気づきの日記「人生から五歩さがってみる!習慣」

先日、テレビで新作アニメ映画「ペット2」の紹介をしていました。

主人公はマックスくんというワンちゃんで、そのマックスくんの吹き替えをしたバナナマンの設楽さんいわく、「アフレコをしていると、だんだんマックスが自分になっちゃうのね」と。

はいはい、たしかに。映画を夢中で観ているときも、登場人物になりきってしまいます。だから楽しいのですが。

設楽さんも画面のなかのマックスのセリフに同調し、感情移入するうちに、ワンちゃんとして画面のなかを走りまわり、さまざまな冒険をしたのです。

コレ、じつは私たち誰もが日常でふつ〜にやっていることとまったく変わりがありません。

たとえば私。

日々、「たかこさん」という登場人物をガン見しているうちに、完全に「たかこさん」が自分であるかのような気になってしまっています。

だから、「たかこさん」のストーリーにいちいち気をもんでしまうのです。

しかし、ほんとうはこの「たかこさん」をただ「見ている」だけです。ストーリーのなかのマックスくんと、ストーリーの外の設楽さんの関係と同じなのです。

すでに制作が終了し完成している「ペット2」のように、すでにこのストーリーは書かれて出来あがっており、セリフも選べません。お話全体はできあがちゃっているのですから。

で、「私」はそれを見ている立場だったはずなのですが、

ストーリーに興味をもち、登場人物に感情移入し、ガン見しているうちに ・・・ メリメリとそのストーリーのなかに入りこみ、登場人物のことを「これが自分だ!」と勘ちがいし ・・・ しまいには、ストーリーにホンロウされ、気をもんだり、アセったり、必死に努力するわけです(完成しているストーリーに努力は無用なのですが・・・)。

「見ていた」はずが、もう登場人物そのものです。

いくら自分がそこで何かをしているように見えても、じつは何ひとつできません。設楽さんがアニメの中のマックスをどうにもできないように、ただそれをそのまま受けいれるしかありません。

しかし、ほんとうはそこまでメリメリと画面の登場人物に入りこむ必要はなく、五歩ぐらいうしろにさがって、ただ見ているだけでよいのです。

私もついメリメリと「たかこさん」に入りこみすぎて、その結果、アセったり、動揺して、ストーリーをどうにかしよう!と頑張ってしまうことがあります。

そんなときには、「五歩うしろ!五歩うしろにさがって!それは自分じゃないよ!」と声をかけることになります(笑)

すると、画面から離れて客観的に見ることができます。

じゃあ、私は誰なの?って。

「ただ見ている存在」です。

登場人物もストーリーも、ただ「見られる」ためにあります。

見ていて、もしそのストーリーが気にいらなくて、葛藤や苦しみを感じるのであれば ・・・ それを却下し、破棄して、新たなストーリーに差しかえてもらう自由があるのです(ヤッタ〜〜〜!☆)

つまり、映画監督が「う〜ん!この部分はあまりよくないねぇ。主人公はもっと幸せでイキイキしてもらわなくっちゃ!」と感じれば、他のストーリと差しかえることができるのです。

ということは、そのお話のなかにいる登場人物であるアクターは自分ではなく、それを見ていて、指示をだすことができる映画監督こそが自分です。

こうして、すでに出来あがっている映画を見ながら、より幸せなストーリーに編集し直すことが、映画監督である私たちのお仕事であり、真の姿です。

監督が、メリメリとお話のなかに入りこんでしまったら客観性を失ってしまいます。変えられたはずなのに、変えるタイミングを失ってしまいます。

万が一、入りこんでしまったと感じたら、ただメリメリしてしまったことに気づいて、すみやかに自分のポジションに戻らねばなりません。「五歩うしろ!」です。「ただ見る!」ことです。

幸せなストーリーにするためには、ちゃんと見て、ちゃんと感じて、「幸せなストーリー」にそぐわないところを指摘できなくてはならないのです。

そのためには、痛いめにあって傷ついてるのに、「いや、これこそ価値あることだ!」と執着していたら変えることができなくなってしまいます。

修正するためには、ちゃんと見て、自分に正直でいること。そして、幸せなストーリーにするんだ!という意図をしっかりともつこと。

気に入らないポイントを見つけたら、映像(ストーリー)の編集担当であるハイヤーセルフに、削除をお願いします。

「ここは主人公が悲惨に見えるので、ハッピーな流れに変えてください。苦しみ、悲しみ、痛みは、この主人公にはふさわしくありません。それらを取り除いてください」とお願いすることができます。

