気づきの日記「あれこれ考えてしまうとき 〜思考の音量をさげてみる〜」

 

「人の反応や外側のことが気になり、あれこれ考えては疲れてしまう」というA子さん。

 

私たちが「あれこれ考えてしまう」とき、「外側の状況に悩まされている」というよりは、「自分の空想に悩まされている」ということが起きています。

 

「これはひどいことだ」とか、「大変なことになる」とか、その状況に対して自分なりの意味づけや価値判断を下しており、その結果「きっとこんなことが起こるに違いない」と考えることで疲れてしまうのです。

 

しかし、それらは空想なのです。事実とは関係ありません。

 

それならば、まず空想をストップするためにアタマのおしゃべりを鎮めてみましょう。

 

出来事に対する、意味や意見、判断、解釈、ストーリーを停止してみます。

 

この空想さえなければ、ものごとの意味や解釈、価値判断もやんでくるのです。

 

ものごとはまっさらな状態になります。

 

 

私たちが動揺しているとき、「その出来事や状況そのものに混乱させられている」と感じがちですが、動揺の原因は「自分の考え」であり、空想にホンロウされている、ということなのです。

 

私たちは状況を目にしたとき、瞬時にそれが自分にとってどういう意味があるのか、ストーリーを決めつけてしまいます。

 

あまりに瞬時のことなので、自分で決めつけをしていることにさえ気づきません。

 

そして、それを何の疑いもなく信じこんでしまいます。

 

それらはたんに、「自分の勝手な空想だ」「でっちあげだ」ということがわかりません。

 

それは実際、事実とは違うイメージや予測であり、決してほんとうのことではないのです。

 

真実ではないことを信じることによって、自分で自分を苦しめてしまいます。

 

 

ものごとにはもともと、「意味」というものはついてはいません。「ただ、そのように起こっている」だけなのです。

 

「意味」とは誰かによって与えられるものであり、ものごとを解釈するモノサシとなります。

 

そのモノサシが悲惨であれば、ものごとは悲惨なものとなり、モノサシが楽観的であれば、楽観的なものとなるのです。

 

つまり、自分で自分を怯えさせることもできれば、自分を希望で満たすこともできるのです。

 

どちらを選ぶこともでき、自分のこころが取り入れた考えを私たちは目にすることになります。

 

それが、私たちのこころのパワーです。

 

それならば、見たいものだけを自分の判断として選ぶことです。

 

 

自分で自分を混乱させたり、怯えさせないための解決策は・・・つねに「こころを安らかに保っておくこと」です。

 

といっても、考えは良いものも悪いものも次から次へと勝手に浮かんでくることでしょう。

 

ただ、勝手に湧いてきては消えゆくものに対して、積極的に関わることはやめましょう。

 

考えが現れたことに気づいたら、即座に反応することはせず、ただほっておきます。それらを通りすぎさせてあげるのです。

 

「それは問題だ!」と大騒ぎしないかぎり、それは問題とはなりえないのです。

 

湧いてきた考えに反応せず、さらなる思考に巻きこまれることがなければ、それらはただ静かに消えて行きます。

 

あることをずっと考えつづけることの方が努力のいる作業であり、相当なエネルギーを消費するものなのです。

 

どうしても自分の思考が気になってしまうのなら、ラジオやテレビのボリュームを下げるように、イメージで思考の音量ツマミを回すか、あるいはリモコンのボタンを下げるなど、実際にその動作をしてみましょう。

 

自分がその「音」を調整していることを思い描くことで、実際に思考の音量を下げる感覚が得られます。

 

 

目のまえのものごとに対して、自分自身が川縁に立って、静かに流れを眺めているようなイメージをしてみるのもいいでしょう。

 

目の前の流れにただ身を任せるように、ものごとを受け入れ、過剰に反応しないこと。これによって、あなたのこころは次第に静けさを取り戻します。

 

自分が見ている画面から数歩後ろにさがるようなイメージをしてみます。古い映像を眺めているように、少し俯瞰して見るのです。

 

自分が出来事に積極的に関与し、右往左往するのではなく、ものごとが自然と流れゆき、いちばんよい落としどころにおさまってゆことをイメージし、信頼してみましょう。

 

それは、誰にとってもベストな落としどころなのです。

 

そして、こころに静けさをとりもどすことで、この静けさがものごとすべてに反映されます。そして、それらを正しく解決してくれることを信頼してみましょう。くつろいで成り行きにまかせるだけでよいのです。

 

かならずや、「これがいちばんよかった」という納得の結果を目にすることができるはずです。

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

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21-02-07 世界にケンカを売るのはやめましょう

 

