20-09-24 ハロルドとモード

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

「歳を重ねたら、これをやりたいと思っていたの!」と黒柳徹子さん。それは、今演じていらっしゃる「ハロルドとモード」という舞台のお話。

「ハロルドとモード」?? あ〜、むかし、この映画を観たのを思い出しました。

裕福な家庭で何の不自由もなく育ったハロルドは19歳。かなりの無気力青年です。

唯一情熱を傾けられるのは、自身の自殺劇。自分の自殺を演じることについては、あの手この手が尽きません。母親が連れてくるお見合い相手のまえでもそれは繰りかえされ・・・。

そんなハロルドが出会ったのが79歳のモードという女性。世間から見たら、「変わりもの」のレッテルを貼られそうなキテレツおばあちゃんなのですが、二人はあっというまに意気投合します。

どんな常識も通用しないモードの生き方に触れて、ハロルドのこころが解放されはじめます。

そして、ハロルドはついに思うのです。「モードを愛してる! 自分が結婚したいのはこの女性だ!」と・・・。(→予告を見る)

今回この映画を見直してみたのは、この二人はいったいどうなったんだっけ? という疑問から。

なるほどね〜・・・。何にもとらわれることがないモードならではです。

観ながら、「もし、私だったらどんな結末にしたかしらん?」とパラレルワールド的な別のエンディングをイメージしてみました。あれもありだよね!これもありだよね! と、楽しい妄想がふくらみました。

はじめは「老女」感バリバリのモードなのですが、ハロルドがこころを打ち明けたあたりから、「あらっっ!!モードったら、すんごく女子だわ! かわいいっ!」とびっくり。

ほっぺはピンクで、お肌はつやつや、表情もどこか初々しく、ハロルドを見つめる瞳も輝いているのです。そして、棒っきれのように頼りなげだったハロルドも、どこか紳士的な雰囲気に!

この映画は1971年の作品なので、今だったらそこまでビックリしない話であっても、その頃はもっと抵抗感があったのかもしれません。

でも、「世の考え」を抜きにすれば、人と人の出会いなんて、いちいち年齢なんて気にしていないように思います。まわりに言われてはじめて、「私っておかしい?」と自分を疑ったり、あるいは先に「歳が違うから」と自分からブレーキをふんでこころを閉ざしてしまうのかもしれません。

人との出会いは、こころとこころの出会いですものね。こころである自分のまわりに余計な信念や考え、ルールがくっついていなければ、誰とでも純粋に出会えて、大切にしあえるのだと感じます。

そんなモード、黒柳さんにぴったりの役ですね〜。

 

 

 

お茶の間シネマトーク「ハロルドとモード」

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

「歳を重ねたら、これをやりたいと思っていたの!」と黒柳徹子さん。それは、今演じていらっしゃる「ハロルドとモード」という舞台のお話。

「ハロルドとモード」?? あ〜、むかし、この映画を観たのを思い出しました。

裕福な家庭で何の不自由もなく育ったハロルドは19歳。かなりの無気力青年です。

唯一情熱を傾けられるのは、自身の自殺劇。自分の自殺を演じることについては、あの手この手が尽きません。母親が連れてくるお見合い相手のまえでもそれは繰りかえされ・・・。

そんなハロルドが出会ったのが79歳のモードという女性。世間から見たら、「変わりもの」のレッテルを貼られそうなキテレツおばあちゃんなのですが、二人はあっというまに意気投合します。

どんな常識も通用しないモードの生き方に触れて、ハロルドのこころが解放されはじめます。

そして、ハロルドはついに思うのです。「モードを愛してる! 自分が結婚したいのはこの女性だ!」と・・・。(→予告を見る)

今回この映画を見直してみたのは、この二人はいったいどうなったんだっけ? という疑問から。

なるほどね〜・・・。何にもとらわれることがないモードならではです。

観ながら、「もし、私だったらどんな結末にしたかしらん?」とパラレルワールド的な別のエンディングをイメージしてみました。あれもありだよね!これもありだよね! と、楽しい妄想がふくらみました。

はじめは「老女」感バリバリのモードなのですが、ハロルドがこころを打ち明けたあたりから、「あらっっ!!モードったら、すんごく女子だわ! かわいいっ!」とびっくり。

ほっぺはピンクで、お肌はつやつや、表情もどこか初々しく、ハロルドを見つめる瞳も輝いているのです。そして、棒っきれのように頼りなげだったハロルドも、どこか紳士的な雰囲気に!

