20-06-05 ぼくを探しに

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

両親を失ってから伯母姉妹のもとで育てられたポールは、話すことができません。そして、笑うことも。

毎日、シューケットを食べつつピアノを弾いては、公園に行ってサンドイッチをかじります。その姿は、まるでもぬけの殻。

伯母姉妹の望みは彼を一流のピアニストにすること。かなりの腕前をもつポールですが、なにかが欠けているようでコンクールは落選つづき。

あることがきっかけとなり、ポールは階下に住むマダム・プルーストの部屋へこっそりと通うようになります。

その目的は、ハーブティー。

マダム・プルーストのハーブティーは、ポールを過去へと、懐かしいママの記憶へと呼び戻す力をもっていたのです。

彼はまずいお茶を無理矢理マドレーヌで流しこみ、ママとの失われた時を求めて旅をはじめます・・・。(→予告を見る)

マダム・プルーストって ・・・ 私の同業者??

マダム・プルーストいわく、「記憶は、魚と同じ」だと。こころを池にたとえて、こんなふうに表現しています。

「池(こころ)の表面には、なにもないように見える。でも、釣り人が魚(記憶)の好きそうなものを投げこむと、釣れるのだ」と。(たしかに、たしかに〜!こころの表面はシ〜〜〜ンとしていても、こころの底では記憶という魚がうじゃうじゃ動きまわっているのですよね〜。そして、悪さをします。)

彼女は「ハーブティーを使ってトランスに導き、音楽というエサで記憶という魚を釣りあげ、過去への癒しをもたらす」という、いわばヒプノセラピスト(?)だったのです。(お〜☆わたしも是非来週からこのセラピースタイルに変更いたしましょう!まずいハーブティーとマドレーヌを用意しなくちゃね!笑)

赤や緑をきかせたヴィヴィッドな映像は、どこかアメリのよう!と思っていたら、同じプロデューサーさんでした。

凝ったお部屋のインテリアや壁紙、小物や不思議なオブジェなど、観ていて楽しいです。登場人物も個性的!

予備知識がなにもなかったので、「いったいこれはどうなる・・・?!」と引きこまれました。

こういう先行き不明な映画、わくわくします。そして、エンディングも好き。また観たくなります♡ (ポールは、笑顔になれたかな〜〜?)

PS. ちなみに、ポールとそのお父さんは同じ役者さん。まったく対極のふたりをみごとに演じています。
そして・・・私たちは自分がしっかりと愛されていたことに、まだ気づききれていないのかもしれません。

 

 

 

お茶の間シネマトーク「ぼくを探しに」

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

両親を失ってから伯母姉妹のもとで育てられたポールは、話すことができません。そして、笑うことも。

毎日、シューケットを食べつつピアノを弾いては、公園に行ってサンドイッチをかじります。その姿は、まるでもぬけの殻。

伯母姉妹の望みは彼を一流のピアニストにすること。かなりの腕前をもつポールですが、なにかが欠けているようでコンクールは落選つづき。

あることがきっかけとなり、ポールは階下に住むマダム・プルーストの部屋へこっそりと通うようになります。

その目的は、ハーブティー。

マダム・プルーストのハーブティーは、ポールを過去へと、懐かしいママの記憶へと呼び戻す力をもっていたのです。

彼はまずいお茶を無理矢理マドレーヌで流しこみ、ママとの失われた時を求めて旅をはじめます・・・。(→予告を見る)

マダム・プルーストって ・・・ 私の同業者??