たとえそこにないものであっても、私たちが「ある!」と思うならば、自分にとっては何でも見ることができます。

それが、私たちのこころのちからです。

自分のこころが「そうだ、あるんだ!」と思った瞬間に、それは自動的になされます。なんでも見たいものを見ることができるほど、私たちのこころは想像力豊かで、創造力旺盛なのです。

けれど、実際に「自分のこころのちからを使っている」とは自覚していません。「それはそういうものだからそうなっているのだ」と、外側のどこかにその原因があるのを好みます(まるで、何でもスパっと切れる刃物を渡されて、自分の指を切り落としてしまう怖れを感じて、まったくそれを使わなくなるのと同じように、こころのちからはお蔵入りしてしまいます)。

「ない」のに「ある」ことにしてしまう最たるものは、「問題」と呼ばれるやっかいごとです。

お気に入りのものを「ある」ものにするよりも、困ったことを「ある」ものにすることの方がお手のものなのです。

「ない」ものを「ある」ものにする一番の方法は、それに対して不平不満や文句を言う、怖れる、抵抗する、疑問をもつことです!

なぜなら、それらは怖れの気持ちとひとつになって強烈なパワーを放つので、そのパワーとくり返しがあれば、もうそれをつくりだして目にするには十分なのです(私たちは煮えたぎるように何百回も感謝しつづけることはありませんが、怒りや怖れ、裁きではそれが簡単にできてしまうのです)。

不平不満、文句の気持ちをもつなら、即座に不平不満、文句を言うべき不具合が目のまえに現れてくれるというわけです。

そもそも私たちが文句を言いたいのは、そこに問題があるからではなく、「文句を言うことによてこころが落ち着く、救われる」からです。

文句を言うと、こころが一瞬エネルギーを放射して、スッキリと回復するように感じられるのです。まるでカンフル剤。リフレッシュします。

ためにし、ぜったいに裁かない、何があっても文句を言わない、何に対しても疑問に思わない、みじんも怖れを抱かない、と決めてみてください・・・ 即座にザワザワしてきて文句を言いたい、裁きたい、何か不満を言いたい!と感じているのに気づくと思います(笑)。

文句を言ったり、裁くことをすると、自分のなかに渦まいていたモヤモヤとしている感情を、自分が目にしている外側の何かのせいにできたように感じて、自分はそのイヤな感じから解放されて、無罪放免になったように感じられるからです(ほんとうは、それをしてしまったあと、時差があって、もっとイヤな気分になってしまうことに気づいていません)。

結局、私たちは「このモヤモヤは、あなたのせいなんです。だから、思いっきり裁いちゃったら、なんかすっきりしましたよ。だから、あなたが悪くって、私が正しいってことで、決着をつけさせていただきます」と、人を裁いてヨイ人になる!という変な解決策で納得しているわけです。

外側が間違っていると言ってしまえば、自分のこころを変える必要がなくなりホッとするからです。

それで落ち着いたように感じるかもしれませんが、「問題がある!」と言ってしまったので、自分がつくり出した問題を見ることからは逃れることができなくなります。

このワナに落ち込まないためには、裁かないこと、文句を言わないこと、欠点をみつけないこと ・・・ つまり、「問題がある」と言わないこと。

「問題がある」と言わないかぎり、問題は生まれようがありません。

じっと黙っていて、こころがシンと静かでなにも浮かばないとしたら ・・・ そもそも問題を認識することはできません。

裁きの思いや価値判断によって、わざわざ「存在しない」問題をつくっていたことに気づきましょう。

結局、その思いこそが、それが目のまえに出現するきっかけとなっていたのです。

不平不満、裁きはなんの役にも立ちません。何もこころに思いをもたずに、ただ穏やかにすべてをそのままに受け入れてしまうことにいたしましょう。信頼して、流れに身をまかせてしまいましょう!

そうすることで、「すべてはそのままでもう大丈夫なのだ」と自分の体験に教えてもらうことができます。そのままがいちばん安全なのです。

自分の目にする世界の安らかさは、世界にケンカを売ることなく、優しくそのままに受けいれてあげること、なのですね♡

PS. 裁くことをやめて ・・・ 自分のなかのモヤモヤがおさまらないときには、
モヤモヤの原因となっている思いを探求してみることをオススメします。

「私はモヤモヤしている・・・なぜなら?」と何度も問いかけてゆくうちに、そのまさに原因となっている「思い」を発見することができます。

それを高い自己(ハイヤーセルフ)にわたして取り去ってもらうと同時に、モヤモヤ感はあるがままに感じてあげることで終わりにしてしまいましょう!

