19-01-27 苦しみの原因とは・・・

私たちは、日常、目にするものにつぎつぎ注意をとめて、

「いい」とか「悪い」、あるいは「好き」とか「嫌い」というように・・・ たえまなくラベルをはって検閲しつづけています。無意識のうちにランクづけをしているのです。

じつは、この価値判断というものが「苦しみ」生みだします。

自分自身や自分の体験、目にすることをひとつづつ切りとって(切りとった段階で、ひとつであったものごとに対立が生まれます)コメントすることで、「これはよい」と言えば、それよりも劣ったものが生まれ、イライラすることになるし。「これはダメだ」と言えば、それを変えてよりよい状態を目指さなければならなくなります。

コメントしたとたんに、葛藤が生まれているのです。

つねにこころは動きつづけ、ターゲットを見つけては価値判断をすることで、気分がよくなったり悪くなったりしつづけるというアップダウンのくりかえし。

だから、自分がやすらかでいるためのいちばんの方法は、

こころのなかで「なにもコメントしない」こと。つまり、価値判断、検閲をしないことなのです。

これをオススメすると、たびたび「なにもコメントしないなんてつまらない! 生きてる感じがしない!」と言われます。

それぐらい私たちは、あれこれ言うのが大好き! 生きがいです!

つまり、生きること = ものごとにいちゃもんをつけること、ケンカを売ること、になってしまっています。

価値判断とは、自分がボスとなって上から目線であれこれ裁くことであり、何が正しくて何が間違っているかを決める権利は私にある!と言っています。それはある意味、すべてを自分の支配下におくことであり、すべてに対して宣戦布告をしているようなものなのです。

ケンカを売るとかならずそのシッペがえしを受けることとなり、目にする世界は自分と敵対するように感じます。なにを目にしても自分に対してよそよそしく、つながりを感じられないので、世界は冷たく、自分だけ孤立しているように感じるのです

でもそれは、世界がそうしているのではなく、自分が目にするものに優劣をつけて裁いてしまったから。自分にとってすべてがつながりを失い、敵対するもののように目に映るのです。

自分が幸せになる、つまりやすらぎを感じるためには、存在するすべてを「そのまま」に、「あるがまま」にしておくということが必須です。

そうして、そこにある「あるがまま」という流れに一切ちゃちゃをいれないことで、じつは人生のパズルはおさまるところに完璧におさまって、自分のみならずかかわるすべての人にとっていちばんの贈りものを授けてくれるのです。

 

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

気づきのぷちノート「苦しみの原因とは・・・」

私たちは、日常、目にするものにつぎつぎ注意をとめて、

「いい」とか「悪い」、あるいは「好き」とか「嫌い」というように・・・ たえまなくラベルをはって検閲しつづけています。無意識のうちにランクづけをしているのです。

じつは、この価値判断というものが「苦しみ」生みだします。

自分自身や自分の体験、目にすることをひとつづつ切りとって(切りとった段階で、ひとつであったものごとに対立が生まれます)コメントすることで、「これはよい」と言えば、それよりも劣ったものが生まれ、イライラすることになるし。「これはダメだ」と言えば、それを変えてよりよい状態を目指さなければならなくなります。

コメントしたとたんに、葛藤が生まれているのです。

つねにこころは動きつづけ、ターゲットを見つけては価値判断をすることで、気分がよくなったり悪くなったりしつづけるというアップダウンのくりかえし。

だから、自分がやすらかでいるためのいちばんの方法は、

こころのなかで「なにもコメントしない」こと。つまり、価値判断、検閲をしないことなのです。

これをオススメすると、たびたび「なにもコメントしないなんてつまらない! 生きてる感じがしない!」と言われます。

それぐらい私たちは、あれこれ言うのが大好き! 生きがいです!

