18-06-08 生き方が変わるシフトの瞬間

先日、友人にすすめられて観た「ザ・シフト」というDVD。

この映画は、カップルや家族のストーリーを例にとりながら人生の大切な時期に起こるこころのシフトについて、ウェイン・ダイアー博士が自らのシフト体験を語っています。

ダイアー博士というと、心理学やら自己啓発の書籍をたくさん書かれている大家で、以前に私も何冊か読んだことがありましたっけ。

しかし、あきらかに今回の映画の内容は、以前のダイアー博士の方向性と180度かわっているのがわかります。「あらら〜・・・ずいぶんかわっちゃったのね」 ・・・ 何がかわったかというと、野心を満たす外的な成功への指針から、こころの満足ややすらぎへの指針へと。

その180度の方向転換が起こった体験と気づきを、ダイアー博士自らが語っているのです。

ダイアー博士がまず例にとっているのが、心理学者ユングの「人生の午前の時間と午後の時間」という考え方。

ユングは人生を午前と午後にわけて表現していて、午前とは太陽が自分の正面からさんさんと照っている状態で、まだ影という存在にすら出会ったことがない時間帯です。いわばイケイケの時間帯で、こわいもの知らずです。

しかし、太陽が徐々に真上にさしかかり、ほんのちょっとでも自分の後方へとずれようものなら、「ガガーーーンっ!!」突如いままで目にしたことがなかった光景にでくわします。それは、自分の影というもの。見たことのないものを見せられて、ガクゼンとする瞬間なのです。

上り坂だった自分の人生が急に下り坂にさしかかる瞬間でもあり、今までの生き方が通用しなくなる瞬間でもあります。

それゆえ、人生の午前のルールと午後のルールはまるで違うものとなります。

たしかにそうです。人生の午前は頑張れば頑張ったぶんだけ結果が出るし、人生が上向きになる可能性にあふれた時間帯なのです。

しかし人生の午後に足をふみいれると、ある意味「喪失」の時間帯となります。体力、気力、健康、家族、仕事、地位 ・・・ 今まで自分の意志や力でどうにかコントロールできていたものがまったくコントロール不能となります。失っていくものの大きさに、はじめて自分の無力を感じるのです。

自分の人生では神だったはずの自分が、急にそのパワーを失い、神から失墜してしまう体験をするわけです。

ユングいわく、「人生の午前と午後の時間帯は同じルールで生きつづけることはできない。午前中に有効だったルールが午後には自分の首をしめるようになってしまう」といいます。ルール変更のときなのです。

人生午前中のルール、価値観を手放さないかぎりは人生にふりまわされ、苦しむを味わうことになります。人生の午後には、根本的に生き方を変える、つまり人生を真逆に生きること、180度転換することだと言います。

ダイアー博士もそれを経験した一人として、自分に起きた180度の転換、危機とおもえる状況を意味ある人生へとシフトさせた瞬間のことを語っています。

以前の自分は社会的な成功と満足のために本を書きつづけてきたけれど、結局は成功といわれるものを手にしたところで満足は感じなかったそうな。また、自分の満足を満たすために、自分も家族も犠牲にしていることに気づいたそうです。

そして、ダイアー博士は「クアンタム モーメント(跳躍の瞬間)」といわれるこころの変化のときを迎えます。

それはある日突然やってきて(ダイアー博士の場合は、気づきとともに花のようなかぐわしい香りを感じたそうです)、根本的に自分の生き方を変えてしまったと。

外的な成功を求めて自分を満たそうとする野心そのものの「エゴの生き方」から ・・・ 流れに身を委ねながら、大いなる源に身をまかせ、あるがままに自分を輝かせて、それを他者とわかちあう「真の生き方」へとシフトしたというのです。

それまでは、社会的な成功に重点をおかれて書かれていた博士の著書とはうってかわって、「超越したも存在を迎え入れて、それに自分を委ねること」をしながら、「自分をどのように与えることができるかを考えながら生きること」とか、「生かされている、ありのままの自分に戻ること」が語られています。