すると、それを取り消して、別のハッピーなストーリーに差しかえてくれるのです。登場人物は幸せそうに変化します。

それは、おおらかで、喜びとともにほんとうの自分を表現し、もっとつながりあって、尊重しあって、大切にしあい、愛と平和と安らぎが感じられるストーリーに取り替えてくれるのです。

あるいは、登場人物や舞台装置、主人公自身のイメージも、すべてガラリと変わってしまうこともあるかもしれません。

そんなふうに映画監督のポジションから、ストーリーを五歩さがってながめ、編集人であるハイヤーセルフにも一緒に見てもらうようにします。

すると、だんだんそのお話のなかの登場人物とムダにシンクロすることで葛藤することがなくなってきます。心理的な距離が生まれてくるのです。

「たかこさん」からうしろにさがって、まるで他の人を見るように、慈しみと赦しの目で見られるようになってくるのです。

もちろん、そのストーリーのなかではいろいろな出来事が次々と起こります。けれども、「ん〜〜 ・・・ このストーリーはまったく見たいものじゃないな〜」と感じたら、ディレクターとして、即、却下することを申し出ることがでます。

そしてそれは、いつも必ず受けいれられます。なんせ、私たちはディレクターなのですから!エヘン!! ディレクターの指示は絶対です。

ただそれを「見ている人」になってゆく過程では、ちょっと不思議な感じがするかもしれません。(だって、自分だと思っていたモノから離れてゆくわけですから。)

自分がいままで自分だと思っていたものに、じつはどれだけ力いっぱい握りしめ、執着していたことか。そして、それはただ手をゆるめてあげるだけで、自分から遠のいてゆくのです。

着ぐるみスッポリ状態で、着ぐるみを着ていたことさえ忘れていたのですが、突然「あれ?脱げるの?!」「これ、私じゃなかったのね?!」みたいな。

それは、急に覆いがとれて丸裸になってしまったような、裸でポイっと外に放り出されたような ・・・ まったく隠れるところ、つかまるところがないような ・・・ アセリ、こころもとなさ、宇宙にひとりでぽっかりと浮かんでいるような、どこにも何にも頼れない感じ ・・・ 。

でも、絶対的に抱かれて安全なのです。

最初は「どうしよう!つかまるところがない!コワイ、コワイ!」「たいへんなことになった!」とあわててしまうかもしれません。

あるいは、「私って、自分だと思ってたあの人じゃなかったの?」という困惑と、どこにも属さない寂しさ ・・・。だって、もうあの人じゃないから誰でもないのです。名無しさんです。

けれども、解放感と真に自由な感覚と安堵感と、深い安らぎの感覚。何も自分にふれることができないゆるぎない感覚。なぜなら、画面と私は別になっちゃったから。

楽しくもあり ・・・ 少しも自分が懐かしくもあり・・・。

でも、あのときの自分が感じることができなかった安堵と解放が広がっています。まったくなにもつかまず、なににも縛られない、何ものでもない感覚が。そして、巻きこまれていない自由が ・・・。

何かアセることがあったなら、アタマにくることがあったなら ・・・

ドラマの登場人物からスルスルとうしろにさがって、ドラマの外にいるアフレコ役に、さらにただ「見ている人」であるディレクターへと、どんどん離れてみます。

そして、「幸せなストーリー」だけが見るべきものであるのなら、編集担当さん(ハイヤーセルフ)にどんどん指示を出しましょう。

「これは私の見たいものではありません。私は、完璧な幸せだけを望みます!それを見せてください」と。

編集担当さんは、いつもその指示を待っています! (*⁰▿⁰*)

PS すでにできあがっている映画を、登場人物の立場から変えようとするには多大な努力とエネルギーがいります。一見変わったように見えても、結局は不毛な努力に終わります。それは、その立場からは変えることができないから。

それよりも、ディレクターとして、それを外側から編集いたしましょう!with ハイヤーセルフ♡

 

 

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スイカ! か、かわいいっ♡

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お菓子を頂戴いたしました (◍•ᴗ•◍)

それが、とってもキュートなのです。

こちらがそのハコ。

スイカ柄の巻きすなのです。涼しげでカワイイ! パールがポイントです。

そして、そして、クッキーもスイカなのですよ〜☆

皮のところも、とっても皮っぽいですね(笑)。

種はチョコレート。バターがきいていて、ほんのりスイカが香ります。おいしいです♪

かわいくておいしい癒されスウィーツをありがとうございます♡

 

 

19-07-27 タコで生きる? それともクラゲ?