つまり、生きること = ものごとにいちゃもんをつけること、ケンカを売ること、になってしまっています。

価値判断とは、自分がボスとなって上から目線であれこれ裁くことであり、何が正しくて何が間違っているかを決める権利は私にある!と言っています。それはある意味、すべてを自分の支配下におくことであり、すべてに対して宣戦布告をしているようなものなのです。

ケンカを売るとかならずそのシッペがえしを受けることとなり、目にする世界は自分と敵対するように感じます。なにを目にしても自分に対してよそよそしく、つながりを感じられないので、世界は冷たく、自分だけ孤立しているように感じるのです

でもそれは、世界がそうしているのではなく、自分が目にするものに優劣をつけて裁いてしまったから。自分にとってすべてがつながりを失い、敵対するもののように目に映るのです。

自分が幸せになる、つまりやすらぎを感じるためには、存在するすべてを「そのまま」に、「あるがまま」にしておくということが必須です。

そうして、そこにある「あるがまま」という流れに一切ちゃちゃをいれないことで、じつは人生のパズルはおさまるところに完璧におさまって、自分のみならずかかわるすべての人にとっていちばんの贈りものを授けてくれるのです。

 

 

 

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19-01-21 アリー スター誕生

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

何度もリメイクされている作品です。

小さなバーで歌う女性シンガーがスターに見いだされ、スターダムを駆けあがるというお話。

古いバージョンの邦題は「スタア誕生」。スターではなく、スタアというところに時代を感じますね〜。

当時は今よりもスターという言葉に重みがあって、スターになれることは希有なことで、そうとうドラマチックなことだったのかもしれません。

私はバーブラ・ストライザンド版を、DVDで観たことがありました。「スター誕生」というタイトルのインパクトにひかれたのですが、ストーリーはあまり記憶に残っていませんでした。

なので、今回のガガさまの「アリー スター誕生」は新たな気持ちで観ることができました。

今のように「ボヘミアン ラプソディ」旋風が大々的に吹きあれていなければ、きっともっと注目されていた作品に違いありません。

だって、ガガさまがシロウトの女の子という設定であろうとも本気モードで歌うのですもの。

名もないゲイバーで歌うシンガーが、ガガさまのあの迫力、あのオーラ全開で歌っちゃうわけで、それだけでじゅうぶんに「この子はスターだっ!」という「スター誕生」感があふれだしちゃうでしょ?という感じです。

「ボヘミアン ラプソディ」のライブエイドの場面もそうでしたが、この作品でもアリーがバックステージから客席へと出てゆくシーンがとても臨場感があります。

ステージの袖でただわくわく様子をながめていた女の子が、いきなり名前をよばれてライトがあふれるステージへとひっぱりだされ、おずおずとステージのマイクのまえ歩みより、まぶしいライトのなかたくさんの観客をまえにおっかなびっくり歌いはじめる ・・・ という。

おそらく今までは、その様子を客席からながめているというカットが多かったけれど、これはあくまでもアリーの目線で、たくさんの観客のまえにはじめて進みでる動揺やら緊張感、怖さがじかに伝わってきます。

ガガさまの迫力ある歌声だけでもじゅうぶん伝わるものがありますが、さらにガガさま自身がスターへの階段を上がっていくときに感じたであろう思いが、このアリーをさらにリアルにしているのだと思います。

ガガさまというと、もともとどのようなお顔なのかがわからないほどに曲ごとにお顔のデコレイションがガラリと変わるので、この映画を観ていて「あら〜、ガガさまってこういうお顔だったね!」と、ほぼオリジナルのお顔をはじめて見られたように感じました(笑)。

さて、オスカーはいかに?!☆☆

 

 

お茶の間シネマトーク「アリー スター誕生」

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

何度もリメイクされている作品です。

小さなバーで歌う女性シンガーがスターに見いだされ、スターダムを駆けあがるというお話。

古いバージョンの邦題は「スタア誕生」。スターではなく、スタアというところに時代を感じますね〜。

当時は今よりもスターという言葉に重みがあって、スターになれることは希有なことで、そうとうドラマチックなことだったのかもしれません。

私はバーブラ・ストライザンド版を、DVDで観たことがありました。「スター誕生」というタイトルのインパクトにひかれたのですが、ストーリーはあまり記憶に残っていませんでした。

