【 オンラインリモートでセラピーをお受けいただけます 】

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

おうちでリラックスしながらセラピータイムを ♪

「オフィス・るん」のいずれのセッションも、Skype ・  LINE よりオンラインにてお受けいただくことができます (リコネクションは除く)。

対面セッションのように顔を見ながらコミュニケーションできる「ビデオ通話」か、電話でおしゃべり感覚の「音声通話」 をお選びいただけます。

【オンラインセッションのお申し込み手順】

1、お受けになりたいセッションをお選び下さい。
ヒプノセラピー
セラピューティック カウンセリング
リコネクティブヒーリング(メールも可)
エグゼクティブのためのセラピー

2、それぞれのセッションページの「お申し込みフォーム」より、以下をご記入のうえご予約下さい。

・セッションご希望日とお時間帯
・Skype ・ LINE のご希望を記入
・「ビデオ通話」か「音声通話」のご希望を記入

3、「送信」

▶セッション料金のお支払い方法 ・・・セッションまえのお振込みとなります。

▶不明な点、ご質問等ございましたら、お気軽にお問い合わせください。(→こちらから)


こんな方にオススメ・・・
・自分のお部屋でリラックスして受けたいとき
・外出するのがためらわれるとき
・時間を節約したいとき
・さらに気軽に受けたいとき
・遠距離で対面セッションに出かけられないとき
・家をあけることができないとき
・体調がすぐれないとき

 

 

20-08-28 こころの怖れをごまかさない

 

外側の世界に脅威を感じて「自分は無力だ」と自覚するとき、私たちの体はときとして脂肪をたくさん蓄えることでそれをヨロイにして自分を守ろうとします。「分厚い肉じゅばんがかよわい私を守ってくれる」というように。

こころも同じように、「何か」を使って自分を恐れから守ろうとします。

こころは恐れていたり、傷つくと感じるときには、罪悪感を使おうとします。

エゴのこころは、罪悪感こそがこころをマヒさせることができると感じているので、鎮痛剤にはもってこいだと信じているのです。

つまり、怖れという脅威を感じたら、なんらかの罪悪感でこころをまぎらわせて、その怖れから逃れられたと感じようとするのです。(でもじつは、怖れと罪悪感のダブルの嫌悪感になっていることに気づきません)。

さらに、その効果が十分でないと感じれば、罪悪感をどんどん増量してこころを完全に自失状態にします。

これは、体に痛みがあるときに他の場所をつねるとその痛みが消えるように感じるのと同じことです。本当は痛みが増えているのに、それに気づけなくなります。

脂肪をつけて自分を守るのも、罪悪感を増幅させて怖れをマヒさせるのも、まったく解決法ではありませんが、エゴはそれで救われたと勘違いします。

正しい解決策は、ちゃんと直面することです。

対処療法(症状だけに対処すること)でしのぐのではなく、ちゃんと原因にアプローチすることが必要です。

「自分は、外の世界に対して脅威を感じている」=「自分は小さいと思っている」
「自分は、ものごとに傷つけられるのではないか、攻撃されるのではないかと怖がっている」=「自分は力不足だと感じている」

「小さい」「力不足だ」と自分を弱きものと自覚していることこそがコワさを生み出している、ということを認めて、

「私は弱い」という想いを高い自己であるハイヤーセルフに渡してしまいましょう。

ハイヤーセルフにさし出すというのは、パソコンでいらないファイルをゴミ箱にいれて、消去のボタンを押して、ゴミ箱をカラにするのと同じことです。

完全さしか知らないハイヤーセルフは、「自分は弱い」「不足している」という思考がさし出されると、すぐさま消去してくれます。

こころのなかの怖れに対して何重にも絆創膏を貼ったとしても、それを癒すことはできません。恐れの原因が何なのかに直面して、それを取り除くために、ゴミ箱に入れて消去しましょう。

ただ消去されさえすれば、あとはなにも必要ありません。

正常に機能するために必要なソフトウェアはすでに搭載ずみです。ゴミがたまっていなければ、ただ正常に機能してくれるのです。

「十分さ」であり「安らかさ」であり「愛」そのものであるソフトウェアが機能できるように、ゴミをみきわめて消去してしまいましょう。

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

気づきの日記「こころの怖れをごまかさない」

 