 

 

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気づきの日記「世界にケンカを売るのはやめましょう」

 

たとえそこにないものであっても、私たちが「ある!」と思うならば、自分にとっては何でも見ることができます。

それが、私たちのこころのちからです。

自分のこころが「そうだ、あるんだ!」と思った瞬間に、それは自動的になされます。なんでも見たいものを見ることができるほど、私たちのこころは想像力豊かで、創造力旺盛なのです。

けれど、実際に「自分のこころのちからを使っている」とは自覚していません。「それはそういうものだからそうなっているのだ」と、外側のどこかにその原因があるのを好みます(まるで、何でもスパっと切れる刃物を渡されて、自分の指を切り落としてしまう怖れを感じて、まったくそれを使わなくなるのと同じように、こころのちからはお蔵入りしてしまいます)。

「ない」のに「ある」ことにしてしまう最たるものは、「問題」と呼ばれるやっかいごとです。

お気に入りのものを「ある」ものにするよりも、困ったことを「ある」ものにすることの方がお手のものなのです。

「ない」ものを「ある」ものにする一番の方法は、それに対して不平不満や文句を言う、怖れる、抵抗する、疑問をもつことです!

なぜなら、それらは怖れの気持ちとひとつになって強烈なパワーを放つので、そのパワーとくり返しがあれば、もうそれをつくりだして目にするには十分なのです(私たちは煮えたぎるように何百回も感謝しつづけることはありませんが、怒りや怖れ、裁きではそれが簡単にできてしまうのです)。

不平不満、文句の気持ちをもつなら、即座に不平不満、文句を言うべき不具合が目のまえに現れてくれるというわけです。

そもそも私たちが文句を言いたいのは、そこに問題があるからではなく、「文句を言うことによてこころが落ち着く、救われる」からです。

文句を言うと、こころが一瞬エネルギーを放射して、スッキリと回復するように感じられるのです。まるでカンフル剤。リフレッシュします。

ためにし、ぜったいに裁かない、何があっても文句を言わない、何に対しても疑問に思わない、みじんも怖れを抱かない、と決めてみてください・・・ 即座にザワザワしてきて文句を言いたい、裁きたい、何か不満を言いたい!と感じているのに気づくと思います(笑)。

文句を言ったり、裁くことをすると、自分のなかに渦まいていたモヤモヤとしている感情を、自分が目にしている外側の何かのせいにできたように感じて、自分はそのイヤな感じから解放されて、無罪放免になったように感じられるからです(ほんとうは、それをしてしまったあと、時差があって、もっとイヤな気分になってしまうことに気づいていません)。

結局、私たちは「このモヤモヤは、あなたのせいなんです。だから、思いっきり裁いちゃったら、なんかすっきりしましたよ。だから、あなたが悪くって、私が正しいってことで、決着をつけさせていただきます」と、人を裁いてヨイ人になる!という変な解決策で納得しているわけです。

外側が間違っていると言ってしまえば、自分のこころを変える必要がなくなりホッとするからです。

それで落ち着いたように感じるかもしれませんが、「問題がある!」と言ってしまったので、自分がつくり出した問題を見ることからは逃れることができなくなります。

このワナに落ち込まないためには、裁かないこと、文句を言わないこと、欠点をみつけないこと ・・・ つまり、「問題がある」と言わないこと。

「問題がある」と言わないかぎり、問題は生まれようがありません。

じっと黙っていて、こころがシンと静かでなにも浮かばないとしたら ・・・ そもそも問題を認識することはできません。

裁きの思いや価値判断によって、わざわざ「存在しない」問題をつくっていたことに気づきましょう。

結局、その思いこそが、それが目のまえに出現するきっかけとなっていたのです。

不平不満、裁きはなんの役にも立ちません。何もこころに思いをもたずに、ただ穏やかにすべてをそのままに受け入れてしまうことにいたしましょう。信頼して、流れに身をまかせてしまいましょう!

そうすることで、「すべてはそのままでもう大丈夫なのだ」と自分の体験に教えてもらうことができます。そのままがいちばん安全なのです。

自分の目にする世界の安らかさは、世界にケンカを売ることなく、優しくそのままに受けいれてあげること、なのですね♡

PS. 裁くことをやめて ・・・ 自分のなかのモヤモヤがおさまらないときには、
モヤモヤの原因となっている思いを探求してみることをオススメします。

「私はモヤモヤしている・・・なぜなら?」と何度も問いかけてゆくうちに、そのまさに原因となっている「思い」を発見することができます。

それを高い自己(ハイヤーセルフ)にわたして取り去ってもらうと同時に、モヤモヤ感はあるがままに感じてあげることで終わりにしてしまいましょう!