なので、今回のガガさまの「アリー スター誕生」は新たな気持ちで観ることができました。

今のように「ボヘミアン ラプソディ」旋風が大々的に吹きあれていなければ、きっともっと注目されていた作品に違いありません。

だって、ガガさまがシロウトの女の子という設定であろうとも本気モードで歌うのですもの。

名もないゲイバーで歌うシンガーが、ガガさまのあの迫力、あのオーラ全開で歌っちゃうわけで、それだけでじゅうぶんに「この子はスターだっ!」という「スター誕生」感があふれだしちゃうでしょ?という感じです。

「ボヘミアン ラプソディ」のライブエイドの場面もそうでしたが、この作品でもアリーがバックステージから客席へと出てゆくシーンがとても臨場感があります。

ステージの袖でただわくわく様子をながめていた女の子が、いきなり名前をよばれてライトがあふれるステージへとひっぱりだされ、おずおずとステージのマイクのまえ歩みより、まぶしいライトのなかたくさんの観客をまえにおっかなびっくり歌いはじめる ・・・ という。

おそらく今までは、その様子を客席からながめているというカットが多かったけれど、これはあくまでもアリーの目線で、たくさんの観客のまえにはじめて進みでる動揺やら緊張感、怖さがじかに伝わってきます。

ガガさまの迫力ある歌声だけでもじゅうぶん伝わるものがありますが、さらにガガさま自身がスターへの階段を上がっていくときに感じたであろう思いが、このアリーをさらにリアルにしているのだと思います。

ガガさまというと、もともとどのようなお顔なのかがわからないほどに曲ごとにお顔のデコレイションがガラリと変わるので、この映画を観ていて「あら〜、ガガさまってこういうお顔だったね!」と、ほぼオリジナルのお顔をはじめて見られたように感じました(笑)。

さて、オスカーはいかに?!☆☆

 

 

19-01-16 攻撃されたと感じるときこそ・・・

「私たちはつねに、“ 自分のこころが外側にうつしだすものだけを認識し、経験する ” といいます。しかし、客観的にみて非がないのに攻撃され、それに対して怒りを感じる、という場合はどうなのでしょうか?」というご質問をいただきました。

まず、「客観的にみて攻撃」ということは、じつはありえないのです。

それを「攻撃である」と知覚するのはいつも、「主観的」なこころ、個人です。

「私は攻撃されている!」という自己の解釈、ものごとへのラベリングがないかぎり、攻撃だとはみなされません(例えば、誰かが「きみは攻撃されていたね」と言ったとしても、「それはなんのこと?」と本人はまったくそのように受けとっていないこともあるからです)。

私たちは「自分が見たいものを目にし、自分が感じたいものを感じたいように感じ、自分が願望しているストーリーを願望どおりに体験する」という世界に住んでいます。

それは自分が体験する「よいこと」も「悪いこと」も含めて、すべて自分のこころの深いところにある無意識のおもいがベースになって、知覚をつくりだしているということです。

つまり、「私」の世界とは、自分の信じていることを体験するための場所なのです。

ただし、アタマで考えている私の考えと、無意識で信じていることはまったく別ものです。重要なのは、無意識のこころで信じていることです。

そのように考えると、好きでないことを体験したときには「“ 自分がほんとうは何を願望しているのか ” を問いなおし、正す」というチャンスを与えられている、ととらえることもできます(アタマでは他のことを望もうとしているのに、無意識ではまだそれを握りしめつづけているということにあらためて気づき、訂正する、ということです)。

自分が無意識のうちにもっている、自分を傷つける「痛みにみちた考え」が表面にあらわれ、形になってくれたおかげで、訂正のチャンスを与えられ、それ以上自分で自分を痛めつけることを終わらせることができるのです。