この映画は1971年の作品なので、今だったらそこまでビックリしない話であっても、その頃はもっと抵抗感があったのかもしれません。

でも、「世の考え」を抜きにすれば、人と人の出会いなんて、いちいち年齢なんて気にしていないように思います。まわりに言われてはじめて、「私っておかしい?」と自分を疑ったり、あるいは先に「歳が違うから」と自分からブレーキをふんでこころを閉ざしてしまうのかもしれません。

人との出会いは、こころとこころの出会いですものね。こころである自分のまわりに余計な信念や考え、ルールがくっついていなければ、誰とでも純粋に出会えて、大切にしあえるのだと感じます。

そんなモード、黒柳さんにぴったりの役ですね〜。

 

 

 

20-09-21 ただゆったりと眺めてみる

 

私たちは自分の目にしている世界に対して、全力でかかわるように教えられてきました。

少しでも傍観者になろうものなら、「ボーっとしてる」「無関心」「やる気がない」と負のレッテルを貼られ、学校の通知表にまで書きこまれたかもしれません。

どうやらこの世界では、ものごとにアタマからつっこんでゆくことこそが、まっとうでポジティブな生き方とされているようです。

だから、すべてのことに対して意見をもっていなくてはなりません。

あなたはどう思いますか?と問われたら、すぐさま意見が言えないと「何も考えていないひと」「鈍いひと」「自分がないひと」というレッテルをはられかねません。

「別に・・・」「どうでもいいです」なんて言おうものなら、ウツ状態を疑われ精神科に連れて行かれることも・・・。

その結果、こころは逐一あれやこれやを観察し、考えつづけ、意見をのべ、アタマがいいように見せかけることに余念がありません。

けれど・・・ 考えが静かにならなければ、自分自身が失われたままになってしまいます。

なぜなら、自分とはあれこれ繰り出される考えなどではないからです。

まだ小さかった頃、もしかするとベビーカーにのせられていた頃、すべてを静かに眺めている自分がいたのを覚えているかもしれません。

「自分」とすら思っていなかった「気づき」だけの存在が、静かに世界を見ていたことを。

見えているものと、自分との違いにさえ気づいていない存在でした。

その頃はまだ、世界というものに巻きこまれていなかったのです。だから、静かでした。平和でした。意見などなく、ただ存在して、見ていました。

いまいちど、自分の見ている世界からズズっと後ろに下がったような感覚で、起こっていることからうしろへと退いてみましょう。

その手を、世界から放してみましょう。

それは、世界に対して自分からアタマをつっこみに行かないこと。

なぜなら、起こることは勝手に起こるし、そこで必要なことは全部なされるし、そしてそれは終わりを迎えます。自分のエゴや策略が、そこに参加しようとしなくとも。

そこにわざわざ、「あ〜だ、こ〜だ」のジャッジメントや、心配、不安、動揺を加えてあげる必要はないのです。

そんな調味料などなくっても、それはちゃんと整っているのです。

「あ〜だ、こ〜だ」や動揺は吸着力があり、世界の渦のなかへと自分を引きこみます。

アタマをつっこむことで、まるで脱水機のなかに自分が飛びこんだみたいになってしまいます(つまり、ホンロウされて、なにがなんだかわからない状態になり、疲弊します)。

そして、そこにある問題と完全に自分を一体化させてしまうことによって、その問題を解決できるはずだったひとがいなくなってしまうのです。

川の流れにホンロウされている小石をイメージしてみましょう。

流れのなかでぐるんぐるんもみくちゃにされて、その状態では自分が完全に失われてしまうのです。

私たちも、世のなかという流れに巻きこまれるのではなく、静かに後ろにさがってただ眺めてみることができます。

眺めつづけているうちに、もしかするともうすでに見たことのある昔のフィルムでも観ているような気分になるかもしれません。

観たことのある話はそうそう興味をひかないので、そのままほっておくうちに勝手に終わります。

ところが、「つまらない!」だの、「もっとどうにかしろ!」だの、あれこれ言ってしまうと、あっというまにウズに巻きこまれます。

自分がそこにホンロウされているちっぽけな存在に感じられるに違いありません。

それよりも、その流れの外へと出てしまいましょう。

川の外から流れを眺める、どっしりとした石になりましょう。

その石は川の流れのことなんか気にとめていないかもしれません。川は目のまえを勝手に流れていて、自分には何の影響も与えないから。

そして、石はそこには手を触れない存在だからこそ、すべてはそのままでいいことを、完全に流れてゆくことを知っているのかもしれません。

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

気づきの日記「ただゆったりと眺めてみる」

 