マダム・プルーストいわく、「記憶は、魚と同じ」だと。こころを池にたとえて、こんなふうに表現しています。

「池(こころ)の表面には、なにもないように見える。でも、釣り人が魚(記憶)の好きそうなものを投げこむと、釣れるのだ」と。(たしかに、たしかに〜!こころの表面はシ〜〜〜ンとしていても、こころの底では記憶という魚がうじゃうじゃ動きまわっているのですよね〜。そして、悪さをします。)

彼女は「ハーブティーを使ってトランスに導き、音楽というエサで記憶という魚を釣りあげ、過去への癒しをもたらす」という、いわばヒプノセラピスト(?)だったのです。(お〜☆わたしも是非来週からこのセラピースタイルに変更いたしましょう!まずいハーブティーとマドレーヌを用意しなくちゃね!笑)

赤や緑をきかせたヴィヴィッドな映像は、どこかアメリのよう!と思っていたら、同じプロデューサーさんでした。

凝ったお部屋のインテリアや壁紙、小物や不思議なオブジェなど、観ていて楽しいです。登場人物も個性的!

予備知識がなにもなかったので、「いったいこれはどうなる・・・?!」と引きこまれました。

こういう先行き不明な映画、わくわくします。そして、エンディングも好き。また観たくなります♡ (ポールは、笑顔になれたかな〜〜?)

PS. ちなみに、ポールとそのお父さんは同じ役者さん。まったく対極のふたりをみごとに演じています。
そして・・・私たちは自分がしっかりと愛されていたことに、まだ気づききれていないのかもしれません。

 

 

 

20-06-04 怒り爆弾を投下しない

 

Q: 自分にとって大切な人であるとわかっていても、どうしても相手を赦せないことがあります。怒りから関係を断ち切ってしまいたくなります。

A: 「怒り」とは、いったいなんでしょうか?

「怒り」が意味しているのは、あなたがしたことによって私をは傷ついた、それによって私は攻撃された、だから「あなたは罰せられるべき悪い人」で「私はよい人だ」ということ。

つまり、怒りは自分を「よい人」だと主張し、相手は「悪人」であるというレッテルをはりつけます。

相手に一方的にはりつけて「悪人(罪人)」のレッテルはほんとうに正しいのでしょうか?

このことの方が、相手への攻撃なのでは?!

自分は「よい人」であると主張する必要があるとしたら、じつは無意識のうちに「私は悪人にちがいない」と自分が信じているのでは?!

「わたしこそが悪人(罪人)」という思いを取り消すために、自分のかわりに誰かが「悪い人」になりかわる必要があると思っているのでは?!

エゴは誰かに間違いを見つけて、そこに怒りという爆弾をおとせば、自分は救われて相手を「悪い人」にすり換えることができると信じています。

つまり、怒りは自分のダメさから救われるための攻撃だ、ということです。

しかし、これがあまりに巧妙に行われているので、自分が怒りを感じているときに気づくことが難しくなっています。まるで怒ることこそが正当であるかのように錯覚してしまいます。

けれど・・・自分を「悪い人」と感じていないかぎり(こころに罪悪感がないかぎり)、怒りという爆弾を使おうとは思わないのです。愛と安らぎに満たされて幸せな自分をイメージしてみましょう。怒りなど感じたいとも思いません。

愛で満たされているときに(罪悪感がないときに)、自分が理解できない状況に遭遇したら、おそらく「これってどういうことかしら?」とそれを理解しようと近づくだけです。

起きていることに対する理解が欠けているだけだとわかっているからです。

でも、怒りという爆弾を投下するとき、そこに理解や近づく気などなく、ただ「失せろ!」と言っているのと同じなのですね。完全に関係を破壊して、消し去ろうとします。(問答無用で!)

なぜなら、自分の隠しもっていた「悪い人」を相手のなかに見て、相手が「悪い人」となったので、さっさと視界から消え去ってもらいたいからです。失せてほしいのです。

でも、たとえ人のなかに自分の隠していたものを見て切り離したとしても、自分のこころのなかにはまだ「私は悪い人だ」という想いはそのまま残っています。これでなくなりはしないのです。

怒りを感じたとき、すこし冷静になる習慣をつけましょう。

「あ、自分は今、相手に攻撃されたと信じて被害者になりたがっている」「自分のなかにイヤな感じが浮上してきているのを相手のせいにして、自分を誤摩化そうとしている」「相手のなかにあるものとして、切り離して終わりにしたいと思っている」、けれども「それをしてしまえば、自分のこころのなかの間違いを温存して自分を不幸にする」と気づいてみましょう。

