気づきの日記「いま、自分にフィットすることをする」

 

私たちはつねに未来のことを心配したり、過去のことをあれこれ思いあぐねたり、さまざまな混沌とした思いでこころがいつも占領されています。

「この先、(仕事、体調、家族、お金、人間関係・・・)をどうしたらいいんだろう?」「あのとき、こうしておきさえすれば・・・」「あんなことは起きるべきじゃなかった」「あの人はいったいどう思っていたんだろう?」・・・。

すべて、存在しない時間について気にやんでいるのです。

残念なことに、私たちは「いまここ」というリアルなときから離れてしまうと、心理的にも体調的にもバランスを崩してしまいます。

なぜなら、真の自己の力の源は「いまここ」であり、「いまここ」にしかないからです。

過去や未来へと思いがふらふらすると、自分自身がコンセントから抜けた状態になってしまい、力や豊かさ、安らぎの供給が止まってしまい、えらく消耗した状態になります。存在じたいが干上がってしまうように感じるのです。

ほんとうは、ものごとはとてもシンプルです。

シンプルだからこそ省エネであり、こころもからだもムダにすりへることがありません。

あるのは「いまここ」だけ。

「いまここ」だけがリアルであり、いのちに満ちています。

だから、「いまここ」だけのお相手をいたしましょう。

それは、とりあえず置かれた状況のなかで、そのときの自分のこころにいちばんすんなりとフィットすることをするだけです。

何かを頑張るということではなく、ただ昼寝をすることや、だらだらすることも含まれます。どれが生産的かとか、価値があるかとか、そのような優劣や価値判断はまったく意味がありません。

そして、次の瞬間もその次の瞬間も、そのときにこころにフィットすることをただする(それについては、こころがいつも教えてくれているはずです)。

するべきことはただそれだけです。

「とりあえず、目のまえのことに自分らしく向き合えばいいんだ」とわかれば、一瞬一瞬がつむがれてゆきます。

罪悪感や無力感の重圧もへってきます。

この瞬間、この瞬間、 ♪それでいいのだ〜♪ と受け入れると、とってもシンプルになります。

そして、こころが少し軽くなると、こころにスペースが生まれ、自然にインスピレーションや新たなエネルギーが湧いてくるのを感じるかもしれません。

奮闘や操作がおさまると、自己の源エネルギーとのつながりが確かになってきます。

そして、こころが整うことで調和が生まれ、自分の目にする世界も同様に調和をかもしだします。

このようにして、あなたをサポートするすべてのピースが、このいまというときにきれいに整列しはじめるのです。

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

23-02-27 “べき” ルールは手ばなしましょう

 

どのような状況におかれていても、いつも人生が大変そうな人がいます。

たとえ健康で平穏な日々を過ごしていても、自分のやりたいことをしていても ・・・ 完全にくつろいで、こころを開いて、今を楽しんでいるようには見えません。いつも、背中に重たい荷物を背負っているようで、生きづらさとともに人生をおくっているように見えるのです。

その一方で、いつもお気ラクで楽しそうな人もいます。

楽しいことばかりの人生なのかと思いきや、よく聞いてみればビックリするような体験をしていたりします。しかし、われ関せずでひょうひょうと楽しげに毎日を過ごしているのです。それは、軽やかにするすると流れるような生き方です。

なにも問題が起きていない平穏さのなかで安らぐことができないのであれば、その生きづらさの原因は特定の出来事ではないことになります。

十分に安らぎや幸福感を感じられていいはずのときにくつろげないのは、「自分のこころ」にこそに不具合があり、誤作動をしているせいで、ものごとが正しく認知できなくなっています。

ものごとというのはすべて中立で、善くも悪くもありません。結局、善悪というのは、その個人にとって役に立つか立たないかの問題なのです。つまり、私たちは自分のこころのメガネ(自らの検閲)を通して、ものごとの意味あいを決定しています。