私たちは自分の目にしている世界に対して、全力でかかわるように教えられてきました。

少しでも傍観者になろうものなら、「ボーっとしてる」「無関心」「やる気がない」と負のレッテルを貼られ、学校の通知表にまで書きこまれたかもしれません。

どうやらこの世界では、ものごとにアタマからつっこんでゆくことこそが、まっとうでポジティブな生き方とされているようです。

だから、すべてのことに対して意見をもっていなくてはなりません。

あなたはどう思いますか?と問われたら、すぐさま意見が言えないと「何も考えていないひと」「鈍いひと」「自分がないひと」というレッテルをはられかねません。

「別に・・・」「どうでもいいです」なんて言おうものなら、ウツ状態を疑われ精神科に連れて行かれることも・・・。

その結果、こころは逐一あれやこれやを観察し、考えつづけ、意見をのべ、アタマがいいように見せかけることに余念がありません。

けれど・・・ 考えが静かにならなければ、自分自身が失われたままになってしまいます。

なぜなら、自分とはあれこれ繰り出される考えなどではないからです。

まだ小さかった頃、もしかするとベビーカーにのせられていた頃、すべてを静かに眺めている自分がいたのを覚えているかもしれません。

「自分」とすら思っていなかった「気づき」だけの存在が、静かに世界を見ていたことを。

見えているものと、自分との違いにさえ気づいていない存在でした。

その頃はまだ、世界というものに巻きこまれていなかったのです。だから、静かでした。平和でした。意見などなく、ただ存在して、見ていました。

いまいちど、自分の見ている世界からズズっと後ろに下がったような感覚で、起こっていることからうしろへと退いてみましょう。

その手を、世界から放してみましょう。

それは、世界に対して自分からアタマをつっこみに行かないこと。

なぜなら、起こることは勝手に起こるし、そこで必要なことは全部なされるし、そしてそれは終わりを迎えます。自分のエゴや策略が、そこに参加しようとしなくとも。

そこにわざわざ、「あ〜だ、こ〜だ」のジャッジメントや、心配、不安、動揺を加えてあげる必要はないのです。

そんな調味料などなくっても、それはちゃんと整っているのです。

「あ〜だ、こ〜だ」や動揺は吸着力があり、世界の渦のなかへと自分を引きこみます。

アタマをつっこむことで、まるで脱水機のなかに自分が飛びこんだみたいになってしまいます(つまり、ホンロウされて、なにがなんだかわからない状態になり、疲弊します)。

そして、そこにある問題と完全に自分を一体化させてしまうことによって、その問題を解決できるはずだったひとがいなくなってしまうのです。

川の流れにホンロウされている小石をイメージしてみましょう。

流れのなかでぐるんぐるんもみくちゃにされて、その状態では自分が完全に失われてしまうのです。

私たちも、世のなかという流れに巻きこまれるのではなく、静かに後ろにさがってただ眺めてみることができます。

眺めつづけているうちに、もしかするともうすでに見たことのある昔のフィルムでも観ているような気分になるかもしれません。

観たことのある話はそうそう興味をひかないので、そのままほっておくうちに勝手に終わります。

ところが、「つまらない!」だの、「もっとどうにかしろ!」だの、あれこれ言ってしまうと、あっというまにウズに巻きこまれます。

自分がそこにホンロウされているちっぽけな存在に感じられるに違いありません。

それよりも、その流れの外へと出てしまいましょう。

川の外から流れを眺める、どっしりとした石になりましょう。

その石は川の流れのことなんか気にとめていないかもしれません。川は目のまえを勝手に流れていて、自分には何の影響も与えないから。