やめたほうがいいのに、やめられないこと、っていろいろあります。

やめられない理由は、ひとえにそれに「執着している」から。

それが自分に害をおよぼしていようとも ・・・ 意識的に、あるいは無意識的に、結局それが「好き」なのです。

そもそも、私たちは役に立たないと信じていることを絶対やりません。

なので、誰が何と言おうとも、こころはそれがどうしても必要だ!と信じているようです。必要なこととは、自分が生きのびるためには重要だと感じていることです。

たとえば ・・・ タコ。

キケンを感じると、タコは墨を吐きますが、敵のみならず自分もろとも墨のなか。結局、何も見えません。

もっとひどいのは、ミツバチ。攻撃したはずなのに、刺したらすぐに自分が死んでしまいます。

タコにしろ、ミツバチにしろ、その攻撃は自分もろともなのですが、それを自分、あるいは種を守る方法として採用しているわけです。

じつは、私たちも自分では気づかないうちに「これは、自分を守るためのサイコーの方法だ!」と信じて、かたくなにやりつづけていることがあります。

それは「攻撃的な思い」をもつこと。

たとえば ・・・

「このままで私の人生、大丈夫?」「あの人はなんでいつもあんなふる舞いをするのだろう?」「こんなことをするなんて、この人、おかしいのかも?」「昨日買ったブラウス、いまいちだったわ」「英会話教室に行きたいけど、私ついていけるかしら?」「今朝のコメンテーター、よくあんなこと言えるわね?」「デートの約束したけど、またドタキャンされる?」「この子、期末テスト大丈夫かしら?」「この店員、新人?何も知らないのね!」・・・などなど、

こころのなかで思ったり、あるいは面とむかってはっきり本人に告げる場合もあるでしょう。

これらは全部、攻撃の思いです。ときには自分に対して、ときには親しい人に対して、ときにはまったく知らない人に対して、愛にあふれていない考えをします。それが愛にあふれていないなら、もう攻撃です。

タコやミツバチと同様に、必要性を感じるからこそ何気で攻撃的な思いをもつのですが、それはなぜか?

攻撃するということの意味は、私ではなくて「相手こそが悪かった」、だから「私は正しい人」なのよ、と確認することです。

しかし ・・・ 正しい人だと感じる必要があったということは、そもそも自分が自分を間違っていると感じてたに違いないのですが ・・・(汗)。

タコと同様に、私たちの思いにも色がついていたら・・・いちばんビックリするのは自分かもしれません。

「え〜〜〜〜っ!!こんなにずっとわたしはスミを吐きつづけていたのね!」「スミは私を直撃してる!」「自分のスミで何もかも、真っ黒じゃない?!」と。自分の視界を闇にしていたのは自分であったと。

自分のスミにすっかり呑みこまれて、そのなかで何かが襲いかかってくる恐怖を感じ、やたらもがいていたかもしれません。

「や〜だ! 世の中、真っ暗闇だと信じていたけど ・・・ 私だったのね。私がスミを吐きつづけるから何も見えなくなって、コワイからやみくもに攻撃したくなっていたんだわ」と気づくかもしれません。

実際、怖がっていなかったら、まったく攻撃の必要はないのですね。

癒しをするときにしなければならないのは、新しい自分をもってきてくっつけることでも、新たに何かをこしらえることでもありません。

ただひたすら、自分にとって必要のないこと、役に立っていないことを「やめる」ということだけなのです。「やめる」こと以外には、何も必要がありません。

いかに、自分の思いで自分が苦しくなっていたのか(なぜなら、自分の思いを聞きつづけているのは自分ひとりしかいません)に気づいたら、自分の攻撃性にガクゼンとするかもしれません。

でも、大丈夫ですっ! みんなそんなものです。

それよりも、自分の吐いたスミで自分の視界を真っ黒にしていて、まったく何も正しく見えていなかったのだ! ということを正直に認めることこそが癒しのために大切な最初の一歩です。

あとは、自分の思いをなるべく意識するべくモニタリングして、いつハチのひと刺しをしているのか、スミを吐いているのか ・・・気づくこと。

例えば、チラリと毒づく、相手を申し訳ない気持ちにさせる、こころのなかで悪ものにする、批判してコテンパンにする、自分の世界から追いだしておはらい箱にする・・・ などなど、それをしているときにちゃんと意識することができるようになることです。

