気づきの日記「決めたことが ・・・ 体験すること」

令和の時代の幕があがりましたね。

お正月や春分(天空での新年)、お誕生日、記念日など ・・・ 新たなスタートをきる機会が一年に何回かありますが、新元号はやはりリセット感が大きいです。

「令和」という元号にこめられた思いや、新天皇・皇后のほんわかしたたたずまいから、新しい時代はより温かで人に優しいイメージが伝わってきます。

みなさまはどんな「令和」にしたいですか?

「愛と安らぎと喜びをあちこちに目にしながら、愛と安らぎと喜びの体験をわかちあいながらすごしたい!」、私はそんなふうに感じました。

なぜなら、それが私たちみんなにすでに与えられている当然の権利でもあるから。当然のことを当然のごとく、いたるところに見て体験したい!

私たちは自分が何を見て、何を体験するのか、自分で決めています。そして、決めたものしか見ることができません。

「私が今、目にして体験していることを自分で決めた? そんな覚えはないけれど・・・」って?

決める(それを受けいれる)ということは、ほぼ無意識に行われています。「これを信じるぞ!」というはっきりとした自覚なく、するりと「自分にとって妥当だ!」と思ったことを受け入れます。

そして、その決定の力は強力です。それに変更がくわえられない限り、その決定はどこまでも延々とつづいてゆくのです。

だからこそ、今の自分にそぐわない現実が目のまえにあるのなら、「過去に受け入れたことがそのまま続いているのだわ。でも、それは今、私を幸せにしていないし、私にはもうふさわしくない」とちゃんと気づいてあげることが必要です。

その気づきが、進む方向を変えるためのブレーキです。

そして実際に方向を変えるために、それを手放して、たった今の自分が望む方向へと選択を変えなくなてはなりません(この変更だけは、意識的に行わなければならないのです)。

だから、今、あらためて決めるのです。今の私は、何を体験したいのかを!

「まあまあ幸せだった」などと誤摩化すのはやめましょう。「まあまあ」というのは存在せず、「幸せか」「幸せじゃないか」の二択しか存在しません。

何か間違ったことをこころに受け入れたせいで、その結果を受けとりつづけていたのならば、今、あらためて自分のために決めなおしてあげましょう。

私たちは自分の体験するものは向こうからやってきて、それに自分がたまたま出会うのだと信じています。が、

それは間違いです。たまたまはないのですね。そして、自分の外などというものはなく、すべてこころのイメージであり、見たいものを見ています。

私たちが目にするものは、「これを見たいのだ!」とここらがあらかじめ受け入れて、決めているものだけなのです。

だからこそ、新しいスタートにはあらかじめ「決めておく」ことが大切です。それは、令和のスタートに限らず、きょうという日のスタートに、人との出会いに、何かをすることに ・・・。

「決めたもの」こそが、見えるものであり、受けとれるもの! (*´∀`*)ノ

さて、あなたはこの新しい時代に、どんなご自分を目にしたい思いますか?

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

両国のお祭り♪

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

まだ四月なのに、梅雨のようにジメジメだったり、急に冷えこんだり、季節がごっちゃなこの頃でしたが、

GW に入り、ようやくそれっぽいお天気となりました。澄みわたった青空に新緑がまぶしいです。

またまた、両国にぎわい祭りにやってきました。

いろんなチャンコ屋さんの味が安価で味わえるのが魅力です。

人ごみをかきわけまず向かったのは、寺尾さんのチャンコ屋台。どこも長蛇の列ですが、ここはとりわけです。

おいしそ〜〜〜♡♡ お醤油ベースのお味がしっかりめのチャンコで、コクも深め。ゴハンが何杯でも食べられて、いくらでも大きくなれそう!(笑) たっぷり入って500円、お財布にやさしいのです。

おつぎは、霧島さん。

お店によってまったく味が違います。こちらは、ちょっとサラリとした印象。お友だちとシェアをしていただき、さらに・・・

私がどうしても食べたかった国技館名物の焼き鳥屋さんへ(国技館の地下に焼き鳥工場があるそうな)。タレのお味がおいしく、食べごたえも十分♡ けっこうな勢いで完食!