外側の世界に脅威を感じて「自分は無力だ」と自覚するとき、私たちの体はときとして脂肪をたくさん蓄えることでそれをヨロイにして自分を守ろうとします。「分厚い肉じゅばんがかよわい私を守ってくれる」というように。

こころも同じように、「何か」を使って自分を恐れから守ろうとします。

こころは恐れていたり、傷つくと感じるときには、罪悪感を使おうとします。

エゴのこころは、罪悪感こそがこころをマヒさせることができると感じているので、鎮痛剤にはもってこいだと信じているのです。

つまり、怖れという脅威を感じたら、なんらかの罪悪感でこころをまぎらわせて、その怖れから逃れられたと感じようとするのです。(でもじつは、怖れと罪悪感のダブルの嫌悪感になっていることに気づきません)。

さらに、その効果が十分でないと感じれば、罪悪感をどんどん増量してこころを完全に自失状態にします。

これは、体に痛みがあるときに他の場所をつねるとその痛みが消えるように感じるのと同じことです。本当は痛みが増えているのに、それに気づけなくなります。

脂肪をつけて自分を守るのも、罪悪感を増幅させて怖れをマヒさせるのも、まったく解決法ではありませんが、エゴはそれで救われたと勘違いします。

正しい解決策は、ちゃんと直面することです。

対処療法(症状だけに対処すること)でしのぐのではなく、ちゃんと原因にアプローチすることが必要です。

「自分は、外の世界に対して脅威を感じている」=「自分は小さいと思っている」
「自分は、ものごとに傷つけられるのではないか、攻撃されるのではないかと怖がっている」=「自分は力不足だと感じている」

「小さい」「力不足だ」と自分を弱きものと自覚していることこそがコワさを生み出している、ということを認めて、

「私は弱い」という想いを高い自己であるハイヤーセルフに渡してしまいましょう。

ハイヤーセルフにさし出すというのは、パソコンでいらないファイルをゴミ箱にいれて、消去のボタンを押して、ゴミ箱をカラにするのと同じことです。

完全さしか知らないハイヤーセルフは、「自分は弱い」「不足している」という思考がさし出されると、すぐさま消去してくれます。

こころのなかの怖れに対して何重にも絆創膏を貼ったとしても、それを癒すことはできません。恐れの原因が何なのかに直面して、それを取り除くために、ゴミ箱に入れて消去しましょう。

ただ消去されさえすれば、あとはなにも必要ありません。

正常に機能するために必要なソフトウェアはすでに搭載ずみです。ゴミがたまっていなければ、ただ正常に機能してくれるのです。

「十分さ」であり「安らかさ」であり「愛」そのものであるソフトウェアが機能できるように、ゴミをみきわめて消去してしまいましょう。

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

すんでのところで・・・

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

連日の35℃ごえに、アタマがもうろう・・・。

もうこれ以上はホントにムリだわ〜〜!!・・・ と白旗をあげるすんでのところで、

ようやく雨がふってくれて、なんとか息をふきかえすことができました(東京は7月に30日間も雨つづきだったのに、8月はからっからでしたものね)。

2℃気温が下がるだけでも、ずいぶんと体はラクです。ホントはまだじゅうぶんに暑いのですが、アメとムチ効果でもうマヒしています。

きょうは、出先のスタバで思わずクーリング タイム。

ピーチフラペチーノにシトラスの果肉をカスタマイズして、甘くて、すっぱ〜い!

あ〜、フラペチーノがこんなにおいしく感じた夏はありません。極楽〜〜♡

東京から西側は、まだまだ35℃ごえですね。

でも、確実に朝夕の空気は夏の終わりから秋へと変わりつつあるように感じます。

体に気をつけて、もうしばらく頑張りましょうね〜!

