19-01-16 攻撃されたと感じるときこそ・・・

「私たちはつねに、“ 自分のこころが外側にうつしだすものだけを認識し、経験する ” といいます。しかし、客観的にみて非がないのに攻撃され、それに対して怒りを感じる、という場合はどうなのでしょうか?」というご質問をいただきました。

まず、「客観的にみて攻撃」ということは、じつはありえないのです。

それを「攻撃である」と知覚するのはいつも、「主観的」なこころ、個人です。

「私は攻撃されている!」という自己の解釈、ものごとへのラベリングがないかぎり、攻撃だとはみなされません(例えば、誰かが「きみは攻撃されていたね」と言ったとしても、「それはなんのこと?」と本人はまったくそのように受けとっていないこともあるからです)。

私たちは「自分が見たいものを目にし、自分が感じたいものを感じたいように感じ、自分が願望しているストーリーを願望どおりに体験する」という世界に住んでいます。

それは自分が体験する「よいこと」も「悪いこと」も含めて、すべて自分のこころの深いところにある無意識のおもいがベースになって、知覚をつくりだしているということです。

つまり、「私」の世界とは、自分の信じていることを体験するための場所なのです。

ただし、アタマで考えている私の考えと、無意識で信じていることはまったく別ものです。重要なのは、無意識のこころで信じていることです。

そのように考えると、好きでないことを体験したときには「“ 自分がほんとうは何を願望しているのか ” を問いなおし、正す」というチャンスを与えられている、ととらえることもできます(アタマでは他のことを望もうとしているのに、無意識ではまだそれを握りしめつづけているということにあらためて気づき、訂正する、ということです)。

自分が無意識のうちにもっている、自分を傷つける「痛みにみちた考え」が表面にあらわれ、形になってくれたおかげで、訂正のチャンスを与えられ、それ以上自分で自分を痛めつけることを終わらせることができるのです。

去年こんなことがありました。

大通りを青信号で渡っていたら、真横からつっこんできた電動自転車にひかれて数メーターふっとばされ、ジーンズは破れるわ、怪我をして流血しているわ・・・。

そのうえ、つっこんできた自転車の女性は「なんで前を見ていないのよ!」と仁王立ちで見下ろしながらのたまい、倒れている私に手もさしのべず ・・・ ちょっとぉ! 歩行者の青信号ですぜィ! (ꐦ°д°)

その瞬間、ひかれた怒りをとおりこして、怪我をしている人にさえも手をさしのべることができない、この女性のいっぱいいっぱいさを感じてしまい、何も言葉がでてきませんでした(一瞬で、そのひとの苦しみと痛みにみちた生活がすべて見えたように感じたのです)。

さいわい骨は折れていなかったようなので、そのまま帰宅しました。

とはいえども、お気にいりのジーンズは破れ、流血するひざは痛み、打撲とあざはひどくなり。

しだいにむくむくと腹立たしさを感じはじめるしまつ。治るまでの一ヶ月半ぐらいは傷が痛むたびに「あの人、ひとこともあやまってないし〜!(怒)」というおもいに苦しめられることに ・・・。

このように、ものごとを解釈しているのが被害者でいたいと思っているエゴであるときには、そこでほんとうに何が起きているのかを正しく識別して、学び、自分を正すということが難しい状況になります。

すっぽり、自分の体験していることは、自分のこころの結果だということを忘れてしまうからです(エゴは怒りという激しい感情を使って、自分の正当性を主張することをやめませんから)。

だから、かんたんに「私はかわいそうな被害者以外のなにもでもありません」という結論におちついてしまいがちです。

けれどもその一方で、エゴとしての自分が、長引く痛みを使って相手を責めて、自分はかわいそうな犠牲者になりさがろうとたくらんでいるのにも静かに気づいている自分もいます。「あ〜、このエゴのたくらみに同意すると、また自分も罪悪感をためこむハメになる・・・」とわかっているのです。

だから、怒りがわいて被害者になりたい願望がわくたびに、すばやく自分のこころを正す必要があるのです(怒りがわくたびに正しましたよ!)。

そのとき、被害者を主張しているエゴとしての自分には正すことができません。

なので、ハイヤーセルフにこころを向けて、こうお願いします。「今、ばりばりのエゴ(被害者)になっているので、ほんとうの自分に戻してください。ものごとを正しく知覚させてください」と。

そうして、「ほんとうのことを見たい」という意志をもつことで、ハイヤーセルフの視点がようやくあらわれます(私たちにできるのはいつも、正しいこころを持ちたい、ハイヤーセルフ助けてください、道を正してください!という謙虚な意志をもつことだけでした)。

すると、「ああ、こんな痛い思いをしてまで、わたしは全力で被害者にとどまりたいのだ」「自分が弱い、小さいと感じておびえている自分を信じているからこそ、誰かを悪者にして責めるストーリーを選んで、自分は正しいのだという主張をしたいのだ」というおもいにいたるのです。

私たちにとって、自分のなかにある「小ささ」「価値がない感覚」、それゆえの「怒り」と「攻撃性」は、ふだんはまったく自覚されないように隠されています(ハイ、これは誰のなかにも等しくあるものです)。

けれども、自分のなかにあるものが外側にうつし出されて、他からの「攻撃」や「痛み」として自覚されているときにこそ、それを手放すことができる絶好のチャンスが与えられている、というわけです。

すべての抑圧されたおもいは、自分の手のひらにのせて、ながめて、自覚されることで、はじめて捨て去ることができます。

自分で気づいていないものをなくすことはできません。必ず手放すまえには、それに「気づく」という作業が必要になるのです。

だから、「痛いおもい」「苦しいおもい」「悲しいおもい」に遭遇したときには、「なんで?!」と動揺するよりも、自分の安らぎをはばんでいた大きな障壁をひとつ手放すことができるチャンスだ! と喜びましょう(それは、ときには目のまえに見せつけられることで苦しい作業と感じられることもありますが、お掃除が進んでいるからこそ「ゴミ」が目につく、ということでもあるのです)。

目のまえのゴミに腹をたてて、それにあたりちらして戦いをいどむよりも、

「ああ、こんなゴミを宝物だと思ってずっとだいじにしていたんだ」「けれども、今の自分にはぜんぜんあっていない」「ゴミを捨てることによって、ほんとうの自分があきらかになる」「だったら、喜んで手放してしまおう!」と気づくことで、「自分」をラクにしてあげることができます。

だから、腹の立つこと、痛みを感じることは、すべて自分のこころのなかの間違い探しに使うことができ、またそれを取り消す機会を与えられているということなのです。

しかし、それはひとりでできることではなく(なぜなら、腹が立ったり、痛みを感じているときひは、すでにほんとうの自分からズレているからです)、ほんとうの自分であるハイヤーセルフにすべてを委ねてお願いするという、まずはその謙虚に「さし出す」意志が大きな変化への第一歩なのですね。 ٩(。θ◡θ。)۶

 

 

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