さらに、ぜんぜん甘党じゃないお友だちから国技館ソフトクリームのご所望が!場所に来るたびに買っているそうな。すでに食べる気まんまんで、完全に目がハートのご様子。

そんなに美味なら・・・と、いただいてみました。たしかにたしかに、牧場テイストでミルク味がしっかり、でもさっぱりしたおいしさです。

人も多くなってきた頃、私たちはさっさと両国をあとにし、お決まりの場所へ。神楽坂のロイヤルホスト。

チャンコのあとに、なぜかパンケーキを食べるというヘンな慣わしを敢行。それにコーヒーもじゃんじゃん飲みたい!

おいしくパンケーキをたいらげ、八杯もドリンクをいただき、長々とおしゃべりを楽しむ午後 ・・・そして陽が暮れ、きょうも楽しかったね〜♪ と満面の笑みで帰途につくのでした。

予算二千円少々という、とってもリーズナブルな休日でした〜!(笑)

 

【 GW セラピー割引キャンペーン 4/26~5/6 】

セラピーって興味があるけど、時間がとれず一歩をふみだせなかった方! お休みを使って、こころをリフレッシュたいとお考えの方! 新しい気持ちで、「令和」をスタートさせてみませんか?

GW期間中(4/26~5/6)、各種セラピーが割引きでお受けになれます。

【割引メニューと料金】

*受講コース相談カウンセリング ・・・    ¥5,000 → ¥3,000

*ヒプノセラピー1クール ・・・      ¥74,000 → ¥70,000
*ヒプノセラピー1セッション ・・・    ¥30,000 → ¥25,000
*ヒプノ リピーターセッション ・・・    ¥20,000 → ¥16,000

*セラピューティックカウンセリング ・・・ ¥18,000 → ¥15,000

*リコネクティブ ヒーリング(3回) ・・・ ¥46,000 → ¥43,000
*リコネクティブ ヒーリング(1回) ・・・ ¥16,000 → ¥15,000

 

【キャンペーン期間】 

4月26日(金)〜 5月6日(月)

*割引は、指定の期間内にセッションをお受けになる方に適用されます。
(複数回のセッションにつきましては、期間中にすべてをお受けになる必要はありません。)
*セッション枠がうまりしだい、終了となりますのでご了承ください。

 

【お申し込み方法】

それぞれのセラピーページのお申し込みフォームからお申し込みください。
(セラピーページにはキャンペーン割引の表記はございませんが、割引は適応されます。)

→受講コース相談カウンセリング
→ヒプノセラピー
→セラピューティック カウンセリング
→リコネクティブ ヒーリング
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19-04-24 君の名前で僕を呼んで

北イタリアの美しい田舎町。避暑にやってきたひとつの家族。仲むつまじい夫と妻、そして二人の愛情を一身に受けて成長する息子のエリオット。

夏のあいだ、その別荘に集うさまざまな人たち、親戚やら夫妻の友人、息子の女友達、邸で働く人々 ・・・ そして、その夏そこへ迎えいれられた大学院生の青年 オリヴァー。

十七歳のエリオットは、聡明でものおじしないオリヴァーをはじめは鼻もちならない自信家として嫌厭するのですが・・・ ともに時間をすごすうちにどんどんこころを奪われてゆく自分に気がつきます。

隠したいのに、隠せないほとばしる気持ち ・・・。ゆれ動くこころ・・・。おしよせるさまざまな感情・・・。

画面にさまざまな音があふれています。

ときにはセリフさえもかき消してしまいそうなバイクや自転車の車輪の音、鳥たちのさえずり、木々や風のざわめき、水のしたたる音、古い邸のきしむ音、グラスやお皿のぶつかりあう音、人々のざわめきや笑い声、ピアノの音色、虫の声、夜のしじま ・・・ まるでそこに自分がいるような生き生きとした感覚があります。

そして、このさまざまな音のなかで、かえって際立つ静寂。エリオットのこころの動きがありありと伝わってきます。

ここに登場するお父さんとお母さんがすごくいいのです。

大切な愛を見失ってしまったと感じている息子に、「お互いを見出せて、幸せだったじゃないか。私がついているよ」とお父さん。

「人は早く立ち直ろうとこころを削り、それによって新たな相手に与えるものも失われてしまう」(なんという言葉!)。だから、「痛みを葬りさるな。そして、感じた喜びも大切にしなさい」と。

