21-06-22 最初の一撃に向きあう

 

私たちは問題を目にしたとき、あるいは傷ついたと感じるとき、

すぐさま、「なんで?」「どうしてこうなった?」「何を間違った?」「誰が悪い?」「で、どうしたらいいの?」・・・ とアタマで現状を解釈し、必死で対処法をはじき出そうとします。

でも、これって ・・・ じつは自分の痛みを誤摩化すためにこころが行う「対症療法」のようなもの。解決には少しも役立っていません。

原因はそのままにして、そこから注意をそらすことで痛みを緩和しようとしているだけなのです。

原因がなくならないのなら、それは繰り返されることになります。

そのそも、それが問題となったのは、その瞬間にこころを襲った「痛み」だったはず。

ズキっとか、グサっとか、ビリビリっとかの痛みの一撃。

その慣れないインパクトにこころが動揺し、その感覚から逃れるために「思考」へと走ったのです。「思考」でマトをずらすことで、その一撃のインパクトを和らげていたのです。

となると、「なんで?」とかあれこれ考えはじめた段階で、もう違う方向に行ってしまったことになります。

どうにかしなくちゃならないのは、自分が動揺したあのイヤ〜な一撃そのものなのだから。

アタマで考えはじめてしまうと、その感じは手つかずのまま放置されることとなり、一方こころは自分勝手なストーリーをねつ造することに熱中し、そのストーリーはあたかも本当のことのように感じられてきます。

ストーリーへの耽溺が痛みを少しやわらげてくれるように感じます。(・・・が、ありもしないストーリーという別の痛みもこしらえています。つまり、痛みはふえてます)。

そのストーリーはどんどん発展して(ほんとうではないのに)、「そうか〜、そういうことか?」と勝手に納得し、いよいよ解決できない方向へと自分を導いてゆきます。

そもそも、あのイヤな感じから注意をそらしてしまった段階で、それを解決できないものにしているのですが、この自分勝手なストーリー展開をすることで、さらに解決から遠ざかってしまいました。

このストーリーで考えたあれこれを実行してみたとしても、問題は解決しません(そもそも、できません)。一瞬消えたように感じても、また似たような問題として姿をあらわします。

大切なことは、「自分がすぐさまそこから注意をそらしたくなるような不快な一撃を感じた」ということにまず気づけるようになることです。

なぜなら、これさえなければ、何が起ころうと自分は動揺することなく、それを問題だと感じることすらないからです。

この問題の出発点といえるイヤな感じから逃げないようにしなければなりません。

ただそれは「感じ」なので、噛みついたり、ボコボコにされることはありません(まあ、慣れていない感じなので、ちょっと感電状態にはなるかもしれませんが、その感じも慣れてくればただの「感じ」、むしろ感じるのが楽しくなってきます)。

抵抗することなく受容されたものは終わりになります。

自分のなかでその「感じ」を受けとめたら、ハイヤーセルフに「これは私が感じたいものではありません。私のほんとうの感情(愛・喜び・平和・安らぎ)を感じさせて下さい」とお願いいたしましょう。

私たちは自ら、何を感じたいのか、どのような状態でいたいのか、どんな自分でいたいのか、を選ばなければなりません。

選ぶまえには、好きでもないのに必死で握りしめていた間違った感情や自己概念・信念に気づいて、手放さなければならないのです(意識的になる、ということは、間違ったものを手放すためには欠かせません)。

つまり、間違ったこころの初期設定を解除するために、間違いに気づき、それを感じ、新たに選び直すのです。

何かイヤな感じに襲われたら、アタマでストーリーを展開させることに熱中するのではなく、ただ最初の一瞬に自分を襲った不快感な一撃に戻って、それとまっすぐ向き合ってみましょう。

そして、それを真に終わりにしてしまいましょう。

その感じがない、ということは「怖れ」がない、問題がない、ということなのです。

 

 

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