このひと刺しするような攻撃の思いは、じつは自分に対して毎回ひと刺ししています。

自分の思いに対して、真剣に聞き耳をたてて、つねに聞きつづけている存在は自分しかいません。

そして、それによって着実に自分が弱ってゆきます。つまり、罪悪感をためてゆきます。罪悪感をためると、自分で自分におしおきをするようになってしまいます。

じゃんじゃんスミを吐くことで闇の世界の住人になっていたのだ、と気づけたのなら、ただスミを吐くのをやめればいいだけです。

そうすれば、クリアな世界が見えます。クリアな世界を手にするために、タコは新しい自分をつくらなくっていいのです。スミを断念しましょう。

スミ吐きと縁を切った私たちは、「あれ?わたしってじつはキラキラ発光しているクラゲちゃんだったの? 海がキラキラして美いのは、じつは私の輝きだったのね〜」と気づくかもしれません。

私たちのこころは宇宙をふっとばすほどのフルパワーがあります。そして、24時間ノンストップで稼働中。

それほどのパワーがあるのなら、スミを吐いて(攻撃的な思いをもって)自分をコテンパンにするのか、それともただそれをやめて本来の自分の美しさに気づくのか、ふたつにひとつです。

まず、はじめの一歩は、「今」私はどんな思いをもっていたかしら?とチェックすることです。

かりに、愛以外のものに気づいてしまったとしても、「なんてことなの?邪悪な私」と責めてはいけません。

これも自分に対するさらなる攻撃の思いです。攻撃は外に向いても、内に向いても、自分に対して破壊的であることに変わりはありません。

ただ、この思いは光を放つ私自身には似つかわしくない = 似つかわしくないものは、そもそも私のものではない = 私のものではないのなら、それは手放すためのもの = そして、手放すための手っとりばやい方法は、高い自己(ハイヤーセルフ)にお願いして、もって行ってもらうことです。

ハイヤーセルフは必ずこう言ってくれます。

「それはまさに、あなたのものではありませんでしたね。気づいてくれてよかったです」と。ハイヤーセルフは、私たちがいつガラクタを大切にしなくなるか、ずっと待っていてくれたのです。

でも、こどもが真っ黒ですり切れたクマのぬいぐるみでもそれを大切にしているときに取りあげないように、ハイヤーセルフも「もう、これは私に必要ないものです」と自己申告するまで、じっと待っていてくれるのです。

そして、「もういりません。もって行ってください」と、私たちが GOサインを出せば、いつでもよろこんでお掃除してくれるのです。

ひとつひとついらないものをもって行ってもらって、みんなでキラキラな発光クラゲになりましょう ˘⌣˘♡

 

 

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気づきの日記「タコで生きる? それともクラゲ?」

やめたほうがいいのに、やめられないこと、っていろいろあります。

やめられない理由は、ひとえにそれに「執着している」から。

それが自分に害をおよぼしていようとも ・・・ 意識的に、あるいは無意識的に、結局それが「好き」なのです。

そもそも、私たちは役に立たないと信じていることを絶対やりません。

なので、誰が何と言おうとも、こころはそれがどうしても必要だ!と信じているようです。必要なこととは、自分が生きのびるためには重要だと感じていることです。

たとえば ・・・ タコ。

キケンを感じると、タコは墨を吐きますが、敵のみならず自分もろとも墨のなか。結局、何も見えません。

もっとひどいのは、ミツバチ。攻撃したはずなのに、刺したらすぐに自分が死んでしまいます。

タコにしろ、ミツバチにしろ、その攻撃は自分もろともなのですが、それを自分、あるいは種を守る方法として採用しているわけです。

じつは、私たちも自分では気づかないうちに「これは、自分を守るためのサイコーの方法だ!」と信じて、かたくなにやりつづけていることがあります。

それは「攻撃的な思い」をもつこと。

たとえば ・・・

「このままで私の人生、大丈夫?」「あの人はなんでいつもあんなふる舞いをするのだろう?」「こんなことをするなんて、この人、おかしいのかも?」「昨日買ったブラウス、いまいちだったわ」「英会話教室に行きたいけど、私ついていけるかしら?」「今朝のコメンテーター、よくあんなこと言えるわね?」「デートの約束したけど、またドタキャンされる?」「この子、期末テスト大丈夫かしら?」「この店員、新人?何も知らないのね!」・・・などなど、

こころのなかで思ったり、あるいは面とむかってはっきり本人に告げる場合もあるでしょう。

これらは全部、攻撃の思いです。ときには自分に対して、ときには親しい人に対して、ときにはまったく知らない人に対して、愛にあふれていない考えをします。それが愛にあふれていないなら、もう攻撃です。

タコやミツバチと同様に、必要性を感じるからこそ何気で攻撃的な思いをもつのですが、それはなぜか?