じつは、その怒りこそ自分を困難から解放するためのサインだと気づくことができます。

なぜなら、自分の苦しみの元凶である「私は悪い」「価値がない」「ダメなんだ」という罪悪感の存在に気づかせてくれたからです。今こそ、それを手放すチャンスなのです。

怒りは、爆弾として相手に投げつけて破壊するのではなく、

ただハイヤーセルフに渡して、光のなかで消し去ってもらいましょう。「このような怒りは私がもちがいものではありません」「ほんとうの私ではありません」と。すると、「価値のない感覚」「ダメだという思い」とともに消してもらえます。

愛以外は必要のない感情で、ただ取り去るためのものです。せっせとハイヤーセルフとともにゴミ焼却場へと運ぶべきものです。

怒りが顔をのぞかせたら、すぐにゴミ出しできるようにならなければなりません。

自分が相手に投下した怒り爆弾は、いつか数倍返しでかならず自分に戻ってきます。そのとき、なぜ自分はこんなにツイていないのか、なぜこんなめにあうのか、どうして幸せになれないのか、といぶかるかもしれません。

そして再び起きていることに怒りを感じて、こころのゴミをためこむ同じパターンをたどるはめになります。

怒り(攻撃)こそが、どれだけ自分にふりかかる困難を多くするかに気づいてさえいたら、誰もがそんなに簡単に相手に対して怒りという爆弾をなげつけることはなくなることでしょう。

怒りと自分の経験する困難との相関関係が明らかでないので、怒っても自分の安全を確保しただけだと勘違いしてしまいます。

そうすることで自分の罪悪感を正当化して温存し、その罪悪感ゆえに自分を痛めつけることになります。

自分が幸せになりたかったら、自分のもの(自分の感情)は自分が責任をもって処理いたしましょう。それは、たんにゴミとして、ハイヤーセルフに手放す習慣をもつだけでよいのです。

怒り爆弾を投下してたったひとりでスッキリ感にひたるよりも、愛のなかで人とつながる安らぎや喜びを感じたいとお願いしてみましょう。

きっと、自分の日常のなかに嬉しいことや喜ばしいこと、愛がふえてゆくのに気づくことでしょう♡♡♡

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

気づきの日記「怒り爆弾を投下しない」

 

Q: 自分にとって大切な人であるとわかっていても、どうしても相手を赦せないことがあります。怒りから関係を断ち切ってしまいたくなります。

A: 「怒り」とは、いったいなんでしょうか?

「怒り」が意味しているのは、あなたがしたことによって私をは傷ついた、それによって私は攻撃された、だから「あなたは罰せられるべき悪い人」で「私はよい人だ」ということ。

つまり、怒りは自分を「よい人」だと主張し、相手は「悪人」であるというレッテルをはりつけます。

相手に一方的にはりつけて「悪人(罪人)」のレッテルはほんとうに正しいのでしょうか?

このことの方が、相手への攻撃なのでは?!

自分は「よい人」であると主張する必要があるとしたら、じつは無意識のうちに「私は悪人にちがいない」と自分が信じているのでは?!

「わたしこそが悪人(罪人)」という思いを取り消すために、自分のかわりに誰かが「悪い人」になりかわる必要があると思っているのでは?!

エゴは誰かに間違いを見つけて、そこに怒りという爆弾をおとせば、自分は救われて相手を「悪い人」にすり換えることができると信じています。

つまり、怒りは自分のダメさから救われるための攻撃だ、ということです。

しかし、これがあまりに巧妙に行われているので、自分が怒りを感じているときに気づくことが難しくなっています。まるで怒ることこそが正当であるかのように錯覚してしまいます。

けれど・・・自分を「悪い人」と感じていないかぎり(こころに罪悪感がないかぎり)、怒りという爆弾を使おうとは思わないのです。愛と安らぎに満たされて幸せな自分をイメージしてみましょう。怒りなど感じたいとも思いません。

愛で満たされているときに(罪悪感がないときに)、自分が理解できない状況に遭遇したら、おそらく「これってどういうことかしら?」とそれを理解しようと近づくだけです。

起きていることに対する理解が欠けているだけだとわかっているからです。

でも、怒りという爆弾を投下するとき、そこに理解や近づく気などなく、ただ「失せろ!」と言っているのと同じなのですね。完全に関係を破壊して、消し去ろうとします。(問答無用で!)