誰もが感じたことがある、人を好きになってしまったときのはじける喜びやこころの痛み。透明があって、みずみずしさにあふれる美しい一本でした。

 

 

お茶の間シネマトーク「君の名前で僕を呼んで」

北イタリアの美しい田舎町。避暑にやってきたひとつの家族。仲むつまじい夫と妻、そして二人の愛情を一身に受けて成長する息子のエリオット。

夏のあいだ、その別荘に集うさまざまな人たち、親戚やら夫妻の友人、息子の女友達、邸で働く人々 ・・・ そして、その夏そこへ迎えいれられた大学院生の青年 オリヴァー。

十七歳のエリオットは、聡明でものおじしないオリヴァーをはじめは鼻もちならない自信家として嫌厭するのですが・・・ ともに時間をすごすうちにどんどんこころを奪われてゆく自分に気がつきます。

隠したいのに、隠せないほとばしる気持ち ・・・。ゆれ動くこころ・・・。おしよせるさまざまな感情・・・。

画面にさまざまな音があふれています。

ときにはセリフさえもかき消してしまいそうなバイクや自転車の車輪の音、鳥たちのさえずり、木々や風のざわめき、水のしたたる音、古い邸のきしむ音、グラスやお皿のぶつかりあう音、人々のざわめきや笑い声、ピアノの音色、虫の声、夜のしじま ・・・ まるでそこに自分がいるような生き生きとした感覚があります。

そして、このさまざまな音のなかで、かえって際立つ静寂。エリオットのこころの動きがありありと伝わってきます。

ここに登場するお父さんとお母さんがすごくいいのです。

大切な愛を見失ってしまったと感じている息子に、「お互いを見出せて、幸せだったじゃないか。私がついているよ」とお父さん。

「人は早く立ち直ろうとこころを削り、それによって新たな相手に与えるものも失われてしまう」(なんという言葉!)。だから、「痛みを葬りさるな。そして、感じた喜びも大切にしなさい」と。

誰もが感じたことがある、人を好きになってしまったときのはじける喜びやこころの痛み。透明があって、みずみずしさにあふれる美しい一本でした。

 

 

気づきの日記「私の目標は “目標を達成しないこと”?!」

難しい資格の取得にむかって、長年コツコツと勉強をつづけているAさん。

そろそろ成果を手にできそうな今 ・・・ 心身のバランスを崩して、勉強すら手につかなくなってしまいました。ゴールは目前なのに ・・・ アセりがつのります。

そこで、Aさんの深いこころを探求してみたら ・・・ 意外にも、「この目標を達成してはならない」という思いが見いだされ、じつはこころは別のゴールを目指していたのです。

別のゴールとは、「苦しみつづけること」。

「その目標を達成しないことで、苦しみのなかにとどまるのだ! 」、これがAさんのエゴが言いはる目標です。

どうりで目標に到達できそうになってきたら、目標に近づけないことが起こりはじめたわけです。

目標を達成して幸せな気持ちになったら、エゴは出番がなくなってしまいます。なんせエゴのお仕事は、できるかぎり苦しんでもらうことだからです。

だからエゴは、よい気持ちや幸せを全力で阻止します。

たとえば ・・・ 「わ〜い♪ 大好きなケーキ!いただきま〜す」と喜びでケーキにかぶりつこうとしたら、ケーキが床にポトリ ・・・喜びの瞬間があっというまにガッカリの瞬間に早変わりします。とにかくエゴは、幸せになるまえに失敗してほしいのです。イヤな気分でいてほしいのです。

Aさんの場合は、体調不良とともに落ちこみやイヤな気分が浮上し、子どもの頃に体験したつらい場面が思いだされてきました。そうなると、「ああ〜、この体験のせいでこんな気持ちになり、勉強さえできなくなったんだ。私を傷つけたあの人のせいだ。だから私は進めない」と感じます。

この推論は、とても正当な感じがします。だって私はこんなに傷ついていて、たった今こんなに苦しいんですもの・・・と。

でも、ここで気をつけなければならないのは、エゴが幸せを阻止する手として、すぐにバレてしまう手は使わないということです。つまり、これはフェイクの原因です。

「苦しくて勉強が手につかない」 → 「苦しみつづけることを目標にしていたことに気がついた」 → 「でも、この苦しみそのものは子どものときの癒されていないつらい体験のせいだ。あのとき、ダメな人、不十分として扱われたからだ」 → 「すべてあの人のせいだ!」 ・・・ と自分を被害者に仕立てあげてしまうことで、解決の糸口が自分にはないように思わせるのです。