そして、石はそこには手を触れない存在だからこそ、すべてはそのままでいいことを、完全に流れてゆくことを知っているのかもしれません。

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

面がわれてます!(汗)

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

「貴ちゃんに似た人がテレビに映ってたけど、本人?」と尋ねられ、「あらそう?! 知らないあいだに、私のクローンがなにかしていたかしら?」と笑っておりましたが、

外出した先でNHKに突如インタビューされ、どうやらそのひとこまが放送されていたようで(私は見ていないのですが)・・・見つけてしまった何人かの方々からメッセージがとどきました。

お友だちからは、「貴ちゃんに似た人が出ていたけど、そう?」と。

クライエントさんからは、「貴子先生、出てましたね!」と。

マスクで顔半分が隠れているにもかかわらず、やっぱり面はわれているのね〜〜〜(汗)。

おもしろいな〜と思ったのは、

お友だちはいつも私の顔を見ているのに「似てる人」と表現していたこと。

一方、クライエントさんは数回しかお会いしていないのに、「貴子先生を見ました!」とスッパリと断定的で疑問のかけらもないこと。

短い画像とはいえ、お友だちこそ私を認識してもよさそうなものなのに、確信がなさげなのはいったいどうしたことか?!

おそらく・・・

クライエントさんはヒプノセラピーなどのセッションで、目を閉じたまま私の声にずっと意識を向けた状態でいるので、顔かたち云々にまどわされず私の声のみにスッと反応したようなのです。

どう見えるかとか、マスクをしているかなど、まったく関係ないのでした。

お友だちの場合は、顔半分だったり、髪型がちょっと違っていたり、こんなところで登場するだろうか?とかいろいろな考えが入るのでしょうね(笑)。

このお友だちからの「問いかけ」の反応と、クライエントさんからの「断定的反応」があまりにもぱっくりと二分されていたので、とても興味深く感じたのでした。

思っている以上に、「声」というものはわたしを語っているようです。

 

 

 

20-09-14 ムッソリーニとお茶を

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

予備知識なく、行きあたりばったりに観たのですが、

ジュディ・デンチやら、マギー・スミス、シェールという、私の好きな女優さんたちの宝庫で、ちょっぴりコメディタッチなこころが優しくなるいい作品でした。

舞台は、花の都 フィレンツェ、今よりもずっと、街じゅうに芸術があふれ、それを楽しむ人たちが集っている時代です。

そこに暮らすイギリス上流階級のおばあちゃまがたと孤独な少年との絆に涙がうるうるします。やがて、イタリアとイギリスとのあいだに戦争がはじまり、おばあちゃまがたの身に危険がせまります・・・

あとで調べてみたら、監督さんは誰もが観たことのある「ロミオとジュリエット(オリビアさんバージョン)」、「ブラザー・サン シスター・ムーン」、「エンドレス ラブ」、「チャンプ」、「トラヴィアータ」などの名作を世に送り出したフランコ・ゼフィレッリ。

じつはこれは彼の自伝的な物語で、さまざまな彼の作品のバックグラウンドとなった生い立ちを知ることができます。

街じたいが美術館といわれるフィレンツェの美しさにいだかれながら、毎日お茶や芸術をたしなむちょっと辛辣でおちゃめな英国のおばあちゃまがたの愛に包まれ、ゼフィレッリ監督の感性は豊かに育まれていったのでしょう。