 

 

 

20-08-19 恐れに囚われがちです・・・

 

なにかを「怖がる、怯える、恐れる」とき ・・・ それは出来事かもしれないし、人かもしれないし、未来やなにかの予感かもしれませんが ・・・ それを怖がっているとき、私たちはそれを崇拝し敬ってしまっています。

崇拝? 敬う? ・・・ ピンとこないかもしれません。

それが自分よりもずっと力があり、上位に位置し、それに支配されているように感じるので、コワい対象はつねに自分の支配者であり、神となってしまいます。

だから、盲従し、崇拝しているのです。そして、エネルギーも、魂も、意志も、明け渡してしまいます。

となれば当然、自分の正体について忘れてしまうので、自分が誰であるのかわからなくなってしまいます。そして、なにものでもない無力な存在だと決めてしまうのです。それが恐ろしさに拍車をかけます。

そうして恐れる対象にこころを奪われるうちに、自分のなかにあった「すべてを解決するための力」を自ら放棄してしまいます。

つまり、「恐れる」ということは、自分を記憶喪失に陥れ、自分の正体も、自分の血統も、自分の生まれも、自分の宝も、すべて忘れ去ってしまうこと。恐れに身をささげ、自分の尊さも、自分の力も捨て去ることなのです。

これが「恐れる」ということの弊害です。

「恐れている」とき、じつは「恐れを感じている対象」がコワいのではありません。

自分の感情こそがコワいのです。自分が誰であるのかを忘れてしまったゆえ、キョーフがつのります。

たとえば、残酷なホラー映画を観ているとき、ほんとうは誰も傷ついてはいないし、死んでもいません。たんに画像が流れています。

画像だけで実際なにも起こっていなくても、十分にコワいのです。それは、画像がコワいというよりは、それに触発されて引き出されてきた自分の感情がコワいからです。

ためこまれていた自分の感情がそれに反応して、こころの表面に浮上してきてコワさを感じさせているのです。

私たちが日常に感じる怖れもこれとまったく同じです。出来事に対してコワがっているのではありません。飛びだしてきた感情がコワいのです。

出来事というものは、冷静になって、いま目のまえに提示されていることにひとつひとつ向きあっていけば、「対処すべき事柄」として自然に解決に導かれてゆきます。そこにいちいち、恐れや動揺をくっつける必要はないのです。

過去の遺物である抑圧されていた恐れがこころの表面に飛びだしてきたとき、まるでこころのなかで警報機がじゃんじゃん鳴り響いているように感じます。

そうすると、意識は「目にしている対象はキケンだ!回避せよ!」と解釈します。そして、私たちはまたたくまにフリーズして、アタマが真っ白なり、目のまえにあるものはキケンだと判断し、闘おうとしてしまうのです。

でも・・・ゴーストはそこにはいません。

是非、「恐れ」と「出来事」はベツモノだと覚えておきましょう。

感じている恐れは恐れとして、感じて受け入れることで処理をすることができます。受けとめてもらえた感情は、ただ消え去ってゆくことができるのです。

そして、クリアなこころで出来事でむきあえば、恐れが占拠していた空間がお留守になるので、そこに自分の叡智がよみがえります。

その正しいこころから湧きでてくるインスピレーションに導いてもらうことができるのです☆

PS そもそも、ほんとうところ、恐れを感じているのは「自分」などではありません。

「私は怖い」と叫んでいるその恐れを客観的に観察できるのなら、自分と恐れて叫んでいるものの間にはなんらかの距離があるということです。恐れは自分から離れて存在しているようです。

つまり、恐れているモノ VS 自分。自分は恐れているものと向きあっている存在です。

ならいったい、誰が恐れているのでしょうか? ・・・ ただ「そんな感じ」がそこにあるだけなのかもしれません。

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

気づきの日記「恐れに囚われがちです・・・」

 

なにかを「怖がる、怯える、恐れる」とき ・・・ それは出来事かもしれないし、人かもしれないし、未来やなにかの予感かもしれませんが ・・・ それを怖がっているとき、私たちはそれを崇拝し敬ってしまっています。

崇拝? 敬う? ・・・ ピンとこないかもしれません。

それが自分よりもずっと力があり、上位に位置し、それに支配されているように感じるので、コワい対象はつねに自分の支配者であり、神となってしまいます。

だから、盲従し、崇拝しているのです。そして、エネルギーも、魂も、意志も、明け渡してしまいます。

となれば当然、自分の正体について忘れてしまうので、自分が誰であるのかわからなくなってしまいます。そして、なにものでもない無力な存在だと決めてしまうのです。それが恐ろしさに拍車をかけます。

そうして恐れる対象にこころを奪われるうちに、自分のなかにあった「すべてを解決するための力」を自ら放棄してしまいます。

つまり、「恐れる」ということは、自分を記憶喪失に陥れ、自分の正体も、自分の血統も、自分の生まれも、自分の宝も、すべて忘れ去ってしまうこと。恐れに身をささげ、自分の尊さも、自分の力も捨て去ることなのです。