 

 

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21-02-05 麗しのサブリナ

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

まさにチャーミングの権化、オードリー・ヘプバーンの作品です。

「ローマの休日」がイチオシですが、こちらのサブリナの可愛さもピカイチ♡ コートをさらりと脱ぎすてると、フェミニンなワンピースかと思いきや、タイトなトップスとパンツといういでたちにハッとします。

この丈の短いパンツはサブリナパンツと呼ばれ、いまだに人気です。

お金持ちの御曹司ディヴィッドに恋をしているサブリナは、このお金持ちのおうちの運転手の娘。

「いくら憧れても、月には手がとどかんのだ!」と父親にさとされるのですが、サブリナはそんな身分違いなどものともせず、「月が手をさしのべるのよ!」とキッパリ。あきらめる様子などありません。

その言葉のとおり、二年間パリで過ごしたサブリナは、まるでファッション誌から抜け出たようなシックなレディーとなって帰国! (いったいパリでなにがどうなったの? そここそ私は知りたいっっ!笑)

ここから一気に形勢逆転です。ディヴィッドだけでなく、独身をつらぬいてきたおにいちゃんのライナスもサブリナのとりこに。

まるで少女漫画のような展開で「これって、どうなの??」というつっこみどころ満載ですが、コメディなのでよしとしましょう!

しかし、この配役、ナゾです!? サブリナは22歳の設定で、サブリナが惹かれてゆく御曹司のおにいちゃん役のボギーは、実際に亡くなる二年前で56歳ぐらいなのです。(この時代も歳の差カップル存在?!)

ヘプバーンの内側から輝くような美しさは、もう絶滅種レベルですね。もう、こんなオーラを放つ女優さんは見なくなりました。

ファションもまったく古くささを感じません。

このドレス、スカートのセンターが短めになっていて足首からパンプスまでが見えるようになっています。

よく見るとタイトなワンピースにふんわりと大きな布をまとってロングドレスのように見せているのですよね。チョーカーなどもなしで、美しい首筋のラインが強調されています。

余計な色がないモノクロなので、なおさら清楚な雰囲気がきわだっています。

このドレスはどんな色なのだろう?と想像しながら観るのも楽しいでした♪

PS 大富豪のライナスはオフィスに最先端の機器を備えています。
ボイスレコーダーとか、リコモン自動ドアとか ・・・1954年当時には、かなり画期的だったかもしれません。
さらに、割れないガラス、強化プラスチックの上に紳士のみなさまがこぞって乗っては飛びはねて喜んでいる図がおかしかったです。割れないことが珍しかった時代なのですね。

 

 

お茶の間シネマトーク「麗しのサブリナ」

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

まさにチャーミングの権化、オードリー・ヘプバーンの作品です。

「ローマの休日」がイチオシですが、こちらのサブリナの可愛さもピカイチ♡ コートをさらりと脱ぎすてると、フェミニンなワンピースかと思いきや、タイトなトップスとパンツといういでたちにハッとします。

この丈の短いパンツはサブリナパンツと呼ばれ、いまだに人気です。

お金持ちの御曹司ディヴィッドに恋をしているサブリナは、このお金持ちのおうちの運転手の娘。

「いくら憧れても、月には手がとどかんのだ!」と父親にさとされるのですが、サブリナはそんな身分違いなどものともせず、「月が手をさしのべるのよ!」とキッパリ。あきらめる様子などありません。

その言葉のとおり、二年間パリで過ごしたサブリナは、まるでファッション誌から抜け出たようなシックなレディーとなって帰国! (いったいパリでなにがどうなったの? そここそ私は知りたいっっ!笑)

ここから一気に形勢逆転です。ディヴィッドだけでなく、独身をつらぬいてきたおにいちゃんのライナスもサブリナのとりこに。

まるで少女漫画のような展開で「これって、どうなの??」というつっこみどころ満載ですが、コメディなのでよしとしましょう!

しかし、この配役、ナゾです!? サブリナは22歳の設定で、サブリナが惹かれてゆく御曹司のおにいちゃん役のボギーは、実際に亡くなる二年前で56歳ぐらいなのです。(この時代も歳の差カップル存在?!)