去年こんなことがありました。

大通りを青信号で渡っていたら、真横からつっこんできた電動自転車にひかれて数メーターふっとばされ、ジーンズは破れるわ、怪我をして流血しているわ・・・。

そのうえ、つっこんできた自転車の女性は「なんで前を見ていないのよ!」と仁王立ちで見下ろしながらのたまい、倒れている私に手もさしのべず ・・・ ちょっとぉ! 歩行者の青信号ですぜィ! (ꐦ°д°)

その瞬間、ひかれた怒りをとおりこして、怪我をしている人にさえも手をさしのべることができない、この女性のいっぱいいっぱいさを感じてしまい、何も言葉がでてきませんでした(一瞬で、そのひとの苦しみと痛みにみちた生活がすべて見えたように感じたのです)。

さいわい骨は折れていなかったようなので、そのまま帰宅しました。

とはいえども、お気にいりのジーンズは破れ、流血するひざは痛み、打撲とあざはひどくなり。

しだいにむくむくと腹立たしさを感じはじめるしまつ。治るまでの一ヶ月半ぐらいは傷が痛むたびに「あの人、ひとこともあやまってないし〜!(怒)」というおもいに苦しめられることに ・・・。

このように、ものごとを解釈しているのが被害者でいたいと思っているエゴであるときには、そこでほんとうに何が起きているのかを正しく識別して、学び、自分を正すということが難しい状況になります。

すっぽり、自分の体験していることは、自分のこころの結果だということを忘れてしまうからです(エゴは怒りという激しい感情を使って、自分の正当性を主張することをやめませんから)。

だから、かんたんに「私はかわいそうな被害者以外のなにもでもありません」という結論におちついてしまいがちです。

けれどもその一方で、エゴとしての自分が、長引く痛みを使って相手を責めて、自分はかわいそうな犠牲者になりさがろうとたくらんでいるのにも静かに気づいている自分もいます。「あ〜、このエゴのたくらみに同意すると、また自分も罪悪感をためこむハメになる・・・」とわかっているのです。

だから、怒りがわいて被害者になりたい願望がわくたびに、すばやく自分のこころを正す必要があるのです(怒りがわくたびに正しましたよ!)。

そのとき、被害者を主張しているエゴとしての自分には正すことができません。

なので、ハイヤーセルフにこころを向けて、こうお願いします。「今、ばりばりのエゴ(被害者)になっているので、ほんとうの自分に戻してください。ものごとを正しく知覚させてください」と。

そうして、「ほんとうのことを見たい」という意志をもつことで、ハイヤーセルフの視点がようやくあらわれます(私たちにできるのはいつも、正しいこころを持ちたい、ハイヤーセルフ助けてください、道を正してください!という謙虚な意志をもつことだけでした)。

すると、「ああ、こんな痛い思いをしてまで、わたしは全力で被害者にとどまりたいのだ」「自分が弱い、小さいと感じておびえている自分を信じているからこそ、誰かを悪者にして責めるストーリーを選んで、自分は正しいのだという主張をしたいのだ」というおもいにいたるのです。

私たちにとって、自分のなかにある「小ささ」「価値がない感覚」、それゆえの「怒り」と「攻撃性」は、ふだんはまったく自覚されないように隠されています(ハイ、これは誰のなかにも等しくあるものです)。

けれども、自分のなかにあるものが外側にうつし出されて、他からの「攻撃」や「痛み」として自覚されているときにこそ、それを手放すことができる絶好のチャンスが与えられている、というわけです。

すべての抑圧されたおもいは、自分の手のひらにのせて、ながめて、自覚されることで、はじめて捨て去ることができます。

自分で気づいていないものをなくすことはできません。必ず手放すまえには、それに「気づく」という作業が必要になるのです。

だから、「痛いおもい」「苦しいおもい」「悲しいおもい」に遭遇したときには、「なんで?!」と動揺するよりも、自分の安らぎをはばんでいた大きな障壁をひとつ手放すことができるチャンスだ! と喜びましょう(それは、ときには目のまえに見せつけられることで苦しい作業と感じられることもありますが、お掃除が進んでいるからこそ「ゴミ」が目につく、ということでもあるのです)。