母を亡くし、父に育児放棄された少年ルカ(監督自身です)。彼がフィレンツェで暮らす英国上流マダムたちによるあたたかな庇護のもと、大人になってゆく様子が描かれています。

この英国のマダムたちは、ムッソリーニ政権が樹立されるや、イタリアにおいては敵性外国人とみなされ勾留されてしまいます。しかし、優雅に暮らす権利を奪われつつも、英国上流マダムとしてのプライドは決して手放すことはないのです。

勾留先でのこと。夜になって見張りのイタリア人が点呼にやってくると、下着姿だったマダムたちは「きゃあ!」といっせいに叫び声をあげます。彼らの態度を無礼だと感じたマダムは、「ちゃんとノックして カム イン と言われたら入りなさい! 」とか、「下がるときには、グッナイ レディース と挨拶しなさい!」と教育までしちゃうのです(完全に召使い扱い)。彼らがマダムにちゃんと従っているのに笑ってしまいました。おばあちゃま、強し!

そんな不自由な状況におかれつつも、フィレンツェを愛し、優雅なティータイムやおしゃれをあきらめず、どんな状況下でも英国マダムのプライドを失うことなく、力強く、ときには向こうみずで、なんともチャーミングなおばあちゃまがたなのでした。

それぞれが寛容な気持ちと思いやりをもって、つながりあい、助け合い、どんな境遇でも冷静に、悲観的にならず、みんなで乗り切ってゆく様子は、まさに女性ならではだな〜と感じます。柔軟さや楽しんじゃう様子がとてもステキでした♡

こころがあたたかくなり、じんわり涙のでる作品でした。
(→予告を見る)

 

 

 

お茶の間シネマトーク「ムッソリーニとお茶を」

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

予備知識なく、行きあたりばったりに観たのですが、

ジュディ・デンチやら、マギー・スミス、シェールという、私の好きな女優さんたちの宝庫で、ちょっぴりコメディタッチなこころが優しくなるいい作品でした。

舞台は、花の都 フィレンツェ、今よりもずっと、街じゅうに芸術があふれ、それを楽しむ人たちが集っている時代です。

そこに暮らすイギリス上流階級のおばあちゃまがたと孤独な少年との絆に涙がうるうるします。やがて、イタリアとイギリスとのあいだに戦争がはじまり、おばあちゃまがたの身に危険がせまります・・・

あとで調べてみたら、監督さんは誰もが観たことのある「ロミオとジュリエット(オリビアさんバージョン)」、「ブラザー・サン  シスター・ムーン」、「エンドレス ラブ」、「チャンプ」、「トラヴィアータ」などの名作を世に送り出したフランコ・ゼフィレッリ。

じつはこれは彼の自伝的な物語で、さまざまな彼の作品のバックグラウンドとなった生い立ちを知ることができます。

街じたいが美術館といわれるフィレンツェの美しさにいだかれながら、毎日お茶や芸術をたしなむちょっと辛辣でおちゃめな英国のおばあちゃまがたの愛に包まれ、ゼフィレッリ監督の感性は豊かに育まれていったのでしょう。

母を亡くし、父に育児放棄された少年ルカ(監督自身です)。彼がフィレンツェで暮らす英国上流マダムたちによるあたたかな庇護のもと、大人になってゆく様子が描かれています。

この英国のマダムたちは、ムッソリーニ政権が樹立されるや、イタリアにおいては敵性外国人とみなされ勾留されてしまいます。しかし、優雅に暮らす権利を奪われつつも、英国上流マダムとしてのプライドは決して手放すことはないのです。

勾留先でのこと。夜になって見張りのイタリア人が点呼にやってくると、下着姿だったマダムたちは「きゃあ!」といっせいに叫び声をあげます。彼らの態度を無礼だと感じたマダムは、「ちゃんとノックして カム イン と言われたら入りなさい! 」とか、「下がるときには、グッナイ レディース と挨拶しなさい!」と教育までしちゃうのです(完全に召使い扱い)。彼らがマダムにちゃんと従っているのに笑ってしまいました。おばあちゃま、強し!