なぜなら、自分の隠しもっていた「悪い人」を相手のなかに見て、相手が「悪い人」となったので、さっさと視界から消え去ってもらいたいからです。失せてほしいのです。

でも、たとえ人のなかに自分の隠していたものを見て切り離したとしても、自分のこころのなかにはまだ「私は悪い人だ」という想いはそのまま残っています。これでなくなりはしないのです。

怒りを感じたとき、すこし冷静になる習慣をつけましょう。

「あ、自分は今、相手に攻撃されたと信じて被害者になりたがっている」「自分のなかにイヤな感じが浮上してきているのを相手のせいにして、自分を誤摩化そうとしている」「相手のなかにあるものとして、切り離して終わりにしたいと思っている」、けれども「それをしてしまえば、自分のこころのなかの間違いを温存して自分を不幸にする」と気づいてみましょう。

じつは、その怒りこそ自分を困難から解放するためのサインだと気づくことができます。

なぜなら、自分の苦しみの元凶である「私は悪い」「価値がない」「ダメなんだ」という罪悪感の存在に気づかせてくれたからです。今こそ、それを手放すチャンスなのです。

怒りは、爆弾として相手に投げつけて破壊するのではなく、

ただハイヤーセルフに渡して、光のなかで消し去ってもらいましょう。「このような怒りは私がもちがいものではありません」「ほんとうの私ではありません」と。すると、「価値のない感覚」「ダメだという思い」とともに消してもらえます。

愛以外は必要のない感情で、ただ取り去るためのものです。せっせとハイヤーセルフとともにゴミ焼却場へと運ぶべきものです。

怒りが顔をのぞかせたら、すぐにゴミ出しできるようにならなければなりません。

自分が相手に投下した怒り爆弾は、いつか数倍返しでかならず自分に戻ってきます。そのとき、なぜ自分はこんなにツイていないのか、なぜこんなめにあうのか、どうして幸せになれないのか、といぶかるかもしれません。

そして再び起きていることに怒りを感じて、こころのゴミをためこむ同じパターンをたどるはめになります。

怒り(攻撃)こそが、どれだけ自分にふりかかる困難を多くするかに気づいてさえいたら、誰もがそんなに簡単に相手に対して怒りという爆弾をなげつけることはなくなることでしょう。

怒りと自分の経験する困難との相関関係が明らかでないので、怒っても自分の安全を確保しただけだと勘違いしてしまいます。

そうすることで自分の罪悪感を正当化して温存し、その罪悪感ゆえに自分を痛めつけることになります。

自分が幸せになりたかったら、自分のもの(自分の感情)は自分が責任をもって処理いたしましょう。それは、たんにゴミとして、ハイヤーセルフに手放す習慣をもつだけでよいのです。

怒り爆弾を投下してたったひとりでスッキリ感にひたるよりも、愛のなかで人とつながる安らぎや喜びを感じたいとお願いしてみましょう。

きっと、自分の日常のなかに嬉しいことや喜ばしいこと、愛がふえてゆくのに気づくことでしょう♡♡♡

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

【お知らせ】6月1日より対面セッションを再開いたします

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

東京都の休業要請 ステップ2の解除にともない、明日6月1日より通常の対面セッションを再開させていただきます。

以下の感染防止対策を行いながら、安心してお受けになれるセッションをこころがけてまいります。どうぞよろしくお願い致します。

〜対面セッションにおける「感染防止対策」〜

*1セッション終了ごとに、徹底した換気と除菌を行います。(ドアノブ、スリッパ、椅子、備品、洗面所等の除菌)
*セッション時は、マスクを着用させていただきます。(ヒプノセラピーは距離が近いため、フェイスガードを併用いたします。)
*殺菌空気清浄器を設置しています。