目のまえのゴミに腹をたてて、それにあたりちらして戦いをいどむよりも、

「ああ、こんなゴミを宝物だと思ってずっとだいじにしていたんだ」「けれども、今の自分にはぜんぜんあっていない」「ゴミを捨てることによって、ほんとうの自分があきらかになる」「だったら、喜んで手放してしまおう!」と気づくことで、「自分」をラクにしてあげることができます。

だから、腹の立つこと、痛みを感じることは、すべて自分のこころのなかの間違い探しに使うことができ、またそれを取り消す機会を与えられているということなのです。

しかし、それはひとりでできることではなく(なぜなら、腹が立ったり、痛みを感じているときひは、すでにほんとうの自分からズレているからです)、ほんとうの自分であるハイヤーセルフにすべてを委ねてお願いするという、まずはその謙虚に「さし出す」意志が大きな変化への第一歩なのですね。 ٩(。θ◡θ。)۶

 

 

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気づきの日記「攻撃されたと感じるときこそ・・・」

「私たちはつねに、“ 自分のこころが外側にうつしだすものだけを認識し、経験する ” といいます。しかし、客観的にみて非がないのに攻撃され、それに対して怒りを感じる、という場合はどうなのでしょうか?」というご質問をいただきました。

まず、「客観的にみて攻撃」ということは、じつはありえないのです。

それを「攻撃である」と知覚するのはいつも、「主観的」なこころ、個人です。

「私は攻撃されている!」という自己の解釈、ものごとへのラベリングがないかぎり、攻撃だとはみなされません(例えば、誰かが「きみは攻撃されていたね」と言ったとしても、「それはなんのこと?」と本人はまったくそのように受けとっていないこともあるからです)。

私たちは「自分が見たいものを目にし、自分が感じたいものを感じたいように感じ、自分が願望しているストーリーを願望どおりに体験する」という世界に住んでいます。

それは自分が体験する「よいこと」も「悪いこと」も含めて、すべて自分のこころの深いところにある無意識のおもいがベースになって、知覚をつくりだしているということです。

つまり、「私」の世界とは、自分の信じていることを体験するための場所なのです。

ただし、アタマで考えている私の考えと、無意識で信じていることはまったく別ものです。重要なのは、無意識のこころで信じていることです。

そのように考えると、好きでないことを体験したときには「“ 自分がほんとうは何を願望しているのか ” を問いなおし、正す」というチャンスを与えられている、ととらえることもできます(アタマでは他のことを望もうとしているのに、無意識ではまだそれを握りしめつづけているということにあらためて気づき、訂正する、ということです)。

自分が無意識のうちにもっている、自分を傷つける「痛みにみちた考え」が表面にあらわれ、形になってくれたおかげで、訂正のチャンスを与えられ、それ以上自分で自分を痛めつけることを終わらせることができるのです。

去年こんなことがありました。

大通りを青信号で渡っていたら、真横からつっこんできた電動自転車にひかれて数メーターふっとばされ、ジーンズは破れるわ、怪我をして流血しているわ・・・。

そのうえ、つっこんできた自転車の女性は「なんで前を見ていないのよ!」と仁王立ちで見下ろしながらのたまい、倒れている私に手もさしのべず ・・・ ちょっとぉ! 歩行者の青信号ですぜィ! (ꐦ°д°)

その瞬間、ひかれた怒りをとおりこして、怪我をしている人にさえも手をさしのべることができない、この女性のいっぱいいっぱいさを感じてしまい、何も言葉がでてきませんでした(一瞬で、そのひとの苦しみと痛みにみちた生活がすべて見えたように感じたのです)。

さいわい骨は折れていなかったようなので、そのまま帰宅しました。

とはいえども、お気にいりのジーンズは破れ、流血するひざは痛み、打撲とあざはひどくなり。

しだいにむくむくと腹立たしさを感じはじめるしまつ。治るまでの一ヶ月半ぐらいは傷が痛むたびに「あの人、ひとこともあやまってないし〜!(怒)」というおもいに苦しめられることに ・・・。

