。また、公爵も自分のなかの空虚さという怖れの気持ちをうめるために、つぎからつぎへと女性を求めることをやめられません。まさに、ふたりとも怖れの権化。

そこにジルダは、まるで無垢な愛の象徴のように存在しているのですが・・・

結局、怖れの気持ちは怖れの結末を招き ・・・ ジルダを巻きこみながらストーリーは破滅へとむかうのでした。

敬虔で清純無垢な、愛のシンボルのようなジルダは、圭子ちゃんにぴったりの役柄でした。ご本人もいちばん好きな作品だそうで、学生の頃からお勉強されているそう。

圭子ちゃんのアリアもうっとりするほど優しく美しく(ご本人の作品愛もあふれていて)、いつまでも聴いていたい気持ちになりました。

ああ、また観たい!と感じる、すばらしい公演でした。ありがとうございました♡

↓パヴァロッティさんの歌う、悲劇の予兆となるカンツォーネ「女心の歌」。

 

 

かわらない安心感♡

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先日、お友だちとのお茶デートで、久しぶりに下北沢におり立ちました。

すご〜く変わっていてビックリ☆ 駅舎はすっかり新しくなっており、どっちに歩いていいのやら・・・。

さいわい、目印となるスーパーはまだそこにあり、「こっちだ!」と方向を定めることができました。

目ざすは、そのむかしよく通ったお茶屋さん(二十代の頃、この近くに住まわっておりました)。

まだ、ちゃんと存在しておりました〜! ラ・パレットさん!

お店の雰囲気もメニューも、まったくあの頃のまんまで嬉しくなります。

ここは、サンドウィッチやキッシュ、スウィーツがおいしく、紅茶のいれ方もしっかりめで私好み♡

この日は、お友だちとふたりでスコーンをいただきました。

あら〜?!ご無沙汰の年月のあいだにスコーンがすごく育っている!(小さくなるのは常ですが、お皿からはみ出るほど大きくなっているとは!笑)でも、紅茶の香りはむかしのまんま。カップとお皿の柄も!

下北は、新しいお店は次々できるけれど、このゆるぎない安定感、すごいな〜と感じます。

なんだかデジャヴのような気分になりながら、陽がおちるまでお友だちとお喋りを楽しみました♪

 

 

20-02-11 イヤな人こそ、癒しのための鏡

Q: パートナーの言動に、いちいち苛立ってしまうこの頃です。このことから、どのような気づきをえることができるでしょうか?

A: 自分のイヤな感情に出くわしたとき、それは大きな癒しのチャンスです。

それは自分のなかにあったからこそ、いま浮上してきてイヤな気持ちなったというわけです。それはけっして、外側の誰かからやって来たものではないのです。(その人はちょっとした引き金となっただけで、原因ではありません。)

そして、その関係のなかでそれを手放す機会が与えられているということです。

そうとわかれば、その方は自分に癒しをうながしてくれている、とてもありがたい存在というわけです。

外側にいる人々というのは、「自分で見ることができない自分」を映しだしてくれる鏡のような存在です。

その鏡は、「私はこういう人である」と信じている自分をそのまま映し出してくれます。

つまり、そのパートナーに見えているイヤなところは、自分が信じている自分の姿を見せてくれているだけなのです。

私たちのこころのなかには、自分で嫌ってしまった自分自身が深く埋めこまれています。拒絶して埋めこんだがゆえに、自分でもその中身をすっかり忘れてしまっているのです。

自分が忘れてしまってもそれはまだしっかりとそこにあり、ほんとうの自分をおおい隠してしまっています。そして、これこそが他人という鏡に映し出されているイヤなイメージなのです。

その深く埋めこまれた自分自身がついに腐敗臭(?)を発して、それが漏れでてくることで、自分の気分を悪くしています。

しかし、私たちはその気分の悪さを「何か別なこと」が原因だと信じようとします。そして、そのターゲットを見つけます!