ヘプバーンの内側から輝くような美しさは、もう絶滅種レベルですね。もう、こんなオーラを放つ女優さんは見なくなりました。

ファションもまったく古くささを感じません。

このドレス、スカートのセンターが短めになっていて足首からパンプスまでが見えるようになっています。

よく見るとタイトなワンピースにふんわりと大きな布をまとってロングドレスのように見せているのですよね。チョーカーなどもなしで、美しい首筋のラインが強調されています。

余計な色がないモノクロなので、なおさら清楚な雰囲気がきわだっています。

このドレスはどんな色なのだろう?と想像しながら観るのも楽しいでした♪

PS 大富豪のライナスはオフィスに最先端の機器を備えています。
ボイスレコーダーとか、リコモン自動ドアとか ・・・1954年当時には、かなり画期的だったかもしれません。
さらに、割れないガラス、強化プラスチックの上に紳士のみなさまがこぞって乗っては飛びはねて喜んでいる図がおかしかったです。割れないことが珍しかった時代なのですね。

 

 

21-02-01 かいまみた死後の世界 その2

 

(その1より)

身体から抜け出したあと、そばにつきそってくれている光の存在は、フラッシュバックのあいだじゅうずっとただ大きな愛で包みこんでくれます。そこにはまったく批判や判断はなく、むしろあたたかな共感や理解を示してくれるそうなので、最後の審判といわれるようなシリアスな裁きの雰囲気はありません。ユーモアさえ感じられるそうな。

自分のこころがそのフラッシュバックをどのように受けとめるのか、自分のこころの問題なのです。

その光の存在は、まったく同じ見方ですべてを裁くことなく理解をもって見ることを問いかけているのかもしれません。

だから、ふだんの生活のなかでヘタレな自分を責めることなく、いつも赦して「愛しているよ!」と言ってあげることこそが大切で、それが習慣になっていたならフラッシュバックも慈愛のまなざしで静かに眺められるのかもしれません。

フラッシュバックのあとに存在している境界線を越えた人は誰もいません。ここが、真のあの世とこの世の境目なのでしょうね。

といっても、この境界は、今までのストーリーにさよならして、次の物語のスタートにすぎません。しばらく極上のリゾートでくつろいだら、また別の身体をまとって赤子としてやってきます。

ほんとうの幸せなゴールは、このようなくりかえし(輪廻)こそをこえること。

あのフラッシュバックを光の存在とまったく同じ目線でみられるようになったとき、もう赦すものがなくなったとき、私たちは無限に思えた輪廻コースからようやく卒業して別のルートへと進むことができ、ついに天国(至福の世界)とひとつになります。

すべてが満たされた至福の状態となり、もう身体や世界を思い出すこともなくなるのでしょう。

そうそう! 身体を離れ、光の存在に出会ったときに、いくつかの質問をされるそうな。

それは、「もう行く(死ぬ)準備ができていますか?」「この人生に満足していますか? 見せられることはありますか?」

そして、「他人を愛することを学びましたか」「知識を深めましたか」

これは地上で成し遂げたこととはまったく関係なく、ただどれだけ愛であったのか、そして真理を学ぼうとしたのか、それだけを問われるということです。(形あるものは、身体から離れたとたんに無意味になってしまいます。何を持とうとも、成しとげようとも関係なく、ただ愛があったかだけが問われるべきことなのです。)

ここから戻ってきた人たちは、一様に身体のことはもうどうでもよくなり(なんせ意識だけを体験して、意識が自分だと知ってしまったので)、ただ自分が全体に奉仕するための愛ある人生を生きたいとみんな口をそろえています。

意識の世界では形など関係なく、問われるのは自分の本質である愛の深さだけなのです。

そして、この身体から抜けてしまう体験も、最初こそはびっくりしているものの、すぐに体験したことのない大きな愛と理解に包まれているのを感じ、あんなに気持ちがよくなったことはないといいます。

そして、そこで感じたことは「身体があるときには、ちゃんとやりとげなければならない使命があり、それはそれぞれの愛を惜しみなく与えることなのだ」と心底理解するようです。

あの頃、かなりインパクトを感じたこの一冊の本が、自分がこんな道にすすむひとつの道しるべになってくれたようにも感じます。

そして、今読んでみても、「ああ、やっぱりそうなのね!大切なことは、ただ自分も他人も物ごとも、すべてを受け入れて、赦し愛することなのだ」と納得いたしました。

ものごとを思いどおりにしようとやっきになるのではなく、すべてを受け入れて同調すること、それはものごとをあるがままに愛すること。

自分のこころに裁きの思いがなくなり、すべてを慈しむことができたとき、こころから闘いの思いが消え去り、そこから生まれていたさまざまな苦しみも姿を消してゆくのでしょう。