他にお気づきの点がございましたら、お知らせください。

 

 

20-05-30 ラブリー・ボーン

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

「こちらの世界」と「あちらの世界」のお話です。

愛情いっぱいの両親に見守られながら育ったスージーは14歳。ひそかに想いをよせる男の子から誘われて、嬉しさで胸がいっぱいです。

しかしその帰り道、スージーは卑劣な男の手にかかり殺されてしまいます。

両親は突如消えてしまった娘について手がかりがつかめず、深い悲しみに沈みます。やがて、こころのバランスを崩してゆきます。

一方、突然殺されてしまったスージーは状況を受けとめられず、こころは必死で家へと向かいます。しかし、スージーの目にする世界は彼女の怯えたこころを映しだすばかりで、もうもとの世界に自分はいないのだと気づきはじめます・・・。(→予告を見る)

両親もスージーも被害者なのですが、悲しみのなかで憎しみをつのらせるうちに、いつしか最も嫌悪する加害者と同じようになってゆきます。「あいつをたたき殺したい!」と。まるでゾンビに襲われて、自分もゾンビ化してゆくようです。

怒りに燃えた父親が最悪の行動に出そうになったとき、あちら側にいるスージーの必死の想いが彼を救います。

私たちは「すべては完璧でこれがベスト」という言葉は知ってはいても、実際起こったものごとを見るとベストだとは思えないという体験しますが、この場面を観て「ああ、愛に守られて最悪の事態は避けられたからこそ、この出来事でよいのだ」と納得することができました。

結局、残された家族もスージーも、過去から解き放たれなければ一歩もまえに進むことなどできず、ずっと同じ場所で同じ想いを反芻することになってしまいます。

でも、いのちは時空をこえて決して消えることがなく、「愛」はこの世とあの世の隔たりを越えて癒しをもたらします。

ちょっと不思議なファンタジーでもあり、またサスペンスのようにドッキドキです。

光にあふれるあちらの世界を描きだしているのは、「ロード オブ ザ リング」の監督さん。

スージーを演じているのは、アカデミー賞ノミネート作「レディ・バード」のヒロイン、シアーシャー=ローナンだったのですね。あまりにキャラクターや体型が違っていて、観終わるまで気づきませんでした。スージーは可憐ですが、「レディ・バード」の彼女はたくましいです。

スージーのおばあちゃん役にはスーザン・サランドン。お年を重ねても存在感に変わりはありません。エッジのきいたおばあちゃん役は、まえだけを向いてみんなをグイグイ引っぱってゆきます。

たとえ向こうに行ってしまったとしても、それは終わりではなく、ただストーリーや登場人物、背景が変わるだけで、いのちやつながり、愛は決して途絶えることなどないのですね。

想いは、どこにいようとも、どんな瞬間にもつながっていてコミュニケーションしている、と強く感じる作品でした。

 

 

 

お茶の間シネマトーク「ラブリー・ボーン」

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

「こちらの世界」と「あちらの世界」のお話です。

愛情いっぱいの両親に見守られながら育ったスージーは14歳。ひそかに想いをよせる男の子から誘われて、嬉しさで胸がいっぱいです。

しかしその帰り道、スージーは卑劣な男の手にかかり殺されてしまいます。

両親は突如消えてしまった娘について手がかりがつかめず、深い悲しみに沈みます。やがて、こころのバランスを崩してゆきます。

一方、突然殺されてしまったスージーは状況を受けとめられず、こころは必死で家へと向かいます。しかし、スージーの目にする世界は彼女の怯えたこころを映しだすばかりで、もうもとの世界に自分はいないのだと気づきはじめます・・・。(→予告を見る)

両親もスージーも被害者なのですが、悲しみのなかで憎しみをつのらせるうちに、いつしか最も嫌悪する加害者と同じようになってゆきます。「あいつをたたき殺したい!」と。まるでゾンビに襲われて、自分もゾンビ化してゆくようです。