幸せであっていいときにくつろいで楽しめないのなら、おそらくそれは自分のこころのメガネが曇ってしまって、正しくその状況を判断できなくなっています。

このこころのメガネの曇りとは、自分で自分を守るために作りあげたたくさんの独自のルールです。

それは、ものごととは「こうであるべき」、という「べきルール」です。

たとえば、「私の人生はこうであるべき」「人はこういう場面ではこのようにふるまうべき」「私のお金の状態はこうあるべき」「私の身体はこう感じるべき」「世界はこうあるべき」「将来はこうあるべき」・・・ 気づいてみると山ほどの「べきルール」をもっていることに気がつきます。

そして、とくに生きるのが苦しく感じられるときには、今の現実に対して思いきり「べきルール」をかざして抵抗しているのです。

「こうあるべき」という理想をもてばもつほど、ストレスを感じることになります。なぜなら、やってくる現実は自分の理想(べきルール)にぴったりとおさまってくれないからです。

自分の「べきルール」にあてはまるはずだと思えば思うほど、その現実と闘うことになり、ひどくエネルギーを消耗してしまうのです。だから、「べきルール」をかざしているときは、いつも疲れはててしまいます。

常に目のまえにやってくる「今」というものは、好むと好まざるにかかわらず変えようがありません。それを変えようとすればするほど、苦しい思いをしてしまうのです。

「こうあるべき」という「べきルール」は、なければないほど安らぎを感じられるものです。

ものごとを自分の「べきルール」におしこもうとするよりも、目のまえにやってきたことをただ信頼してみましょう。

やってきたことこそが、今の自分にとって正しいこと、自分にとっての「答え」だと受けいれましょう。

自分自身は将来を見通すことはできませんが、自分をつねに導いてくれている高次の存在であるハイヤーセルフが自分とともにいて、人やものごとの関係やタイミング、そこに関係する全ての人にとっての善いことや、こころの癒しなどを見越して、すべてに配慮したうえで、今いちばんヨイことが進行中なのです。

ここの一点だけを見てもわからないかもしれませんが、決して間違った流れに乗っているわけではありません。むしろ、導かれているのです。

しかし、その流れに対して怖れを感じ、抵抗したりコントロールしようとすると、その導きの完全さが失われてしまいます。

たとえ今どうであっても、「起こっていることはいつだっていちばん善いことだ」と信頼して、ただ流れにまかせてみることです。( ♪これでいいのだ〜♪ まさに、天才バカボンのパパのセリフです! 笑)

もし、流れにまかせることで怖れなどの強い感情を感じるのであれば、それこそが自分が抑圧し向いあうことを避けつづけてきた癒すべき感情そのものです。ただ、その感情は「もう捨てて下さいね!」と浮上してきているのです。

そのように上がってきたのなら、受け入れて、感じて、手ばなして、終わりにしまいましょう。

そのような感情さえなければ、どんな状況下でもゆったりとくつろで身をまかせることができるようになります(じつは、怖れを感じている対象は、その隠していた「感情」そのものなのですよね)。

「べきルール」で身を固めて、自分が傷つかないように守ろうとすればするほど、コントロール不能な無力感を味わうことになります。それよりも、安心してすべてを受け入れて、「べきルール」のいらない自分になることです。

ただ、今起きていることに自分を明け渡して、こころを開いて、自分を委ねてみましょう。明け渡しのなかで、高い自己にすべての舵をとってもらいましょう。

強い抵抗を感じたら、今癒されるべき感情として、受け入れて感じてあげるだけでよいです。

気持ちのよい自然のなかで暖かな太陽の光をあびながら、ゆったりとボートで川を下ってゆくような気持ちです。今というときの大いなる導きのなかで、ただ安全に守られて、ちからを抜いて流されてみましょう。

きっとラクちんにものごとが進むはずです♪

 

 

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気づきの日記「 “べき” ルールは手ばなしましょう」

 