光の存在が示してくれているあり方、完全な愛と慈しみ、理解、共感こそが、私たちがここで学ばなければならないあり方のように感じます。

 

 

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気づきの日記「かいまみた死後の世界 その2」

 

(その1より)

身体から抜け出したあと、そばにつきそってくれている光の存在は、フラッシュバックのあいだじゅうずっとただ大きな愛で包みこんでくれます。そこにはまったく批判や判断はなく、むしろあたたかな共感や理解を示してくれるそうなので、最後の審判といわれるようなシリアスな裁きの雰囲気はありません。ユーモアさえ感じられるそうな。

自分のこころがそのフラッシュバックをどのように受けとめるのか、自分のこころの問題なのです。

その光の存在は、まったく同じ見方ですべてを裁くことなく理解をもって見ることを問いかけているのかもしれません。

だから、ふだんの生活のなかでヘタレな自分を責めることなく、いつも赦して「愛しているよ!」と言ってあげることこそが大切で、それが習慣になっていたならフラッシュバックも慈愛のまなざしで静かに眺められるのかもしれません。

フラッシュバックのあとに存在している境界線を越えた人は誰もいません。ここが、真のあの世とこの世の境目なのでしょうね。

といっても、この境界は、今までのストーリーにさよならして、次の物語のスタートにすぎません。しばらく極上のリゾートでくつろいだら、また別の身体をまとって赤子としてやってきます。

ほんとうの幸せなゴールは、このようなくりかえし(輪廻)こそをこえること。

あのフラッシュバックを光の存在とまったく同じ目線でみられるようになったとき、もう赦すものがなくなったとき、私たちは無限に思えた輪廻コースからようやく卒業して別のルートへと進むことができ、ついに天国(至福の世界)とひとつになります。

すべてが満たされた至福の状態となり、もう身体や世界を思い出すこともなくなるのでしょう。

そうそう! 身体を離れ、光の存在に出会ったときに、いくつかの質問をされるそうな。

それは、「もう行く(死ぬ)準備ができていますか?」「この人生に満足していますか? 見せられることはありますか?」

そして、「他人を愛することを学びましたか」「知識を深めましたか」

これは地上で成し遂げたこととはまったく関係なく、ただどれだけ愛であったのか、そして真理を学ぼうとしたのか、それだけを問われるということです。(形あるものは、身体から離れたとたんに無意味になってしまいます。何を持とうとも、成しとげようとも関係なく、ただ愛があったかだけが問われるべきことなのです。)

ここから戻ってきた人たちは、一様に身体のことはもうどうでもよくなり(なんせ意識だけを体験して、意識が自分だと知ってしまったので)、ただ自分が全体に奉仕するための愛ある人生を生きたいとみんな口をそろえています。

意識の世界では形など関係なく、問われるのは自分の本質である愛の深さだけなのです。

そして、この身体から抜けてしまう体験も、最初こそはびっくりしているものの、すぐに体験したことのない大きな愛と理解に包まれているのを感じ、あんなに気持ちがよくなったことはないといいます。

そして、そこで感じたことは「身体があるときには、ちゃんとやりとげなければならない使命があり、それはそれぞれの愛を惜しみなく与えることなのだ」と心底理解するようです。

あの頃、かなりインパクトを感じたこの一冊の本が、自分がこんな道にすすむひとつの道しるべになってくれたようにも感じます。

そして、今読んでみても、「ああ、やっぱりそうなのね!大切なことは、ただ自分も他人も物ごとも、すべてを受け入れて、赦し愛することなのだ」と納得いたしました。

ものごとを思いどおりにしようとやっきになるのではなく、すべてを受け入れて同調すること、それはものごとをあるがままに愛すること。

自分のこころに裁きの思いがなくなり、すべてを慈しむことができたとき、こころから闘いの思いが消え去り、そこから生まれていたさまざまな苦しみも姿を消してゆくのでしょう。

光の存在が示してくれているあり方、完全な愛と慈しみ、理解、共感こそが、私たちがここで学ばなければならないあり方のように感じます。

 

 

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21-01-30 かいまみた死後の世界 その1

 

本棚の断捨離の最中、思わず何十年もまえの古い本を手にとりページをめくってしまいました。

それは、高校生の頃に読んだ「かいまみた死後の世界」。

医師であるレイモンド・ムーディ博士が、300人ほどの死から生還した体験のある人たちにインタビューし、多くの人に共通するモデルケースを紹介した臨死体験研究の本です。