なんせ、「被害者」ですから。かわいそうな被害者は無力なのです。

これもエゴが「幸せにしない」という目標のために問題をかく乱し、原因をわからなくする手です。今、ここにある問題の原因を、自分から切り離して他人のせいにして、さらに遠い過去へともっていって、もうその時間に起こったことは癒すことができないように感じさせます。

でも、これはエゴの方便です。

真に解決したかったら、そんなエゴの複雑な理由づけにずぶずぶとかかわってはいけないのです。

解決法はもっとシンプルです!

Aさんの場合は、勉強ができないほどイヤな気分が出てきて、「この感情は過去に根ざしていて、そこが癒されなければ、私は立ち直れない。元気になれない」とエゴは語りかけます ・・・が、それが原因ではありません。

原因は、今感じているその倦怠感、やる気が出ない感じ、怖れ、自責の念、怒りなど ・・・今感じているすべてがただこころのなかに封印されつづけていた、自分がもっていたくて抱えていた、ということです。

そして、それは今、解放してほしいのです!

だから、ほんとうにしなければならないのは、たった「今」の感情を、たった今、まったく過去のストーリーや裁きの気持ちと結びつけることなく、ただそのまま受けいれて、感じてあげます。あとはハイヤーセルフに手渡すだけです。

過去云々は、エゴがより問題を複雑にして混乱させ、もう解決ができないように感じさせる手口にすぎません。

ただ今ある苦しさとともに、たとえ過去が浮かびあがろうとも、ただそこにある「感情」だけにひたすら向きあうことが重要です。

こころのなかで責めつづけていたその人は過去なので、もう手放します(ほんとうはこの瞬間というものは独立して存在しているので、過去とはなんの関係もないのですね)。

もしそこで、誰かを責めることにハマってしまうと、相手を攻撃することでより罪悪感をふやし、そのため無意識のうちに自分を痛めつけることになります。「神さま、私と同じ完全性をもつ相手を攻撃してしまいました。間違っていました。神さまにおしおきされるまえに、自分で自分を痛めつけますから、どうか無罪放免にしてください」と。

私たちのこころはひとつなので、相手を責めて攻撃しつづけると結局、共倒れになるしかありません。手をつないで地獄行きです。それがひとつであるものの運命です。

自分のなかのわだかまり、怒り、赦せない思いが手放されると、自分の見ている世界が平和になります。

自分のこころで生じたものは、結局は自分のなかにあり、自分に対して何らかの結果を生み出します。すべての攻撃の思いは、自分に災いし、すべての愛の思いも、自分を豊かにします。

自分の目にする世界とは、結局は自分のこころが生みだす映像にすぎないので、もしほんとうに安らかな世界を体験したいのなら、まずは自分のこころのなかから闘いの思い、攻撃の思い、裁きの思いを断固として追放する気持ちが大切です。

それらのほんとうの自分ではない攻撃の思いに気づき、ハイヤーセルフにもって行ってもらいましょう。すべて手放しましょう。自分ではないものを大切にすると、ほんとうの自分自身を見失いつづけます。

ほんとうのあなたは、まったく無傷な光輝くダイヤモンドのような存在です。その光をさえぎるどんな思いも、ゆるしてはいけないのです。ゆるしてしまうと、あなたは知らぬまにゾンビ化してしまいます。

そのために、自分のこころに浮かぶ自分を傷つける思いに敏感になり、それを逐いちハイヤーセルフに渡して、もって行ってもらいましょう。本当の自分を体験したい!とお願いしましょう。

平和で穏やかなこころ、そこから自分の目にする平和で穏やかな世界が立ちあがります。攻撃さえなければ、安らぎと愛はすでにそこに存在しているからです。

天国のルートも、地獄のルートも、おもいのままです。二枚のチケットが渡されていて、選ぶのは自分です。

そして、Aさんが今懸命に進んでいる目標への道のりも、その目標じたいも、ぜんぶハイヤーセルフにゆだねてしまいましょう。それをエゴに乗っとらせるのではなく、ハイヤーセルフに渡して、全部をよきことのために使ってもらいます。

私たちは個人の満足のために目指すゴールにおいては、イバラの道を行かなければなりません。一方、それが全員のためによきことであるゴールで、人と手をとりあうなかで達成されるのであれば、道の景色もがらっと変わるはずです。

感情をただの感情(なんのラベルもない感情)として感じきったら、しっかりとハイヤーセルフの手をとってすすんでくださいね〜。

 

 

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19-04-22 私の目標は「目標を達成しないこと」?!