そんな不自由な状況におかれつつも、フィレンツェを愛し、優雅なティータイムやおしゃれをあきらめず、どんな状況下でも英国マダムのプライドを失うことなく、力強く、ときには向こうみずで、なんともチャーミングなおばあちゃまがたなのでした。

それぞれが寛容な気持ちと思いやりをもって、つながりあい、助け合い、どんな境遇でも冷静に、悲観的にならず、みんなで乗り切ってゆく様子は、まさに女性ならではだな〜と感じます。柔軟さや楽しんじゃう様子がとてもステキでした♡

こころがあたたかくなり、じんわり涙のでる作品でした。
(→予告を見る)

 

 

 

お誕生日会のステキな話題

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

お友だちのバースデーお食事会。安心してゆっくりおしゃべりできるように個室のあるお店にしました。

入店するとき、おきまりの検温と手の除菌。お部屋は私たち二人だけだけど、テーブルの上には大きなアクリル板がどど〜んと。

安心できるありがたい対策です。が、なんせ慣れない私たち。

アクリル板ごしに向かい合って坐ると・・・ちょっとばかり銀行の窓口ちっくで、「は〜い!こちらのフォームに記入して捺印してくださいね〜」・・・なんて冗談をとばしつつ、

「さて・・・どうやって乾杯する? 上から? 横から? いや、真ん中?」「むかしあった恋愛バラエティのように、いっせいのせ!で同じになるかどうか、やってみる?」なんて(なんじゃ?!それは!)。

ついたての一枚でけっこう盛りあがれる私たち(笑)。

さらに ・・・ 私たちのお食事中の話題ときたら、

「中世の貴族の女性って、あんなに裾の長〜いドレスをズルズルひきづって、外でも、雨のなかでもおかまいなし。あれっていったいどうするの? 一回着たらドロドロボロボロじゃない?」「いいのよ!自分できれいにしないんだから!」(数日まえに観た映画で、伯爵夫人が雨のなか長〜いドレスで石畳を走りまわる姿に、美しいドレスの裾ばかりを憂いていた私なのでした・苦笑)。

そこから、「あの時代って、あんなに着飾ってステキなドレスを着ているのに、お手洗いさえなかったんだから、大変だったよね〜」的な話になり・・・、私たちが目撃した海外お手洗い事情など・・・。

あとで、「私たちのバースデー祝いの話題ときたら・・・」と苦笑いしてしまったのでした(個室だから、どんな話題でもおかまいなし!)。

でも、こんなたわいものないことでゲラゲラ笑えることこそ幸せなのかもしれませんね〜。

Mちゃん、お誕生日おめでとう♡
ますます笑顔があふれる一年となりますように!

PS 素敵な話題とともに味わったお食事は和食でした〜♪

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

20-09-10 信頼できないと感じるとき・・・

 

Q: 裏切られるようなことがくりかえされて、パートナーを信頼できなくなっています。

A: 「信頼」とは、いったいどこからやってくるのでしょう?

私たちは、自分の与えた信頼に値するものを目にしたときに、信頼できたと感じます。

しかし、自分の目にすることだけをベースにして「信頼に値するか、しないか」を決めようとすると、堂々めぐりのワナにはまってしまいます。

なぜなら、目にするものは自分の「こころ」から生まれているからです。

自分でさえも気づくことができない隠された自分のこころの状態をそこに見たにもかかわらず、それに対して「好きだ!」「嫌いだ!」と自分自身で反応してしまっています。

私たちはつねに、「自分が見たいと思うもの」を確実に外側に見つづけているのです。

そしてそれを目にして、さらに確信を深めるのです。「ほうら!やっぱり!思ったとおりだわ」と・・・。でも、「やっぱり!」なのは、自分がそう決めたとおりだっただけです。ビンゴ!で当然なのです。

これを繰り返していると、自分のこころのうちに隠されている不信感はさらに強化されるだけになります。つねに、「やっぱり!」「思ったとおり!」を目にすることになるからです。