どのような状況におかれていても、いつも人生が大変そうな人がいます。

たとえ健康で平穏な日々を過ごしていても、自分のやりたいことをしていても ・・・ 完全にくつろいで、こころを開いて、今を楽しんでいるようには見えません。いつも、背中に重たい荷物を背負っているようで、生きづらさとともに人生をおくっているように見えるのです。

その一方で、いつもお気ラクで楽しそうな人もいます。

楽しいことばかりの人生なのかと思いきや、よく聞いてみればビックリするような体験をしていたりします。しかし、われ関せずでひょうひょうと楽しげに毎日を過ごしているのです。それは、軽やかにするすると流れるような生き方です。

なにも問題が起きていない平穏さのなかで安らぐことができないのであれば、その生きづらさの原因は特定の出来事ではないことになります。

十分に安らぎや幸福感を感じられていいはずのときにくつろげないのは、「自分のこころ」にこそに不具合があり、誤作動をしているせいで、ものごとが正しく認知できなくなっています。

ものごとというのはすべて中立で、善くも悪くもありません。結局、善悪というのは、その個人にとって役に立つか立たないかの問題なのです。つまり、私たちは自分のこころのメガネ(自らの検閲)を通して、ものごとの意味あいを決定しています。

幸せであっていいときにくつろいで楽しめないのなら、おそらくそれは自分のこころのメガネが曇ってしまって、正しくその状況を判断できなくなっています。

このこころのメガネの曇りとは、自分で自分を守るために作りあげたたくさんの独自のルールです。

それは、ものごととは「こうであるべき」、という「べきルール」です。

たとえば、「私の人生はこうであるべき」「人はこういう場面ではこのようにふるまうべき」「私のお金の状態はこうあるべき」「私の身体はこう感じるべき」「世界はこうあるべき」「将来はこうあるべき」・・・ 気づいてみると山ほどの「べきルール」をもっていることに気がつきます。

そして、とくに生きるのが苦しく感じられるときには、今の現実に対して思いきり「べきルール」をかざして抵抗しているのです。

「こうあるべき」という理想をもてばもつほど、ストレスを感じることになります。なぜなら、やってくる現実は自分の理想(べきルール)にぴったりとおさまってくれないからです。

自分の「べきルール」にあてはまるはずだと思えば思うほど、その現実と闘うことになり、ひどくエネルギーを消耗してしまうのです。だから、「べきルール」をかざしているときは、いつも疲れはててしまいます。

常に目のまえにやってくる「今」というものは、好むと好まざるにかかわらず変えようがありません。それを変えようとすればするほど、苦しい思いをしてしまうのです。

「こうあるべき」という「べきルール」は、なければないほど安らぎを感じられるものです。

ものごとを自分の「べきルール」におしこもうとするよりも、目のまえにやってきたことをただ信頼してみましょう。

やってきたことこそが、今の自分にとって正しいこと、自分にとっての「答え」だと受けいれましょう。

自分自身は将来を見通すことはできませんが、自分をつねに導いてくれている高次の存在であるハイヤーセルフが自分とともにいて、人やものごとの関係やタイミング、そこに関係する全ての人にとっての善いことや、こころの癒しなどを見越して、すべてに配慮したうえで、今いちばんヨイことが進行中なのです。

ここの一点だけを見てもわからないかもしれませんが、決して間違った流れに乗っているわけではありません。むしろ、導かれているのです。

しかし、その流れに対して怖れを感じ、抵抗したりコントロールしようとすると、その導きの完全さが失われてしまいます。

たとえ今どうであっても、「起こっていることはいつだっていちばん善いことだ」と信頼して、ただ流れにまかせてみることです。( ♪これでいいのだ〜♪ まさに、天才バカボンのパパのセリフです! 笑)

もし、流れにまかせることで怖れなどの強い感情を感じるのであれば、それこそが自分が抑圧し向いあうことを避けつづけてきた癒すべき感情そのものです。ただ、その感情は「もう捨てて下さいね!」と浮上してきているのです。