難しい資格の取得にむかって、長年コツコツと勉強をつづけているAさん。

そろそろ成果を手にできそうな今 ・・・ 心身のバランスを崩して、勉強すら手につかなくなってしまいました。ゴールは目前なのに ・・・ アセりがつのります。

そこで、Aさんの深いこころを探求してみたら ・・・ 意外にも、「この目標を達成してはならない」という思いが見いだされ、じつはこころは別のゴールを目指していたのです。

別のゴールとは、「苦しみつづけること」。

「その目標を達成しないことで、苦しみのなかにとどまるのだ! 」、これがAさんのエゴが言いはる目標です。

どうりで目標に到達できそうになってきたら、目標に近づけないことが起こりはじめたわけです。

目標を達成して幸せな気持ちになったら、エゴは出番がなくなってしまいます。なんせエゴのお仕事は、できるかぎり苦しんでもらうことだからです。

だからエゴは、よい気持ちや幸せを全力で阻止します。

たとえば ・・・ 「わ〜い♪ 大好きなケーキ!いただきま〜す」と喜びでケーキにかぶりつこうとしたら、ケーキが床にポトリ ・・・喜びの瞬間があっというまにガッカリの瞬間に早変わりします。とにかくエゴは、幸せになるまえに失敗してほしいのです。イヤな気分でいてほしいのです。

Aさんの場合は、体調不良とともに落ちこみやイヤな気分が浮上し、子どもの頃に体験したつらい場面が思いだされてきました。そうなると、「ああ〜、この体験のせいでこんな気持ちになり、勉強さえできなくなったんだ。私を傷つけたあの人のせいだ。だから私は進めない」と感じます。

この推論は、とても正当な感じがします。だって私はこんなに傷ついていて、たった今こんなに苦しいんですもの・・・と。

でも、ここで気をつけなければならないのは、エゴが幸せを阻止する手として、すぐにバレてしまう手は使わないということです。つまり、これはフェイクの原因です。

「苦しくて勉強が手につかない」 → 「苦しみつづけることを目標にしていたことに気がついた」 → 「でも、この苦しみそのものは子どものときの癒されていないつらい体験のせいだ。あのとき、ダメな人、不十分として扱われたからだ」 → 「すべてあの人のせいだ!」 ・・・ と自分を被害者に仕立てあげてしまうことで、解決の糸口が自分にはないように思わせるのです。

なんせ、「被害者」ですから。かわいそうな被害者は無力なのです。

これもエゴが「幸せにしない」という目標のために問題をかく乱し、原因をわからなくする手です。今、ここにある問題の原因を、自分から切り離して他人のせいにして、さらに遠い過去へともっていって、もうその時間に起こったことは癒すことができないように感じさせます。

でも、これはエゴの方便です。

真に解決したかったら、そんなエゴの複雑な理由づけにずぶずぶとかかわってはいけないのです。

解決法はもっとシンプルです!

Aさんの場合は、勉強ができないほどイヤな気分が出てきて、「この感情は過去に根ざしていて、そこが癒されなければ、私は立ち直れない。元気になれない」とエゴは語りかけます ・・・が、それが原因ではありません。

原因は、今感じているその倦怠感、やる気が出ない感じ、怖れ、自責の念、怒りなど ・・・今感じているすべてがただこころのなかに封印されつづけていた、自分がもっていたくて抱えていた、ということです。

そして、それは今、解放してほしいのです!