「信頼できるものを目にしたい」と思うときには、相手に変わってほしいと望むのではなく、まずその源である自分の「こころ」に着手する必要があります。

なぜなら、こころのなかにある「対象についての意図」が間違っており、それをそのまま見たからです。

「見たいものを見る」のなら ・・・ まず「こころ」において、「信頼できるものしか私の目には映らない」「私が見るのは信頼だけだ」と決めている必要があったのです。

違うものが見えてしまったのなら、そう決めてはいなかったのだ、ということに気づかなくてはなりません。

私たちのこころといういうものは、野放しにしておけば「罪を見つけたい」という無意識の願望のままに見ることになります。そして、必ずそれを見つけます。

なぜなら、「罪を見つけること」で自分のちっぽけさ、足りなさを帳消しにすることができると信じているからです。

私よりももっとダメな人がいたじゃない!・・・ってことは、私はぜんぜん大丈夫なのだわ!と。

誰かが大きく間違っていれば、自分はかなり正しく感じられる、というわけです。

けれども、「罪を見る」ことを容認してしまうと、「自分は正しくない存在だ」「自分は何かがおかしい」という自分に対する疑いを本当のこととして受け入れてしまう、という大きな間違いをおかすことになります。

だから、人のなかに罪を見つけることは、結局は自分を小さく、価値のない存在におとしめて傷つけてしまうことになるのです。

誰かのなかに見える不十分さや間違いに対しても、「これは自分が見たいものを見ているのだ」「けれども、これを信じることで、私は自分を小さき者と認めてしまい、本当の自分が失われる」「だから、私はこの人の完全さだけを見たい!」と、きっぱりとスルーする必要があります。

断固として「私は罪のように見えるものには目をむけることなく、信頼だけを目にするのだ」と決めるとき、自分に対してついに正しい考えをもてたことになるのです。

人を貶めることで、自分の足りなさを埋めることをしなくてもよい完全な存在としての自分をついに認めたことになるからです。

すべてのもののなかに完全さだけを目にしたい、と決めることは、じつは自分自身に対して「正しい自分を受け入れます!」と宣言したことになります。

そして、「完全さだけを見たい」と決めるとき、ちゃんとそういう世界がそこにあることに気づきはじめます。

すると、「あら?この人、変わった?」と相手を感じるかもしれません。が、じつは自分のこころこそが変わったのですね。

だから ・・・ 裏切られた、信じることができないという状況に直面したら ・・・ 自分でも気づくことができなかった自分の無意識の思いが外側にあらわれたことに気づきましょう。

そして、今まで決して手放すことができなかったこころの間違いを手放すための癒しの機会を与えられたのだと認め、目にしたものにただ反応するのではなく、こころのなかの不具合を正す機会にすることができます。

信じることができずにいたのは、自分が罪や間違いを見たいをいう願望を密かに抱いていたからであって、それはもうつづけたくないと決めることで、自分の高い自己(ハイヤーセルフ)にその不信感や罪を信じる気持ちを渡してしまいましょう。

そして、高い自己に自分の完全性のなかで相手を見られるように助けてもらいましょう。

誰もがみんな、こころの不具合を抱えています。

相手や自分の間違いさがしに集中して責めるのではなく、ただ自分のこころを修正することだけを受け入れましょう。

そして、自分ひとりでは癒すことができずにいたこころの不具合を、この機会にこそすっかり癒してしまいましょう。

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

気づきの日記「信頼できないと感じるとき・・・」

 

Q: 裏切られるようなことがくりかえされて、パートナーを信頼できなくなっています。

A: 「信頼」とは、いったいどこからやってくるのでしょう?