このように、ものごとを解釈しているのが被害者でいたいと思っているエゴであるときには、そこでほんとうに何が起きているのかを正しく識別して、学び、自分を正すということが難しい状況になります。

すっぽり、自分の体験していることは、自分のこころの結果だということを忘れてしまうからです(エゴは怒りという激しい感情を使って、自分の正当性を主張することをやめませんから)。

だから、かんたんに「私はかわいそうな被害者以外のなにもでもありません」という結論におちついてしまいがちです。

けれどもその一方で、エゴとしての自分が、長引く痛みを使って相手を責めて、自分はかわいそうな犠牲者になりさがろうとたくらんでいるのにも静かに気づいている自分もいます。「あ〜、このエゴのたくらみに同意すると、また自分も罪悪感をためこむハメになる・・・」とわかっているのです。

だから、怒りがわいて被害者になりたい願望がわくたびに、すばやく自分のこころを正す必要があるのです(怒りがわくたびに正しましたよ!)。

そのとき、被害者を主張しているエゴとしての自分には正すことができません。

なので、ハイヤーセルフにこころを向けて、こうお願いします。「今、ばりばりのエゴ(被害者)になっているので、ほんとうの自分に戻してください。ものごとを正しく知覚させてください」と。

そうして、「ほんとうのことを見たい」という意志をもつことで、ハイヤーセルフの視点がようやくあらわれます(私たちにできるのはいつも、正しいこころを持ちたい、ハイヤーセルフ助けてください、道を正してください!という謙虚な意志をもつことだけでした)。

すると、「ああ、こんな痛い思いをしてまで、わたしは全力で被害者にとどまりたいのだ」「自分が弱い、小さいと感じておびえている自分を信じているからこそ、誰かを悪者にして責めるストーリーを選んで、自分は正しいのだという主張をしたいのだ」というおもいにいたるのです。

私たちにとって、自分のなかにある「小ささ」「価値がない感覚」、それゆえの「怒り」と「攻撃性」は、ふだんはまったく自覚されないように隠されています(ハイ、これは誰のなかにも等しくあるものです)。

けれども、自分のなかにあるものが外側にうつし出されて、他からの「攻撃」や「痛み」として自覚されているときにこそ、それを手放すことができる絶好のチャンスが与えられている、というわけです。

すべての抑圧されたおもいは、自分の手のひらにのせて、ながめて、自覚されることで、はじめて捨て去ることができます。

自分で気づいていないものをなくすことはできません。必ず手放すまえには、それに「気づく」という作業が必要になるのです。

だから、「痛いおもい」「苦しいおもい」「悲しいおもい」に遭遇したときには、「なんで?!」と動揺するよりも、自分の安らぎをはばんでいた大きな障壁をひとつ手放すことができるチャンスだ! と喜びましょう(それは、ときには目のまえに見せつけられることで苦しい作業と感じられることもありますが、お掃除が進んでいるからこそ「ゴミ」が目につく、ということでもあるのです)。

目のまえのゴミに腹をたてて、それにあたりちらして戦いをいどむよりも、

「ああ、こんなゴミを宝物だと思ってずっとだいじにしていたんだ」「けれども、今の自分にはぜんぜんあっていない」「ゴミを捨てることによって、ほんとうの自分があきらかになる」「だったら、喜んで手放してしまおう!」と気づくことで、「自分」をラクにしてあげることができます。

だから、腹の立つこと、痛みを感じることは、すべて自分のこころのなかの間違い探しに使うことができ、またそれを取り消す機会を与えられているということなのです。

しかし、それはひとりでできることではなく(なぜなら、腹が立ったり、痛みを感じているときひは、すでにほんとうの自分からズレているからです)、ほんとうの自分であるハイヤーセルフにすべてを委ねてお願いするという、まずはその謙虚に「さし出す」意志が大きな変化への第一歩なのですね。 ٩(。θ◡θ。)۶

 

 

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コケのつぎは・・・

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お正月がすぎて日常が戻ってきたと思ったら、あっというまに1月も中旬になろうとしています。

そんな朝、ピンポーン!とお届けものがとどいたとおもったら、あら、サンタさんじゃありませんか?! どうかなさいました??

