16-01-09 こころのゴミ屋敷をお掃除しましょ!

昨晩、あるテレビ番組で「卑弥呼と天照大神は同一人物なのか?」と検証していたとき、あるパネラーさんが「人間は、都合の悪いことをぜんぶ神様のせいにしてきた。それが神話なんです」というような説明をされていました。

「なるほど〜・・・ たしかに」と思いましたよ。

だって、世界的ベストセラーの大河小説(?)のなかでも、神様に楽園をおわれたカップルの悲劇のストーリーがありましたっけ。それを執筆したのは神様ではなくって人間なのだ、ということを忘れてはいけません。それでも、「そんなことはしとらんぞ〜!」と激怒して雷をおとさない神様の器はやっぱり宇宙規模に大きいのです。

わたしたちは、無意識のうちにひどいことが起ると「なぜですか?神様!」と嘆き、「もう神など信じない」と背をむけます。みんな何がしかのことで、神様に恨みをもっているのです。

そんなふうに見える神様がなぜイジワルではないとわかるのか・・・というと、日々、セラピーするなかで、クライエントさんの問題をどんどんつきつめていくと、究極的には神様(あるいは、大いなる力)に対して、「ごめんなさい。私が悪うございました。すべてわたしでございます」という信念が出てくるからなのです。「勝手に家出をしたのはわたしです」と。

そして、この信念ゆえに「自分を小さく小さくして、見つからないように隠れていよう」とか、「この世の果てまでも逃げきるぞ」とか、「まったく違う自分になって、ぜったいバレないように目をくらまそう」なんていうことをやっているのです。すると、とっても孤独で、とっても怯えていて、とっても悲しい自分になってしまうのです。自分こそが裏切り者だと知っているから。

こんなことを聞くと「まさか!」と思うかもしれませんが、それぞれの暗いこころの下にはこんな思いがもれなく身をひそめているのです。そしてその隠し持っている思いに気づいてしまったら大変なので、自分を忙しくして何がなんだかわからなくしたり、いろいろな物・人・出来事とかかわって自分が満たされているフリをしたり ・・・どうにか裏切り者の孤独で苦しい気持ちを忘れようとします。

「るん」のセラピーのなかでは、クライエントさんがほんとうに信じていることを探求するために、どんどんこころを掘りすすめるようなことをしていくのですが、わたし自信も日常で「プチいやな気分」のときも、あるいは「メガ級落ちこみ」のときも、ひるまずに自分に対してこの「信じていることの探求」を行っています。

セラピーセッションでは、口頭のやりとりで行いますが自分でやるときにはどんどんノートに書きとめていくのです。

昨日、お茶をしていたときにもふと「そこはかとない不安」を感じました。別にほうっておいてもどうってことはないほどのかすかなものです。けれど、こんなちっちゃな不安こそ、深いところに隠れている何か大きなものから浮かびあがってきた泡のようにとらえます。下に何かがあるぞ!というように。

そこで、さっそく喜々として探求をはじめました。

「そこはかとなく不安を感じる 」→ なぜなら、いつ何が起るかわからない世の中だから(いっけん妥当な答えのように感じても騙されてはいけません)→ (するとこんなイメージがわいてきました)古代コロッセオのなかに迷いこんでライオンに食われそうな自分 → 神様は外から見てるけど何も関知していない、助けようともしない → なぜなら、わたしはちっちゃい存在だから → 今度は、鈴虫になった自分が大きなカブトムシに食べられそうになっているイメージ → わたしは虫ケラのように小さくて神様にとってどうでもいいんだ → この宇宙の無限さが示すように、それぐらわたしは源(神)からはるか彼方に逃げてきた → だから自分でサバイバルするしかない → ついに強大なうしろだてを失ってしまった。不安だ・・・。

強力なバックアップ(神様)から家出をしてきて、すべてを失って昆虫のようにか弱く生きているイメージが「そこはかとない不安」の原因だったのです。

そのときどきの問題やテーマで出てくるイメージはいろいろですが、結局のところは「家出してきた(逃亡してきた)」あるいは「見捨てられた(と思いたい)」という信念が深いところにあります。

自分で「家出してきた」ことは認めたくないから、神様に「見捨てられたかわいそうなわたし」という被害者の美談をでっちあげたいのですよね〜。神様が悪い、神様のせいだ!って。

でも、癒しを起こすにはつねに「はい、わたしでございました」「すべてわたしです」というところに戻らなくてななりません。

そうちゃんと認められたときにこそ、こんな思いはこれ以上もっていなくていいのだと知ることができます。

どれだけ自分の信念、思いによって、自分を虐待していることか。ひとつひとつの間違った思いを手放していくことこそ、こころの安らぎなのです。

幸せであることとは、まさに自分の思いで自分を虐待することなく、間違った思いのひとつひとつを手放してちゃんともとのクリーンなこころに戻してあげることなのです。そうすると、自然な状態こそが「安らぎ・喜び」といえるようになるのですよね。

ゴミ屋敷に住んでいるひとは、自分の家がゴミでいっぱいだという認識をもっていませんよね。こころもじつは同じ。ほんとは悲惨なゴミ屋敷だったりします。(^。^;  (まわりは知ってても、言わなかったりして・・・。)

クリーンで快適なおうちに住みたいですね〜。

今年もみなさまとともに、せっせとこころのゴミ捨てに励みたいと思います!!

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子ヒプノセラピーカウンセリング