そのように上がってきたのなら、受け入れて、感じて、手ばなして、終わりにしまいましょう。

そのような感情さえなければ、どんな状況下でもゆったりとくつろで身をまかせることができるようになります(じつは、怖れを感じている対象は、その隠していた「感情」そのものなのですよね)。

「べきルール」で身を固めて、自分が傷つかないように守ろうとすればするほど、コントロール不能な無力感を味わうことになります。それよりも、安心してすべてを受け入れて、「べきルール」のいらない自分になることです。

ただ、今起きていることに自分を明け渡して、こころを開いて、自分を委ねてみましょう。明け渡しのなかで、高い自己にすべての舵をとってもらいましょう。

強い抵抗を感じたら、今癒されるべき感情として、受け入れて感じてあげるだけでよいです。

気持ちのよい自然のなかで暖かな太陽の光をあびながら、ゆったりとボートで川を下ってゆくような気持ちです。今というときの大いなる導きのなかで、ただ安全に守られて、ちからを抜いて流されてみましょう。

きっとラクちんにものごとが進むはずです♪

 

 

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ランチ&カフェデート♪

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

お友だちとランチをする機会もめっきりふえてきたこの頃です。

オンラインも十分楽しかったけれど、やっぱり顔をあわせてお喋りしながらおいしいお食事&お茶をご一緒するひとときは身もこころもリフレッシュします。

この日のランチは、つばめグリルさん。

二十代の頃からのおなじみの洋食屋さんで、当時は品川の本店(?)によく立ち寄っていましたっけ。

すると、お友だちも同様に、そのむかし仕事で品川に行ったさいに、つばめグリルの隣のホテルに宿泊しお食事をしていてお気に入りだったそうです。

コロナ禍で行きつけの老舗さんが悲しいほどに閉店に追いこまれてしまったので、懐かしい味を提供してくださるつばめグリルさんが無事サバイバルしてくださっていて嬉しいかぎりです。

ランチメニューには有名なロールキャベツはなかったのですが、お互いのお気に入りだった和風ハンバーグステーキは昔のままのお味でした。

トマトのサラダはお初です。まん丸トマトにマヨあえのタマネギが詰めてあって、フレッシュでとても美味しいでした。

その後お茶に向かったお店は、フルーツタルトのお店 アムストラムグラムさん。

たしか、コロナ騒ぎがはじまった頃に開店したわりとニューフェイスさんです。

わたしはお散歩で前を通るたびに吸いよせられるようにリピしてしまうのですが、十種類ほどのフルーツタルトが並んでいるにもかかわらず、いつも同じフルーツもりもりの丸いタルトが私の定番となっています。

じつはこの三日後にも別のお友だちをご案内して、またこのタルトをいただいてしまったのでした〜 笑(食べすぎやろ?!)

行きつけ老舗レストラんの消滅は寂しい限りですが、その一方で新しいオシャレなお店も続々開店中。少しづつ制覇したいと思っているのですが ・・・ そうはいっても、磁石に吸いよせられるようにいつも定番のお店に足がすいよせられてしまうのでした〜。

 

 

23-02-18 一緒に心配するよりも・・・

 

家族でも、友人でも ・・・問題を抱えて悩んでいる人がいるとき、その人と同じような気持ちになって悩んで苦しむことがその人への優しさであり、助けになると思いがちです。

しかしそうすることで、問題を抱えている人は一人だったはずなのに、気がつけば不幸せな人が芋づる式にふえてしまいます。まるで伝染病のごとく、憂鬱が広がってしまうのです。

だからといって、「ほっておきなさい」「無視しなさい」ということではありません。

一緒になって苦しむのではなく、ただ静かなこころのままで自分にできることはなんでもします。ともに問題を抱えこんで、同じレベルになる必要はないのです。

真に人の助けになりたいと思うとき、一緒に悩み苦しむことは助けになりません。

ともにあれこれ悩んでしまえば、正気でない状態に自分自身もよろこんで参加することになります。これではまさに、ミイラとりのミイラ。ともに地獄入りとなってしまいます!(汗)