攻撃するということの意味は、私ではなくて「相手こそが悪かった」、だから「私は正しい人」なのよ、と確認することです。

しかし ・・・ 正しい人だと感じる必要があったということは、そもそも自分が自分を間違っていると感じてたに違いないのですが ・・・(汗)。

タコと同様に、私たちの思いにも色がついていたら・・・いちばんビックリするのは自分かもしれません。

「え〜〜〜〜っ!!こんなにずっとわたしはスミを吐きつづけていたのね!」「スミは私を直撃してる!」「自分のスミで何もかも、真っ黒じゃない?!」と。自分の視界を闇にしていたのは自分であったと。

自分のスミにすっかり呑みこまれて、そのなかで何かが襲いかかってくる恐怖を感じ、やたらもがいていたかもしれません。

「や〜だ! 世の中、真っ暗闇だと信じていたけど ・・・ 私だったのね。私がスミを吐きつづけるから何も見えなくなって、コワイからやみくもに攻撃したくなっていたんだわ」と気づくかもしれません。

実際、怖がっていなかったら、まったく攻撃の必要はないのですね。

癒しをするときにしなければならないのは、新しい自分をもってきてくっつけることでも、新たに何かをこしらえることでもありません。

ただひたすら、自分にとって必要のないこと、役に立っていないことを「やめる」ということだけなのです。「やめる」こと以外には、何も必要がありません。

いかに、自分の思いで自分が苦しくなっていたのか(なぜなら、自分の思いを聞きつづけているのは自分ひとりしかいません)に気づいたら、自分の攻撃性にガクゼンとするかもしれません。

でも、大丈夫ですっ! みんなそんなものです。

それよりも、自分の吐いたスミで自分の視界を真っ黒にしていて、まったく何も正しく見えていなかったのだ! ということを正直に認めることこそが癒しのために大切な最初の一歩です。

あとは、自分の思いをなるべく意識するべくモニタリングして、いつハチのひと刺しをしているのか、スミを吐いているのか ・・・気づくこと。

例えば、チラリと毒づく、相手を申し訳ない気持ちにさせる、こころのなかで悪ものにする、批判してコテンパンにする、自分の世界から追いだしておはらい箱にする・・・ などなど、それをしているときにちゃんと意識することができるようになることです。

このひと刺しするような攻撃の思いは、じつは自分に対して毎回ひと刺ししています。

自分の思いに対して、真剣に聞き耳をたてて、つねに聞きつづけている存在は自分しかいません。

そして、それによって着実に自分が弱ってゆきます。つまり、罪悪感をためてゆきます。罪悪感をためると、自分で自分におしおきをするようになってしまいます。

じゃんじゃんスミを吐くことで闇の世界の住人になっていたのだ、と気づけたのなら、ただスミを吐くのをやめればいいだけです。

そうすれば、クリアな世界が見えます。クリアな世界を手にするために、タコは新しい自分をつくらなくっていいのです。スミを断念しましょう。

スミ吐きと縁を切った私たちは、「あれ?わたしってじつはキラキラ発光しているクラゲちゃんだったの? 海がキラキラして美いのは、じつは私の輝きだったのね〜」と気づくかもしれません。

私たちのこころは宇宙をふっとばすほどのフルパワーがあります。そして、24時間ノンストップで稼働中。

それほどのパワーがあるのなら、スミを吐いて(攻撃的な思いをもって)自分をコテンパンにするのか、それともただそれをやめて本来の自分の美しさに気づくのか、ふたつにひとつです。

まず、はじめの一歩は、「今」私はどんな思いをもっていたかしら?とチェックすることです。

かりに、愛以外のものに気づいてしまったとしても、「なんてことなの?邪悪な私」と責めてはいけません。

これも自分に対するさらなる攻撃の思いです。攻撃は外に向いても、内に向いても、自分に対して破壊的であることに変わりはありません。

ただ、この思いは光を放つ私自身には似つかわしくない = 似つかわしくないものは、そもそも私のものではない = 私のものではないのなら、それは手放すためのもの = そして、手放すための手っとりばやい方法は、高い自己(ハイヤーセルフ)にお願いして、もって行ってもらうことです。

ハイヤーセルフは必ずこう言ってくれます。

「それはまさに、あなたのものではありませんでしたね。気づいてくれてよかったです」と。ハイヤーセルフは、私たちがいつガラクタを大切にしなくなるか、ずっと待っていてくれたのです。

でも、こどもが真っ黒ですり切れたクマのぬいぐるみでもそれを大切にしているときに取りあげないように、ハイヤーセルフも「もう、これは私に必要ないものです」と自己申告するまで、じっと待っていてくれるのです。

そして、「もういりません。もって行ってください」と、私たちが GOサインを出せば、いつでもよろこんでお掃除してくれるのです。

ひとつひとついらないものをもって行ってもらって、みんなでキラキラな発光クラゲになりましょう  ˘⌣˘♡

 

 

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きゅ〜〜〜りっ!? (*⁰▿⁰*)

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お仕事がいち段落してスマホをのぞくと、「ブツをドアノブに掛けさせていただきました」というお友だちからのメッセージが!