怒りに燃えた父親が最悪の行動に出そうになったとき、あちら側にいるスージーの必死の想いが彼を救います。

私たちは「すべては完璧でこれがベスト」という言葉は知ってはいても、実際起こったものごとを見るとベストだとは思えないという体験しますが、この場面を観て「ああ、愛に守られて最悪の事態は避けられたからこそ、この出来事でよいのだ」と納得することができました。

結局、残された家族もスージーも、過去から解き放たれなければ一歩もまえに進むことなどできず、ずっと同じ場所で同じ想いを反芻することになってしまいます。

でも、いのちは時空をこえて決して消えることがなく、「愛」はこの世とあの世の隔たりを越えて癒しをもたらします。

ちょっと不思議なファンタジーでもあり、またサスペンスのようにドッキドキです。

光にあふれるあちらの世界を描きだしているのは、「ロード オブ ザ リング」の監督さん。

スージーを演じているのは、アカデミー賞ノミネート作「レディ・バード」のヒロイン、シアーシャー=ローナンだったのですね。あまりにキャラクターや体型が違っていて、観終わるまで気づきませんでした。スージーは可憐ですが、「レディ・バード」の彼女はたくましいです。

スージーのおばあちゃん役にはスーザン・サランドン。お年を重ねても存在感に変わりはありません。エッジのきいたおばあちゃん役は、まえだけを向いてみんなをグイグイ引っぱってゆきます。

たとえ向こうに行ってしまったとしても、それは終わりではなく、ただストーリーや登場人物、背景が変わるだけで、いのちやつながり、愛は決して途絶えることなどないのですね。

想いは、どこにいようとも、どんな瞬間にもつながっていてコミュニケーションしている、と強く感じる作品でした。

 

 

 

 

きょうはコンビニスウィーツで♡

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

きょうは、私にとってはスウィーツをいくつ食べてもゆるされる日。

・・・ですが、あいにくお気にいりのスウィーツショップはいまだ休業中。

そこで、近頃人気のコンビニスウィーツで♡

あら ・・・ きょうはたったひとつ、この子しかいませんでした。Kiri のミルクレープ(チーズ好きの私はまったく異論はございませんが・・・)。

イチゴののったケーキは明日までおあずけ! ということで、明日もいただく口実ができました♡(笑)

この一年は、私たちの自然な状態である「安らぎ」「喜び」「愛」のなかで毎日を過ごせたらいいな〜と思っています (◍•ᴗ•◍) 

 

 

 

20-05-27 つい相手の態度に反応してしまいます

 

昨日、別々の方から耳にした同じようなひとこと。それは・・・
「パートナーの様子が変で、私のせいかしら?私が煩わしいのかしら? と一瞬考えてしまいました」
「自分に対する家族の態度がひどく、自分には価値がないのではないか? と孤独な気持ちになってしまいました」

どちらも相手の態度によって、自分はダメなんだ!と感じてしまったということなのです。たしかに、むかし私も相手の態度に反応していた自分がいたのを思い出しました。

相手が冷たかったり、予想外の反応をしたりすると、わたしたちはついつい自分が攻撃されていると感じてしまいます。すると ・・・結局は、自分を守るために同じような攻撃的な態度をとることに。

「自分が攻撃されている」というのは、正しいのでしょうか?

ものごとの見え方というのは、自分の立場による自分の価値観そのものです。そして、「自分の考え」についての反応をとることになります。

ということは、「煩わしく思われている」「価値がないからひどく扱われている」というのは、「自分自身」の考えであって、自分が自分に対してそう思っているということなのです。決して「相手」の考えではないのです。自分こそがそう判断したのですから。

そして、私たちは「自分」の考えに巻きこまれ、その考えのとおりに「煩わしい存在として」「価値のない存在として」反応してしまいます。まさに、自分の考えをあらためて承認したことになります。

これって、自分で自分を傷つけてる・・・?!(汗・私もむかし思いっきりやっていましたよ〜!)