助けたいのであれば、自分のこころが悩みや苦しみに侵されていない正気のこころである必要があります。

悩んでいるときというのは、こころが誤った考えにとりつかれて、その誤った尺度でしかものごとを判断できなくなっています。つまり、悩んでいる思考に世界が汚染されてしまっているのです。

だからこそ、自分自身はしっかりと正気を保ったままでいて、その人のための道しるべとなり、「苦しみから出て、こっちにおいで!ここは安らかだよ」と、その人を誘導してあげなければならないのです。

また正気でいることによって、自分自身がその人のために高い自己(ハイヤーセルフ)からのレスキューメッセージを受けとり、それを伝えてあげることができます。

悩み苦しんでいるときには、その人のこころはネガティブな思考や感情でパンパンなっているので、すぐそこに助けがやってきていても、それに気づくことができなくなっています。

その人のためのレスキューメッセージを受けとることは、難しいことではありません。「受信しよう!」と頑張らなくても、穏やかなこころでいれば、そのときにサラリと出てくるひとことや行動が、相手にとって大切なメッセージとなります。

なによりも、自分が安らかな正しい場所にいてあげることで、「私もそんなふうにラクに生きたい!そちら側に加わりたい!」と正しい軌道を進むための道しるべとなってあげることができるのです。

たったひとりだけでも、「今のままで大丈夫だから!」と安心させてくれる人がいれば、自分自身がつくり出した苦しみの闇が簡単に消え去ってしまうこともあります。

心配して同じ状態になって、一緒に地獄に降りてゆくのではなく、安らぎという正しいポジションから寄り添うことがほんとうの共感の仕方なのです。片手でその人の手をとり、それでも自分は安らかな場所にしっかりと身をおき、相手をそこへと引き上げてあげる・・・そんな感じです。

お先真っ暗だと感じているときでも、ちょっと視点が変わることで、自分の体験していた世界が180度ガラリと変わってしまうことがあります。

ちょっとしたひとことや、目にしたことで、サーッと目のまえから霧が晴れるように心配や不安が消え去ってゆくのです。

たったひとりでも「安らぎ」のひかりをキープしていれば、その光に照らされて混乱していた人のこころの闇は消え去ることができます。

だから、悩んでいる人に「わかるわ〜〜。大変やわ〜。いったいどないしよ?!」と間違った共感をして、ともに地獄入りするのはやめましょう。それをすると、あなたの光も風前の灯火となってしまいます。

あなたの穏やかさのなかにいつもどおりとどまって、そこからその方を味わい愛でながら、「こっちへおいで♡」と優しく引き上げてさしあげましょう。

あなたが正しいポジションで安らぎのなかにとどまることこそが、誰にとってもいちばんの助けとなるのです。

 

 

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気づきの日記「一緒に心配するよりも・・・」

 

家族でも、友人でも ・・・問題を抱えて悩んでいる人がいるとき、その人と同じような気持ちになって悩んで苦しむことがその人への優しさであり、助けになると思いがちです。

しかしそうすることで、問題を抱えている人は一人だったはずなのに、気がつけば不幸せな人が芋づる式にふえてしまいます。まるで伝染病のごとく、憂鬱が広がってしまうのです。

だからといって、「ほっておきなさい」「無視しなさい」ということではありません。

一緒になって苦しむのではなく、ただ静かなこころのままで自分にできることはなんでもします。ともに問題を抱えこんで、同じレベルになる必要はないのです。

真に人の助けになりたいと思うとき、一緒に悩み苦しむことは助けになりません。

ともにあれこれ悩んでしまえば、正気でない状態に自分自身もよろこんで参加することになります。これではまさに、ミイラとりのミイラ。ともに地獄入りとなってしまいます!(汗)