さっそくドアをあけてみると、ありました、ありました! なにやらたくさん入った手提げ袋がかかっています。

Mちゃんはむかしから、仕事帰りや用事の途中に立ち寄ってはいろいろなものをお福わけしてくださるのです。

きょうは ・・・ お気に入りの紅茶でしょ、大好きなラズベリージャムでしょ、大袋のスナックでしょ ・・・ ん?? この長〜いスリコギ状のものはなんじゃろう?

よくよく見たら、

ナント、きゅ〜〜りっっ☆

わお! ゆうに 40センチごえ(30センチの定規がちっちゃく見えます)。四国のお知り合いが作られたそうな。ああ、西はお天気よいから、雨つづきの東の分まで育っちゃったのね〜(笑)。

しっかりと太くて食べがいあり。

さっそくしっかり冷やして、手でひと口大にかいて、ゴマ油とお塩と白ゴマでシンプルに。Mちゃんは梅カツオですって! ああ、それもいいな。

ようやく関東も梅雨明けですね。しっかり食べて暑さをのりきりましょう!

PS きゅ〜〜り、お味もとってもよかった! 新鮮デリバリー、ありがとうございました♡

 

 

異国情緒たっぷり 横濱ランチ♡

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お友だちとランチデートの一日。昔ながらの異国情緒あふれる横浜をご案内いただきました。

ランチは、元町 霧笛楼さんで。

開国当時のモダンな横濱の雰囲気があふれている仏蘭西料理のお店です。

じつは、お誕生日のお祝いをしていただきました(365日絶賛お誕生祝い受付中! 笑)Mちゃん、ありがと〜ございます♡

お料理も、サッパリとした和のテイストがあり、やさしいお味です。記念日にはリピートしたいね〜!と話していました。(メニューは、前菜がオマール海老と大根のブラマンジェ、ブイヤベースと焼きトウモロコシのリゾット、的鯛のグリエ、ポークののマデラソースでした〜♪)

 

テーブルウェアは藍でそろえられているのがレトロでもあり、横浜の海のイメージでもあります。

食後は中華街をぶらぶらし、山下公園よこのホテルニューグランドへ。

本館はクラシックな面影を残す歴史的建造物だそうで、数々の有名人が宿泊されています(マッカーサーの執務室もあったんですね)。

山下公園をのぞむソファでくつろいでいると、ときおり汽笛が聞こえます。

そして、新館のティールームでまったりとお茶タイム♪ 東京から少し離れるだけで、時間の流れがかわる気がします。

帰りは山下公園からお船で帰路へ。海の風にふかれて、波の音を聞いているだけで十分バカンス気分! ╰(*´︶`*)╯

梅雨明けまえといえども、お天気に恵まれて癒しの一日でした。ありがとうございました♡

 

 

雨の日にぴったり 癒されグッズ

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

 

さて、お茶をいれて・・・と、

これはお友だちからいただいた TEA BOOK♡

シトラス系ジンジャーティーとチョコバニラのルイボスティーが入っています。どちらもおいしそうだな〜♪ きょうは、肌寒いのでジンジャーで☆

そして、一緒にいただいたこちらも用意します。

これはなにかというと・・・

ふふふ ・・・ ちょっと怪しげ?! ネコ仮面。

このように着用して、ホットアイマスク! (ほかに、フクロウさん、キツネさん?など)

ラベンダーの香りにつつまれて、目もとがホカホカ。からだもリラックスして、おもわず眠くなってきました。

お茶をいただきながら、おやすみなさ〜い☆ ZZZZ ・・・

 

 

19-07-10 G i r l / ガール

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スラリと手足の長いララは15歳。バレリーナを目指して日々レッスンにうちこんでいる。

父親もそんなララに理解をしめし、そのために家族で引っ越しもし、職もかえた。

念願だった名門のバレエスクールに受けいれられたものの、ララのこころは晴ればれしない。

なぜなら、彼女は男の子だから。

トランスジェンダーのララは、一生懸命努力するものの「踊りが、まるで棒っきれ」と評され、また毎日身につけるレオタード姿もララにとってはつらい現実に直面せずにはいられない。

クラスメートからのいやがらせ、恋愛への憧れ、身体の変化 ・・・ 温かい家族や親戚に見守られながらも、ララのこころは理想の自分を目指すことをやめられず、現在の自分を耐えがたく感じてゆきます ・・・。