それこそが、そのしゃくにさわる、イライラする人だというわけです。自分のこころの腐敗臭の気分の悪さを、その人のせいにしたのです。

私たちが誰かにイライラしているとき、その人の行動がどうこうというよりも、自分が隠しているゴミの臭いによって気分が悪いのを相手のせいにしようとしている、ということなのです。

そうして私たちは安心するのです。「気分が悪いのは、この人のせいだったんだ!」と。

そもそも、自分が拒否して自分のなかに埋蔵したものは本来の自分ではなかったので、ただ手放して永久にサヨナラすればよかっただけなのですが、

それが、自分の一部であると勘違いしてしまったために、恥ずかしさから自分のなかに隠すという手を使ってしまいました。外側にいるイライラさせるように見える人は、自分の腐敗臭をおしつけられた可哀想な被害者だったわけです。

ほんとうは、イヤな人をみつけたならば、自分の内側にある腐ったゴミを捨てさるチャンスだ、というわけです。

人は「鏡」であるといいうのは、自分の内側にゴミがあるということを教えてくれる存在だということです。鏡がないとそれに気づけません。

そして、この鏡である人にあたりちらすことなく(攻撃せず)、私のゴミが映っているのだと認めてしまえば、それを取りのぞく癒しの機会となるわけです。

非難することなく、自分こそが映っていたのだと認めることができたら、その人を「自分がなりたいような人」として見ることをしてみます。

すると、今度はその人が自分の完全さクリーンさを映し出している鏡と認識することができ、自分のこころが正気を取り戻すことができるようになるのです。

つまり、自動的にゴミが取りのぞかれて、本来の自分の完全さがあらわれます。

「与えることは、受けとること」・・・先に相手をきれいにしてあげることで、自分もきれいを受けとることができます。

そしてまた、それを「与える」という決意は、「自分が何を目にしたいのか」を改めて決めなおすということです。私たちは、みずから「見よう」とするものしか目にすることができません。

相手という鏡のなかに、「自分がこうだったらよいな〜、こんなふうになりたいな〜」というイメージを見ることを選ぶことで、自分にもそれを見ることができるようになるのです。

目のまえの相手が自分を苛立たせると感じたら、意識を相手から自分のこころへと戻しましょう。

このこころから、イライラ、不快感は発っせられていて、こころを正すことで自分の世界を変えることができる、と気づきます。

そして、鏡になってくれたその人を、新たな「こんな自分だったらいいな〜」という人として見て、自分のこころが訂正されるのを受け入れましょう。

外という世界も、じつは自分のこころの内側にあります。相手を攻撃すると、より自分のを傷つけてしまうので、自分のこころと知覚を変えることによって、自分が、相手が、そして自分のいる世界全体がどのように変わるのかを見てみましょう。

 

 

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気づきの日記「イヤな人こそ、癒しのための鏡」

Q: パートナーの言動に、いちいち苛立ってしまうこの頃です。このことから、どのような気づきをえることができるでしょうか?

A: 自分のイヤな感情に出くわしたとき、それは大きな癒しのチャンスです。

それは自分のなかにあったからこそ、いま浮上してきてイヤな気持ちなったというわけです。それはけっして、外側の誰かからやって来たものではないのです。(その人はちょっとした引き金となっただけで、原因ではありません。)

そして、その関係のなかでそれを手放す機会が与えられているということです。

そうとわかれば、その方は自分に癒しをうながしてくれている、とてもありがたい存在というわけです。

外側にいる人々というのは、「自分で見ることができない自分」を映しだしてくれる鏡のような存在です。

その鏡は、「私はこういう人である」と信じている自分をそのまま映し出してくれます。

つまり、そのパートナーに見えているイヤなところは、自分が信じている自分の姿を見せてくれているだけなのです。

私たちのこころのなかには、自分で嫌ってしまった自分自身が深く埋めこまれています。拒絶して埋めこんだがゆえに、自分でもその中身をすっかり忘れてしまっているのです。

自分が忘れてしまってもそれはまだしっかりとそこにあり、ほんとうの自分をおおい隠してしまっています。そして、これこそが他人という鏡に映し出されているイヤなイメージなのです。

その深く埋めこまれた自分自身がついに腐敗臭(?)を発して、それが漏れでてくることで、自分の気分を悪くしています。

しかし、私たちはその気分の悪さを「何か別なこと」が原因だと信じようとします。そして、そのターゲットを見つけます!

