21-02-01 かいまみた死後の世界 その2

 

(その1より)

身体から抜け出したあと、そばにつきそってくれている光の存在は、フラッシュバックのあいだじゅうずっとただ大きな愛で包みこんでくれます。そこにはまったく批判や判断はなく、むしろあたたかな共感や理解を示してくれるそうなので、最後の審判といわれるようなシリアスな裁きの雰囲気はありません。ユーモアさえ感じられるそうな。

自分のこころがそのフラッシュバックをどのように受けとめるのか、自分のこころの問題なのです。

その光の存在は、まったく同じ見方ですべてを裁くことなく理解をもって見ることを問いかけているのかもしれません。

だから、ふだんの生活のなかでヘタレな自分を責めることなく、いつも赦して「愛しているよ!」と言ってあげることこそが大切で、それが習慣になっていたならフラッシュバックも慈愛のまなざしで静かに眺められるのかもしれません。

フラッシュバックのあとに存在している境界線を越えた人は誰もいません。ここが、真のあの世とこの世の境目なのでしょうね。

といっても、この境界は、今までのストーリーにさよならして、次の物語のスタートにすぎません。しばらく極上のリゾートでくつろいだら、また別の身体をまとって赤子としてやってきます。

ほんとうの幸せなゴールは、このようなくりかえし(輪廻)こそをこえること。

あのフラッシュバックを光の存在とまったく同じ目線でみられるようになったとき、もう赦すものがなくなったとき、私たちは無限に思えた輪廻コースからようやく卒業して別のルートへと進むことができ、ついに天国(至福の世界)とひとつになります。

すべてが満たされた至福の状態となり、もう身体や世界を思い出すこともなくなるのでしょう。

そうそう! 身体を離れ、光の存在に出会ったときに、いくつかの質問をされるそうな。

それは、「もう行く(死ぬ)準備ができていますか?」「この人生に満足していますか? 見せられることはありますか?」

そして、「他人を愛することを学びましたか」「知識を深めましたか」

これは地上で成し遂げたこととはまったく関係なく、ただどれだけ愛であったのか、そして真理を学ぼうとしたのか、それだけを問われるということです。(形あるものは、身体から離れたとたんに無意味になってしまいます。何を持とうとも、成しとげようとも関係なく、ただ愛があったかだけが問われるべきことなのです。)

ここから戻ってきた人たちは、一様に身体のことはもうどうでもよくなり(なんせ意識だけを体験して、意識が自分だと知ってしまったので)、ただ自分が全体に奉仕するための愛ある人生を生きたいとみんな口をそろえています。

意識の世界では形など関係なく、問われるのは自分の本質である愛の深さだけなのです。

そして、この身体から抜けてしまう体験も、最初こそはびっくりしているものの、すぐに体験したことのない大きな愛と理解に包まれているのを感じ、あんなに気持ちがよくなったことはないといいます。

そして、そこで感じたことは「身体があるときには、ちゃんとやりとげなければならない使命があり、それはそれぞれの愛を惜しみなく与えることなのだ」と心底理解するようです。

あの頃、かなりインパクトを感じたこの一冊の本が、自分がこんな道にすすむひとつの道しるべになってくれたようにも感じます。

そして、今読んでみても、「ああ、やっぱりそうなのね!大切なことは、ただ自分も他人も物ごとも、すべてを受け入れて、赦し愛することなのだ」と納得いたしました。

ものごとを思いどおりにしようとやっきになるのではなく、すべてを受け入れて同調すること、それはものごとをあるがままに愛すること。

自分のこころに裁きの思いがなくなり、すべてを慈しむことができたとき、こころから闘いの思いが消え去り、そこから生まれていたさまざまな苦しみも姿を消してゆくのでしょう。

光の存在が示してくれているあり方、完全な愛と慈しみ、理解、共感こそが、私たちがここで学ばなければならないあり方のように感じます。

 

 

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