私たちは、自分の与えた信頼に値するものを目にしたときに、信頼できたと感じます。

しかし、自分の目にすることだけをベースにして「信頼に値するか、しないか」を決めようとすると、堂々めぐりのワナにはまってしまいます。

なぜなら、目にするものは自分の「こころ」から生まれているからです。

自分でさえも気づくことができない隠された自分のこころの状態をそこに見たにもかかわらず、それに対して「好きだ!」「嫌いだ!」と自分自身で反応してしまっています。

私たちはつねに、「自分が見たいと思うもの」を確実に外側に見つづけているのです。

そしてそれを目にして、さらに確信を深めるのです。「ほうら!やっぱり!思ったとおりだわ」と・・・。でも、「やっぱり!」なのは、自分がそう決めたとおりだっただけです。ビンゴ!で当然なのです。

これを繰り返していると、自分のこころのうちに隠されている不信感はさらに強化されるだけになります。つねに、「やっぱり!」「思ったとおり!」を目にすることになるからです。

「信頼できるものを目にしたい」と思うときには、相手に変わってほしいと望むのではなく、まずその源である自分の「こころ」に着手する必要があります。

なぜなら、こころのなかにある「対象についての意図」が間違っており、それをそのまま見たからです。

「見たいものを見る」のなら ・・・ まず「こころ」において、「信頼できるものしか私の目には映らない」「私が見るのは信頼だけだ」と決めている必要があったのです。

違うものが見えてしまったのなら、そう決めてはいなかったのだ、ということに気づかなくてはなりません。

私たちのこころといういうものは、野放しにしておけば「罪を見つけたい」という無意識の願望のままに見ることになります。そして、必ずそれを見つけます。

なぜなら、「罪を見つけること」で自分のちっぽけさ、足りなさを帳消しにすることができると信じているからです。

私よりももっとダメな人がいたじゃない!・・・ってことは、私はぜんぜん大丈夫なのだわ!と。

誰かが大きく間違っていれば、自分はかなり正しく感じられる、というわけです。

けれども、「罪を見る」ことを容認してしまうと、「自分は正しくない存在だ」「自分は何かがおかしい」という自分に対する疑いを本当のこととして受け入れてしまう、という大きな間違いをおかすことになります。

だから、人のなかに罪を見つけることは、結局は自分を小さく、価値のない存在におとしめて傷つけてしまうことになるのです。

誰かのなかに見える不十分さや間違いに対しても、「これは自分が見たいものを見ているのだ」「けれども、これを信じることで、私は自分を小さき者と認めてしまい、本当の自分が失われる」「だから、私はこの人の完全さだけを見たい!」と、きっぱりとスルーする必要があります。

断固として「私は罪のように見えるものには目をむけることなく、信頼だけを目にするのだ」と決めるとき、自分に対してついに正しい考えをもてたことになるのです。

人を貶めることで、自分の足りなさを埋めることをしなくてもよい完全な存在としての自分をついに認めたことになるからです。

すべてのもののなかに完全さだけを目にしたい、と決めることは、じつは自分自身に対して「正しい自分を受け入れます!」と宣言したことになります。

そして、「完全さだけを見たい」と決めるとき、ちゃんとそういう世界がそこにあることに気づきはじめます。

すると、「あら?この人、変わった?」と相手を感じるかもしれません。が、じつは自分のこころこそが変わったのですね。

だから ・・・ 裏切られた、信じることができないという状況に直面したら ・・・ 自分でも気づくことができなかった自分の無意識の思いが外側にあらわれたことに気づきましょう。

そして、今まで決して手放すことができなかったこころの間違いを手放すための癒しの機会を与えられたのだと認め、目にしたものにただ反応するのではなく、こころのなかの不具合を正す機会にすることができます。

信じることができずにいたのは、自分が罪や間違いを見たいをいう願望を密かに抱いていたからであって、それはもうつづけたくないと決めることで、自分の高い自己(ハイヤーセルフ)にその不信感や罪を信じる気持ちを渡してしまいましょう。

そして、高い自己に自分の完全性のなかで相手を見られるように助けてもらいましょう。

誰もがみんな、こころの不具合を抱えています。

相手や自分の間違いさがしに集中して責めるのではなく、ただ自分のこころを修正することだけを受け入れましょう。

そして、自分ひとりでは癒すことができずにいたこころの不具合を、この機会にこそすっかり癒してしまいましょう。

 

 

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