それこそが、そのしゃくにさわる、イライラする人だというわけです。自分のこころの腐敗臭の気分の悪さを、その人のせいにしたのです。

私たちが誰かにイライラしているとき、その人の行動がどうこうというよりも、自分が隠しているゴミの臭いによって気分が悪いのを相手のせいにしようとしている、ということなのです。

そうして私たちは安心するのです。「気分が悪いのは、この人のせいだったんだ!」と。

そもそも、自分が拒否して自分のなかに埋蔵したものは本来の自分ではなかったので、ただ手放して永久にサヨナラすればよかっただけなのですが、

それが、自分の一部であると勘違いしてしまったために、恥ずかしさから自分のなかに隠すという手を使ってしまいました。外側にいるイライラさせるように見える人は、自分の腐敗臭をおしつけられた可哀想な被害者だったわけです。

ほんとうは、イヤな人をみつけたならば、自分の内側にある腐ったゴミを捨てさるチャンスだ、というわけです。

人は「鏡」であるといいうのは、自分の内側にゴミがあるということを教えてくれる存在だということです。鏡がないとそれに気づけません。

そして、この鏡である人にあたりちらすことなく(攻撃せず)、私のゴミが映っているのだと認めてしまえば、それを取りのぞく癒しの機会となるわけです。

非難することなく、自分こそが映っていたのだと認めることができたら、その人を「自分がなりたいような人」として見ることをしてみます。

すると、今度はその人が自分の完全さクリーンさを映し出している鏡と認識することができ、自分のこころが正気を取り戻すことができるようになるのです。

つまり、自動的にゴミが取りのぞかれて、本来の自分の完全さがあらわれます。

「与えることは、受けとること」・・・先に相手をきれいにしてあげることで、自分もきれいを受けとることができます。

そしてまた、それを「与える」という決意は、「自分が何を目にしたいのか」を改めて決めなおすということです。私たちは、みずから「見よう」とするものしか目にすることができません。

相手という鏡のなかに、「自分がこうだったらよいな〜、こんなふうになりたいな〜」というイメージを見ることを選ぶことで、自分にもそれを見ることができるようになるのです。

目のまえの相手が自分を苛立たせると感じたら、意識を相手から自分のこころへと戻しましょう。

このこころから、イライラ、不快感は発っせられていて、こころを正すことで自分の世界を変えることができる、と気づきます。

そして、鏡になってくれたその人を、新たな「こんな自分だったらいいな〜」という人として見て、自分のこころが訂正されるのを受け入れましょう。

外という世界も、じつは自分のこころの内側にあります。相手を攻撃すると、より自分のを傷つけてしまうので、自分のこころと知覚を変えることによって、自分が、相手が、そして自分のいる世界全体がどのように変わるのかを見てみましょう。

 

 

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【初めての方「受講コース相談カウンセリング」無料キャンペーン !】

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

2月7日〜11日まで、「受講コース相談カウンセリング(¥5000)」を無料でお受けいただけます。

「受講コース相談カウンセリング」とは、カウンセリングやヒプノセラピーなど、実際のセラピーにとりかかるまえのプレセッションです(通常のカウンセリングセッションとは異なります)。

「私のこのパターンはいったい何が原因?」「どんなセッションがあっている?」「セラピストってどんな人?」「受けたいセッションは決まっているけれど、詳しいことをあらかじめ話しておきたい」・・・ お気軽にこの機会をご利用ください。 →お申し込みフォームはこちらから

*対象: 初めての方

*期間: 2/7〜2/11 の期間に「受講コース相談カウンセリング」をお受けになる方

*セッション料金: 通常¥5000 → 無料

*お申し込み: お申し込みフォームより、「無料セッションをご希望」と「ご希望のお時間等」をご記入のうえお申し込みください(セッション枠がうまりしだい終了とさせていただきますので、ご了承ください)。