これが「恐れる」ということの弊害です。

「恐れている」とき、じつは「恐れを感じている対象」がコワいのではありません。

自分の感情こそがコワいのです。自分が誰であるのかを忘れてしまったゆえ、キョーフがつのります。

たとえば、残酷なホラー映画を観ているとき、ほんとうは誰も傷ついてはいないし、死んでもいません。たんに画像が流れています。

画像だけで実際なにも起こっていなくても、十分にコワいのです。それは、画像がコワいというよりは、それに触発されて引き出されてきた自分の感情がコワいからです。

ためこまれていた自分の感情がそれに反応して、こころの表面に浮上してきてコワさを感じさせているのです。

私たちが日常に感じる怖れもこれとまったく同じです。出来事に対してコワがっているのではありません。飛びだしてきた感情がコワいのです。

出来事というものは、冷静になって、いま目のまえに提示されていることにひとつひとつ向きあっていけば、「対処すべき事柄」として自然に解決に導かれてゆきます。そこにいちいち、恐れや動揺をくっつける必要はないのです。

過去の遺物である抑圧されていた恐れがこころの表面に飛びだしてきたとき、まるでこころのなかで警報機がじゃんじゃん鳴り響いているように感じます。

そうすると、意識は「目にしている対象はキケンだ!回避せよ!」と解釈します。そして、私たちはまたたくまにフリーズして、アタマが真っ白なり、目のまえにあるものはキケンだと判断し、闘おうとしてしまうのです。

でも・・・ゴーストはそこにはいません。

是非、「恐れ」と「出来事」はベツモノだと覚えておきましょう。

感じている恐れは恐れとして、感じて受け入れることで処理をすることができます。受けとめてもらえた感情は、ただ消え去ってゆくことができるのです。

そして、クリアなこころで出来事でむきあえば、恐れが占拠していた空間がお留守になるので、そこに自分の叡智がよみがえります。

その正しいこころから湧きでてくるインスピレーションに導いてもらうことができるのです☆

PS そもそも、ほんとうところ、恐れを感じているのは「自分」などではありません。

「私は怖い」と叫んでいるその恐れを客観的に観察できるのなら、自分と恐れて叫んでいるものの間にはなんらかの距離があるということです。恐れは自分から離れて存在しているようです。

つまり、恐れているモノ VS 自分。自分は恐れているものと向きあっている存在です。

ならいったい、誰が恐れているのでしょうか? ・・・ ただ「そんな感じ」がそこにあるだけなのかもしれません。

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

20-08-14 いつだって人間関係は癒しのため

 

先日観た「ワン・モア・タイム」というコメディ映画は、ロバート・ダウニーJr. 扮する青年が女友達の家を初めて訪れたとき、奇妙な記憶にみまわれはじめます。

「あれ?この家はなじみがあるぞ!」「彼女のお母さんに目が釘づけ!」、さらにさまざま場面が目のまえにちらつきはじめ・・・ 本人も動揺しまくり。

じつは、その青年は前世で若くして亡くなっており、女友達のお母さんがそのときの奥さんだったのです(つまり、女友達は自分の娘で、その家は自分の住んでいた家)。

その人生であまりに奥さんとラヴラヴだったためにこころ残りが大きく、高速で生まれかわってきて、そしてその記憶が甦ってしまった、というわけです。

これを観ていて、あまりにも前世の記憶がはっきりしすぎているのも人生ややこしくなるな〜と感じたのでした。

なんせ、女友達とそのお母さんの両方とぬきさしならぬ関係なのですから、どっちをどうしたらいいものか?! それに、こんなふうに見知らぬ青年が突如あらわれて「ぼくだよ!会いたかった!」と迫られても、「サギですかっ!?」としか思えません。

ほどよく忘れてから再びやってくるのが正解なのだと感じます(リンポチェになる子どもだって、まるごと前世を覚えているわけではなく愛用品選びからはじまりますものね)。

「ほとよく忘れて」というのは、関係性やストーリーのあれこれは忘れてしまっても、「感情」だけはしっかり忘れていないということです。

たとえば、初対面なのになにかザワザワ不快に感じるとか、逆にまったく知らないはずなのに全部知っているような親しみを感じるとか ・・・ よくあることです。

たしかに私たちは、うまくいかない人に出会うと「前世でなにかあったんじゃないの?」とか、ひと目で夢中になってしまった人には「私のこころが覚えているのよ」なんて、ごくふつ〜に言ったりします。