出版当時、米国ではかなりのベストセラーになり、日本ではずいぶんあとになって飯田史彦さんの本のなかで紹介されていたように思います。

1970年代は、まだエリザベス・キューブラーロス博士も臨死体験の研究を発表しておらず、「死」について語ることも今ほどオープンでなかった時代です。死に直面したら何が起こるのかは、「チベット死者の書」とか宗教書のなかでしか知ることができませんでした。

私が読んだのは17歳ぐらいのとき。キリスト教にふれていたこともあり、死後も命はつづくであろうと信じていたのですが、臨死体験をした人たちの共通した体験にリアルさを感じたものです。

ムーディ博士が死後の体験の典型的なモデルとして紹介しているのが、順番は前後しつつもだいたいこんな感じの出来事です。

・医師が自分の臨終を伝えているのが聞こえる(死んだはずなのに、自分もしっかりと聞いているのです!)

・そして、耳障りな音とともに、暗いトンネルの中に吸いこまれる(産道を通って生まれてきたように、去るときも細いところを通過します)

・すると、天井のあたりから自分の身体を見下ろしている自分に気づき、「ああ、死んだのだ」と気づく(医者や家族の様子をつぶさに静観しています)

・光の生命やすでに亡くなった存在たちがやってきて、完全な愛と安らぎに包みこまれ、よい気分になる(みんなこの時点で安らぎを感じて、もう帰りたくなくなっています)

・光の生命に全生涯のフラッシュバックを見せられる(自分の生涯のさまざまな出来事を走馬灯のようにレビューします)

・その後、体験したこともないようなすばらしい光がさしている分岐点のようなところまでやってくる(みな、生き返ったので、この分岐点は誰も越えていません)

最初は、身体を離れてしまったことにパニックになったり、身体に戻りたいとあわてたり、これからどうしようと動揺するのですが、だんだん体験したことのない深い愛と平安と軽やかさや自由に包まれて最高の気分になってきます。もう身体に戻るのはごめんだ!戻れと言われてもイヤだ! という気分になるのです。(しかし、自死の場合は、そのときの混乱がそのままリアルにつづいているようです。その後はわかりません。)

おもしろなと思ったのが、身体はなく意識だけとなっているにもかかわらず、煙のようなモヤモヤした形があるそうで、それは球体で下の方がすぼまっていて、小さな手もあるそうな・・・ まるでアニメのオバケ! (アニメのオバケがまねっこしたのですね!・笑)

このモヤモヤの身体と意識だけとなっていますが、依然、今までと変わりなく見たり、動いたり、聞こえたりするので、最初は「死んでいる」ことになかなか気づかず、まわりの人に話しかけたり、触れようとしたりします。

でも、自分の声は聞こえていないし、物や人は自分をすり抜けてしまうので、ようやく「死んじゃったのね」と気づくよう。(まるで、映画の「ゴースト」や「シックスセンス」の登場人物のようです。)

人やモノへの執着が強いと、ずっとまわりの人に話しかけたり、自分の家のなかをうろうろしたり、すんなりと次の段階へ進めないようです。(心霊写真って、こういう人たち?)

高校生のときに読んで、「えっ、どうしよう!?」と衝撃を受けたのは、死の直後に見せられる自分の全生涯のフラッシュバックについて。

こどものときから、亡くなるまでのあらゆる瞬間を見せられるのですが、自分の気持ちとそこにかかわっていた相手の気持ちの両方を感じとる、といいます。(こころのレベルでは私たちはひとつなので、ひとつのものとして感じてしまうのでしょうね。)

その当時、「いい人にならないとエライことになるわ!」とアセったものですが、今、ふたたび読みかえしてみると、少し違った印象をうけます。

フラッシュバックを完璧にすることなど、誰ひとりできないのです。完全な人間などいないからです。失敗はつきもの!

だから、いい人になろうとして犠牲をしてガマンしてフラストレーションをかかえて生きるよりも、(もちろんできる限りのやさしさと慈愛をもってすべてに対応することは必須ですが)、じゅうぶんに優しくできない自分、やっぱり失敗してしまう自分、どうしても憎んでしまう自分、結局は攻撃してしまう自分、まったく愛でない自分こそを愛して赦してあげることが重要なのです。

どんなときにも、自分自身を赦し愛することこそがレッスンです。そして、自分が赦せているなら、私たちは人をも簡単に赦せるようになるからです。

 

(その2につづく)

 

 

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気づきの日記「かいまみた死後の世界 その1」

 

本棚の断捨離の最中、思わず何十年もまえの古い本を手にとりページをめくってしまいました。

それは、高校生の頃に読んだ「かいまみた死後の世界」。

医師であるレイモンド・ムーディ博士が、300人ほどの死から生還した体験のある人たちにインタビューし、多くの人に共通するモデルケースを紹介した臨死体験研究の本です。