助けたいのであれば、自分のこころが悩みや苦しみに侵されていない正気のこころである必要があります。

悩んでいるときというのは、こころが誤った考えにとりつかれて、その誤った尺度でしかものごとを判断できなくなっています。つまり、悩んでいる思考に世界が汚染されてしまっているのです。

だからこそ、自分自身はしっかりと正気を保ったままでいて、その人のための道しるべとなり、「苦しみから出て、こっちにおいで!ここは安らかだよ」と、その人を誘導してあげなければならないのです。

また正気でいることによって、自分自身がその人のために高い自己(ハイヤーセルフ)からのレスキューメッセージを受けとり、それを伝えてあげることができます。

悩み苦しんでいるときには、その人のこころはネガティブな思考や感情でパンパンなっているので、すぐそこに助けがやってきていても、それに気づくことができなくなっています。

その人のためのレスキューメッセージを受けとることは、難しいことではありません。「受信しよう!」と頑張らなくても、穏やかなこころでいれば、そのときにサラリと出てくるひとことや行動が、相手にとって大切なメッセージとなります。

なによりも、自分が安らかな正しい場所にいてあげることで、「私もそんなふうにラクに生きたい!そちら側に加わりたい!」と正しい軌道を進むための道しるべとなってあげることができるのです。

たったひとりだけでも、「今のままで大丈夫だから!」と安心させてくれる人がいれば、自分自身がつくり出した苦しみの闇が簡単に消え去ってしまうこともあります。

心配して同じ状態になって、一緒に地獄に降りてゆくのではなく、安らぎという正しいポジションから寄り添うことがほんとうの共感の仕方なのです。片手でその人の手をとり、それでも自分は安らかな場所にしっかりと身をおき、相手をそこへと引き上げてあげる・・・そんな感じです。

お先真っ暗だと感じているときでも、ちょっと視点が変わることで、自分の体験していた世界が180度ガラリと変わってしまうことがあります。

ちょっとしたひとことや、目にしたことで、サーッと目のまえから霧が晴れるように心配や不安が消え去ってゆくのです。

たったひとりでも「安らぎ」のひかりをキープしていれば、その光に照らされて混乱していた人のこころの闇は消え去ることができます。

だから、悩んでいる人に「わかるわ〜〜。大変やわ〜。いったいどないしよ?!」と間違った共感をして、ともに地獄入りするのはやめましょう。それをすると、あなたの光も風前の灯火となってしまいます。

あなたの穏やかさのなかにいつもどおりとどまって、そこからその方を味わい愛でながら、「こっちへおいで♡」と優しく引き上げてさしあげましょう。

あなたが正しいポジションで安らぎのなかにとどまることこそが、誰にとってもいちばんの助けとなるのです。

 

 

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すでに春♡

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立春をすぎてもまだまだ寒さが厳しいですが、陽射しがぽかぽかしてきたり、梅が咲いたり、春の訪れも感じることができる二月の後半です。

私のなかでは毎年、バレンタインが終わって確定申告が終了したら、「やった〜、はれて春〜〜♪」 という感じなのですが、

今年もバレンタインがすぎゆき、ナント、確定申告もつつがなく終了しちゃいました〜☆

ということで、私はすでに春気分。

さらに、バレンタインにいただいたアイカラーが、春を感じるちょっと大人なモーヴ色。オーロラライトという、素敵なネーミングです。

じつは、モーヴ色はいつからか似合わなくなってしまったと感じて、あきらめていた色。なので、チャレンジ再びなのです。

まだ寒さにふるえながらも、ひとり春めいているこのごろです♪

 

 

 

お待ちかねランチは・・・

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

朝も早からミーティングです。

さて、お昼をまわっておまちかねのランチは ・・・ ニンニクがっつりの餃子に決定! 小鉢もいろいろとってみました。@中目黒 福包さん

餃子とくれば ・・・やっぱり(?)ビール! 最近はノンアルがお店に普及してきたので、私もビール仲間に入れてうれしい♪

そして、午後もさらなるミーティングを。(あら?まだ飲んでる方が・笑)

このユルさでいいアイデアが流れてくるはず・・・。

美味しく楽しく、充実のミーティングの一日となりました (^。^)v

 

 

23-02-03 本当の「正直さ」とは?――エゴを手放し、心を軽くする

 

「正直さ」をどう使う?