だから、ほんとうにしなければならないのは、たった「今」の感情を、たった今、まったく過去のストーリーや裁きの気持ちと結びつけることなく、ただそのまま受けいれて、感じてあげます。あとはハイヤーセルフに手渡すだけです。

過去云々は、エゴがより問題を複雑にして混乱させ、もう解決ができないように感じさせる手口にすぎません。

ただ今ある苦しさとともに、たとえ過去が浮かびあがろうとも、ただそこにある「感情」だけにひたすら向きあうことが重要です。

こころのなかで責めつづけていたその人は過去なので、もう手放します(ほんとうはこの瞬間というものは独立して存在しているので、過去とはなんの関係もないのですね)。

もしそこで、誰かを責めることにハマってしまうと、相手を攻撃することでより罪悪感をふやし、そのため無意識のうちに自分を痛めつけることになります。「神さま、私と同じ完全性をもつ相手を攻撃してしまいました。間違っていました。神さまにおしおきされるまえに、自分で自分を痛めつけますから、どうか無罪放免にしてください」と。

私たちのこころはひとつなので、相手を責めて攻撃しつづけると結局、共倒れになるしかありません。手をつないで地獄行きです。それがひとつであるものの運命です。

自分のなかのわだかまり、怒り、赦せない思いが手放されると、自分の見ている世界が平和になります。

自分のこころで生じたものは、結局は自分のなかにあり、自分に対して何らかの結果を生み出します。すべての攻撃の思いは、自分に災いし、すべての愛の思いも、自分を豊かにします。

自分の目にする世界とは、結局は自分のこころが生みだす映像にすぎないので、もしほんとうに安らかな世界を体験したいのなら、まずは自分のこころのなかから闘いの思い、攻撃の思い、裁きの思いを断固として追放する気持ちが大切です。

それらのほんとうの自分ではない攻撃の思いに気づき、ハイヤーセルフにもって行ってもらいましょう。すべて手放しましょう。自分ではないものを大切にすると、ほんとうの自分自身を見失いつづけます。

ほんとうのあなたは、まったく無傷な光輝くダイヤモンドのような存在です。その光をさえぎるどんな思いも、ゆるしてはいけないのです。ゆるしてしまうと、あなたは知らぬまにゾンビ化してしまいます。

そのために、自分のこころに浮かぶ自分を傷つける思いに敏感になり、それを逐いちハイヤーセルフに渡して、もって行ってもらいましょう。本当の自分を体験したい!とお願いしましょう。

平和で穏やかなこころ、そこから自分の目にする平和で穏やかな世界が立ちあがります。攻撃さえなければ、安らぎと愛はすでにそこに存在しているからです。

天国のルートも、地獄のルートも、おもいのままです。二枚のチケットが渡されていて、選ぶのは自分です。

そして、Aさんが今懸命に進んでいる目標への道のりも、その目標じたいも、ぜんぶハイヤーセルフにゆだねてしまいましょう。それをエゴに乗っとらせるのではなく、ハイヤーセルフに渡して、全部をよきことのために使ってもらいます。

私たちは個人の満足のために目指すゴールにおいては、イバラの道を行かなければなりません。一方、それが全員のためによきことであるゴールで、人と手をとりあうなかで達成されるのであれば、道の景色もがらっと変わるはずです。

感情をただの感情(なんのラベルもない感情)として感じきったら、しっかりとハイヤーセルフの手をとってすすんでくださいね〜。

 

 

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ヒア アフター

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

津波に襲われて臨死体験をしたフランス人キャスター、あの世と交信できる天賦の才をもつアメリカ人サイキック、事故死した双子の兄ともう一度話しがしたいイギリス人少年 ・・・。

三人それぞれが「死」というものをとおして、違う世界をかいま見たり、つながれたり、心をひかれたりします。しかし、それが彼らをこの世界から「浮いた人」にしてしまい、その結果生きづらくなるのです。

ヒア アフターとは、まさに、ここのあと、あの世を意味しています。

キャスターのマリーは、臨死体験で深い安らぎや光を体験し、それ以降、相手を論破したり攻撃的になる今までの仕事スタイルに興味を失い、人とつながるという違う価値観をもちはじめます。丸くなってしまった結果、担当の番組を降板させられ、信用も失い、恋人ともうまくいかなくなり ・・・。

一方、生まれながらのサイキックであるジョーは、その能力を頼みとする人たちがつぎつぎに集まってくるのですが、私生活ではその能力が災いし、恋人もできずじまい。まさに、彼にとってはその能力こそが呪いと感じられるのです。しまいには、自分で自分が信じられなくなり、希望を失います。

