18-06-27 誰もがもってる特別性という劣等感

お友だちとランチをしたあと、立ち寄ったお店で目にとまったスカーレット レッドのサマードレス。

「A子ちゃん、こういう色似合うと思うけど着ないの?」と私。A子ちゃんはいつも静かめの色合いの装いなのです。この日は紺系。すると、「あまり目立たないようにしてきたんだよね〜」とA子ちゃん。

それは、さきほどのランチタイムの会話のつづきでもあるのです。

ランチをしながら、「最近、特別性ということが気になっているの」とA子ちゃん。

「特別性」とは、「私は人とは違う!」「秀でた自分でいよう」「スペシャルな自分になるべきだ」という信念。その下には「そのままでは何ものでもない自分だから、見むきもされない」という欠乏の想いや無価値観という劣等感が横たわっています。

つまり、「特別性」とは「自分は決定的に足りないのだ! 」と信じていて、生きることそのものがそれを「埋め合わせる」行為となります。

じつは、無意識のうちにで誰もがこの「特別性」の呪縛にしばられています。だから日常でとる行動の動機をよくよく調べてみると、すべてこの無意識の足りなさが自分を突き動かしていて、人とは違う自分へと駆り立てます。

人から好かれる「いいひと」でいたいと思って(「いいひと」にならないと愛されないと信じて)、無意識のうちにに無理にこにこしたり、気をつかっていたり、やりたくもないことをしていたりします。あるいは、一目おかれる「おもしろい人」でいるべきだと信じて(「おもしろく」ならないと消えてなくなっちゃうかもと信じて)、ジョークを連発したり、快活な自分を装ったり、サービス精神を発揮したり・・・。特別性には、いろいろな表現があるのです。

A子ちゃんいわく、昔から先生に目をかけてもらえる子どもだったとか(たしかに、A子ちゃんはたくさんの人のなかにいると、ぱっと目をひく天性の存在感がある方で、それこそがA子ちゃんの持ち味でもあるのです)。だから、特別な役に抜擢されたり、優遇されたり・・・。

しかし、いち目おかれることにより仲間のなかで浮いた存在となり、その結果、嫉妬やねたみをうけることになったそうな。

そのときA子ちゃんが子どもごころに決めたのが、「攻撃を受けないために、なるべく目立たない自分でいよう」ということ。その対策のひとつが、「目立つ色のお洋服は着ない。地味にしていよう」ということで、それが無意識のうちに今になってもつづいていたのでした。

「目立たないようにすること」は嫉妬やねたみへの解決策のはずだったのですが ・・・ これもじつは特別性の表現のひとつなのですね。「私はあなたたちとは違っている存在なの。だから隠しておこうかな」という想いなのです。

さきほども書いたように、この「特別性」は私たちの誰もがこころのなかに隠しもっているものです。

それは、「あなたたちとは違う境地にいる私」なので、「違っちゃっている私」は誰とも本当の意味ではわかり合えないし、つながれないし、仲間になれないし、じつは仲間であるとも思いたくないのです。

だから、愛や共感や豊かさや助けという供給が、自然とたたれてしまいます(特別性によって、こころを閉ざしてしまっているのです)。そして、知らないうちに自分の人生を孤独でシンドイものにしてしまうのです。

私たちの日頃の行動の動機をじっくりと観察してみると、必ず、「もっとステキな、バージョンアップした自分になる」という決意があるはずです。

そのために、手に入れたり、磨きをかけたり、フリをしたり、付けたしたり、いい人になったり、気をつかったり ・・・ とじつに忙しいのです。日常でとる行動のモトを正してみれば、じつはこの「特別性」ためホンソウする日々をすごしているというのがわかります。

勉強や仕事で努力することも、何かにガマンしてイイ人、気がきく自分でいることも、新しいことにチャレンジすることも ・・・ それによって、能力、成功、地位、名声(ほめられるなど)、豊かさ、美しさ、羨望などが手にはいって、みんなとは違った自分になれると信じているから。

そう考えると、私たちはどれだけあるがままの本当の自分というここちよさ、安心感からほど遠くなっていることか ・・・ これじゃ、リラックスを感じられるはずがありません。

ほんとうは、ここに存在して、ただ呼吸しているだけで十分なのに ( ・・・ え? そんなんじゃダメじゃない!って? それこそが、特別性の動機となっている不足感、欠乏感なのですね)。