*以後のセッションの勧誘などは一切ございませんので、安心してお越しになってください。

→お申し込みフォームはこちらから

「受講コース相談カウンセリング」とは、

【 一歩ふみだしてみるために 】  「何からどうしていいのかわからない」「自分にあったコースはどれ?」「いつも同じパターンな気がする」「本格的なセッションのまえに、自分について詳しく話しておきたい」「セラ ピストとの相性が心配」「どんな雰囲気のところかな」「セラピーってどんなもの」・・・とりあえず、一歩ふみだしてみましょう。

【 プレセッションとして 】  初めてヒプノセラピーやセラピューティックカウンセリングをおとりになるとき、ご自身の生育暦や現在の状況など問題の聞き取りにお時間を要します。 「受講コース相談カウンセリング」を「プレセッション」としておとりいただくことで、より深いセッションにすることができます。

【 自分にあっているか知るために 】  セラピーにおいてはセラピストとの相性も大切な要素です。心地よくリラックスして話しがすすめられるかを、確かめていただく機会としてもご利用下さい。

→お申し込みフォームはこちらから

 

もう、サクラ

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なかなか万歩計の歩数がのびず、きょうはせめて渋谷から歩くことに・・・。

すると、今までなかった抜け道や遊歩道、お店ができていたりして、新たな発見。

それにしても、きょうはコートとマフラーなしでもよさそうなポカポカとした午後でした。(今夜から強い寒気がやってくるとしきりに脅されていますが・・・)

春らしい夕陽にてらされて、サクラが気持ちよさそうに咲いていました。

PS いい気持ちで空を見上げていると、ぶっそうな影がとつぜん横切ります。はじめて見たときには、あまりの大きさにビックリ! そのうち慣れるのでしょうか? 大きな飛行機のお腹に。

 

お祝い @アリスさんち

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

お友だちのお誕生祝いでお出かけしてきました。

以前も気に入っていただけたアリスさんちふたたび @ Queen Alice。

ここのお料理はどれもメルヘンしていて、お皿が出てくるたびに「わあ♡」と声をあげてしまいます。

 

まずは前菜のコンソメジュレ。まわりにはマッシュポテトにのった小さなお料理が囲みます。「ピンセットで作ったの?」と疑うほどの職人ワザです。

小さなお野菜がダイスになっているスープ。上にはさくさくの白身魚が。メインは、オマールエビとホタテのソテー。お伽の国からやってきたようなちっちゃなカブがそえられいます。

牛フィレのお皿のつけあわせは、フタつきの容器にみたてたカブ。なかにソースが入っています。洋梨のなかにもフォアグラがひそんでいました。小さなナスはグラタンになっています。そして、デザートのいちごミルフィーユ。

ひとつひとつ手がこんでるにもかかわらず、あっさりとした和風テイストです。

まいどのことながら、何ヶ月もズレまくっているお誕生会ですが(汗)、この一年が笑顔あふれる楽しい日々となることを祈って♡ Mちゃん、おめでとう(ございました〜・笑)(๑ᴖ◡ᴖ๑)♪

 

 

20-02-02 うまくいかないことは修正の機会に

Q: こちらのブログを読んでいて、自分の「裁いてしまう」考えに気づきました。こころのなかで「あの人はここがおかしい」「この人は常識がない」と絶えず考えてしまい、あるがままにできないのです。まだまだだな〜と感じてしまいます。

A: 自分が目にしている世界は、自分のこころの状態の写し絵です。もし本当に安らかで幸せな世界に住みたいと願うなら、自分のこころのなかから「罪」や「攻撃」の想いを一掃する必要があります。

それらをきれいにしてゆこうとする努力のなかで、世界がかわってゆきます。

しかし、私たちは「除去」するべきものに出くわすと、つい自己嫌悪におちいってしまいがちです。そのために間違った反応をしてしまうのです。

裁いてしまう自分のこころに拒絶を感じて、「除去作業」はすっかり忘れ、今度は自分自身を裁いて(ホコ先が変わっただけです)、除去すべきだった想いは隠されてしまいます。そして、その「罪」「攻撃」の想いは次の標的がみつかるまで保持されるのです。