出版当時、米国ではかなりのベストセラーになり、日本ではずいぶんあとになって飯田史彦さんの本のなかで紹介されていたように思います。

1970年代は、まだエリザベス・キューブラーロス博士も臨死体験の研究を発表しておらず、「死」について語ることも今ほどオープンでなかった時代です。死に直面したら何が起こるのかは、「チベット死者の書」とか宗教書のなかでしか知ることができませんでした。

私が読んだのは17歳ぐらいのとき。キリスト教にふれていたこともあり、死後も命はつづくであろうと信じていたのですが、臨死体験をした人たちの共通した体験にリアルさを感じたものです。

ムーディ博士が死後の体験の典型的なモデルとして紹介しているのが、順番は前後しつつもだいたいこんな感じの出来事です。

・医師が自分の臨終を伝えているのが聞こえる(死んだはずなのに、自分もしっかりと聞いているのです!)

・そして、耳障りな音とともに、暗いトンネルの中に吸いこまれる(産道を通って生まれてきたように、去るときも細いところを通過します)

・すると、天井のあたりから自分の身体を見下ろしている自分に気づき、「ああ、死んだのだ」と気づく(医者や家族の様子をつぶさに静観しています)

・光の生命やすでに亡くなった存在たちがやってきて、完全な愛と安らぎに包みこまれ、よい気分になる(みんなこの時点で安らぎを感じて、もう帰りたくなくなっています)

・光の生命に全生涯のフラッシュバックを見せられる(自分の生涯のさまざまな出来事を走馬灯のようにレビューします)

・その後、体験したこともないようなすばらしい光がさしている分岐点のようなところまでやってくる(みな、生き返ったので、この分岐点は誰も越えていません)

最初は、身体を離れてしまったことにパニックになったり、身体に戻りたいとあわてたり、これからどうしようと動揺するのですが、だんだん体験したことのない深い愛と平安と軽やかさや自由に包まれて最高の気分になってきます。もう身体に戻るのはごめんだ!戻れと言われてもイヤだ! という気分になるのです。(しかし、自死の場合は、そのときの混乱がそのままリアルにつづいているようです。その後はわかりません。)

おもしろなと思ったのが、身体はなく意識だけとなっているにもかかわらず、煙のようなモヤモヤした形があるそうで、それは球体で下の方がすぼまっていて、小さな手もあるそうな・・・ まるでアニメのオバケ! (アニメのオバケがまねっこしたのですね!・笑)

このモヤモヤの身体と意識だけとなっていますが、依然、今までと変わりなく見たり、動いたり、聞こえたりするので、最初は「死んでいる」ことになかなか気づかず、まわりの人に話しかけたり、触れようとしたりします。

でも、自分の声は聞こえていないし、物や人は自分をすり抜けてしまうので、ようやく「死んじゃったのね」と気づくよう。(まるで、映画の「ゴースト」や「シックスセンス」の登場人物のようです。)

人やモノへの執着が強いと、ずっとまわりの人に話しかけたり、自分の家のなかをうろうろしたり、すんなりと次の段階へ進めないようです。(心霊写真って、こういう人たち?)

高校生のときに読んで、「えっ、どうしよう!?」と衝撃を受けたのは、死の直後に見せられる自分の全生涯のフラッシュバックについて。

こどものときから、亡くなるまでのあらゆる瞬間を見せられるのですが、自分の気持ちとそこにかかわっていた相手の気持ちの両方を感じとる、といいます。(こころのレベルでは私たちはひとつなので、ひとつのものとして感じてしまうのでしょうね。)

その当時、「いい人にならないとエライことになるわ!」とアセったものですが、今、ふたたび読みかえしてみると、少し違った印象をうけます。

フラッシュバックを完璧にすることなど、誰ひとりできないのです。完全な人間などいないからです。失敗はつきもの!

だから、いい人になろうとして犠牲をしてガマンしてフラストレーションをかかえて生きるよりも、(もちろんできる限りのやさしさと慈愛をもってすべてに対応することは必須ですが)、じゅうぶんに優しくできない自分、やっぱり失敗してしまう自分、どうしても憎んでしまう自分、結局は攻撃してしまう自分、まったく愛でない自分こそを愛して赦してあげることが重要なのです。

どんなときにも、自分自身を赦し愛することこそがレッスンです。そして、自分が赦せているなら、私たちは人をも簡単に赦せるようになるからです。

 

(その2につづく)

 

 

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