さらに、兄を亡くして一人なった少年マーカスは、アルコール依存症の母のもとを離れ、里子に出された先にもなじめず、兄と再び話しがしたいという気持ちがおさえられなくなり、霊能者を求めて家を出ることに・・・。

苦しみを抱える三人が最後には引きつけられ ・・。それぞれに不思議なかたちで助けがやってきます。

この世界の向こう側を感じてしまった人たちは、たしかにそこに安らぎや希望や言葉にならない自由を見だしたにもかかわらず、それに反して現実社会では生きづらさを感じる、という矛盾が生まれます。

このアリ地獄のような世界の脱出口を見つけてしまうと、まるで脱出をはばむがごとくツライ体験するという ・・・ これこそがアリ地獄の仕組みそのものですよね

たしかに、あざむかれたこの世界のなかで、ホントのことを真っ正面から言っちゃおうものなら、ソク病院行きになりかねません!(ねえ、ホントは誰もここにはいないんですよ!あなたはあなたじゃないんです!なんてね・・・ 笑)いかに、この世界のカラクリがヘンであっても、口を閉ざし、隠れキリシタンのように静かに静かに自分の信じる方向に進まねばならないという・・・(苦笑)。

クリント・イーストウッドはこんなテーマの作品も撮っていたのですね。ラフマニノフの静かな音色のなかで、光をみつけだす三人の姿が印象的です。

 

お茶の間シネマトーク「ヒア アフター」

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

津波に襲われて臨死体験をしたフランス人キャスター、あの世と交信できる天賦の才をもつアメリカ人サイキック、事故死した双子の兄ともう一度話しがしたいイギリス人少年 ・・・。

三人それぞれが「死」というものをとおして、違う世界をかいま見たり、つながれたり、心をひかれたりします。しかし、それが彼らをこの世界から「浮いた人」にしてしまい、その結果生きづらくなるのです。

ヒア アフターとは、まさに、ここのあと、あの世を意味しています。

キャスターのマリーは、臨死体験で深い安らぎや光を体験し、それ以降、相手を論破したり攻撃的になる今までの仕事スタイルに興味を失い、人とつながるという違う価値観をもちはじめます。丸くなってしまった結果、担当の番組を降板させられ、信用も失い、恋人ともうまくいかなくなり ・・・。

一方、生まれながらのサイキックであるジョーは、その能力を頼みとする人たちがつぎつぎに集まってくるのですが、私生活ではその能力が災いし、恋人もできずじまい。まさに、彼にとってはその能力こそが呪いと感じられるのです。しまいには、自分で自分が信じられなくなり、希望を失います。

さらに、兄を亡くして一人なった少年マーカスは、アルコール依存症の母のもとを離れ、里子に出された先にもなじめず、兄と再び話しがしたいという気持ちがおさえられなくなり、霊能者を求めて家を出ることに・・・。

苦しみを抱える三人が最後には引きつけられ ・・。それぞれに不思議なかたちで助けがやってきます。

この世界の向こう側を感じてしまった人たちは、たしかにそこに安らぎや希望や言葉にならない自由を見だしたにもかかわらず、それに反して現実社会では生きづらさを感じる、という矛盾が生まれます。

このアリ地獄のような世界の脱出口を見つけてしまうと、まるで脱出をはばむがごとくツライ体験するという ・・・ これこそがアリ地獄の仕組みそのものですよね

たしかに、あざむかれたこの世界のなかで、ホントのことを真っ正面から言っちゃおうものなら、ソク病院行きになりかねません!(ねえ、ホントは誰もここにはいないんですよ!あなたはあなたじゃないんです!なんてね・・・ 笑)いかに、この世界のカラクリがヘンであっても、口を閉ざし、隠れキリシタンのように静かに静かに自分の信じる方向に進まねばならないという・・・(苦笑)。

クリント・イーストウッドはこんなテーマの作品も撮っていたのですね。ラフマニノフの静かな音色のなかで、光をみつけだす三人の姿が印象的です。

 

花ざかりから新緑へバトンタッチ

あの凍える寒さから、ようやく春が戻ってきました。きょうは、春をとおりこして初夏のような陽ざしがまぶしいです。

おもわず駅までまわり道をしたら、愛らしい八重桜に出会いました。

萌木色とピンクのコラボもきれいです。

いよいよ、新緑の出番ですね!