そしてこれこそが、いっけん「喪失」と感じられる人生の午後をよりよく生きる生き方なのだと。

たしかに、私たちはものごころついて社会化される頃から、この社会でサバイバルするためにどれだけ自分自身に有益性をプラスできるかの闘いをしてきたといえます。少しでも多くのものを手にするために、野心というものを植えつけられ、エゴ的な生き方を強要されるのです。

そのために、他を出し抜くことが重要な目的となります。見栄えのいいかっこをし、マナーを身につけ、好かれるためにおせじのひとつも言えるようになり、資格や特技をより多く身につけるべく必死でお勉強をし、よい仕事につき専門性を高め、自分にとってメリットのある伴侶を見つけ ・・・ どんどん武器をふやします。

何のために出し抜くかというえば、より多くをえるため。より好かれ、愛され、尊敬される自分になって、人よりも有利な立場に身をおき、人よりもスペシャルになることで幸せになれるだろうと。いわば、レースの先頭に躍り出て、走りぬけるためだったわけです。

こんなすべてを冷静によくよく見てみると、そこには他と友和的につながってわかちあうという安らかさはなく、まるでケンカを売っているような、闘いをいどんでいるような、攻撃的な姿勢が隠されているのがわかります。

こんな気持ちが土台にあったなら、他の人とともに安らかに幸せになどなれるはずがないのです。なぜなら、まわりはいつだって敵だから。

いっけん危機に見える人生の午後の時間を、どう生きるべきなのか ・・・それは、外的な成功のために奔走していた「エゴの自分」を手放して、「本来の自分」、つまり生まれてくるまえにお母さんのおなかのなかで育っていたときの自分を思いだすべきだといいます。

おなかのなかにいたときには、自分もそしてお母さんも、どこに目をつけるかとか、鼻の位置は大丈夫かとか、何もコントロールはしていないのに、ちゃんと完璧な人間の姿で生まれてきたということ。自分が手をださないことによって、叡智がすべての面倒を見てくれていたということなのです。

生まれ出てから野心というものにそまってしまった私たちは、すべての面倒をぬかりなく見てくれていた全能の神のポジションを奪ってしまい、何から何まで自分で決めて、自分の思いどおりにしようと頑張ってきたわけです。

結局何から何まで自分で決めようとしたことで、すべての面倒を自らみるハメになり、たいへんな苦労のわりには神の技の完璧さを見ることができなくなってしまったというわけです。

ダイアー博士は、「アップルパイの一切れが、アップルパイであることを思い出さなければならない」と言っています。アップルパイは、小さな一切れでもアップルパイだということです。

私たちも、自分がどこからやってきた何ものなのかをちゃんと思い出すべきだと。

身体が消えたらほんとうに消滅してしまう自分なのか、それとももっと大きなものからやってきた不滅の存在なのか。それを知るためには、動き回るのではなく、静寂のなかにとどまり、源と調和し、耳を傾け、導かれる必要があると。

その源を感じることができれば、おなかのなかの赤ちゃんのように、すべてをまかせることができる・・・と。

そういう彼自身も、午前の時間から午後の時間へのシフトを体験したとき、外の世界に価値を与えていた人生が転換し、自分の内側とつながるとことで、大いなる存在とひとつになる体験をしたそうです。そこから、心理学を語るよりも、スピリチュアルを語ることに喜びを感じるようになったとか。

だから、人生の午後の時間とは、大いなるちから(源)に身を委ね、生かしてもらいながら、自分を与えることで、源の意志を生きることだといっています。

著作の大家自らのシフト体験がとってもわかりやすく語られていて、この作品にふれることでそれぞれのこころのなかでうずうずしていたほんとうの自分が呼び覚まされて、ダイアー博士のいう「クアンタム モーメント」を自分なりに体験できるかもしれません。

 

 

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