「自分に正直である」ということは、幸せに生きるために不可欠なことです。
なぜなら、自分の本当の気持ちを無視すると、心のなかにある違和感に気づくことができなくなり、軌道修正のチャンスを失ってしまうからです。

正直であることは、自分の心に耳を澄まし、余計なものを手放し、本来の自分として軽やかに生きるための道具です。


しかし、多くの人が「正直さ」を誤解しがちです。

 

 

「正直さ」とは、思ったことをズバズバ言うこと?

あるクライエントのA子さんは、「思ったことをすぐ口にすることが正直さだ」と信じていました。

「私は本音で生きたいから、遠慮せずに何でも言う」と考えていたのです。

確かに、自分の感情を押し殺してしまうのは苦しいものです。
けれど、感じたことをそのまま口にすれば、それが「正直な生き方」になるのでしょうか?

実際には、そうした態度が人間関係の摩擦を生み、「私って正直なのに、なぜか人間関係がうまくいかない」と悩むことも少なくありません。

なぜなら、「正直さ」とは「思ったことをそのまま外にぶつけること」ではないからです。
むしろ、自分の心の内側を正直に見つめることが、本当の意味での「正直さ」なのです。

 

 

「正直さ」を使って自分のエゴを見抜く

たとえば、誰かの言葉に傷ついたとき。
「今のひと言、すごく嫌だった!」
そんな気持ちがわきあがったとします。

このとき、正直になるとは「相手に怒りをぶつける」ことではありません。
「あなたのせいで傷ついた!」と責めるのは、一見「素直な反応」のように思えますが、実は「自分の傷を相手のせいにする行為」になってしまいます。

そうではなく、正直さを自分の心のために使うなら、こうなります。
「なぜ、私は今のひと言でこんなに傷ついたのだろう?」
「もしかすると、私は『価値のない人間だ』と思われるを怖れているのかもしれない」
「その怖れの根源はどこにあるのだろう?」

「私は小さい頃から、自分が尊重されていないように感じてきたため、自分には価値がないと信じ込んできた」

「しかし、価値がないと信じたのは自分だ・・・」

このように、自分の心を深く掘り下げていくと、過去の経験や思い込みに行き着きます。
そして、気づいたとき、すでに心の癒しは始まっています。

 

 

「正直さ」は武器ではなく、癒しのために使う

誰かに対して文句を言いたくなったときも、同じことが言えます。
「なんであの人はこうなの?」
「もっと○○してくれればいいのに!」

こうした不満が湧いてきたときこそ、まずは自分の心に目を向けてみましょう。


「私はなぜ、これにこんなに反応しているのだろう?」
「この人が変われば、私は本当に心地よくなれるの?」

私たちはつい、「この人さえ変われば、私は楽になる」と信じてしまいます。
けれど、心の奥にある「自分の不安や怖れ」を見ないままでは、たとえ環境が変わっても、また同じような問題に直面することになるのです。

つまり、「正直さ」とは、外側に向けて発するものではなく、まずは自分の内側を見つめるためのもの。
そこに気づいたとき、自分の心も、そして人間関係も自然と穏やかになっていきます。

 

 

正直に向き合うことで、安らぎの扉が開く

心は、つい「外側の世界」に向かおうとします。
「あの人が悪い」「あの状況さえなければ」と、目の前のものをどうにかしようとします。

でも、その手には乗らず、まずは「自分の心の中」に戻ってきましょう。
そこにある思い込みやエゴに気づいたとき、世界や人を裁くことをやめ、また戦いからも自由になることができ、平和で穏やかな気持ちになれるからです。

どんなときも、自分の心に正直でいること。
それが、安らぎへの鍵であり、本当の幸せへとつながる扉なのです。

 

 

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気づきの日記「本当の ”正直さ” とは?――エゴを手放し、心を軽くする」

 

「正直さ」をどう使う?