たしかに、自分の20代、30代の忙しさやら、あれこれの活動性を見てみると、今おもえば「どれだけ自分に何かを付けたしたい」と思っていたのか! と笑えてきます。

あれこれ興味をもって勉強していたのも、もちろん今となっては役にたっているのですが、そんな「特別性」というヘンテコな動機がなかったら、もっとリラックスして楽しめたし、それによってもっと効率よく、人とのつながりのなかで同じことができたかもしれないな〜と感じます。

芸術の分野で活躍されているお友だちのB子ちゃんも、こんなふうに言われていました。「劣等感が頑張るエネルギーだとずっと勘違いして、一人まえになれるなら血の滲むような思いをしてもよい ・・・ と、今考えると、呪いの誓いみたいなものをたてて、もがいて、何かと戦っていました (・_・; 殆ど、ホラーです」と。

ホ、ホラー ・・・ でも、ひとごとだと思えません(汗)。

向上できるなら、成長できるなら、そのとき大切だったはずの「人とのつながり」をも犠牲にし、どんなに窓の外で美しい季節の贈りものという自然が微笑みかけてくれていても目もくれず、愛にも優しさにも背をむけて(当時、本人はそうは思っていないのですが、今思えばね!)、そして口ぐせは「それどころじゃない」「私は忙しい」「いつか時間ができたらね」だったりして、そんなふうに何かに驀進している自分に酔ってもいた気がします(苦笑)。

「劣等感」こそが、「特別性」の燃料そのものなのですよね〜。どんだけ足りないと思っていたことか・・・。劣等感を信じているぶん、特別性をニンジンにして永遠に疾走させられます・・・(汗)。

そんなこんなを客観的に見られるようになってきたとき、本当にただ息をしてずっと部屋のなかに坐っていることを自分に許せるようになってきて ・・・ 今じゃ、ただここちよく坐っているうちに、何時間もたっていたりします(まわりから心配されそうですが、幸せだったらいいじゃない・苦笑)。

「すばらしい私になる」という特別性の他に、うまくカモフラージュされていてわかりずらいのが「悲惨な私になる」という別の意味での「特別性」。

これは、嫉妬やねたみを受けることがなく、かえって愛情を無条件に手にすることができ、スルメのように長いあいだ使いものになる「特別性」なのですね。

でも、その結果、自分を「無力な被害者」「かわいそうな私」につなぎとめることになり、やってる自分ですらだんだん自分の正体がわからなくなってきます。「被害者のかわいそうな自分」という信念を強化してゆくことになり、本来の自分の絶大なちからを見失い、逆にその力を自分を弱めることに使ってしまうことになるのです。

どちらにしても「特別性」は「あなたと私は違うのよ」と、口にださずとも主張しているので、静かに世界にケンカを売っている行為にほかなりません。

そうすると、「つながる」というよりは、「つながれない」、「近づけない」「わかりあえない」ということになってしまいます。つまり、お山の大将は孤独なのです。山のてっぺんには一人しか立てないので、わかちあう相手がいないのです。

そしてなによりも、「あるがまま」につけ足すことに忙しくなると、「あるがまま」で受けとれるはずの贈りものが受けとれなくなってしまいます。つけ足すことに急がしてくって両手がいつもふさがっているので、宇宙から降り注ぐ自分のための贈りものに気づくことができなくなってしまうのです。

でも、いつでも「あ〜、こんなことを一生懸命していたのね」とエゴを満たすためにしていたことに気づいて、それを光にさらしてあげると(高い意識に一緒に見てもらうと)、まったく別な意味が見えてきます。違うストーリーにすることができます。

そのときはじめて、特別性ゆえに築きあげたものがわかちあう宝ものとなり、それをみんなとつながるために、みんなの気づきのために使うことができるようになるのです。

なんにしても、自分で握りしめていると「特別性」になってしまうけれど、それを高い意識に使ってもらうといつでも「自分と全員のための」ギフトになるのです。

そのときには、「人になんか理解できない特別な経験」が、「みんなが共感して、みんなでわかちあって、つながってわかりあえる体験」になるのだと思います。

「特別性」って空で、星どうしが「あなたよりも私の光のほうが強いわよ」「いいえ!わたしのほうがキラキラしている」と、競いあっているようなイメージですが、それを高い意識というひとつのものに委ねることで、その光同士がつながりあって、大きなひとつの光になることで、そこがぜんぶ光、ただただ光みたいになって、喜びあって広がってゆくようなイメージです。

A子ちゃんは、スカーレットレッドのドレスを手にしました。おうちで着てみたら、似合っていたって♪ (やっぱり!)

かつては「特別性」となっていた存在感が、わかちあうためにいただいた天賦の贈りものとして受け入れてもらえたのでした。(A子ちゃん、気づきをありがとう♡)

 

 

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