人が機嫌が悪かったり、攻撃的だったり、いつもと違うのは、「私のせい」というよりは、その人が自分自身のなかで混乱をきたしているにすぎません。その人も同様に「自分」の考えにとらわれていて、こころが誤作動を起こし、そのモヤモヤが表現されて、そのような態度になっていたのです。

でも、私たちはそれを「自分への攻撃」として受けとります。

すみやかに「被害者」の立場をとろうとするのです。「被害者」! それこそが、じつは問題なのです。

「被害者」になろうとしなければ、「あら?いつもと様子が違うわね。なにかイヤなことがあったのかしら?」と感じるかもしれないし、「なにかが思うようにいかなくて、自分を責める気持ちをどこにもっていっていいのかわからないのね!」と理解の気持ちをもてるかもしれません。

しかし、自分で自分のことを「どうせ私なんて!」と感じているときは、自分のことしか考えられなくなっています。どのようなネガティブな態度も自分に向けられた攻撃であり、自分の無価値さを示されているのだと感じてしまうのです。

それは、自分だけを見て、自分のことでアタマがいっぱいになってしまっている状態です。(こうなると、目に映るものなんでも、「私への嫌がらせね!」「私を攻撃しているのね!」と間違った解釈をするようになってしまいます。)

つまるところ、人間関係は「自分がどのような存在であるか」ということをあちこちに見ているにすぎません。人間関係は、「自分の考え」との関係なのです。

相手の態度に対する反応が「被害者」のパターン(どうせ私なんて!というイジケモード)に入ってしまいそうになるときは、ハイヤーセルフにお願いして、正気である愛に戻してもらいましょう。

「今、この状況を正しく見ることができないでいます」「私の真のアイデンティティは愛です。どうか、その愛のなかで正しく見られるようにしてください」と本来の自分に戻してもらいましょう。

私たちはなぜか、「傷ついているのは自分だけである」という思いこみがあって、まわりの人も自分と同様にさまざまな痛みがあることを忘れがちです。

とくに相手が男性だったり、あるいはいつも明るく強い人だったりするとき、「この人は傷つかないにきまってる。傷つくのは私だけだ!」と信じているところがあります。

でも、性別に関係なく、見えている性格にかかわりなく、みんなこころの中に痛みを抱えています。

誰もがまったく「自分と同じ」で、相手だって被害者になるし、自分には価値がないと感じることもあるし、孤独にさいなまれるし、混乱をきたしてまわりにまき散らすこともあるのです。「私」だけでなく、みんな同じなのですね。

だから、相手の態度がおかしいときには、自分の「被害者意識」はいったん脇において、「きっと私と同じに感じているに違いない」と理解しようとする気持ちをもってみましょう。

あとはハイヤーセルフにお願いして、愛を道しるべに導いてもらいましょう。

自分自身を癒して幸せになりたいと思っているとき、じつは相手の気持ちが理解できるようになることがとても大切です。

相手の気持ちがわかるようになると、自分が隠して気づかないようにしていた弱さを受け入れることできるようになり、はじめてその痛みを手放すことができるからです。

相手の痛みへの理解とは、じつは自分のこころのなかで隠されてしまっていた痛みを癒すことにつながるのですね。

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

 

気づきの日記「つい相手の態度に反応してしまいます」

 

昨日、別々の方から耳にした同じようなひとこと。それは・・・
「パートナーの様子が変で、私のせいかしら?私が煩わしいのかしら? と一瞬考えてしまいました」
「自分に対する家族の態度がひどく、自分には価値がないのではないか? と孤独な気持ちになってしまいました」

どちらも相手の態度によって、自分はダメなんだ!と感じてしまったということなのです。たしかに、むかし私も相手の態度に反応していた自分がいたのを思い出しました。

相手が冷たかったり、予想外の反応をしたりすると、わたしたちはついつい自分が攻撃されていると感じてしまいます。すると ・・・結局は、自分を守るために同じような攻撃的な態度をとることに。

「自分が攻撃されている」というのは、正しいのでしょうか?