「自分に正直である」ということは、幸せに生きるために不可欠なことです。
なぜなら、自分の本当の気持ちを無視すると、心のなかにある違和感に気づくことができなくなり、軌道修正のチャンスを失ってしまうからです。

正直であることは、自分の心に耳を澄まし、余計なものを手放し、本来の自分として軽やかに生きるための道具です。


しかし、多くの人が「正直さ」を誤解しがちです。

 

 

「正直さ」とは、思ったことをズバズバ言うこと?

あるクライエントのA子さんは、「思ったことをすぐ口にすることが正直さだ」と信じていました。

「私は本音で生きたいから、遠慮せずに何でも言う」と考えていたのです。

確かに、自分の感情を押し殺してしまうのは苦しいものです。
けれど、感じたことをそのまま口にすれば、それが「正直な生き方」になるのでしょうか?

実際には、そうした態度が人間関係の摩擦を生み、「私って正直なのに、なぜか人間関係がうまくいかない」と悩むことも少なくありません。

なぜなら、「正直さ」とは「思ったことをそのまま外にぶつけること」ではないからです。
むしろ、自分の心の内側を正直に見つめることが、本当の意味での「正直さ」なのです。

 

 

「正直さ」を使って自分のエゴを見抜く

たとえば、誰かの言葉に傷ついたとき。
「今のひと言、すごく嫌だった!」
そんな気持ちがわきあがったとします。

このとき、正直になるとは「相手に怒りをぶつける」ことではありません。
「あなたのせいで傷ついた!」と責めるのは、一見「素直な反応」のように思えますが、実は「自分の傷を相手のせいにする行為」になってしまいます。

そうではなく、正直さを自分の心のために使うなら、こうなります。
「なぜ、私は今のひと言でこんなに傷ついたのだろう?」
「もしかすると、私は『価値のない人間だ』と思われるを怖れているのかもしれない」
「その怖れの根源はどこにあるのだろう?」

「私は小さい頃から、自分が尊重されていないように感じてきたため、自分には価値がないと信じ込んできた」

「しかし、価値がないと信じたのは自分だ・・・」

このように、自分の心を深く掘り下げていくと、過去の経験や思い込みに行き着きます。
そして、気づいたとき、すでに心の癒しは始まっています。

 

 

「正直さ」は武器ではなく、癒しのために使う

誰かに対して文句を言いたくなったときも、同じことが言えます。
「なんであの人はこうなの?」
「もっと○○してくれればいいのに!」

こうした不満が湧いてきたときこそ、まずは自分の心に目を向けてみましょう。


「私はなぜ、これにこんなに反応しているのだろう?」
「この人が変われば、私は本当に心地よくなれるの?」

私たちはつい、「この人さえ変われば、私は楽になる」と信じてしまいます。
けれど、心の奥にある「自分の不安や怖れ」を見ないままでは、たとえ環境が変わっても、また同じような問題に直面することになるのです。

つまり、「正直さ」とは、外側に向けて発するものではなく、まずは自分の内側を見つめるためのもの。
そこに気づいたとき、自分の心も、そして人間関係も自然と穏やかになっていきます。

 

 

正直に向き合うことで、安らぎの扉が開く

心は、つい「外側の世界」に向かおうとします。
「あの人が悪い」「あの状況さえなければ」と、目の前のものをどうにかしようとします。

でも、その手には乗らず、まずは「自分の心の中」に戻ってきましょう。
そこにある思い込みやエゴに気づいたとき、世界や人を裁くことをやめ、また戦いからも自由になることができ、平和で穏やかな気持ちになれるからです。

どんなときも、自分の心に正直でいること。
それが、安らぎへの鍵であり、本当の幸せへとつながる扉なのです。

 

 

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