大変遅くなって申し訳ない・・・と気まずそうに渡してくださったハコの中身は ・・・ コスメでした。

わっ☆ クッション ファンデだわっ!じつはすごく気になっていました!(☆歓喜☆)

かなり人気があるようで、いろいろ出てるけれど種類がありすぎてわからないし、使い方も難しそうで、なかなか手がでなかったのです。

このクッションファンデは、つけ心地だけでなく、カバー効果や美容効果もあって、雑誌に紹介されてからというもの人気が出てしまい、品薄で手に入らなくなっていたそう。

なんとサンタさんは、クリスマスまえからじっと列にならんでゲットしてくださったそうな。レフィルとミネラウパウダーまでついてる!(女ごころがよくわかるサンタさんだわ・笑)

じつはこれは、以前アイスランドの苔クレンジングを送ってくれたお友だちからのプレゼント。いつもヨイものを見つけると、私の分もゲットして贈ってくださる旧友です(いつもありがと〜〜♡)。

彼女にセレクトショップをもってほしいほど、コスメだけでなく小物もアクセサリーもお洋服も、女ごろこをくすぐり、わくわくするものを見つける天才なのです(私の使っているもので、それイイね!とほめられるのは、たいてい彼女のチョイスです・笑)。

さて、クッションファンデを使ってみました ・・・ ぴたっと薄づきで軽いだけでなく、さらっとしっとり。少しでスルリとのびるのにも感動!そして顔を洗ったあとにつるつるしています。人気があるというのに納得しました。オススメですよ〜!

そうそう、以前の苔グレンジングも、少しで細かい泡が立つコスパのいいクレンジングで、なによりも洗ったあとにとってもしっとり、色白な感じになります。こちらもすごくイイですよ〜。

サンタさん、ありがと〜♡

 

今年の目標は?

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お友だちとお茶をしながら、「ところで、今年の目標は?」という話になったのです。

「えっと・・・?・・・  無いわ(笑)」というのが私の答え。

たとえおきまりの三日坊主であろうとも、毎年とりあえず目標はかかげていたのですが ・・・ 今年は目標をもたない! ・・・ ってことが目標(・・・ って結局、目標あるやん!笑)。

つまり、目標で現実をどうにかしようとするよりは、できる限りそのまま指一本ふれず、ものごとを流れるままに流しておくこと。

じつはすでにそこにある完全さに対して、私があれやこれやとちょっかいを出すことによって、結局現実を混沌としたものに変えていたのだ、ということにようやく気づいたわけです。

だから、目標をもたずに現実を「あるがまま」に受け入れることが第一目標で、それができない自分もやんわりと赦すことも目標です。

昨日も、ぽっかり空いた時間に自分のお尻をたたいて無理やり行動するのをやめて、やわやわとリラックスタイムを過ごしていたら、ちょうどお誕生日だったお友だちとお茶ができることになり、ぷちお祝いをさせていただきながらバースデーの楽しい雰囲気をご一緒させていただくことができました。

人生ほっておくとそんなあたたかな愛のプレゼントが自然にやってくるのだな〜と実感し、感謝した一日でした。

なので、今年は現実的な目標はもたず、やわやわと目のまえにあるものごとを「あるがまま」に受けとり慈しむことを目標の一年といたします!