ものごとの見え方というのは、自分の立場による自分の価値観そのものです。そして、「自分の考え」についての反応をとることになります。

ということは、「煩わしく思われている」「価値がないからひどく扱われている」というのは、「自分自身」の考えであって、自分が自分に対してそう思っているということなのです。決して「相手」の考えではないのです。自分こそがそう判断したのですから。

そして、私たちは「自分」の考えに巻きこまれ、その考えのとおりに「煩わしい存在として」「価値のない存在として」反応してしまいます。まさに、自分の考えをあらためて承認したことになります。

これって、自分で自分を傷つけてる・・・?!(汗・私もむかし思いっきりやっていましたよ〜!)

人が機嫌が悪かったり、攻撃的だったり、いつもと違うのは、「私のせい」というよりは、その人が自分自身のなかで混乱をきたしているにすぎません。その人も同様に「自分」の考えにとらわれていて、こころが誤作動を起こし、そのモヤモヤが表現されて、そのような態度になっていたのです。

でも、私たちはそれを「自分への攻撃」として受けとります。

すみやかに「被害者」の立場をとろうとするのです。「被害者」! それこそが、じつは問題なのです。

「被害者」になろうとしなければ、「あら?いつもと様子が違うわね。なにかイヤなことがあったのかしら?」と感じるかもしれないし、「なにかが思うようにいかなくて、自分を責める気持ちをどこにもっていっていいのかわからないのね!」と理解の気持ちをもてるかもしれません。

しかし、自分で自分のことを「どうせ私なんて!」と感じているときは、自分のことしか考えられなくなっています。どのようなネガティブな態度も自分に向けられた攻撃であり、自分の無価値さを示されているのだと感じてしまうのです。

それは、自分だけを見て、自分のことでアタマがいっぱいになってしまっている状態です。(こうなると、目に映るものなんでも、「私への嫌がらせね!」「私を攻撃しているのね!」と間違った解釈をするようになってしまいます。)

つまるところ、人間関係は「自分がどのような存在であるか」ということをあちこちに見ているにすぎません。人間関係は、「自分の考え」との関係なのです。

相手の態度に対する反応が「被害者」のパターン(どうせ私なんて!というイジケモード)に入ってしまいそうになるときは、ハイヤーセルフにお願いして、正気である愛に戻してもらいましょう。

「今、この状況を正しく見ることができないでいます」「私の真のアイデンティティは愛です。どうか、その愛のなかで正しく見られるようにしてください」と本来の自分に戻してもらいましょう。

私たちはなぜか、「傷ついているのは自分だけである」という思いこみがあって、まわりの人も自分と同様にさまざまな痛みがあることを忘れがちです。

とくに相手が男性だったり、あるいはいつも明るく強い人だったりするとき、「この人は傷つかないにきまってる。傷つくのは私だけだ!」と信じているところがあります。

でも、性別に関係なく、見えている性格にかかわりなく、みんなこころの中に痛みを抱えています。

誰もがまったく「自分と同じ」で、相手だって被害者になるし、自分には価値がないと感じることもあるし、孤独にさいなまれるし、混乱をきたしてまわりにまき散らすこともあるのです。「私」だけでなく、みんな同じなのですね。

だから、相手の態度がおかしいときには、自分の「被害者意識」はいったん脇において、「きっと私と同じに感じているに違いない」と理解しようとする気持ちをもってみましょう。

あとはハイヤーセルフにお願いして、愛を道しるべに導いてもらいましょう。

自分自身を癒して幸せになりたいと思っているとき、じつは相手の気持ちが理解できるようになることがとても大切です。

相手の気持ちがわかるようになると、自分が隠して気づかないようにしていた弱さを受け入れることできるようになり、はじめてその痛みを手放すことができるからです。

相手の痛みへの理解とは、じつは自分のこころのなかで隠されてしまっていた痛みを癒すことにつながるのですね。

 

 

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