アタマが忘れていても、感情がすべてを教えてくれる、というわけです。

それは、無意識のなかにあるなんらかの記憶がざわめいて感情の信号のみを送ってくるから。その下にはたしかに、なんらかのストーリーがあるようです。

そして、その感情の記憶が、今回の癒しのレッスンの道しるべになってくれるのです。

もし全部のストーリーを覚えていたら、「きみが前世であんなことをしたから!」「いいえ!あなたこそ!」なんて、ストーリーにこだわるあまり過去の蒸しかえしになってしまいますものね。

ニュートラルではない「感情」の波だち(嫌悪、怒り、執着、しがみつき・・・)は、自分には乗りこえるべきハードルがあることを教えてくれます。その感情を癒して、ただ愛になれるようにと。

理由はわからないけれど「嫌悪感」を感じる場合 → 攻撃したい、拒絶したい
なぜだかこころを奪われて「執着」を感じる場合 → 依存したい、しがみつきたい

そこには、自分に対する「弱さ」や「足りなさ」という誤解が潜んでいるようです。

いずれにしても、「人間関係」というものはいつもレッスンです。

それは、過去の「やった」「やられた」のくりかえしや、「弱い」「足りない」の誤解を乗りこえて、相手の存在をとおして真の自分を思い出すためのもの。

過去の多くの人生のなかでは、嫌悪する人、執着する人に対して、注意を注ぎすぎるあまりに自分のことががお留守になり、自分自身を見失ってきたかもしれません。

けれど、こんどこそ、その人たちをとおして自分を思い出すために出会います。

どうしたら思い出せる??

人という存在は誰であっても自分を映しだす鏡の役割をしてくれるものです。私たちのこころは外を見て、自分という存在の価値を決めているからです。

自分の完全さを知りたい、自分の愛を知りたい、自分の安らぎを知りたい、自分の真の姿を知りたいと思ったら、

彼らという鏡のなかに、そのすべてを見たい、見ようと決めて、見ること。

鏡であるその人のなかに見えてしまったのだったら、それは自分のなかにかならずあるのだ!とこころは受け入れるからです。映っているのだから、まぎれもなく私は真の自分を見た!と。

そうして、そのように見てもらえた人たちも、「え?私のことが完全に見えたの?愛に見えたの?・・・」「だとしたら、それが私なのね!」とそれを受けとることができるようになるのです。

そして、まったく同じ性質をもつもの同士(あわせ鏡)として上下やランクがなくなり、違いがなければ「嫌悪」や「執着」という見方も癒されてゆきます。

全部が同じになったら、全部がひとつに見えてしまうのでしょう。

出会ったのであったら、こんどこそ手をとりあって真の私たちの完全さに目覚められますように! 愛すべきあわせ鏡に愛をおくりましょう♡

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

気づきの日記「いつだって人間関係は癒しのため」

 

先日観た「ワン・モア・タイム」というコメディ映画は、ロバート・ダウニーJr. 扮する青年が女友達の家を初めて訪れたとき、奇妙な記憶にみまわれはじめます。

「あれ?この家はなじみがあるぞ!」「彼女のお母さんに目が釘づけ!」、さらにさまざま場面が目のまえにちらつきはじめ・・・ 本人も動揺しまくり。

じつは、その青年は前世で若くして亡くなっており、女友達のお母さんがそのときの奥さんだったのです(つまり、女友達は自分の娘で、その家は自分の住んでいた家)。

その人生であまりに奥さんとラヴラヴだったためにこころ残りが大きく、高速で生まれかわってきて、そしてその記憶が甦ってしまった、というわけです。

これを観ていて、あまりにも前世の記憶がはっきりしすぎているのも人生ややこしくなるな〜と感じたのでした。

なんせ、女友達とそのお母さんの両方とぬきさしならぬ関係なのですから、どっちをどうしたらいいものか?! それに、こんなふうに見知らぬ青年が突如あらわれて「ぼくだよ!会いたかった!」と迫られても、「サギですかっ!?」としか思えません。