この作品でアカデミー賞 外国語映画賞を受賞したルーカス・ドン監督は、27歳。

十代のころに読んだトランスジェンダーのバレリーナについての記事にこころを動かされ、いつか映画にしてみたいと胸に温めていたそうです。

ララ役は、アントワープ ロイヤル バレエスクールのトップダンサーさん。もちろん男の子です。

さすが、ダンスはとても美しいです(トウシューズでの踊りは大変だったことでしょう)。

彼自身はトランスジェンダーではありませんが、ことば少ないララの繊細さ、芯の強さ、そして思春期の女の子らしさをとても自然に表現しています。

涙壷度:★★☆☆☆(自分に正直に生きたい! それは誰にとってもこころからの叫びです)

 

お茶の間シネマトーク「G i r l / ガール」

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スラリと手足の長いララは15歳。バレリーナを目指して日々レッスンにうちこんでいる。

父親もそんなララに理解をしめし、そのために家族で引っ越しもし、職もかえた。

念願だった名門のバレエスクールに受けいれられたものの、ララのこころは晴ればれしない。

なぜなら、彼女は男の子だから。

トランスジェンダーのララは、一生懸命努力するものの「踊りが、まるで棒っきれ」と評され、また毎日身につけるレオタード姿もララにとってはつらい現実に直面せずにはいられない。

クラスメートからのいやがらせ、恋愛への憧れ、身体の変化 ・・・ 温かい家族や親戚に見守られながらも、ララのこころは理想の自分を目指すことをやめられず、現在の自分を耐えがたく感じてゆきます ・・・。

この作品でアカデミー賞 外国語映画賞を受賞したルーカス・ドン監督は、27歳。

十代のころに読んだトランスジェンダーのバレリーナについての記事にこころを動かされ、いつか映画にしてみたいと胸に温めていたそうです。

ララ役は、アントワープ ロイヤル バレエスクールのトップダンサーさん。もちろん男の子です。

さすが、ダンスはとても美しいです(トウシューズでの踊りは大変だったことでしょう)。

彼自身はトランスジェンダーではありませんが、ことば少ないララの繊細さ、芯の強さ、そして思春期の女の子らしさをとても自然に表現しています。

涙壷度:★★☆☆☆(自分に正直に生きたい! それは誰にとってもこころからの叫びです)

 

19-07-08 いちばんコワイのは自分自身

先日、友人とお出かけしたとき、お人形の専門店があったのでちょっと立ち寄ってみました。

アンティークドールから世界中の珍しいお人形まで、ところ狭しとひしめきあう店内をながめていると、「ねえ、もう行こ、行こ!(汗)」と居心地の悪そうな友人。

「どうしたの?」と聞いてみると、こどものときから災いや呪いを引き起こす人形が出てくる本やホラー映画を見ていて、「人形 = 呪い」のイメージになっているご様子。

人形を可愛いと感じる人もいれば、キモチワルイと感じる人もあり ・・・ (でも、人形はただそこにいるだけです)。

このように、なにかに怖れを感じるとき、私たちは「それ」こそがコワイ原因なのだ!と考えますが ・・・ 「それ」がコワイのではありません。

「それ」に対する「解釈(意味)」こそがコワイのです。

私たちは、目にしている「それ」がコワイと信じて、「それ」を自分の視界からなくしてしまえば問題は解決すると信じます。 ・・・ しかし、「解釈」がコワイのであれば、その解釈は自分と一身同体です。

またふたたび他のモノゴトを使ってコワイ解釈が顔を出し、それを怖れることになるのは間違いありません。

対象である「それ」をどうにかしても、ほんとうはなにも解決してはいないのです。

実際、怖がりさんを見ていると、「想像力、ハンバないな〜」と感じます。

たったひとつの「あるがまま」を見たときに、平気で十個ぐらいのコワイでっちあげを紡ぎだすことができます(はたから見ているとよくわかります、天才的なほどです!)。

完全に自分オリジナルの解釈で、自分で自分を震えあがらせることに成功しているのです。

それはときに戦慄ともいえるような感情をも引き起こし、それに耐えられなくなると自分で自分を死にまで追いやってしまうことにも ・・・。

しかしどのような場合においても、自分を怖がらせることができるのは、自分以外にはありえません(自分の考えがなければ、じつは怖さは生まれてこないのです)。

自分の意味づけが限りなくホラーであるなら、存在するはずのないどのようなオカルトストーリーでも目にすることができます(すばらしいっ!)。

なぜなら「最初に意味ありき」で、それにぴったりとそった現実を目にすることになっているからです。

そして、自分の意味づけから生まれた世界を見て、さらにそれに意味づけをするので、自分のこころの誤想像でつくりだしたホラーストーリーから抜だせなくなります。

意味づけがコワイときというのは、妄想がふくらみすぎた結果であり、「たった今」の安全な現実をキョーフの「過去データ」やキョーフの「未来の予測」で塗りたくって安全が見えなくなってしまっています。

「たった今、この瞬間」のあるがままはまったく安全なのに(はい!いつでも、この瞬間のあるがままは誰にとってもまったく安全なのです)、自分の妄想のせいで怯えたり、あせったり、落ちこんだり、怒ったり、パニックになったりしています。

それはまぎれもなく、現実ではなく「自分のでっちあげ」がコワいのです。

こどもが風の音や壁のシミをお化けだと信じてコワがったように、間違って信じているものに囚われている証拠です。

大人になってからはいささか風やシミを怖がりはしませんが、今度はもうちょっと大人らしいことに想像力を逞しくしているだけなのです。

そういう方々は、「今」をあまり見ていません、自分のコワイ思いのみに集中しているのです。そこから目が離せなくなっています。

たったいま目にしてひとつの出来事(ありのまま)から、自分の妄想によって即座に物語がたちあがり、あっというまにドラマチックなストーリーが紡がれ、それを真実として信じているのです。まさに、偉大なストーリーテラーです。

しかし、そこにあるのはただ「それ」だけで、なんの意味もついていないただ「それ」だけです。

ストーリーをでっちあげるのには、ものすごい労力を使います。存在しないものを自分にも、人にも信じさせようとするのですから。とっても疲弊します。

冷静にものごとを観察してみると、自分を怯えさせることができるのはたったひとつの存在だけであるということです。

それは、自分自身。自分以外に自分を震えあがらせることができる存在はいません。つまり、自分の考え(解釈)こそが、災いの元凶。

私たちは、自分の考え(解釈)いかんによって、自分の住む世界を自分を愛してくれる仲間があふれる天国にもできれば、あるいは果てしない戦いがつづく地獄にもすることができます。

そのように、どちらも選ぶことができるはずなのに苦しい地獄行きチケットしか買わない私たちって ・・・ きっとマゾなの ・・・ ね!(汗)

目のまえにある「それ」がコワイと信じていたのにそうではなかったのであれば、なぜそれをコワイと判断したのかを探求する必要があります。つまり、原因の糾明です。

原因がわかれば、それが「ホントのことなのか?」冷静にみきわめることができます。まちがっているのであれば、ただ手放すことができます。

「それは、たった今の事実としてほんとうのことなのか?」 ・・・ 正直に検証してみます。

じつは、まだなにも起こっていないのに、過去のデータを被せて短絡的に結果を決めつけてしまっているのかもしれません。

妄想、でっちあげ、怖れ、過去のデータからの予測という解釈はとりはらって、きっちりきっぱりと「今、完全に事実であること」以外は取り去ります。(この段階で、けっこうなにも起きていなかったと気づくかもしれません。)

さらに、「自分はじつはわからないのだ」とわかるかもしれません。

「自分はじつはわからない」 ・・・ と気づいたら、オメデトウゴザイマス! ついに、高い意識(ハイヤーセルフ)に教えてもらうことができるポジションまでコマを進めることができました。

「私が意味を決めたいの!」といいはっているうちは、ハイヤーセルフは「どうぞ、そうしてくださいな」とやらせてくれます(それは、自分で自分の首をしめているのだ!と自分で気づく日まで・・・)。

せっせと意味づけをしようとする(価値判断しようとする)のは、ここがアブナイところだと信じていて、なんとか先制攻撃で勝ちを狙うためにしていることです。

でも、ここがまったく安全だとしたら、それをする必要がありません。

むしろ、コワイ意味づけをすることで、そういう世界をみざるとえなかったのかもしれません(これはまさに、麻薬中毒患者が妄想を見て、それを怖がることでもっとパニックになって暴れる ・・・ というのとよく似ています)。

妄想によるでっちあげの解釈こそがキケンであり、じつはなんの意味づけもしないあるがままの今は安全なのです。

あるがままの今を受けいれるというのは、なにも解釈を加えないこと(口をひらかないこと、コメントしないこと)。ただほっておくこと。

そして、もしあるがままの完全さが見えてこないのであれば、たったひとつするべきことは、ハイヤーセルフに一緒に見てもらうことです。

かならず、「あなたにとっても、まわりの人たちにとっても、贈りものがやってきているのですよ。よかったですね」と教えてくれるはずです。 ( ・◡・ )♫

 

 

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