上記の Q のなかに、「裁いてしまう自分をまだまだだな〜と感じてしまう」とありますが、まさに裁いてしまう自分をふたたび裁いてしまっているわけです。

他人に向けられようと自分に向けられようと、裁きは裁きです。他人を裁くのをやめたいあまりに、自分を裁いてしまっては本末転倒です。

それよりも、この地球上にいる人で裁いていない人は誰もいないので、むしろ「裁き」をしてしまったらそのつどしっかり「認識」できるようになることが大切です。

なぜなら、ちゃんと意識しない限り、なにをやめるのかがわからないからです。

「ああ、私は裁いてばっかりいる」とそのつど気づけることこそが、それをやめるための最初の一歩なのです。

そして、次の段階は、捨てるゴミ(やめたい想い)を正しく捨てること。

ゴミの収集はハイヤーセルフが担当してくれます。

ハイヤーセルフを呼んで、「今、○○さんを常識がない人だと裁いてしまいました。これは本当の私の想いではなく、エゴの想いです。私のこころから取り去ってください」とゴミの撤去をお願いしましょう。

ゴミの下には、「罪」や「攻撃」などとは無関係の自分が輝いています。捨てるだけであらわれます。

自分が「誰かのなかに見ている間違い」は、そもそも自分の間違いです。

こころがそれらを拒絶して、外に捨てようとしたあまりに他の人にかぶせてしまった「自分のゴミ」なのです。

もともと自分のなかにたまっていたのですが、あまりにも見るに耐えず、捨てることを決めました。しかし、片づけ方がわからなかったため、外に投げ捨てれば自分のなかはきれいになると信じて、他の人になすりつけてしまいました。

けれども、その他人に押しつけたゴミにはゴムひもがくっついていて、結局は自分のところにビヨヨ〜〜ンと戻ってくるようになっているのです。

相手から戻ってくるそのゴミ(もともと自分のもの)を、私たちは攻撃や間違いとして知覚します。(相手にゴミを押しつけたのは自分なので、ほんとうは自分の方が先に相手を攻撃していたわけです。)

このように、こころのなかで「罪」や「攻撃」の想いをためこんでいると、結局それを人のなかに見ることになり、次に自分が攻撃されているように感じてしまうのです。それは、人と自分のあいだを行ったりきたりしてしまいます。

行ったりきたりさせるよりも、きっぱりと取り去りましょう。

自分のこころに「罪」や「攻撃」のカゲがちらついたなら、自己嫌悪におちいったり隠したりせずに、ちゃんとその存在を認識し、ハイヤーセルフに渡してしまうことで、永久に取り去ることを選択しましょう。

たとえばハイヤーセルフにいらない想いを渡すというのは、こんなイメージです。

地球の人々のあいだでゴミを押しつけあうことで「裁き」をつづけていたのを、もっと高い次元、宇宙に放り出して、大気圏でプシュっと燃やしてしまうような感じ。地上ではなく、別のレベルで処理をしてもらうイメージです。

これをするためには、自分のイヤなところに出くわしても、自分を責めたりそれをなきものにしようとするのではなく、

「片づけるために気づいたのだ」とほんとうの自分に戻るための「こころの修正の機会」にすることです。

これをどんどん練習してゆくと、ちょっとでもそのままスルーしようとすると、逆にすごくイヤな気持ちになったりします(歯磨き忘れて、ヤな気持ち・・・みたいな)。

トライ&エラーで練習をつづけますが、たとえエラーしてしまったとしても、けっして責めずに、

ただ気づいて、そして手放すべくハイヤーセルフにつながりましょう。

間違った反省よりも、ただ高い次元において「取り除く」ことが大切なのですね   ( •ॢ◡-ॢ)

 

 

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気づきの日記「うまくいかないことは修正の機会に」

Q: こちらのブログを読んでいて、自分の「裁いてしまう」考えに気づきました。こころのなかで「あの人はここがおかしい」「この人は常識がない」と絶えず考えてしまい、あるがままにできないのです。まだまだだな〜と感じてしまいます。

A: 自分が目にしている世界は、自分のこころの状態の写し絵です。もし本当に安らかで幸せな世界に住みたいと願うなら、自分のこころのなかから「罪」や「攻撃」の想いを一掃する必要があります。