ほどよく忘れてから再びやってくるのが正解なのだと感じます(リンポチェになる子どもだって、まるごと前世を覚えているわけではなく愛用品選びからはじまりますものね)。

「ほとよく忘れて」というのは、関係性やストーリーのあれこれは忘れてしまっても、「感情」だけはしっかり忘れていないということです。

たとえば、初対面なのになにかザワザワ不快に感じるとか、逆にまったく知らないはずなのに全部知っているような親しみを感じるとか ・・・ よくあることです。

たしかに私たちは、うまくいかない人に出会うと「前世でなにかあったんじゃないの?」とか、ひと目で夢中になってしまった人には「私のこころが覚えているのよ」なんて、ごくふつ〜に言ったりします。

アタマが忘れていても、感情がすべてを教えてくれる、というわけです。

それは、無意識のなかにあるなんらかの記憶がざわめいて感情の信号のみを送ってくるから。その下にはたしかに、なんらかのストーリーがあるようです。

そして、その感情の記憶が、今回の癒しのレッスンの道しるべになってくれるのです。

もし全部のストーリーを覚えていたら、「きみが前世であんなことをしたから!」「いいえ!あなたこそ!」なんて、ストーリーにこだわるあまり過去の蒸しかえしになってしまいますものね。

ニュートラルではない「感情」の波だち(嫌悪、怒り、執着、しがみつき・・・)は、自分には乗りこえるべきハードルがあることを教えてくれます。その感情を癒して、ただ愛になれるようにと。

理由はわからないけれど「嫌悪感」を感じる場合 → 攻撃したい、拒絶したい
なぜだかこころを奪われて「執着」を感じる場合 → 依存したい、しがみつきたい

そこには、自分に対する「弱さ」や「足りなさ」という誤解が潜んでいるようです。

いずれにしても、「人間関係」というものはいつもレッスンです。

それは、過去の「やった」「やられた」のくりかえしや、「弱い」「足りない」の誤解を乗りこえて、相手の存在をとおして真の自分を思い出すためのもの。

過去の多くの人生のなかでは、嫌悪する人、執着する人に対して、注意を注ぎすぎるあまりに自分のことががお留守になり、自分自身を見失ってきたかもしれません。

けれど、こんどこそ、その人たちをとおして自分を思い出すために出会います。

どうしたら思い出せる??

人という存在は誰であっても自分を映しだす鏡の役割をしてくれるものです。私たちのこころは外を見て、自分という存在の価値を決めているからです。

自分の完全さを知りたい、自分の愛を知りたい、自分の安らぎを知りたい、自分の真の姿を知りたいと思ったら、

彼らという鏡のなかに、そのすべてを見たい、見ようと決めて、見ること。

鏡であるその人のなかに見えてしまったのだったら、それは自分のなかにかならずあるのだ!とこころは受け入れるからです。映っているのだから、まぎれもなく私は真の自分を見た!と。

そうして、そのように見てもらえた人たちも、「え?私のことが完全に見えたの?愛に見えたの?・・・」「だとしたら、それが私なのね!」とそれを受けとることができるようになるのです。

そして、まったく同じ性質をもつもの同士(あわせ鏡)として上下やランクがなくなり、違いがなければ「嫌悪」や「執着」という見方も癒されてゆきます。

全部が同じになったら、全部がひとつに見えてしまうのでしょう。

出会ったのであったら、こんどこそ手をとりあって真の私たちの完全さに目覚められますように! 愛すべきあわせ鏡に愛をおくりましょう♡

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

ヴェトナムグッズ♪

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

「TVでも紹介されてて、今年の流行なんだよ〜」とお友だちがプレゼントしてくださったヴェトナム グッズ。

ヴェトナム グッズといえば ・・・ 以前、近所にヴェトナム雑貨屋さんがあってはまっておりましたっけ。

食器からアクセサリー、洋服やインテリア雑貨まで、アジアンテイストでありながらヨーロッパのしゃれた雰囲気もあり、とってもオシャレなのですよね〜。

今回いただいたのは、こちら〜。

わあ♡ カワイイ!