お友だちとのお茶で、今年初のお外スウィーツ、ティラミス。美味でした

お友だちはゴハン。具沢山のスープとクスクスがおいしそうです! @カフェ シェ・リュイ代官山

「あるがまま」の流れから生まれた、楽しい分かち合いのひとときをありがとうございました♡

 

PS.  「あるがまま」とは、別の言いかたをすれば「明け渡す」ということでもあります。

今、古いノートのはしにこんな走り書きの一節を見つけました(おそらく、どなたか賢者の方の言葉だと思います)。

『至福とは、完全に明け渡すこと。たとえ、気づかないぐらい微小なものでも明け渡されずに残っていたなら、絶望的な怖れを感じる』

まさに、握りしめ、コントロールしようとすることは「怖れ」を自ら生みだすことそのものなのですね。

 

19-01-08 ゲームからおりる

もし、今、なんらかの怖れや苦痛、攻撃を経験しているのなら ・・・

じつは、「みずからそのゲームを楽しんでいて、やめられない自分がいる」ということ(たとえ無意識であったとしても)。

そこから救われるただひとつの方法は、

ただ自分がそのゲームをやめる、ゲームからおりる、ということだけです。

ゲームからおりる手っとりばやい方法とは、「ただゲームのルールを無視する」ことだけです。

それが怖れや苦痛、攻撃のゲームなら、それにいちいちかまわない、反応しない、ということ。

ゲームのなかでは、怖れや苦痛、攻撃の兆候を見つけるやいなや、おもいっきり「被害者」という役割を演じはじめ、「反撃、逃走、引きこもり、死んだふり」をきめこむことが決まりでした。私は傷ついたのだ!という合図です。

それによって、怖れや苦痛、攻撃は解決されず、つづきます。

でも、ゲームをしないということは、そんな反応を一切やらない、やめる、ということ。

ただ、状況をあるがままに見て、重要視せずにスルーします。裁きません。なんせ、ただのゲームですから。

もし、そこに怖れや痛みの感情・感覚がわき起こったなら、それを価値判断することなく、怖れることなく、あるがままに、ただ自分のなかを通過させます。それによってその感情・感覚は終わりになります。

「裁くことのない姿勢」こそが、もう私はこのゲームをしていない、これからおりたのです、というサインです。

新たなエネルギーが供給されることなく、ゲームの電源は静かに抜かれ、おだやかな本来の日常が戻ってくるのです。(そう! ゲーム機を切ると静かです。闘いがやみます。)

だから ・・・ ただゲームをおりる、ということを学びましょう! ( ・◡・ )♫

 

 

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気づきのぷちノート「ゲームからおりる」

もし、今、なんらかの怖れや苦痛、攻撃を経験しているのなら ・・・

じつは、「みずからそのゲームを楽しんでいて、やめられない自分がいる」ということ(たとえ無意識であったとしても)。

そこから救われるただひとつの方法は、

ただ自分がそのゲームをやめる、ゲームからおりる、ということだけです。

ゲームからおりる手っとりばやい方法とは、「ただゲームのルールを無視する」ことだけです。

それが怖れや苦痛、攻撃のゲームなら、それにいちいちかまわない、反応しない、ということ。

ゲームのなかでは、怖れや苦痛、攻撃の兆候を見つけるやいなや、おもいっきり「被害者」という役割を演じはじめ、「反撃、逃走、引きこもり、死んだふり」をきめこむことが決まりでした。私は傷ついたのだ!という合図です。

それによって、怖れや苦痛、攻撃は解決されず、つづきます。

でも、ゲームをしないということは、そんな反応を一切やらない、やめる、ということ。

ただ、状況をあるがままに見て、重要視せずにスルーします。裁きません。なんせ、ただのゲームですから。

もし、そこに怖れや痛みの感情・感覚がわき起こったなら、それを価値判断することなく、怖れることなく、あるがままに、ただ自分のなかを通過させます。それによってその感情・感覚は終わりになります。

「裁くことのない姿勢」こそが、もう私はこのゲームをしていない、これからおりたのです、というサインです。

新たなエネルギーが供給されることなく、ゲームの電源は静かに抜かれ、おだやかな本来の日常が戻ってくるのです。(そう! ゲーム機を切ると静かです。闘いがやみます。)

だから ・・・ ただゲームをおりる、ということを学びましょう! ( ・◡・ )♫

 

 

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