それらをきれいにしてゆこうとする努力のなかで、世界がかわってゆきます。

しかし、私たちは「除去」するべきものに出くわすと、つい自己嫌悪におちいってしまいがちです。そのために間違った反応をしてしまうのです。

裁いてしまう自分のこころに拒絶を感じて、「除去作業」はすっかり忘れ、今度は自分自身を裁いて(ホコ先が変わっただけです)、除去すべきだった想いは隠されてしまいます。そして、その「罪」「攻撃」の想いは次の標的がみつかるまで保持されるのです。

上記の Q のなかに、「裁いてしまう自分をまだまだだな〜と感じてしまう」とありますが、まさに裁いてしまう自分をふたたび裁いてしまっているわけです。

他人に向けられようと自分に向けられようと、裁きは裁きです。他人を裁くのをやめたいあまりに、自分を裁いてしまっては本末転倒です。

それよりも、この地球上にいる人で裁いていない人は誰もいないので、むしろ「裁き」をしてしまったらそのつどしっかり「認識」できるようになることが大切です。

なぜなら、ちゃんと意識しない限り、なにをやめるのかがわからないからです。

「ああ、私は裁いてばっかりいる」とそのつど気づけることこそが、それをやめるための最初の一歩なのです。

そして、次の段階は、捨てるゴミ(やめたい想い)を正しく捨てること。

ゴミの収集はハイヤーセルフが担当してくれます。

ハイヤーセルフを呼んで、「今、○○さんを常識がない人だと裁いてしまいました。これは本当の私の想いではなく、エゴの想いです。私のこころから取り去ってください」とゴミの撤去をお願いしましょう。

ゴミの下には、「罪」や「攻撃」などとは無関係の自分が輝いています。捨てるだけであらわれます。

自分が「誰かのなかに見ている間違い」は、そもそも自分の間違いです。

こころがそれらを拒絶して、外に捨てようとしたあまりに他の人にかぶせてしまった「自分のゴミ」なのです。

もともと自分のなかにたまっていたのですが、あまりにも見るに耐えず、捨てることを決めました。しかし、片づけ方がわからなかったため、外に投げ捨てれば自分のなかはきれいになると信じて、他の人になすりつけてしまいました。

けれども、その他人に押しつけたゴミにはゴムひもがくっついていて、結局は自分のところにビヨヨ〜〜ンと戻ってくるようになっているのです。

相手から戻ってくるそのゴミ(もともと自分のもの)を、私たちは攻撃や間違いとして知覚します。(相手にゴミを押しつけたのは自分なので、ほんとうは自分の方が先に相手を攻撃していたわけです。)

このように、こころのなかで「罪」や「攻撃」の想いをためこんでいると、結局それを人のなかに見ることになり、次に自分が攻撃されているように感じてしまうのです。それは、人と自分のあいだを行ったりきたりしてしまいます。

行ったりきたりさせるよりも、きっぱりと取り去りましょう。

自分のこころに「罪」や「攻撃」のカゲがちらついたなら、自己嫌悪におちいったり隠したりせずに、ちゃんとその存在を認識し、ハイヤーセルフに渡してしまうことで、永久に取り去ることを選択しましょう。

たとえばハイヤーセルフにいらない想いを渡すというのは、こんなイメージです。

地球の人々のあいだでゴミを押しつけあうことで「裁き」をつづけていたのを、もっと高い次元、宇宙に放り出して、大気圏でプシュっと燃やしてしまうような感じ。地上ではなく、別のレベルで処理をしてもらうイメージです。

これをするためには、自分のイヤなところに出くわしても、自分を責めたりそれをなきものにしようとするのではなく、

「片づけるために気づいたのだ」とほんとうの自分に戻るための「こころの修正の機会」にすることです。

これをどんどん練習してゆくと、ちょっとでもそのままスルーしようとすると、逆にすごくイヤな気持ちになったりします(歯磨き忘れて、ヤな気持ち・・・みたいな)。

トライ&エラーで練習をつづけますが、たとえエラーしてしまったとしても、けっして責めずに、

ただ気づいて、そして手放すべくハイヤーセルフにつながりましょう。

間違った反省よりも、ただ高い次元において「取り除く」ことが大切なのですね    ( •ॢ◡-ॢ)

 

 

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