甲の部分がシアーな素材になっていて涼しげ。そして、スパンコールとビーズできらんきらん☆ グレーというのもシックでよい感じです♡

こちらサンダルと書いてありますが、お外ではくのはちょっともったいないので・・・

まずはお仕事用スリッパとしてデビューさせていただきますね。

ありがとうございます  (๑❛ᴗ❛๑) ♪

 

 

 

20-08-04 イヤな気分はものごとのせいじゃない☆追伸

 

「街でお買い物をしていたとき、知らない人に理不尽な言葉をなげかけられイヤな気分になっていましたが、昨日のブログ『イヤな気分はものごとのせいじゃない』が役に立ちました」とAさんから気づきのシェアをいただきました。

よかった!グッドタイミングですね ( ・◡・ )

イヤな気分になる出来事に遭遇したときのために、もう少々つけ足しておきましょう。

じつは・・・そのイヤな出来事というのは、お初の体験ではありません。自分のこころのなかで、すでに何度も上映されてきたおなじみの場面なのです。

ビデオで同じ場面を何度も見ているように、今回がはじめてなのではないのです(それをこころが覚えている場合は、デジャヴ感がよみがえります)。

その場面は、こころが正しく認識するまで永遠に繰りかえされる映像なのです。(いいかげん飽きそうですが、うんざりしてホントにもうイヤになるときがきたら、案外あっさりとやめられるかもしれません・汗。)

正しく処理されたあかつきには、きれいに消去され終わりになります。

つまり、そのことに遭遇したのは偶然ではなく必然の出来事です。

また、そのときに感じる動揺もそのストーリーの一部であり、自動的に起こっているので自分を責める必要はありません(勝手にそうなっています)。

大切なのはそのあとです。そのあとにどう対処するか? それが、再び繰りかえすか、もう終わりにするか、のわかれめです。

イヤな気持ちを抑圧したり無視したりすると、それはこころに保存されてしまうのでまたやってくることになります。それに対する怒りも、そこに罪が存在すると信じていることになるので、やはりふたたび罪を見ることになります。

昨日のブログでも書きましたが、正しい対処の仕方は、「なぜ、イヤな気分になったのか?」。その「イヤな気分の原因となった考え」を探求して、それをハイヤーセルフに手放すこと、でした。

たとえばこんなふうにやります。・・・「 理不尽な言葉をなげかけられてイヤな気持ちになってしまった」 ・・・ なぜなら、

→ 私は攻撃されたと感じた → 私は簡単にやられてしまう存在だ → 私は小さく脆い → 大きな力に守られてはいない → 私はひとりぼっちだ → 誰とも何ともつながっていない → つながれない私は何かが間違っているに違いない → 間違ってしまった私 → 罪悪感
(注:これはAさんの信じていることではありません。ひとつのモデルです。)

正さなければならないのは、この攻撃や間違いや罪を信じているこころそのものです。

これらを信じているからこそ、同じストーリーを繰りかえし見つづけ、脱却できずにいます。

何度も見てきたこの場面で、今度こそ「ここに罪(間違い)が存在することを信じている自分」、「それを見ている自分」をゆるす、つまり「ぜんぶ、私こそが間違っていました」ということを自ら認めなければならないのです。

このように自分のこころにおいて被害者意識を手放すことが、自分の体験を変えるためのポイントとなる場所であり、考えです。

被害者をやめ、間違い・罪を信じていた自分を自分自身がゆるす、ということです。

ゆるす、ということは、こころのゴミを手放すことであり、そのゴミの下には自分の正しいこころがあります。それは、間違いを知らない、愛そのものです。

私たちが目にするイヤなこととは、自分が無視してきた無意識のなかにある思いそのものであり、それがイメージとしてあらわれたものです。

それを出来事として見たり感じられたときにはじめて、自分で「気づく」ことができ、手放す意図をもつことができます。

だから今度こそ、そこに見ていた(そこにおしつけていた)自分の無意識下の不幸をよぶ考えを手放す機会を役立てなくてはなりません。

このような取り消しを行ってゆくと、同じような傷つく場面は削除されてゆき、自分が目にするストーリーがしだしに穏やかになってゆきます。

なぜなら、そこにある愛という光が輝きだす余地が生まれて、その光のなかで世界が見えるからです。

自分を傷づけることができるのは自分だけ。そして、いつでもそれをやめるために気づくことができるのです♡ (´▽`)v

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング