20-09-21 ただゆったりと眺めてみる

 

私たちは自分の目にしている世界に対して、全力でかかわるように教えられてきました。

少しでも傍観者になろうものなら、「ボーっとしてる」「無関心」「やる気がない」と負のレッテルを貼られ、学校の通知表にまで書きこまれたかもしれません。

どうやらこの世界では、ものごとにアタマからつっこんでゆくことこそが、まっとうでポジティブな生き方とされているようです。

だから、すべてのことに対して意見をもっていなくてはなりません。

あなたはどう思いますか?と問われたら、すぐさま意見が言えないと「何も考えていないひと」「鈍いひと」「自分がないひと」というレッテルをはられかねません。

「別に・・・」「どうでもいいです」なんて言おうものなら、ウツ状態を疑われ精神科に連れて行かれることも・・・。

その結果、こころは逐一あれやこれやを観察し、考えつづけ、意見をのべ、アタマがいいように見せかけることに余念がありません。

けれど・・・ 考えが静かにならなければ、自分自身が失われたままになってしまいます。

なぜなら、自分とはあれこれ繰り出される考えなどではないからです。

まだ小さかった頃、もしかするとベビーカーにのせられていた頃、すべてを静かに眺めている自分がいたのを覚えているかもしれません。

「自分」とすら思っていなかった「気づき」だけの存在が、静かに世界を見ていたことを。

見えているものと、自分との違いにさえ気づいていない存在でした。

その頃はまだ、世界というものに巻きこまれていなかったのです。だから、静かでした。平和でした。意見などなく、ただ存在して、見ていました。

いまいちど、自分の見ている世界からズズっと後ろに下がったような感覚で、起こっていることからうしろへと退いてみましょう。

その手を、世界から放してみましょう。

それは、世界に対して自分からアタマをつっこみに行かないこと。

なぜなら、起こることは勝手に起こるし、そこで必要なことは全部なされるし、そしてそれは終わりを迎えます。自分のエゴや策略が、そこに参加しようとしなくとも。

そこにわざわざ、「あ〜だ、こ〜だ」のジャッジメントや、心配、不安、動揺を加えてあげる必要はないのです。

そんな調味料などなくっても、それはちゃんと整っているのです。

「あ〜だ、こ〜だ」や動揺は吸着力があり、世界の渦のなかへと自分を引きこみます。

アタマをつっこむことで、まるで脱水機のなかに自分が飛びこんだみたいになってしまいます(つまり、ホンロウされて、なにがなんだかわからない状態になり、疲弊します)。

そして、そこにある問題と完全に自分を一体化させてしまうことによって、その問題を解決できるはずだったひとがいなくなってしまうのです。

川の流れにホンロウされている小石をイメージしてみましょう。

流れのなかでぐるんぐるんもみくちゃにされて、その状態では自分が完全に失われてしまうのです。

私たちも、世のなかという流れに巻きこまれるのではなく、静かに後ろにさがってただ眺めてみることができます。

眺めつづけているうちに、もしかするともうすでに見たことのある昔のフィルムでも観ているような気分になるかもしれません。

観たことのある話はそうそう興味をひかないので、そのままほっておくうちに勝手に終わります。

ところが、「つまらない!」だの、「もっとどうにかしろ!」だの、あれこれ言ってしまうと、あっというまにウズに巻きこまれます。

自分がそこにホンロウされているちっぽけな存在に感じられるに違いありません。

それよりも、その流れの外へと出てしまいましょう。

川の外から流れを眺める、どっしりとした石になりましょう。

その石は川の流れのことなんか気にとめていないかもしれません。川は目のまえを勝手に流れていて、自分には何の影響も与えないから。

そして、石はそこには手を触れない存在だからこそ、すべてはそのままでいいことを、完全に流れてゆくことを知っているのかもしれません。

 

 

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